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2007年11月30日

環境税 見送られる

 環境税の導入は、来年度は見送られることになった。自民党の税制調査会が29日、2008年度税制改正での環境税の導入を見送る方針を固めたからだ。30日の新聞各紙が伝えている。環境省は、温室効果ガスの排出量を炭素に換算して、1トン当たり2400円を課税し、税収を森林保全や省エネ家電の普及促進に充てる案を要望していたが、経済界の反対に弱い自民党の体質を覆すことができなかった。予想していたものの、残念なことである。一方、11月3日の本欄に書いた東京都の環境税構想については、都知事の諮問機関である都の税制調査会が同日、これを都独自の課税としての環境税導入の検討を求めるという中間報告をまとめた。

 都の環境税構想の中身は既報の通りだが、国が実施を見送る中で、都だけが環境税を課すことの問題点はいくつかあるようだ。『日本経済新聞』が30日の記事でそれに触れている。都の現在の構想は、①炭素税、②電気・ガス税、③自動車税、④緑化税、の4段構えで、そのうちの全部ではなく、いくつかを組み合わせる方式が有力。しかし、炭素税のうちガソリンや灯油などへの課税、また自動車税は二重課税となり、電気・ガス税は電気料金やガス代の値上げにつながる。これを東京都民がどうとらえるかは、未知数だ。特にガソリンへの課税は、隣接県との価格差となって現れるだろうから、都県境付近のガソリンスタンドで不公平感が出るだろう。
 
 上記の『日経』の記事は、今回の都の環境税導入の背景を分析して、都が目指している2010年までの温暖化ガス削減目標(1990年比で6%減)にもかかわらず、「04年時点でオフィスなどで28%増、家庭では9%増と歯止めがかからない」のが原因としている。石原知事がこの問題を真面目に考えるつもりならば、私はオリンピックの誘致など諦めていただくのが一番と考える。大規模な開発行為によって温暖化ガスの排出削減ができると考えるのは、いかにも不合理である。
 
 ところで、日本のメディアでは大きな“よいニュース”が小さな記事になることがある。29日の『日経』夕刊のベタ記事(一段の小さい見出しがついた記事)に、アメリカの温暖化ガス排出量が5年ぶりに減少したという話が書いてある。「えっ、どこの国?」と読者は思わないだろうか? そう、京都議定書から脱退した世界一の温暖化ガス排出国で、つい最近まで「温暖化は人間の活動とは無関係」と言っていた、あのアメリカである。その国の06年の温暖化ガス排出量が、CO2換算で70億7560万トンとなり、前年を1.5%下回ったというのである。しかも、同じ年のアメリカの経済成長率は2.9%なのだ。エネルギー省の発表だ。

 同省は今回の好結果の要因として、「天候」のほか「再生可能エネルギーによる発電の増加」を挙げたという。この天候について、同記事は「冬場に厳しい寒さが続かず、家庭での暖房の需要が下がったことが大きく影響したとみられる」と書いている。実は、2006年の排出量の減少は今年の5月にも同省から“速報値”として発表されていて、そのときの分析では、冬場の温暖な天候に加えて、石油、天然ガス、電力の値上りが原因とされていた。
 
 28日付のロイター電によると、2006年の排出量減少は、この“温暖な冬”に加えて“涼しい夏”であったことと、石油の値上りによるエネルギー消費の減少が複合的に働いたものという。今回の発表は、190カ国が参加してインドネシアのバリ島でまもなく行われる温暖化抑制のための国際会議に先立って行われたもので、オーストラリアが政権交代により京都議定書に復帰する意向を示しているところから、アメリカの“成果”として示しておく必要があると判断したものだろう。京都議定書では、先進国は1990年のレベルより「5~6%」削減する義務があるが、今回のアメリカの数値は、同年のレベルをすでに17.9%上回っている。日本の数値が気になるところだ。
 

 谷口 雅宣

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2007年11月29日

外来魚とのつき合い方

 11月12日の本欄で、天皇陛下がアメリカからブルーギルを持ち帰られ、そのことを大津市で開かれた「全国豊かな海づくり大会びわ湖大会」で話されたことを書いたが、これが話題になっているらしく、28日の『朝日新聞』が夕刊で、琵琶湖のブルーギルについて“続報”を書いている。本欄の私の文章に対しても、読者の1人がコメントをつけて、ブラックバス(オオクチバス)とブルーギルの料理法について教えてくださった。「南アジア系のお料理に合う」らしく、滋賀女子短期大学の小島朝子氏は、「スパゲッティー・ブラックバスソース」と「ブルーギルのレイクチキンサラダ」というレシピを発表しておられるのだ。

 上記の『朝日』の記事によると、ブルーギルは「ビワコダイ」という商品名でなれ寿司として売られているらしい。地元ではニゴロブナを使った鮒寿司(ふなずし)が有名だが、これにあやかり似たような味を出しているという。また、ブラックバスも「ビワスズキ」という商品名で同じなれ寿司として売っているらしい。さらに、琵琶湖畔にある滋賀県立琵琶湖博物館のレストランでは、「バス天丼」というメニューもあり、取材記者は「白身でくせのない味だ」と書いている。しかし、ブルーギルについては、「皮に独特の臭みもあり、浸透はいま一つ」だそうだ。
 
 アメリカでは両種とも食用にされているのだから、いずれ日本人の口に合うような料理法が開発されるだろう。が、私が気になるのは、「タイ」とか「スズキ」などの全く別の魚の名を冠する呼称である。食品の呼称や表示については今、さまざまな偽装や偽名が使われて問題になっているところだから、“中身”とは違う“名”を付すことで商売をする方法は社会に受け入れられない方向に進んでいる。どんな名前をつけようが、いずれ中身はわかってしまうし、分からなければならないのだから、原材料名をきちんと表示するのがいいと思う。それとも、カタカナの名前では日本では受け入れられにくいとの考えなのだろうか?
 
 それで1つ提案なのだが、魚好きの中国人・日本人は魚偏の漢字をいくつも考案してきたのだから、この際、この2種の外来魚にも漢字名を与えてあげるのはどうだろうか? 鮨屋で出される茶碗に描かれている「鯛、鱒、鮭、鰯、鰤、鱈、鰻……」のような漢字を作って、それを滋賀県がトレードマークのようにして売り出せば、「日本の魚」というイメージが生まれるのではないだろうか。
 

Gillbass

 ということで、私は勝手にブルーギルとブラックバス(オオクチバス)のための漢字を作ってみた。少々の皮肉もまじえて……。上段がブルーギル、下段がブラックバスである。私自身は、双方とも左端のものが何となくピッタリくるような気がする。
 

 谷口 雅宣 

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2007年11月27日

政府が排出権購入に動く

 本欄の読者はすでにご存じと思うが、日本政府はハンガリーから最大で1千万トンのCO2排出権を買う計画を進めているそうだ。『朝日新聞』が26日の1面トップで伝えた。その記事によると、両国代表が今週中にもブダペストで覚書に署名する計画というから、ほぼ本決まりだろう。この計画の何が問題かと言えば、ハンガリーは1990年以降、社会主義から資本主義へ移行する過程で重化学工業が縮小したおかげで、排出量が大幅に減少していて、京都議定書の目標値(6%減)をさらに1億トンほど下回る排出量をすでに達成しているからだ。同国は、この1億トン分を「排出権」として他国へ売却できるので、その一部を買うことで日本の目標達成を図ろうとしているのだ。もっと簡単に言えば、他国がすでに削減したCO2をお金で買うことで、日本が削減したことにしてもらおうというのだ。京都議定書がそれを許しているから、別に違法でも何でもない。しかし問題は、国内での削減努力が鈍ることと、その購入費の原資は何かということだ。現在、EU(欧州連合)内で取引されている排出権取引の価格を当てはめると、CO2を1千万トン買うためには「約200億円」必要という。
 
 今日(27日)の『日本経済新聞』には、財務省が今年度の国税収入の見積もりの達成は困難だと正式に表明し、地方税の収入も、当初の計画である40兆3700億円に達する見込みはなく、40兆円を下回る可能性があることが報じられている。そんな中で、貴重な国民の税金を大量の排出権購入に使うことは、“隠れた炭素税”を間接的に課すことになる。それも、こういう形で税金を使えば、企業も消費者も何の努力もせずに「排出削減した」との錯覚を抱きやすい。どうせ国民の税金を使うなら、もっと明確なメッセージ性をもった「環境税」か「炭素税」を導入する方がいい。そうすれば、国民の意識も「いよいよだな」と1つにまとまり、それによって国の産業全体を“脱炭素化”へと導く効果がある。もちろん心理的効果だけでなく、実際にCO2を出さない製品やサービスの開発と育成につながるのだ。中・長期的に考えれば、この方が日本の産業全体にとって有利な結果をもたらす、と私は思う。

 日本政府が業界の顔色ばかりをうかがって、温暖化抑止対策に及び腰を続けているあいだに、ヨーロッパ諸国は環境技術の利用面でどんどん先行している。26日の『日経』夕刊によると、EU(欧州連合)は風力や太陽光などの再生可能エネルギーの利用拡大をGDP比で加盟国に義務づける方針を決めたという。来年1月を目途に欧州委員会に提案するらしい。EUの域内のエネルギー消費量に占める再生可能エネルギーの使用割合は現在8.5%。EUは、これを2020年までに20%に引き上げる目標を設定しているが、目標までの11.5ポイント分の半分の削減を一律に加盟国に義務づけ、残りの半分は、加盟国のGDP比で割り当てて削減する計画らしい。これだと、英独仏などのエネルギー消費の多い国はそれだけ多く、再生可能エネルギーへの転換をしなければならなくなる。なかなか“本気”が感じられる明確な政策ではないだろうか。
 
 話は変わるが、日本郵便が今年初めて出した「カーボンオフセット年賀」というのを買った。50円の年賀状に「+5円」したもので、この5円分が寄付金としてカーボンオフセットに使われる、という触れ込みだ。寄付金の行く先について、日本郵便のウェッブサイトには「今回の寄附金により支援する温室効果ガス削減事業は、国連による厳しい基準を満たしたものに限られ、京都議定書で定められたマイナス6%達成のために役立てられます」とあるだけで、どこのどんな事業に寄付されるか分からない。が、その葉書が10枚セットで、いちいちプラスチックの袋に入れられているのを見て驚いた。こうした方が確かに数えやすく、扱いもしやすいのだろうが、わざわざ+5円を支払う消費者は、その寄付金によってできるだけ多く炭素を減らしたいと考えているはずだ。それなのに、石油製品から作られるプラスチックの袋を使い、それに封入するのにまたエネルギーを使うというのでは、効果は半減してしまうだろう。こんなムダは、炭素税を導入すればすぐになくなってしまうのに、と思う。

 谷口 雅宣

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2007年11月25日

“パンドラの箱”は開いたか?

