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2007年11月 4日

肉体は“炎”である

 今日、伊勢崎市で行われた生長の家講習会には、群馬県内を中心に約千四百人の受講者が参集し、熱心に講話を聴いてくださった。その午前中の講話で、私は人間の肉体をロウソクの「炎」に喩えて「肉体はナイ」という生長の家の考え方を説明した。ところが昼休みの時間に、妻がこの話は「結構難解でした」と言った。考えてみれば、確かにこの話は「耳から聴く」だけの講話形式によるよりも、読み直しが可能な「文章による論理的説明」に向いていたかもしれない。そう反省して、この場で“難解”な部分の説明を補足してみたい。

Flamee  まず、ロウソクの「炎」について考えてみよう。「炎」とは、燃焼が起こっている空間に生じる現象である。もっと詳しく言えば、ロウソクの成分であるパラフィン等が熱によって気化し、それが空気中の酸素と結びつく酸化反応を起こしている状態にあるとき、その一部が人間の目に「光」として映ったものをこう呼ぶのである。三省堂の『大辞林』は、これを次のように定義している:
 
「気体、または液体や固体からの蒸気が燃焼し高温となって光を発している部分。ろうそくの炎などのように酸素の供給が外側の空気からの拡散による場合は、酸素が十分で酸化性である外炎(酸化炎)と、不十分で還元性の内炎(還元炎)に分けられる」

 ここでの第1のポイントは、「炎」という物質の塊が存在するのではないということだ。人間が目で見たときに、ある温度以上に達した空間の化学反応が、それ以下の温度の空間と区別されて「光」として認識されるのである。「炎」というものが存在するのではなく、人間の目が一定の高温状態の空気の領域を、他の領域と区別して「光」として捉えた部分の呼称である。だから、ここでの第2のポイントは、(当たり前のことだが)「人間の視覚」が介在して初めて「炎」があるということである。

 さらに第3のポイントを挙げると、「炎」とは一種の「流れ」であるということだ。それは川の流れのように、1つのものが現れたらたちまち流れ去り、次の瞬間には別のものが現れ、それがすぐに流れ去り……というように、一定の物質が一定の場所を占めてそこに「在る」のではなく、パラフィン等の成分である可燃性の物質の分子が、高速で酸化反応を起こしながら常住流転しているものの通り道が、人間の目で見ると一つの“塊”のように見えるのを、「炎」と呼ぶのである。それは、「川」という物質が存在するのではなく、一定の量以上の水の流れを、人間が「川」と呼ぶのと同じことである。

 このことが、「肉体はナイ」ということと、どう関係するのか? それは、人間の肉体は本質的に「川」と同じであるから、川が存在しないならば、肉体は存在しないと言えるからである。この理由の詳細を述べよう。
 
 まず言えることは、肉体は物質であるから、分子の集合体であるということだ。分子はもちろん、原子と電子からなるし、それらは素粒子から構成されている。肉体を構成する物質分子は、常に入れ替わっている。このことを、生理学では「新陳代謝」と呼ぶ。この新陳代謝によって、肉体の物質分子が入れ替わる速度は普通、私たちが考えるよりもはるかに速い。ある医学者は、その様子を次のように描いている:
 
「体を本当の姿で見ることができたとしたら、同じものは2度と見られないでしょう。体内の原子の98パーセントが1年前にはなかったものです。ひじょうに堅固なように見える骨格も3カ月前のものとは違います。骨細胞の外形は変わりませんが、あらゆる原子が細胞壁を自由に行き来しており、それによって骨格は3カ月ごとに更新されるのです。(中略)皮膚は1カ月ごとに、胃の内層は4日ごとに、食物とじかに接する胃の表面は5分ごとに新しくなっています。肝臓の細胞はひじょうにゆっくりと更新されますが、細胞の中では川を流れる水のように新しい原子がどんどん流れているので、肝臓は6週間ごとに新しいものに作り替えられています。脳細胞は一度死ぬと補填されることはありませんが、そんな脳でさえ、含まれている炭素や窒素、酸素等は1年前のものとまったく違っているのです」(ディーパック・チョプラ著『クォンタム・ヒーリング--心身医学の最前線を探る』、p.60)

 私たちの肉体の新陳代謝がこのように行われ、さらに物質だけが存在するとするならば、肉体は存在するのではなく、川のようにそこに見えている(現れている)だけの“仮の存在”である。川は水の流れの一つの「呼称」にすぎないのであり、「川」という実体はない。それと同じように、肉体は物質分子の流れの一つの「呼称」にすぎないのであって、「肉体」という実体はない。すなわち「肉体はナイ」のである。
 

 谷口 雅宣

【参考文献】
○ディーパック・チョプラ著/上野圭一監訳、秘田凉子訳『クォンタム・ヒーリング--心身医学の最前線を探る』(春秋社、1990年)

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コメント

静岡教区で育成・事務局・副単青委員長をさせて頂いております。
副総裁先生へご要望があり、コメントさせていただきます。私は、真理の話は縦書きで読みたいと常々思っております。石川九楊氏が『縦に書け!』という本の中で述べていることですが、例外はありますが、日本語は縦書きの方が良いという主張はその通りだと思っています(現代社会分析その他の主張には信徒として受け入れがたいものもありますが)。縦書きの方がより考えて書こうという思いになれると私は考えています。
縦書きブログには「八軒家南斉」などありますが、是非ご検討いただきたいです。

投稿: 加藤裕之 | 2007年11月 5日 17:08

10月28日のブログを見て、雅宣先生の、行動そのものが行雲流水と感じさせていただきましたが、今日のろうそくの炎そして川そのものを通して人間が肉体ではないのご説明は、ぴたりとわからせていただきました。
文字で読ませていただいたので,よくわかったのかもしれません。逆にお話を聴いてみたいと思うのは、天邪鬼かも。

投稿: 古谷正 | 2007年11月 5日 22:01

加藤さん、

 >>私は、真理の話は縦書きで読みたいと常々思っております。<<

 なぜでしょう? 縦書にしたほうが理解しやすいからですか? それとも、日本語は縦書きでなければいけないという思想からですか? 「真理の話」だけ、縦書きにすればいいのですか????

投稿: 谷口 | 2007年11月 5日 22:39

加藤さんへ、、、、「真理の話は縦書きで読みたい」と言う意見は個人的な好みではないのですか?私は縦だろうが横だろうが斜めだろうが(斜めは読みづらい)、真理は真理、拘る必要は何もないと思います、それよりも「現代社会分析とその他の主張には信徒として(1、でなかったら?)受け入れがたいものもありますが」2、例えばどんな主張ですか?3が、、どうなのですか?出来ましたら教えて下さい。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年11月 6日 15:13

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