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2007年12月 3日

“ユダの福音書”の衝撃 (2)

 昨年4月9日の本欄では、“ユダの福音書”と称するキリスト教の聖書の“外典”が現代語へ翻訳されたという話を、同じ表題で書いた。そして、その内容がキリスト教で語られている“ユダの裏切り”の話と大いに違うとして、話題になっていることにも触れた。その内容の大筋は、「イエスの直弟子のうち、師を敵に売った“裏切り者”として侮蔑の対象とされてきたイスカリオテのユダが、実はイエスの教えの唯一の理解者であり、師の命を受けて敵の手引をする役を不本意にも実行した」というものだった。ところが最近、この同じ“ユダの福音書”を研究した人が、「その現代語への翻訳には誤りがあり、正しく翻訳すればユダはやはり“悪者”--神とイエスに敵対する者--として描かれている」という内容の本を出版した。

 この研究者は、ライス大学の聖書学の教授、エイプリル・ドゥコーニック氏(April D. DeConick)で、本の題名は『13番目の弟子--ユダの福音書に本当に書いてあること』 (The Thirteenth Apostle: What the Gospel of Judas Really Says)というものだ。このドゥコーニック教授が12月3日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に論説を書いているが、それによると、この“誤訳”が起こった原因は、ユダの福音書の翻訳に携わったナショナル・ジオグラフィック(National Geographic)の側が、原文書をできるだけ外へ出さないようにし、少数の専門家に翻訳を任せてしまったからという。このため、原文書が世界中の大勢の聖書研究者の目に触れなかったために、間違いをチェックしきれなかったのだろう、と推測している。

 ドゥコーニック教授は、ユダの福音書をグノーシス派の文書としてとらえている。その中のメッセージは、ユダは“13番目”と呼ばれる特定の悪魔だということだ。グノーシス派の伝統を引く考えでは、“13番目”は、地上より13層上の世界に棲むイアルダバオス(Ialdabaoth)として知られる悪魔の王である。この派の思想では、イアルダバオスは旧約聖書のヤーウェ(Yahweh)でもあり、嫉妬深く、怒りに満ちた存在で、イエスが示そうとした至高神の敵なのである。だから、ユダはこの“悪魔の王”のために神を妨害するのが目的であって、神の救いのためにイエスを不本意に敵に売るはずがない、というのである。
 
 グノーシス派について、私は拙訳の小説『叡知の学校』(トム・ハートマン著、日本教文社刊)の中で少し触れたが、これは時々“キリスト教最大の異端”などと大袈裟に呼ばれる。グノーシスとは「知識」とか「知恵」という意味のギリシャ語で、グノーシス派の考えでは、人間は究極的存在である至高者(神)と本質的に同一であり、そのことを知る知恵(グノーシス)によって救われる。つまり、“救い主”というような神と人との間の特定の“仲介者”は、必ずしも必要でないのである。生長の家の思想と似ているが、決して同一ではない。上掲の“13番目”の解釈を読んでみても分かるように、グノーシス的思想では、神と悪とは相対立する互角の存在である。これは、生長の家の「善一元」の神への信仰とは相当異なる。この思想については、昨年11月17日の本欄で少し詳しく書いたので、興味のある人はそれを読んでほしい。
 
 そこで問題になるのは、ドゥコーニック教授の考えが正しいとすれば、なぜ当初の“ユダの福音書”の読み方がそれほどひどく間違ったのか、ということである。教授もその点を考察しており、間違いの原因は「ユダヤ教徒とキリスト教徒の関係を改善したい」という希望が理性を晦ませたとして、次のように書いている--「ユダとは、恐怖すべき性格の人間だ。キリスト教徒にとって、ユダはすべてを得ていながら、わずかな金のために神を裏切り、死を招いた。一方、ユダヤ教徒にとっては、彼は何世紀にもわたって、キリスト教徒が自分たちを迫害する理由として使われた」--だから、ユダをイエスの本当の愛弟子として位置づけることで、両者間の永い歴史的争いの原因が消える。その可能性が、多くの学者から客観性を失わせた、と見るのである。

 学問の客観性について、改めて考えさせる見解だと思う。
 
 谷口 雅宣

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コメント

またまた難題なる問題提起有難うございます、ドゥコーニック教授は「ユダヤ教徒とキリスト教徒の関係を改善したいと言う希望が理性を晦ませた」「両者の永い歴史的な争いの原因が消える、その可能性が多くの学者から客観性を失わせた」と見る、と言う事がもし本当であるならば学者としての信頼性を失うものと思います、学者は自分の思い通りにではなく、あくまでその時点での事実を有りの儘に伝えるべきだと考えます、イスカリオテのユダが裏切ろうが裏切るまいが祭司長、パリサイ派の長老達に知らせたのかどうか?知らせたとしても何故死ぬ必要があったのか?其の儘長老派に留まっても良かったのではないか?知らせなかったとしても後のパウロもそうであった様にイエスはどんな形にしろ迫害で殺されたであろうと思います、それよりもグノーシス派の考え方「人間は至高者と本質的に同一である事を知る事によって救われる」「神と人間との仲介者は必要ではない」に問題がある、つまり、同一であると言う事を知るには仲介者たるモーゼやヨハネ、イエス、釈迦、谷口雅春、その他宗教的偉人達が必要であると言う事です、又、旧約のヤーウェを地上より13層上の世界(不明)に住む悪魔の王として特定し、理論展開している事、とてもグノーシスの言葉とは大きく離れて迷いの世界に入っている様に思えます、私はもともと神は民族によってエコヒイキはされない、ユダヤ人のみを選民とはされないと思っているのです、もし選民とされるのならばそれは創造神ではなくて民族神つまり民族の先祖の神だと考えますがどうなのでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年12月 4日 20:49

合掌,ありがとうございます。
学問に限らず,哲学でも宗教でも「客観性」がないとその本質を見失う恐れがあると思います。
生長の家の御教えは客観性を重視しているところが尊いと思っています。
「脚下照顧」ですね。ありがとうございます。

投稿: 佐々木 勇治 | 2007年12月 4日 21:19

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