 21日の本欄で、京都大学の山中伸弥教授らのグループによる“万能細胞”の研究成果を紹介したとき、私はこの研究が「他人の受精卵や卵子を使わず、患者本人の細胞を利用することで、移植医療の最大の関門である拒絶反応の問題をクリアできる可能性が飛躍的に増大した」と高く評価した。この考えは今も変わらないが、科学技術の進歩については、原子力の利用が示しているような“諸刃の剣”的な側面があることを忘れてはいけない。つまり、技術そのものに善悪はないが、その利用の仕方いかんでは、優れた技術、強力な技術ほど悪い結果をもたらす危険が大きいという点である。
 
 今回の研究は、比較的容易に誰からも入手できる皮膚の細胞から“万能細胞”を得られる道を切り拓いたわけだから、文句なく“善い”研究だと考える人が多いかもしれない。しかし、このような技術の進歩は素晴らしいことに変わりはないが、その影響が大きいがゆえに、使い方によっては“善い”結果だけが生じるわけではない。私がこのことに気づいたのは、23日付の『日本経済新聞』紙上に載った山中教授のインタビュー記事を読んだときだった。同教授は、インタビューアーの「倫理面の規制についてはどう考えるか」という質問に対して、次のように答えている--
 
「国で適正なルール作りを早急に検討すべきだ。iPS技術を使えば男性から卵子、女性から精子を作るのも可能。しかし非常に複雑な話になるので一定の枠をはめた方がよいだろう。ただ、iPS細胞は医療現場に役立てるためにわざわざ人工的に作ったものなので、臨床に生かさないと意味がない。過度の規制はよくないと考えている」

 私はこの記事を読むまで、今回開発された技術がそこまでできるなど想像していなかったから、少なからず驚いた。そして、これを読んで真っ先に頭に浮かんだのは、同性愛者による子の誕生である。山中教授のこの発言だけでは、同教授が同性愛者の子づくりをどう考えているか明確にはわからないが、何となく「規制すべきだ」との考えのように思える。その理由は、「家族や親子関係が複雑になりすぎる」からなのだろう。しかし、かつては“社会の目”から隠れていたこれらの人々も、今日では普通に市民生活を営み、同棲生活はもちろん、一部では結婚も許されるようになっている。異性愛の人間と差別することなく、すべての権利を保障すべきであるというのが、今日の要請である。そういう状況下では、「子をつくることだけは許されない」と定めることは不可能ではないだろうか。

 そうすると、今後どうなるか。ここから先は、あくまでも「仮定」の話として聞いてほしい。ここにAという同性のカップルがいるとする。愛し合っている2人は、お互いの遺伝子を半分ずつもった子を得たいと熱望しているが、これまではその願望を実現する方法がなかったから諦めていた。ところが、新技術によってそれが可能となれば、「そうしてはいけない」と言う理由はあまりない。現在でも、遺伝子の問題にこだわらなければ、同性のカップルは子をもつ手立てがないわけでもない。それは養子の制度を利用したり、他人から卵子や精子の提供を受けることによって(少なくとも技術的には)可能である。そして、すでにこの時点において、生まれて来る子にとって、家族や親子関係は十分複雑である。この複雑さに、遺伝子の問題が加わることが、このカップルの「子を得たい」という熱望を否定するに値するほど「複雑すぎる」かどうかは、大いに議論の余地があるだろう。
 
 ということで、カップルAは新技術によって、法的にも生物学的にも子をもてることになった--そう仮定しよう。このカップルが女性同士であれば、一方のパートナーの皮膚細胞から新技術によって精子をつくり、それを人工授精をへて、もう一方のパートナーが妊娠すれば子が生まれる。これに対し、カップルが男性同士の場合は、もう少し複雑になる。この場合は、一方のパートナーの皮膚細胞から卵子を作り、人工授精によって作った受精卵を代理母に依頼して妊娠・出産してもらうことになるだろう。法的、倫理的な問題を考慮に入れず、純粋に技術的に考えれば、これらは可能だ。が、その結果、生まれた子どもは一体どのような人生を送ることになるのか--この点が、私には最も心配である。
 
 成人した男女が、自らの責任においてパートナーを選ぶ場合、その相手が同性であるか否かについて、他人や法律が関与すべきでないという主張は理解できる。しかし、そのカップルから生まれる子どもに、半ば強制的に“特殊”な環境を押しつけることに問題はないのだろうか。成人カップルの決定は自由意思にもとづくのに対し、そこから生まれる子には自由意思が認められないのだ。それは、異性のカップルから生まれる子にも言えることだから、無視していいと考えるべきなのか。それとも、男親が2人いたり、女親が2人いるような家庭を“特殊”と呼ぶのは間違いで、それらをもっと“一般化”すべしというのが新時代の要請なのだろうか。人類の目の前には今、このような未踏の道が口を開けているように見える。この新技術は、はたして“パンドラの箱”を開けてしまったのだろうか?
 
 谷口 雅宣
 

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2007年11月23日

カキとムベ

Mtimg071120m  秋季大祭が行われた生長の家総本山では、久し振りにペンと絵の具でスケッチをする機会を得た。というのも、“稔りの秋”さながらの果実や花々が宿舎の部屋に飾られていたからである。その中からカキとムベとミカンを並べて、絵に描いてみた。
 
 カキとミカンは説明の必要はないが、ムベについて少し……。これは別名、「トキワアケビ」とか「ウベ」とも言う。アケビ科の常緑蔓性の果樹。実はアケビに似ているが、アケビの実は熟すと中央線から自然に割れるのに対し、ムベは割れない。大きさもアケビより1回り小さく、色はアケビより濃い紫紅色。果実は食用のほか、生け花の材料とする。10月18日の本欄にアケビを描いた絵を掲げたので、これと比較されたい。
 
 谷口 雅宣

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2007年11月22日

「日時計主義」は実相顕現の運動

 今日は午前10時から、長崎県西海町の生長の家総本山において「谷口雅春大聖師御生誕記念・生長の家総裁法燈継承日記念式典」がとり行われ、私は祝詞を奏上させていただき、参集された幹部・信徒の皆さんにご挨拶を申し上げた。以下は、その概略である。ただし、式典の進行が予定より遅れていたので、話す予定にしていても、実際には省略した言葉も下記には含まれている。また下記は、実際に話した言葉すべてでもない:

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 皆さん、本日は生長の家の秋季大祭ならびに記念式典によくお集まりくださいました。ありがとうございます。日本列島は11月の後半に入って急に涼しくなり、夜はだいぶ冷えるようになってきました。東京にいる私たちは1週間前ぐらいから暖房のお世話になっています。18日には東京の最低気温は6.7℃で平年より2.4℃低かったのですが、最高気温は19.4℃まで上がりました。私たちがこちらへ着いたのは20日の午後でしたが、その日の朝の気温は3℃まで下がったそうです。それ以降、こちらでも寒い日が続いています。

 しかし、寒くなると紅葉が美しくなります。皆様も金龍湖周辺の赤や黄色の紅葉を存分に楽しまれたことと思います。ここ生長の家総本山は、山海の自然の恵みが豊かに感じられるところであり、澄んだ空や紅葉が、私たちの心や目を慰めてくれるだけでなく、(総本山での練成会に参加された方はご存じのように)自然界は私たちの舌や胃袋も満たしてくれます。今は本山のミカンがおいしく、クリも採れるそうです。カキもいっぱい実っていて、それを食べに来る鳥たちを見ていると、私たちの心が満たされます。それが、自然と人間の関係の本来の姿だと思います。
 
 ご存じのように、現在の世界では人間の活動が主な原因となって、地球温暖化が急速に進行しつつあり、その影響で逆に人間の生活が脅かされるようになってきています。最近では、バングラデッシュを襲った巨大サイクロンで、死者が5千人とも1万人とも言われるような、大きな被害が出ています。「人間が繁栄すると自然が破壊され、貧しくなる」という状況は、昔からありました。かつての公害の時代から、今の都会生活にいたるまで、私たちは実際の経験から、そのことをよく知っています。しかし、今日の問題は、そこから先にあります。つまり、人間の活動により自然が破壊されると、自然が貧しくなり、人間に厳しくなります。その結果、我々の人間の生活も破壊され、貧しくなるということです。21世紀の人類の多くは、もうそのことに気がつき、何か手を打たねばならないと感じているのですが、どこからどう手をつけるべきか迷っている……そういう状態にあります。
 
 11月17日に、国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)の総会を締めくくる統合報告書というのが決定され、発表されました。このことは私のブログにも少し書いたのですが、そこには世界の気象学者が合意する形で、あらゆる温暖化対策を緊急に実行に移して、被害の拡大を食い止めるべきだと述べられています。どれか1つをするのではなく、考えられるすべての対策を動員する、ということで、「排出権取引」や「炭素税」の導入のこと。そのほか、原子力発電、再生可能エネルギーの利用、CO2の地下貯留、ハイブリッド車やバイオ燃料の普及、省エネ技術の拡大など、全部です。それだけ事態は切迫していると言えます。
 
 私たち生長の家の運動も、今年から「“自然と共に伸びる運動”実現のための第1次5カ年計画」というものをスタートさせました。「第1次」ですから、その後には「第2次」も考えられていて当面、10年間で“自然と共に伸びる運動”を実現していこうという考えです。これは、決して単なる環境運動ではありません。それは「神の創造された実相世界は善一元であり、大調和である」という真理にもとづき、その実相世界の姿を地上に持ちきたすための、実相顕現の運動であるということを、皆様方はぜひ念頭に置いていただきたいのです。

 “自然と共に伸びる”ということは、「人間・神の子」の真理を伝える運動は、自然を破壊しながら行われてはならないという意味です。自然の再生力の範囲内で運動を行い、自然も、人間の自覚も共に育てていかねばならないということです。だから「自然との共生」だけではなく「自然との共伸(供進)」をも目指しています。この運動は、何かに逆らって進む運動ではなく、社会の先頭に立って引っぱっていく運動です。全地球的な要請である温暖化抑制のための当然の義務であり、また「人間は自然の一部である」という生物学的な真理にも基づいています。このような生き方が、私たちの日常生活において現実に行われない限り、人類に未来はないと言わねばなりません。

 私は、今日の地球環境問題の根っ子には、現在の私たちの生活の中に、人間至上主義、とりわけ人間の欲望至上主義がある、と思います。人間は「神の子」ですから、人間が互いを尊ぶことはいいのです。しかし、それは人間の「欲望」を尊ぶのではなく、その奥にある「神性・仏性」を尊ぶのでなくてはなりません。しかし今日では、広告・宣伝活動によって「与えられていること」ではなく「欠けていること」を強調することで欲望を喚起し、市場拡大をはかる。製品の寿命を短くし、モデルチェンジを頻繁に行う。これでは、地球がいくつあっても足りないでしょう。昔から東洋では、「足るを知る」という生き方が称揚されてきました。ただし、この考え方は封建制度を正当化すると批判されたため、長らく“時代遅れ”とされてきました。しかし、21世紀の現代では、先進諸国の間には封建制度は存在しません。自由・民主主義の考え方と制度がそれにとって変ったのですが、残念ながら、これは人間の欲望民主主義に堕しているきらいがあります。
 
 地球温暖化の進む21世紀にあっては、宗教的な意味をもった新しい“足るを知る”運動が、上から押しつけられるのではなく、草の根的に盛り上がっていく必要があります。ケニアの環境運動家、ワンガリー・マータイさんは、日本の伝統の中にある「もったいない」の考え方を世界に広めることを提唱しましたが、私は「もったいない」の思想も素晴らしいと思いますが、生長の家にはもっとオリジナルな考え方がある、と皆さんには申し上げたい。それが「日時計主義」です。

 日時計主義は人生の光明面を見る生き方ですが、それは欲望至上主義のように「欠けていること」を見るのではなく、「与えられていること」「恵まれていること」「生きていること」を感じ、感謝することです。これは「もったいない」に通じる精神であると同時に、善一元の信仰にもとづき、現象世界に実相を引き出す具体的実践でもあります。そういうことを今回、この秋季大祭を記念して上梓させていただいた『日時計主義とは何か?』(生長の家刊)という本に、私は少し詳しく書きました。皆さまがたにはぜひ、この本を読んで「日時計主義は新たな実相顕現運動である」ことをよりよく理解していただきたいのであります。

 この「日時計主義」いかに素晴らしいかを、この本の一節をご紹介しながら少しお話したいと思います。101ページから始まる「先進的な幸福増進運動」という文章がそれです。これは2年前の春季記念式典のときに私が話したスピーチですが、当時そこに出席されなかった方も大勢おられると思うで、ここで再び紹介いたします。
 
  (同書、pp.101~102、pp.103~106 を朗読)
 
 このように「日時計主義」は、現代の先端をいく考え方であり、生き方であります。

 もう1つ皆さんに申し上げたいことは、私たちのこれからの運動の仕方についてです。先ほども言いましたが、これからの運動は“自然と共に伸びる”のでなければなりません。つまり、①温暖化ガスの排出をできるだけ抑えて、②自然と人間との一体感を深めながら、人間・神の子の教えを大々的に宣布していく必要があります。そのためには、航空機や自動車を使って遠方へ行くこと、大勢の人間を大ホールに集めること、エネルギーや資源を浪費することなどはできるだけ避け、私たちが日常生活を送るその場に於いて、「求道と伝道」の活動に力を注ぐことが重要になります。ひと言でいえば、第一線の誌友会等の少人数の集まりを重要な運動拠点にしなければなりません。そういう考えから、今年の運動方針には「質の高い運動」という項目が掲げられています。
 
 地元の事情は東京や総本山からはよく分かりません。これには、地元の事情に精通した第一線の人々による独創的工夫が必要です。また、地域や職域のニーズを反映した有効な運動でなければなりません。それは画一的ではありえず、多様な形態をとらなければなりません。が、その一方で、生長の家の信仰の中心を外してはいけません。生長の家とは「大宇宙」のことだと教わっていますから、多様でありながら、同時に神意を体現していく、明るく活発な運動を私たちは目指しています。日時計主義の展開は、神意の展開であるわけです。ですから、“炭素ゼロ”の運動は、日時計主義の精神による多様で、創造的な地元密着型の運動だと理解され、大いに自主性を発揮して明るく、運動を展開していっていただきたい。

 実相世界の写しである自然界を見ていただくと、そこには無限のアイディアが満ちています。それらを賛嘆し、生活や運動に取り入れ、神意にもとづいた活動を展開していきましょう。これをもって自然の恵みに溢れた本日の記念日の言葉といたします。ご清聴ありがとうございました。

 谷口 雅宣

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2007年11月21日

新しい再生医療が日本から? (2)

 生長の家の秋季大祭と記念式典のために長崎県西海市の生長の家総本山に来ているが、今朝の新聞に“よいニュース”を見つけて嬉しくなった。京都大学の山中伸弥教授らの研究チームと科学技術振興機構が、生殖細胞を使わず、拒絶反応の心配もない“万能細胞”の作成に人間において初めて成功したというのである。この細胞は「iPS細胞」と称し、「induced pluripotent stem cells(人工多能性幹細胞)」という意味。私は、山中教授の研究に前から注目していて、本欄では昨年7月17日同18日8月23日12月16日などで書いているが、同教授は、自分の研究テーマを選ぶに当たって「倫理問題がない」という条件を自らに課されたそうで、研究者の態度として尊敬に値する。

 その教授らのグループが、人間の皮膚の細胞などに遺伝子を組み込むことで一種の“初期化”を行い、受精卵のように各種の細胞に分化できる状態にもどすことに成功したのである。そして、この細胞が神経細胞や心筋細胞、軟骨の細胞などに分化することを確認したという。この研究が、ES細胞など他の万能細胞の研究よりも優れている点は、他人の受精卵や卵子を使わず、患者本人の細胞を利用することで、移植医療の最大の関門である拒絶反応の問題をクリアできる可能性が飛躍的に増大したことだ。21日付の『日本経済新聞』は、この研究の成功により「次世代医療として期待される再生医療を実現するうえで不可欠な医療材料の本命にiPS細胞がなる可能性がでてきた」と書き、『読売新聞』も「今後、万能細胞を用いる再生医療は、iPS細胞を中心に展開していく可能性が高い」としている。
 
 私は今年6月11日の本欄に「新しい再生医療が日本から?」という題をつけ、山中教授がマウスの研究で今回と同様の成果を挙げたことに言及し、「人間に応用できるかどうかは今後の課題だ」と書いたが、同教授は、あれからわずか半年もたたないうちに人間への応用のメドをつけたことになる。今日夕方のNHKニュースは、この研究成果のおかげで、山中教授のもとには世界中からメールの問い合わせやインタビューの申し込みが殺到し、ブッシュ大統領も歓迎の意向を表明したと報じていた。また、ある日本人のES細胞研究者は、この研究は「間違いなくノーベル賞に値する」とコメントし、クローン羊・ドリーの生みの親であるイギリスのイアン・ウィルムット博士(Ian Wilmut)は「自分の研究の方向を断念した」とまで言った、と伝えた。
 
 新聞報道によると、「iPS細胞」の研究は、山中教授のグループだけでなく、米ウィスコンシン大学のジェームズ・トムソン教授(James A. Thomson)のチームも同様に成功しており、前者の研究は科学誌『Cell(細胞)』の電子版(21日)に発表されたが、後者は『Science』の電子版にほぼ同時期に発表されるという。山中教授の研究では、36歳の白人女性の顔から採取した皮膚細胞に4個の遺伝子を組み込み、約1カ月培養したところ、ES細胞と同等の幹細胞が出現したという。この新しい細胞(iPS細胞)は実験により、神経や筋肉、肝臓など約10種類の細胞に分化することが確認された。その作成効率は、皮膚細胞5千個につき1個で、この割合なら臨床応用に充分だという。(21日『読売』)

 山中教授とトムソン教授の双方が注意を喚起している点がある。1つは、iPS細胞が、受精卵から得られたES細胞と全く同じであるかどうかは、まだ確認が終っていないということ。もう1点は、今回作成されたiPS細胞からは「ガン化」の危険が完全に排除されていないということだ。幹細胞とガン細胞とは関係があるようだが、2006年12月16日(リンクは上記)や今年6月11日の本欄(同)でも触れたように、まだ詳しいことが分かっていない。実際今回、山中教授が使った遺伝子の1つは、発ガン性のものだったという。現在の遺伝子組み換えでは、レトロウイルスというウイルスに目的の遺伝子を組み込み、これを細胞に送り込む。するとレトロウイルスは細胞内のDNAの中にランダムに目的遺伝子を組み込むのだが、その際、組み込まれる場所によってはガン化が起る可能性もあるという。
 
 これらの問題は、今後1つずつ解決されていくに違いない。そしてこの研究によって、世界の再生医療の研究の方向が、受精卵や卵子を使うES細胞から、iPS細胞や成人幹細胞の研究へと大きく転換することを、私は期待している。

 谷口 雅宣
 

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2007年11月18日

地球温暖化対策を急ごう

 国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)の総会を締めくくる統合報告書が決定し、新聞各紙はその内容を大々的に伝えている。この報告書は、今年相次いで発表された①自然科学的根拠、②影響と適応策、③緩和策、に関する3つの作業部会の報告書を統合した内容のもので、京都議定書以降の地球温暖化対策を構築する基礎となるものという。今回新しく報告書に盛り込まれたものの1つに、地域ごとの温暖化による被害予測がある。18日付の『産経新聞』が、それを次のようにまとめている:
 
[アフリカ]2020年までに最大2億5千万人が水不足に直面、飢餓が進行する。
[ア ジ ア]洪水と旱魃の影響で、風土病の罹患率と下痢性疾患による致死率が上昇。
[欧  州]2080年までに最大60%の生物種が消失。熱波到来。
[南  米]今世紀半ばまでにアマゾン東部の熱帯雨林がサバンナに変わる。
[北  米]収穫が増える地域もあるが、地域にばらつき。21世紀中に熱波の回数増加。
[極  地]積雪、海氷量の変化でシロクマなどの哺乳類、渡り鳥などに影響。
[島 嶼 国]海水面の上昇により浸水、高潮でインフラを脅かす。
 
 『朝日』は18日の紙面で、報告書が「今後20年から30年間の温室効果ガスの排出削減努力と、それに向けた投資が、より低い濃度でガスを安定させるうえで大きく影響する」と述べていると伝え、温暖化への対応策について、「炭素に価格をつけることで大きな削減が可能」であり、「市場メカニズムの範囲を拡大すればコスト削減や環境効果に役立つ」と書いている。これは「排出権取引」や「炭素税」の導入のことだ。そのほか、効果的な削減策としては、原子力発電、再生可能エネルギーの利用、CO2の地下貯留、ハイブリッド車、バイオ燃料の普及、省エネ技術の拡大などを、報告書は挙げているという。

 これらは皆、すでに本欄で何回も書いたことだが、要するに、あらゆる仕組みと技術を使って温室効果ガスの削減に取り組まなければ、被害はますます拡大するということだ。
 
 バングラデシュを15日夜に襲った大型サイクロンの被害が伝えられているが、このような暴風雨の巨大化も、温暖化の影響の1つだと指摘されてきた。このサイクロンは「シドル(目」と名づけられ、強風域は同国をすっぽりと包む大きさで、5~6mの高波と、秒速60m以上の暴風で家屋を倒壊させ、多数の死傷者を出したようだ。18日の新聞報道では、同国政府が確認した死者の数は「1723人」で、地元のテレビ局は死者の数を「少なくとも2千人」と伝えたという。
 
 そんな中でも、日本での温暖化対策に新しい展開があったことは、嬉しい。18日の『日経』によると、日本の大企業16社が協力し、大学や政府機関とも協同してバイオエタノールの開発と増産に力を入れることになったそうだ。しかもこの燃料は、食料とは競合しない稲ワラや籾、植物性の建築廃材などから作るという。どの程度の量かというと、年間のガソリン消費量の1割に当たる600万キロリットルを、2030年までにバイオ燃料に置き換える方針という。現在の国産バイオエタノールは、最も条件のいいサトウキビ原料のもので1リットル140円ほどのコストがかかるらしい。しかし、植物性廃材を使うと「リットル100円」まで下がるという。これに新しい技術を開発して、2015年までに「1リットル40円」までコストを下げるのが目標らしい。

 原料として考えられているのは、年間700万トンが廃棄される稲ワラや、同140万トンが利用されない建築廃材など。参加企業は、新日本石油、トヨタ自動車、出光興産、味の素、三菱重工、三菱農機、三井造船、明治製菓、月島機械、東レ、王子製紙、ヤンマー農機、日揮、ジャパンエナジー、三菱化学、三井化学の16社。大いなる健闘を祈る。
 
 谷口 雅宣
 

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2007年11月17日

サルのクローン胚からES細胞

 最近、幹細胞の研究で画期的な進展があったようだ。「ようだ」という語を付け加えるのは、韓国でかつて人間のES細胞をめぐる似たような進展が「あった」と大々的に発表された後に、それが虚偽だと判断された例を思い出すからである。(本欄2005年5月22日同年11月14日同22日など参照)今回の研究は、生獣のアカゲザルの皮膚細胞の核を除核卵子に組み込んでクローン胚とし、さらにそこからES細胞を作成した、というものだ。これは、すでにネズミを使った研究では達成されていたが、他の動物--とりわけ人間に近いサルで成功したことから、人間への応用の可能性が一気に増大したと評価されている。米オレゴン州にあるオレゴン健康科学大学(Oregon Health and Science University)などの研究チームによるもので、14日付のイギリスの科学誌『Nature』の電子版に発表した。
 
 メディアの報道にも慎重さが見られる。英字紙の『ヘラルド・トリビューン』は15日付で記事にし、「オレゴンの研究者らは、サルの胚の作成にクローン技術を使い、そこから幹細胞を抽出したと報告している」という書き方で、この研究成果を「事実」としてではなく「伝聞」として伝えた。『朝日新聞』も15日の紙面で「……に成功したとの論文を、○○に発表した」と書き、『産経』も同日に同様な書き方で伝え、『日経』は17日の夕刊でこれを伝え、3紙とも2004年の韓国の研究者の発表が後日、捏造だったことにも触れている。注意深い態度と言えよう。
 
 とはいえ、この発表は注目に値する。上記メディアの伝えるところによると、研究チームは、アカゲザルの皮下組織にある繊維芽細胞から核を取り出し、これを除核未受精卵(受精していない卵子から細胞核を除いたもの)の中に注入し、電気ショックを与えて融合させることでクローン胚を作り出した。そして、この胚が分化を始めて100個程度の細胞塊になった「胚盤胞」の段階で、細胞の内部組織を取り出してES(胚性幹)細胞を得たという。さらに『ヘラルド』紙は、この後に研究チームはES細胞から心臓の細胞と神経細胞を分化させることに成功し、ネズミに移植した場合は、体内でその他の様々な細胞にも分化した、と伝えている。
 
 もしこの研究が別の研究者によっても再現できることが確認されれば、どういうことになるだろうか? --サルで成功した研究は、同じ霊長類である人間にも応用できる可能性が大きいから、当然、人間への応用が次のステップとなる。この研究の主任をしたシュークラト・ミタリポフ博士(Shoukhrat Mitalipov)自身、メディアの取材に対して「この方法は人間にも使えることは確かです」と言っている。この場合、考えられる用途は、患者本人の皮膚細胞を使ってクローン胚を作り、そこからES細胞を抽出することで、理論的には体の各部の再生治療が拒絶反応の心配なくできる、ということだろう。これは一見、大いなる医療の進歩である。
 
 しかし、この研究で見えにくいのは「卵子」が大量に使われ、その大部分はむだになっている点である。数字で言うと、14匹のメスザルから「304個」の卵子が取り出された。その結果、得られたES細胞はわずか2株、成功率は0.7%だ。この状態では、人への応用は難しい。韓国のES細胞捏造事件の際も、多くの卵子提供者が協力し、一部に謝礼が支払われたことが問題になった。卵子の売買と区別がつかなくなるからである。このことは「代理母」についても言えるが、「人は、他人の健康の危険を冒してまで自己目的を追究できるか?」という倫理的問題がここにはある。代理母の場合、最低1人の他人が危険を冒す。この研究を人間に及ぼす場合、現段階ではそれ以上の他人を利用することになる。
 
 この効率の問題が解決しても、「クローン胚」の問題が残る。つまり、この胚を子宮に移植すれば「クローン人間」になるからである。昨年6月20の本欄でも触れたが、日本政府はクローン胚作成を条件づきで認める方針のようだが、私にとってあまり賛成できる話ではない。

 谷口 雅宣
 

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2007年11月16日

“石油ピーク”いよいよ到来?

 読者は、「石油ピーク説」という言葉を覚えているだろうか? これについて私は、単行本では『ちょっと私的に考える』(1999年)と『足元から平和を』(2005年)の中に書き、本欄では、2005年の11月4日5日に少し書いた。ごく簡単に言うと、「全世界の石油生産量は、やがてピーク(最大採掘量)が到来し、その後は減少の一途をたどる」というものだ。当たり前のように聞こえるかもしれないが、この考え方は数年前までは論争の的になっていた。理由は、「技術革新によって採掘量はまだまだ増える」と主張する人々が多く、特に産油国がこの考え方を嫌うからだ。きっと「国益に反する」と考えてのことだろう。この説を最初に唱えたのはアメリカの地質学者、ヒューバート博士(M. King Hubbert)で、アメリカ国内の石油生産の実状を調べたうえで、1956年に国内生産のピークは1970年に来ると予言して、これが見事に的中した。

 この理論を世界全体に適用すれば、世界の石油生産のピークが割り出せるとするのが「石油ピーク説」だ。ただし、同じピーク説を採用する人でも、全世界の石油生産が実際にいつピークを迎えるかについては、これまでまちまちの予測が出されてきた。そのうちかなり楽観的なのは、アメリカ地質調査所(USGS)の2005年の予測で「2025~30年」というもの。また、文明評論家のジェレミー・リフキン氏の2002年の著書には「遅くとも2022年」と書かれており、ワールドウォッチ研究所は「2020年」とし、アメリカの時事週刊誌『TIME』は2005年10月に「早くて2010年」と書いた。最も悲観的なピーク論者であるプリンストン大学名誉教授、ケネス・ドフェイス氏は「2005年11月24日」にピークの到来を予言したが、これは明らかなハズレだった。が、このほかに「2007年説」があったのを私は覚えている。

「石油ピーク」到来後の世界経済は、大きな転換期を迎えるとされる。なぜなら、現在の人類の文明は石油などの化石燃料を主要なエネルギー源として成立しているからだ。その最大の動力源が、「前年より多く入手できない」時代に入る。特に影響が大きいのは、中国、インド、ロシア、ブラジルなど経済発展著しい国であり、これらの国が、そのままでは先進国の経済レベルに達しえないと考えた場合、どのような政策を採るかは予測できない。もちろん、需要が増大して石油の値段はさらに高騰するだろうし、資源をめぐる各国の競争が一段と加速し、領土問題を抱える国々の間では紛争が起こる可能性が増大する。

 ところで、私が今なぜ再び「石油ピーク説」を語るかといえば、アースポリシー研究所(Earth Policy Institute)のレスター・ブラウン氏(Lester R. Brown)が、最新のニュースレターで、石油生産のピークが今来ているとの考えを「十分あり得る」(quite possibly)と肯定しているからだ。ブラウン氏は有名な人で、私も氏のことは昨年5月22日の本欄などで詳しく書いているから説明は省略する。が、忘れていけないことは、氏はすでに1年以上前に、バイオエタノールの利用が食品の価格高騰を招くとして警鐘を鳴らしていたことだ。ご存じのとおり今、まさに世界中でそれが起こっている。ブラウン氏の世界経済の読み方はこのように正確であるから、石油をめぐる氏の議論も傾聴に値するのである。
 
 ブラウン氏は、「世界の石油生産はピークに近づいているか?」(Is World Oil Production Peaking?)と題されたそのニュースレターで、国際エネルギー機関(IEA)の石油生産量のデータを並べて、「生産量の伸びはここ数年間、きわだって勢いを失った」と指摘している。具体的には、2004年に日平均8290万バレルだった世界の石油生産量は、2005年には同8415万バレルまで増加したものの、2006年には8480万バレルにしか達せず、2007年の1~10月の平均は8462万バレルと、減少傾向が見られるというのである。この事実は、人口が多く、経済成長盛んな中国、インド、ブラジル、ロシアなどでエネルギー需要が増大し続けていることを考えると、不思議である。もちろん、内戦状態が続くイラクでは、石油生産が正常でないことはわかる。しかし、その他の国や地域では、新しい油田が発見されてはいても、古い油田からの生産量減少を補うには不十分なのだ。
 
 ブラウン氏は、ニュースレターの中でヒューバートの理論を紹介し、新油田の発見のピークと生産量のピークとの間には時間的ズレがあり、その予測はできるとしている。つまり、新油田の発見がピークを迎えた後に、生産量のピークがやってくるのだ。石油をめぐる地球全体の状況を見ると、新しい油田の発見は1960年代にすでにピークを迎えている。また、埋蔵量で1位から20位までの油田は、すべて1917年から1979年までに発見されている。そして1984年以降、石油の生産量は、新しく発見された油田の埋蔵量を大きく上回っているという。2006年の数字は、生産量が310億バレルだったのに対し、新たな油田の埋蔵量は90億バレルにすぎない。
 
「石油ピークが来ている」という判断は、ブラウン氏だけのものではないらしい。イラン国営石油会社のサムサム・バクティアリ氏(A. M. Samsam Bakhtiari)は、2007年ピーク説を唱えており、ドイツのエナジー・ウォッチ・グループも「すでにピークを迎えた」と分析しており、石油生産量は今後、毎年7%の減少し、2020年には日産5800万バレルになると予測しているそうだ。バクティアリ氏の2020年の予測も、日産5500万バレルである。ところが、これらとはきわめて対照的に、IEAと米エネルギー省の2020年の予測は「日産1億400万バレル」というのだから、驚きである。
 
 イランの予測とドイツのグループの予測が一致していることは、興味深い。前者は原子力発電などの核開発を目指して国際社会と摩擦を起こしており、後者は、石油から自然エネルギーへの移行に熱心である。わが国は多分、アメリカ並みに「ピークは来ない」と楽観しているのだろう。何とも心もとない話である。
 
 谷口 雅宣

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2007年11月15日

人間と動物との共存 (2)

 11日の本欄で積み残した問題の1つは、こうだった--「家畜の肉を食すことと、野生の動物の肉を食すことを同等に扱っていいか?」
 
【肯定論】
 1匹の動物は、それが家畜であろうと野生であろうと独立した「生命」であることに変わりはない。したがって、肉の量や利用価値に差はあっても、1頭のウシを殺してその肉を食べることと、1頭の野生のシカを殺してその肉を食べることの間には、本質的な違いはない。もしウシの飼育と利用が環境問題を深刻化するのであれば、その恐れが少ない野生のシカを捕獲し利用することの方が、経済合理性にも合致し、環境倫理にもかなっている。
 
【否定論】
 1頭の家畜には、それが家畜とされてきただけの特殊性と利用価値がある。ウシは、永い年月をかけて人類が“改良”を重ねてきたことにより、乳や子牛の肉をはじめ、体のほとんどの部位を人間が利用できるようになっている。それに比べ野生のシカは、たとえ人間にロマンチックな感情を抱かせるとしても、1頭当たりの人間に対する利用価値は、ウシより少ない。したがって、野生のシカの頭数は、ウシの頭数が増える方向に決定すべきである。北海道の場合、野生のシカの捕獲や利用は、環境保全の意味では有効であっても、ウシの飼育数の減少につながる可能性があれば、好ましくない。

 上記の2論以外にも、肯定・否定の議論はあるだろう。例えば、人間にとっての利用価値を判断の基準に用いることは、生命の軽重を人間本位に判断する人間至上主義であるから間違いだ、とする宗教的な生命平等主義を唱えることもできる。しかし、この場合は、人間の自然界への関与自体を否定することになるだろうから、野生動物はシカだけでなくクマやサルの捕獲も許されないことになる。解決策としては「人間撤退」の方向へ進んでいくだろう。そうなると、長期的にはともかく、今目の前にある問題に対して打つ手は何もない。
 
 また、「人工(ウシ)には手をつけてもいいが、自然(野生のシカ)は尊重すべき」という考え方に基づいて論を立てることもできる。これは、「人工(ウシ)の方が自然(野生のシカ)よりも価値がある」とする上記の否定論と真っ向から対立するから、結果的には「人間撤退」の方向に近づいていくだろう。
 
 ここで読者に気づいてほしいのは、これらの議論の底流には「感情」や「文化」の問題が潜んでいるということである。これまで永い間、人類が家畜とともに生きてきたということは、人類が家畜の利用価値を“創造”してきたと考えることができる。この過程で、家畜の側が人類に適応してきただけでなく、人類の側でも家畜に適応してきた。つまり、家畜をめぐるさまざまな感情的問題を宗教や儀礼を考案することで解決あるいは緩和し、その解決策は、すでに現在の我々の文化の一部を構成しているのである。だから、上記の「否定論」は大変強力であり、たとえ「肯定論」が正しかったとしても、人類の心から否定論を払拭することは簡単にはできないだろう。

 15日付の『ヘラルド朝日』紙に、鳥とネコをめぐる興味深い訴訟のことが書かれている。ネコは、家畜よりもさらに人間に近い「愛玩動物」であるから、野鳥との価値を比較されれば、多くの人がネコを選ぶだろう。それは基本的に個人の感情の問題だが、法律でそれを定めてしまうと、人々の間に議論が起こるのはやむを得ない。ネコと鳥の選択は、論理的には説明が難しいからである。
 
 この記事によると、米テキサス州では今、野鳥の保護のためにネコを銃で撃ち殺した人が裁判にかけられている。この人は、ガルヴェストン鳥類協会(Galveston Ornithological Society)を創設したジェームズ・スティーブンソン氏(James Stevenson、54歳)で、ヒューストン市の南東沖約100キロに浮かぶガルヴェストン島に住んでいる。スティーブンソン氏はこの島に住みながら毎年、約50万人もの人を宿泊させて、バードウォッチングの指導をしているらしい。同氏は昨年11月のある日、絶滅危惧種の鳥、海鳴きチドリ(piping plover)を捕らえようとしたネコ1匹を、22口径のライフル銃で撃ち殺した。裁判の直接の容疑はこの1件だが、同氏はこのネコのほか、自分の敷地内に侵入するネコを何匹も殺したことを認めているそうだ。テキサス州の法律によると、飼いネコを残酷な方法で殺した場合、最高で2年の刑と1万ドルの罰金が科せられるという。
 
 問題は、このネコが“飼いネコ”であるかどうかだが、検察側は、ネコは有料道路の橋の下に棲んでいるとはいえ、料金所で働く人に「ママキャット」と名づけられ、エサや寝床や玩具を与えられているから「飼いネコ」だと主張している。これに対して弁護側は、スティーブンソン氏は絶滅危惧種の野鳥を守るために野生動物を殺したのだから、無罪だと主張しているらしい。アメリカの裁判は陪審員制度だから、12人の陪審員がこの件を判断するという。読者がそのうちの1人だったら、スティーブンソン氏を「有罪」とするだろうか、それとも「無罪」とするだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年11月14日

北海道の観光客

 11日の本欄で、北海道でのシカとクマの問題に触れたが、この問題に共通する原因は「人」である。北海道の自然の中に「人」が入ってきたことで、シカの天敵であるクマやオオカミが減った。だから当然、シカが増える。そして、人間が減ればクマが増えるから、結果的にシカは減るだろう。あまりにも簡単な論理なので、あきれた読者もいるかもしれないが、基本的にはそういう関係が成り立つと思う。ところが人間は、自然界を自分たちのものだと考えているから、この基本的関係にお構いなく、人を減らすことは経済活動が縮小するからマズイと思い、あらゆる方法で人の流入を図ろうとする。

 私は今、北海道の人々を批判しているのではない。人間は一般的にそう考える、という話をしているのだ。本州その他の地域に住む人たちも、昔は皆、これと同じ考えで動物を追いやり、自然を“我がもの”として今日に至っている。北海道は本州などと比べ“開発”が遅れたため、単位面積当たりの人口が比較的少ないから、まだクマやシカが多くいて、この問題が顕著になっているにすぎない。人とシカとクマとの葛藤--これは「人」を導入することで解決できない問題である。ただし、野生動物がすべていなくなることが“解決”と考える場合は、もちろん別だ。

 生長の家の講習会を北海道でやるのは、先日の小樽市が今年最後だった。北海道各地を旅して得た今年の印象は、「中国人が多い」ということだった。そのことを小樽市で話題にしたら、台湾からの観光客が増えている、と教えてくれた。この現象は、台湾の経済発展とともに自然に現われたというよりは、道自身が経済活性化のために外国からの観光客誘致に熱心なのだという。11日付の『朝日新聞』が伝えている。
 
 それによると、北海道を訪れる台湾人観光客は5年間で倍増していて、2006年は26万7900人だった。これに続いて韓国からは13万3850人、香港が8万6050人、オーストラリア2万2950人、シンガポール1万8950人、中国1万7350人、アメリカからは9700人だった。今年は9月に、高橋はるみ知事が自ら台湾を訪問して北海道観光をPRし、さらに道路交通法改正によって、台湾の自動車免許が日本でも通用することになった。それに「四季の変化」と「豊かな食物」が台湾にはない魅力として加わった。ということで、台湾の人にとっては、広大で冷涼な北海道の自然は、今や「国内旅行感覚で行ける北ヨーロッパ」なのだそうだ。
 
 北海道は外国からの観光客だけでなく、本州からの“定住者”誘致にも熱心なようだ。13日付の『朝日』は、“団塊世代”の大量退職を契機に、道内各市町村が知恵をしぼって移住者を募っている様子を伝えている。それによると、室蘭市、紋別市など道内で誘致に力を入れる60の市町村は「北海道移住促進協議会」を結成して、昨年から“移住候補者”の現地での生活体験のために、職員住宅などを週単位、月単位などで安く貸す試みなどを始めている。これによって昨年度は417人が39市町村に宿泊し、今年度は9月までに423人が宿泊したという。このような行政側の熱心な誘致活動により、昨年度は41市町村に123件273人の移住があった。ベスト10は、①函館市(25人)、②弟子屈町(20人)、③八雲町、当別町、浦河町(19人)、⑥東川町(13人)、⑦黒松内町(11人)、⑧小樽市、室蘭市、長万部町(10人)、だった。

 しかし、道内で人口が増えているのは札幌市などごく少数で、他は過疎化と高齢化にともなって人口は急減し続けている。日本全体の人口が減少する中で、冬の厳しい北海道だけ人口が増加するとは考えにくい。ということは、現在のレベルの経済活動を維持するためには、海外からの観光客誘致が唯一の手段ということなのだろうか? 政府が「観光立国」という標語を唱えだしたことの意味も、このへんにあるのだろう。
 
 谷口 雅宣

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2007年11月12日

天皇陛下とブルーギル

 ブラックバスとともに琵琶湖の生態系を壊した外来魚として知られるブルーギルが、天皇陛下がアメリカで寄贈されたのを持ち帰ったものだということを、陛下ご自身が初めて言及された。12日の『朝日新聞』夕刊などによると、天皇陛下は11日に大津市で開かれた「全国豊かな海づくり大会びわ湖大会」に出席された際、「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したものであり、当初、食用魚としての期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」と述べられたという。

 これはもちろん、陛下が持ち帰られた魚が直接自然界に放たれて、今日の生態系の破壊を起こしたということではない。この記事には、宮内庁の情報として、陛下は皇太子時代の1960年に訪米されたとき、シカゴ市長から寄贈されたブルーギルを、食用や釣りの対象になればと思われ、水産庁の研究所に寄贈された、とある。それが1963~64年ごろ、国から滋賀県の水産試験場に分与されてから、何らかの原因で60年代末までに一般の水域で見られるようになったという。また陛下は、ブルーギルについて「おいしい魚なので釣った人は持ち帰って食べてくれれば」と側近に話されていた、とも書いてある。

 こういう話がもっと前に人々に知られていれば、ブルーギル料理やそれを材料とした佃煮などが琵琶湖などの各地の名産になりえたのではないか、と思う。それとも、知らなかったのは私だけなのだろうか? そう思って、ネット上の辞書を調べてみると:
 
『大辞泉』--サンフィッシュ科の淡水魚。全長約20センチ。体形はタイに似て、灰褐色で、えらぶた後端が黒っぽい。北アメリカ原産で、日本には昭和35年(1960)渡来。原産地では40センチに達する。ルアー釣りの対象。

『大辞林』--スズキ目の淡水魚。全長 25cm ほど。体は卵円形で側扁する。背は緑褐色で腹部は淡い。雄の鰓(えら)の後端が青黒く見える。北アメリカ原産で、1960 年に湖沼に移入された。その後分布が全国に広がり、在来種への影響が懸念されている。釣りの対象魚。

 とあるだけで、陛下のことに何も言及がない。自宅にある平凡社の『世界大百科事典』(1988年)にも、日本への移入については年代も経緯もはっきり書かれていない。 わずかに講談社の『大辞典 desk』(1983年)に、「1960年、皇太子が渡米の際、シカゴ水族館から贈呈され、一部を静岡県一碧湖に放流」とあった。

 当時の日本は食糧難で、繁殖力の旺盛な淡水魚を日本に移植することで、国が問題の解決を図ろうとすることは理解できる。しかし、その後、生態系のバランスの微妙さや複雑さが知られ、生物多様性の重要性が認められるようになったことで、外来種の移植は今では“禁じ手”となった。天皇陛下は、生物学者としてそのことを痛いほど感じておられるだろうから、今回のようなお言葉になったのだろう。このように率直に、過去の過ちを認められる陛下に、私は大きな感銘を覚えるのである。
 
 前回の本欄で、シカの被害を緩和する方策として「シカ肉を食べる」という手段を考えてみたが、今回は「ブルーギル料理」が選択肢に上がってきたようだ。この魚を、私はまだ見たことも口にしたこともないが、この辺の事情に詳しい読者からご意見をいただけると幸甚である。
 
 なお、上記の陛下のお言葉については宮内庁のサイトで全文が読める。

 谷口 雅宣

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2007年11月11日

人間と動物との共存

 北海道に来て考えさせられたことがある。それは、人間が野生の動物と共存するためには、人間自身も“野性的”にならねばならないのか、ということである。この場合の“野性的”の意味は、「動物的」と言ってもいいかもしれない。例えば、シカの肉を食らい、銃を持ってクマを追いかけるような生活をすることである。
 
 野生のシカが増えて農産物や山林に被害を与えているのは、北海道に限ったことではない。が、北海道は広大な農林業地域だから被害額も大きく、年間で30億円におよぶという。東京でも奥多摩町などでその被害が深刻であることは、昨年5月30日の本欄でも触れた。ここでは、シカ肉料理を特産品として売り込むことを考えているようだが、北海道の場合も、札幌、江別両市では市民がシカの味に親しんでもらうための「エゾシカ料理まつり」が今、行われているという。10日の『北海道新聞』が夕刊で伝えている。シカ肉料理を特産として定着させることで、増え続けるエゾシカの被害の緩和に役立たせようとしているらしい。

 人間の嗜好は、習慣によって作られる面が確かにある。だから、多くの人々がシカ肉を味わう機会が増えれば増えるほど、日本全体で食品としてのシカ肉の需要がふえる可能性がある。そうなれば、シカの捕獲量が増える一方で、“競合食品”と思われる牛肉、羊肉、ブタ肉、鶏肉などの需要が減るから、自然破壊の程度が和らぐ可能性はあるかもしれない。しかし……と、私は考え込んでしまう。元来の北海道の自然では、シカは天敵であるヒグマやオオカミによって生息数を制限されてきた。そういう天敵が減った今、人間が代わりに天敵になるべきである--その考え方は理解できる。よく考えれば、人間はすでに太古の昔からシカの天敵なのだから、“害獣”を駆除するのに今さらためらうのはオカシイ。が、それと同時に、「シカを殺すのはかわいそう!」と叫ぶ動物愛好家がいるし、子供たちがいる。この矛盾撞着の中で考え出されたのが「シカ肉料理」なのだろう。
 
 シカ肉料理の普及により、日本全国の食肉販売店の店先に占める牛肉、ブタ肉、鶏肉の割合が、肉類全体に対して少し減少する。それにともなって「シカを殺すのはかわいそう!」と叫ぶ人の声も小さくなっていくに違いない。なぜなら、今、牛やブタ、ニワトリを殺して食べることを「かわいそう!」と言う人はきわめて少ないからだ。これらの家畜、家禽なみにシカが扱われることで、狩猟家の仕事がしやすくなり、農産物被害が減り、自然破壊も若干減る--いいことばかりだから、文句を言うのはオカシイ。

 上に書いた論理は、細部にいくつか“穴”があるが、それは問題にしないことにして、“大きな穴”を指摘すると、それは「感情」や「文化」の問題が考慮されていないことだろう。また、家畜の肉を食することと、自然界の象徴であるような動物(シカ)を殺して食することの違いも、考えるべきだと思う。これらのことは、また別の機会に述べてみたい。
 
 ところで、千歳から羽田までのAIR DO機の機内誌『ラポラ』11月号の中に、知床財団の山中正実氏が「ヒグマとつき合うために」と題した文章を書いていた。それをひと言でまとめれば、今は「銃の発砲でヒグマを威嚇する」ことが人間とヒグマの共存に必要だというのである。世界遺産に指定された知床には、ヒグマが高密度で生息している。近年、観光客が増加しているから、人間とヒグマが接触する機会もふえていて、山中氏によると、クマがのんきに道路を歩いていたり、川でサケを獲っている様子を「たくさんの人たちが大喜びで観察している」という。しかし、餌を投げ与えたり、近づきすぎてクマをいらつかせたりする人もいて、これが「危険と隣り合わせ」だと気がつかないので、山中氏らは、人の近くにいるクマを見つけると、殺傷力のない威嚇用の弾を込めて銃を発射する以外に仕方がないのだそうだ。すると、観光客からは、せっかく見つけたクマを追い払ってしまうイジワルなオッサンということで、ブーイングを受けることになるという。
 
「増えすぎたシカ」と「人に脅威を与えるクマ」--この2つの問題を解決する道は、どこにあるだろうか? 読者はすでに気づいていると思うが、これら2つの問題の原因は共通している。だから、解決の1つの道は、その共通の原因を除くことである。しかし、それができないところが、きわめて現代的で、人間的な問題なのである。

 谷口 雅宣

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2007年11月10日

小樽晩秋

 生長の家講習会を翌日に控えて、小樽市に来た。東京で聞いた天気情報では、小樽市の最低気温は「-3℃」ということだったので、裏地を付けたトレンチコートを用意した。北海道はもう一面に「冬枯れ」の景色だろうと思っていたが、千歳空港に着陸するために機首を下げるジャンボ機の窓から外を見ると、おそらくカラマツ林だろう、黄色や褐色に染まった森林が続いている。「ああ、秋に間に合った」と嬉しくなったのである。

 それから約1時間後に小樽市に降り立ったが、コートを着ていても寒さが感じられる。町中に掲げられた電光式の気温計は「8℃」を示している。ホテルにチェックインし、荷物を収めてから妻と連れ立って、夕食までの時間を“市内視察”に出かけた。セントラルタウン通りを南へ歩き、有名な寿司屋通りを横切ると上り坂となる。以前、スケッチしたことのある木造の教会を探しながら職人坂の方へ向ったが、道を間違ったのか、見知らぬ風景の家並みに出た。坂を下りてもと来た道の方へ向ったが、途中で出会った数少ない紅葉や黄葉の木を、何枚かデジカメに収めた。そうこうしているうちに、陽は傾いて町は薄暮に包まれていく。気温はどんどん下がっていくだろう。「寒いから帰りましょう」という妻の声に促されて、宿泊のホテルに向かった。ホテル前の電光気温計は「6℃」を示していたが、信号待ちしている我々の前で「5℃」に変わった。

Otar_111007m  ホテルの部屋にもどってから、撮影した写真のうち1枚を加工したものを、ここに掲げる。壁をつたわる蔦の葉の美しさを強調したかった。
 
 谷口 雅宣

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2007年11月 9日

『日時計主義とは何か?』について

Sundialismm  『日時計主義とは何か?』という単行本の色校正が終わった。今月下旬の生長の家の秋季大祭を期して発行される拙著だが、実物はまだできていない。しかし、生長の家の講習会のテキストとする予定なので、色校正の用紙と束見本を使って実物に似せたサンプル(=写真)を作った。並製の新書判の本で、表紙カバーの白が目立つ仕上がりになっている。カバーに使われている絵は、私が今年、生長の家教修会のためにニューヨークに行ったさい、ホテルから本部事務所宛に出した「絵封筒」である。また、この本の中には、本ブログに登録されている「わが町--原宿・青山」のスケッチ画が一部、カットとして使われている。

「絵封筒」とは封筒に絵を描いたもののことで、これをもらうと胸がワクワクする(はずである)。その由来は、6月8日の本欄で詳しく紹介したが、フランス在住の絵本作家、デビッド・マッキー氏(David McKee)が元祖で、彼は当初、絵手紙を封筒に入れてロンドンの出版社に送っていたのが、絵心があふれて封筒にまで描くことになったという。私は、芸術やスポーツのこういう自然発生的登場の話が好きだ。そこには自由さと、自発性と、生命の躍動を感じるからである。人間が本来もつ「明るさ」が、そこにある。それは「日時計主義」の展開でもあると、私は思う。

 表紙カバーの絵は、教修会の準備の合間にホテルの部屋で、備え付けの封筒にフルーツを描いたものだ。桃やイチゴ、サクランボなど、日本とは違う格好のフルーツが面白かったし、ホテルの封筒のデザインも面白かった。そう思った時に、むずかしいことは何も考えずに「面白い、面白い」と思いながら描く。それでいいのだと思う。描いた絵封筒に次のような感想文を入れて、投函したのだった。
 
「NYCのホテルでいただいたフルーツを描きました。桃が上から押しつぶしたような格好で面白かったのです。チェリーは赤黒く“美味しい”という感じではありません。イチゴは皮が乾燥していて固いのです。従って日本のイチゴのようにすぐ崩れてしまわず、何日ももちます。果物に対する考え方が違うと思いました」

 現在、この絵封筒は、絵を趣味とする生長の家の仲間が集まっている「光のギャラリー~アトリエTK」の絵封筒ギャラリーに収録されているので、興味のある方はご覧あれ。

 本書にこのことを書く余裕がなかったが、私は「絵を描くこと」自体を日時計主義の実践としてとらえている。さらに言えば、絵だけでなく、俳句も短歌も写真も書も……およそ「表現芸術」と呼ばれているものは皆、それを通して日時計主義を実践する--つまり、世の中に実相世界の「真・善・美」を反映する--ことができる有力な手段だと考えている。ただ、芸術では「真・善・美」の反対である「偽・悪・醜」やその他もろもろのものも表現することができるから、そちらの方を“有意義だ”とか“高級だ”と考える人々が、日時計主義とは異なる創作活動をしているという事実はある。それはそれで表現の自由の問題だから、この社会では許されていいと思う。が、生長の家を知った人々は、自己の“神性表現”の喜びの場として、もっともっと表現芸術を拡大していってもいい……否、拡大していくべきだ、と私は思うのである。

 この本はまた、本欄を揺籃として生まれたと言うことができる。本書は2部構成で、第1部は「日時計主義とは何か?」というその題の通り、日時計主義がどのような考え方で、どんな哲学的、宗教的前提から成り立っているかを解説している。その際、本欄で最近1~2年にわたって書いた文章を土台にした。具体的には、昨年の文章では「狭い戸口」(11月上旬)、「悪を放置するのか?」(3月上旬)、「“悪を認めない”でいいのか?」(6月中旬)などで、今年の文章では「“悪を認める”とは?」(1月下旬)、「感覚と心」(同)、「意味と感覚」(2月上旬)、「わが町--原宿・青山」(同)、などである。これらの文章を書きながら、私は結局、日時計主義についていろいろ考えていたことになる。
 
 第2部には「日時計主義講演録」という題がついている。その名の通り、私の過去の講演や講話のうち、日時計主義に触れたものを集めてある。時期的にいうと、2005年以降のものである。第1部が論文であるのと比べ、話し言葉で書かれているので読みやすいはずだ。

 生長の家からは『日時計日記』が出ていることは、多くの読者がご存じのとおりである。また、2008年版の『日時計日記』もすでに出ているので、本書を読みながら、これらを大いに活用していただければ幸甚である。
 
 谷口 雅宣

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2007年11月 8日

教育の地域格差は大きくない?

 前回の本欄では、今回の大規模な全国学力調査の結果のうち、基礎的知識の程度は「低下」していないし、むしろ「向上」している、という点を取り上げた。今回は、「教育の地域格差」が大きく、また拡大しつつあるとする問題に対して、この調査結果が何を語るかを調べてみよう。が、その前に、日本の教育問題に関心のある読者は、前回の本欄の末尾に示した文科省のサイトから、調査結果のポイントをまとめた文書をダウンロードしてぜひ読んでほしい。普段、マスメディアの情報を信じて、そこから得た印象を「現実」だと考えている人の中には、きっと“驚くべき発見”が数多くあると思うからだ。

 さて、今回の文科省の発表に関連して、教育の地域格差について新聞各紙は記事のリード文でどう伝えているだろうか?

○都道府県別の平均正答率で一部に開きがあったほか、就学援助を受けている子どもの割合や地域の規模と正答率との相関関係もみられ、「教育の格差」が一部に表れた。(10月25日『朝日』)

○都道府県別で差もみられ、小学校では秋田、中学では福井、富山などの正答率が高く、沖縄や大阪などの成績が悪かった。(同日『産経』)

○都道府県間の正答率には最大23.1ポイントの開きが生じ、学力のばらつきも浮き彫りになった。(同日『日経』)

 これらの文章を素直に読めば、そこから受ける印象は「教育の地域格差は大きい」ということである。しかし、これらのうち『朝日』と『産経』は同じ日の記事の中で、次のようにも書いているのだ--「1960年代の学力調査で格差が問題になった都市部と地方を比較すると、大きな差はなかった」(朝日)。「都道府県別の平均正答率は昭和30年代の調査に比べ、地域間格差が縮小し、教育の格差是正に一定の効果があった」(産経)。一方『日経』は、この日の第3面の記事でも、「国公私立間の成績の格差も新たに判明」とか「入学選抜がある国私立を除く公立校の成績は都道府県間でばらついた」などと、依然として「格差は大きい」と思わせる表現を使っている。
 
 では、実際のところ格差は大きいのか小さいのか? 私は、この判断は純粋に統計学的なものを優先させるべきだと思う。そうしなければ、今回のように78億円とも言われる経費を使い、これまでになく大きなサンプルを採って調査した意味がほとんどなくなってしまう。なぜなら統計の価値は、サンプル数が多ければ多いほど信頼性の高い結果が引き出せるという点にあるからだ。では、統計学的な判断がどうかというと、それは文科省の「平成19年度全国学力・学習状況調査--調査結果のポイント」という発表資料にあるものだと思う。それを下に掲げよう:
 
「小学校調査、中学校調査ともに、平均正答数、平均正答率、中央値、標準偏差を見ると、地域の規模等(公立:大都市、中核市、その他の市、町村、へき地)による大きな差は見られない」。

 そうなのだ。今回の調査で明らかになったことの1つは、「現在の日本の小中学校教育では、統計的には大きな地域格差は認められない」ということなのだ。前回触れた池上彰氏の記事を除き、この重要な事実をきちんと伝えてくれる新聞がなかったことは、現代のジャーナリズムの偏向を示している有力な証拠だ、と私は思う。その偏向とは「悪いもの探し」の傾向である。私はもちろん、この報道をめぐる新聞記事の中に「地域格差は大きくない」という意味の表現がまったくなかったと言うのではない。そうではなく、報道姿勢を示す「見出し」や「リード文」「記事の配置の仕方」などの面で、この重要な事実を過小評価しようとする傾向が見られたと言っているのである。
 
 その証拠をいくつか挙げれば、『朝日』は10月27日の記事で「詳しく結果を見ると、沖縄などを除いて大きな差がない。9割近くが平均正答率の上下5ポイント程度の範囲内に収まっている」と書いているが、その文章に至る相当前の文章には、教育社会学の専門家の言葉を引用して、「この10年間で格差が拡大したのは事実だ。それが表れていないのは、分析の仕方に問題があるのではないか」と言わせている。これでは、「文科省の統計の数字にはウソがある」と言っているに等しい。また、『日経』は10月25日の第3面の記事で「今回のテストは様々な“学力格差”をあぶり出した」と書いた下に、「専門家の見方」という欄を設け、2人の“専門家”の相反する見解を並べている。最初の見解は「都道府県別の平均正答率の“ばらつきが小さい”という文部科学省の説明には問題がある」として統計を否定的にとらえているが、2番目の見解は「1960年代の旧学力テストの結果に比べ大都市とへき地の学力格差がほとんどなくなったのは大きな変化だ」として同じ統計を肯定している。これらを読む読者は、見出しにもなく、地の記事では否定され、さらに1人の専門家の見解で否定されている文科省の統計の意味を、もはや肯定的にとらえることはできないだろう。
 
 私がここで言いたいのは、「文科省の統計分析をそのまま信じろ」ということではない。78億円もの国家予算を使って実施した統計学的調査の結果を、一応はそのまま報道してほしいということである。もちろん専門用語は一般向けに噛み砕いて説明してほしいが、その内容を曲げるような報道は世論操作ではないだろうか。統計結果に不満があるなら、「今回の調査結果はこうなったが、別のデータは別の結果を示している」と簡明に示してほしかった。なぜなら、それが事実というものだからだ。「事実」や「現実」は、多様な人が見れば多様に解釈できる。それを単一の見方に牽引していくのが報道機関の使命だと、私は決して思わないのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年11月 7日

子供の学力は向上した?

 ジャーナリストの池上彰氏が11月5日の『朝日新聞』夕刊紙上で、「日本の子供の学力は向上しており、都市と地方の学力の差は縮小している」という話を書いている。これまでメディアを通して伝わってきた「学力低下」と教育の「地域格差拡大」という“常識的”な理解とは大いに違うので、驚いた。池上氏の記事は、文部科学省が先月24日に公表した全国学力調査の結果をもとにしているのだが、そんなに“常識”と違う結果が出たのなら、さも大きなニュースになっただろうと思うのだが、この“明るいニュース”は私の記憶にはないのである。不思議に思って、文科省の発表を受けた当時の新聞を探した。すると、各紙は25日の朝刊で伝えているのだが、第1面の見出しは次の通りである:
 
 「知識の活用 苦手」「学力調査結果を公表」「文科省」(朝日)
 「記述・思考は苦手」「全国学力テスト」「改善へ“地域力”活用を」(産経)
 「知識の活用力に課題」「全国学力テスト」「正答率6-7割 地域間でばらつき」(日経)

 これらの見出しを読む限り、池上氏の書いていることとは異なる報道がなされたかのように見える。そして、それぞれの記事をよく読んでみると、ますます問題のありかが分からなくなった。上記のうち『朝日』と『日経』は「知識の活用」について問題があるような見出しだが、これは「知識」を問うA問題が7~8割の正答率だったのに比べ、知識を「活用」できるかどうかを問うB問題の正答率が6~7割だったという比較上の問題なのだ。しかし、これは基本的知識とその応用力との差だから、両者が等しいとは考えられないし、この程度の違いは、我々大人だってあるのではないかと思う。
 
 それよりも私が驚いたのは、A問題の正答率の高さだった。新聞には全国の平均値が表示されているが、それによると小学6年の国語Aの正答率は「81.7%」、国語Bは「63.0%」、算数Aは「82.1%」、算数Bは「63.6%」。中学3年の国語Aは「82.2%」、国語Bは「72.0%」、数学Aは「72.8%」、数学Bは「61.2%」だ。確かにB問題の点は「優秀」とは言えないが、A問題は数学Aが7割強、それ以外は8割を上回っている。100点満点の試験で平均点が70点を上回れば、素直に「成績がよかった」と言ってはいけないのだろうか、と思う。
 
 この点を、新聞各紙は問題にしているフシがある。つまり、学力は落ちているはずなのに、それが学力調査に反映されていないというのである。『朝日』は上記の記事で、「漢字の読み書きや計算問題など、過去の調査と同様の問題では正答率が上がっているものが多い」と書いているが、そのことが不満のようで、2日後の27日付の紙面では、専門家の言葉として「この結果だけでは過去との比較ができなので、学力が向上したとは言えない」と書いている。『産経』は25日の紙面で、Aテストの成績が良かった点について解説し、「学力低下批判に対し、学校現場ではドリルや暗唱など“反復”練習を充実させるなど学力向上に取り組み始め、今回、基礎力は一定水準を保ったといえる」としている。また、同紙は「主張」欄でも、「学力低下が懸念される中、今回は改善もみられる。平均だけをみると基礎問題の結果は8割の出来だ」と認めている。にもかかわらず、同じ日の別の面に掲載された記事では、これを否定するように、「ここ数年いわれてきた学力、特に基礎・基本の低下は数値に反映されなかった」と書いている。
 
 これらの記事の論理は、矛盾していると私は思う。今回の学力テストというものは、実際のサンプル調査である。しかも、小学6年生が113万9492人、中学3年生が107万7209人が参加するなど、サンプル数が大きいから、調査結果への信頼性も大きいと考えるべきだろう。これに対して、実際の教育現場で教師が子供と付き合いながら得ている印象も、サンプル調査の一種である。が、この場合はサンプル数が小さいから、信頼性もそれに応じて小さいと考えるべきではないのか。とすると、信頼性の大きい調査の結果が、信頼性の小さい調査の結果と違う場合は、後者が間違っている可能性をまず考えるべきではないのだろうか。また十歩譲って、今回の調査結果が信頼性に欠けると判断する理由があるならば、まずその理由をきちんと書き、信頼性のない今回の調査結果からデータを取り出して何かを言う--例えば「知識の活用に問題がある」などと言う--ことは控えるべきではないだろうか。「信頼性のないデータだが、自分の主張に合っているから使おう」というのは、少なくとも科学的態度ではない。
 
 私はもちろん、この問題については全くの素人である。だから、日本の子供の教育について「学力は向上している」とか「現状でいい」とか言うつもりはまたくない。が、大規模な実地調査を行ったにもかかわらず、その結果を信頼せず、信頼しない理由も書かないというメディアの態度に、何か不合理なものを感じるのである。
 
 調査結果については、文科省の国立教育政策研究所のウェッブサイトを参照。
 
 谷口 雅宣
 
 

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2007年11月 6日

ミツバチはなぜ減少する? (2)

 今年3月2日の本欄では、アメリカでミツバチが大量に減少していることを報告したが、その原因についての研究結果が出たようだ。確定的ではないようだが、ウイルスの感染によるらしい。10月12日付の科学誌『Science』に論文が掲載されている。
 
 広大な国土のアメリカでは大規模農法によって小麦、トウモロコシ、ダイズなどの穀物や野菜、果実が生産されていることはよく知られている。そして、それら農産物の多くは日本に輸出されている。こうした植物の授粉には、養蜂家が大きく貢献しているのだ。上記の本欄で書いたように、「彼らは大型トラックに巣箱を満載して、アメリカ各地を回り、農家の依頼によって、場所を定めてハチを放つ」という活動をしている。ところが今回の大量減少では、出て行ったハチの多くが帰ってこなかったのである。そして、巣箱の中にも、放った場所の周辺にも、ミツバチの死骸は見つからない。そこで、方向感覚の喪失、寒さによる死、ウイルスや細菌の感染、栄養不足、殺虫剤の影響、ストレスのかかりすぎ、ダニの寄生などが、その原因として考えられていた。
 
 この現象は群棲崩壊障害(colony collapse disorder, CCD)と呼ばれていて、2006年に初めて正式に報告されたが、散発的なケースは2004年ごろから知られていたという。深刻な被害を出した2006年から2007年の冬のCCDでは、アメリカの養蜂業の23%が影響を受け、影響を受けた養蜂家では平均して45%のミツバチが失われた。1980年代以降、ミツバチの群棲にはダニの寄生による被害が増加傾向にあるが、その場合は、巣箱の中に死骸が残り、働きバチが段階的に減少するなどの兆候が見られた。そこで今回のCCDは、これまでに知られていない感染源によるものではないかと疑われた。その証拠に、CCDの起きた群棲で使われていた器具を再使用すると、似たような現象が再び起こり、その逆に、放射線による殺菌を行った器具ではそれを未然に防止することができたという。
 
 CCDの原因を追究するため、ペンシルバニア州立大学のダイアナ・コックス=フォスター博士(Diana L. Cox-Foster)らの研究チームは、CCDの起こった州から群棲を4つ、起こらなかった州から2つ、さらにオーストラリアから輸入されたハチと、中国から輸入されたローヤル・ゼリー4種を選び、それらのサンプルの遺伝子(RNA)を解析してウイルスの有無を調べたという。その後、発見された数種類のウイルスとCCDの有無を統計的に解析したところ、CCDの発生パターンと最も一致するのが「IAPV」と呼ばれるウイルスだったそうだ。
 
 IAPVとは、2004年にイスラエルで発見された Israeli acute paralysis virus (イスラエル急性麻痺ウイルス)の略称である。これに感染したミツバチは、羽を小刻みに震わせながら、しだいに麻痺状態に陥り、巣箱の外へ出て死ぬという。CCDが起こった研究対象の群棲では、オーストラリアから輸入されたミツバチを使っていたか、あるいはそういうミツバチと混じり合って生活していた。このオーストラリア産のミツバチは2004年から輸入が始まっているが、この年から群棲が異常に減る現象が報告されているという。そんな理由で、この研究グループはIAPVがCCDの発生に重要な役割を果たした、と結論している。
 
 外来種のミツバチを大量に導入したことで、予想外のウイルスの被害に遭ったということだろうか。このウイルスは、人間の動きに載って「イスラエル→オーストラリア→アメリカ」と、地球を半周しているのである。原因は確定的でないとは言え、グローバリゼーションがもたらすリスクの一端を示しているように思う。
 
 谷口 雅宣

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2007年11月 5日

肉体は“炎”である (2)

 前回の本欄では、「川」と「肉体」のアナロジーを使って、「肉体はナイ」という考え方の説明をしたが、肉体の「炎」としての側面については十分触れなかったので、ここでそれを述べよう。肉体の生理機能の一つである「呼吸」や「消化・吸収」について考えるとき、「炎」の比喩はより説得力を増すだろう。呼吸とは、「生物体が、酸素をとって細胞内で有機物を酸化し、炭酸ガスを体内に吐き出す働き」(『新潮国語辞典』)である。人間が属する哺乳動物では、この呼吸によって体温を一定に保っている。ということは、人間の肉体は外界から酸素を吸って体内で燃やしているのだから、その点がローソクの炎と似ている。が、ローソクの炎は「軸」の可燃成分を吸い上げて燃やす(酸化する)だけのことしかしないのに比べ、人間は体外から酸素を得て燃やした後に、そのエネルギーを使って大変多くのことを行う点が違っている。それら多くの仕事の中の1つは、内臓に溜められた食物や水分から栄養素を取り出し、さらにそれらの栄養素を分子のレベルにまで細分化して、全身の細胞の中へ送り込むことだ。これを「消化・吸収」と呼ぶことは、読者もご存じのとおりである。
 
 この「消化・吸収」の過程は、実に神秘的だ。私たちは普通、胃袋は胃酸を出して食物の一部を消化・吸収し、大腸・小腸は膵液、腸液などを分泌して消化・吸収を継続する、と考える。その際、胃や腸などの消化器官そのものには変化が起こらないと思うだろう。つまり、胃や腸などの消化器官は一種の“袋”であり、消化された食物はその“袋”の内側に開いた微細な“穴”から吸収されて、どこか別の所へ運ばれていき、袋そのものにはすぐには影響しない、と思わないだろうか? が、実際は、この吸収の過程は私たちの想像以上に高速で、物質分子が入れ替わる程度は驚くほど徹底しているらしいのである。
 
 分子生物学者の福岡伸一氏が書いた『生物と無生物のあいだ』(講談社刊)がベストセラーになっているが、この中にルドルフ・シェーンハイマー(Rudolf Schoenheimer)というユダヤ系アメリカ人の医学者が1930年代後半に行った実験が、「生命観を転換する」画期的なものとして紹介されている。それによると、シェーンハイマーは、外から食事として入ってきた物質分子がどれほどの速度で体内の分子と置き換わるかを、ネズミを使って調べようとした。そのため、タンパク質を構成するアミノ酸に含まれる窒素原子を、重窒素に置き換えた餌をネズミに与えた。この「重窒素」というのは窒素の同位体(アイソトープ)で、それを含む餌(タンパク質)は外部から計器によって特定することができるという。つまり、重窒素を含む餌をネズミに与えた後、ネズミを解剖して体の各所を計器によって調べると、どこの部位に餌の成分がゆきわたっているかが測定できるのである。その実験の結果を、福岡氏は次のように書いている:
 
「重窒素で標識されたアミノ酸は3日間与えられた。この間、尿中に排泄されたのは投与量の27.4%、約3分の1弱だった。糞中に排泄されたのはわずかに2.2%だから、ほとんどのアミノ酸はネズミの体内のどこかにとどまったことになる。では、残りの重窒素は一体どこへ行ったのか。答えはタンパク質だった。与えられた重窒素のうちなんと半分以上の56.5%が、身体を構成するタンパク質の中に取り込まれていた。しかも、その取り込み場所を探ると、身体のありとあらゆる部位に分散されていたのである。特に、取り込み率が高いのは腸壁、腎臓、脾臓、肝臓などの臓器、血清(血液中のタンパク質)であった」。(上掲書、p.158)
 
 そして、これらの実験結果を総合して、福岡氏は次のように述べる:
 
「肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感がまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい“淀み”でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が“生きている”ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる」。(同書、p.163)

 ここまで読んできた読者には、「肉体」と「炎」との類似性はもう明らかであるに違いない。「炎」というものが、高速で酸化しつつある可燃性物質の通過する痕跡の一部であるのと同じように、私たちの「肉体」は、高速で生化学反応をする物質分子が通過する痕跡の一部である。「川」という名前の実体は存在せず、そこには水の分子の流れがあるだけだと前回書いたが、これと同じように、「肉体」という実体は存在せず、そこには物質分子の流れがあるのみである。だから、「肉体はナイ」のである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)

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2007年11月 4日

肉体は“炎”である

 今日、伊勢崎市で行われた生長の家講習会には、群馬県内を中心に約千四百人の受講者が参集し、熱心に講話を聴いてくださった。その午前中の講話で、私は人間の肉体をロウソクの「炎」に喩えて「肉体はナイ」という生長の家の考え方を説明した。ところが昼休みの時間に、妻がこの話は「結構難解でした」と言った。考えてみれば、確かにこの話は「耳から聴く」だけの講話形式によるよりも、読み直しが可能な「文章による論理的説明」に向いていたかもしれない。そう反省して、この場で“難解”な部分の説明を補足してみたい。

Flamee  まず、ロウソクの「炎」について考えてみよう。「炎」とは、燃焼が起こっている空間に生じる現象である。もっと詳しく言えば、ロウソクの成分であるパラフィン等が熱によって気化し、それが空気中の酸素と結びつく酸化反応を起こしている状態にあるとき、その一部が人間の目に「光」として映ったものをこう呼ぶのである。三省堂の『大辞林』は、これを次のように定義している:
 
「気体、または液体や固体からの蒸気が燃焼し高温となって光を発している部分。ろうそくの炎などのように酸素の供給が外側の空気からの拡散による場合は、酸素が十分で酸化性である外炎(酸化炎)と、不十分で還元性の内炎(還元炎)に分けられる」

 ここでの第1のポイントは、「炎」という物質の塊が存在するのではないということだ。人間が目で見たときに、ある温度以上に達した空間の化学反応が、それ以下の温度の空間と区別されて「光」として認識されるのである。「炎」というものが存在するのではなく、人間の目が一定の高温状態の空気の領域を、他の領域と区別して「光」として捉えた部分の呼称である。だから、ここでの第2のポイントは、(当たり前のことだが)「人間の視覚」が介在して初めて「炎」があるということである。

 さらに第3のポイントを挙げると、「炎」とは一種の「流れ」であるということだ。それは川の流れのように、1つのものが現れたらたちまち流れ去り、次の瞬間には別のものが現れ、それがすぐに流れ去り……というように、一定の物質が一定の場所を占めてそこに「在る」のではなく、パラフィン等の成分である可燃性の物質の分子が、高速で酸化反応を起こしながら常住流転しているものの通り道が、人間の目で見ると一つの“塊”のように見えるのを、「炎」と呼ぶのである。それは、「川」という物質が存在するのではなく、一定の量以上の水の流れを、人間が「川」と呼ぶのと同じことである。

 このことが、「肉体はナイ」ということと、どう関係するのか? それは、人間の肉体は本質的に「川」と同じであるから、川が存在しないならば、肉体は存在しないと言えるからである。この理由の詳細を述べよう。
 
 まず言えることは、肉体は物質であるから、分子の集合体であるということだ。分子はもちろん、原子と電子からなるし、それらは素粒子から構成されている。肉体を構成する物質分子は、常に入れ替わっている。このことを、生理学では「新陳代謝」と呼ぶ。この新陳代謝によって、肉体の物質分子が入れ替わる速度は普通、私たちが考えるよりもはるかに速い。ある医学者は、その様子を次のように描いている:
 
「体を本当の姿で見ることができたとしたら、同じものは2度と見られないでしょう。体内の原子の98パーセントが1年前にはなかったものです。ひじょうに堅固なように見える骨格も3カ月前のものとは違います。骨細胞の外形は変わりませんが、あらゆる原子が細胞壁を自由に行き来しており、それによって骨格は3カ月ごとに更新されるのです。(中略)皮膚は1カ月ごとに、胃の内層は4日ごとに、食物とじかに接する胃の表面は5分ごとに新しくなっています。肝臓の細胞はひじょうにゆっくりと更新されますが、細胞の中では川を流れる水のように新しい原子がどんどん流れているので、肝臓は6週間ごとに新しいものに作り替えられています。脳細胞は一度死ぬと補填されることはありませんが、そんな脳でさえ、含まれている炭素や窒素、酸素等は1年前のものとまったく違っているのです」(ディーパック・チョプラ著『クォンタム・ヒーリング--心身医学の最前線を探る』、p.60)

 私たちの肉体の新陳代謝がこのように行われ、さらに物質だけが存在するとするならば、肉体は存在するのではなく、川のようにそこに見えている(現れている)だけの“仮の存在”である。川は水の流れの一つの「呼称」にすぎないのであり、「川」という実体はない。それと同じように、肉体は物質分子の流れの一つの「呼称」にすぎないのであって、「肉体」という実体はない。すなわち「肉体はナイ」のである。
 

 谷口 雅宣

【参考文献】
○ディーパック・チョプラ著/上野圭一監訳、秘田凉子訳『クォンタム・ヒーリング--心身医学の最前線を探る』(春秋社、1990年)

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2007年11月 3日

都の環境税構想を歓迎する

 東京都が環境税の導入を検討するそうだ。11月2日の『日本経済新聞』が伝えている。私は、化石燃料の利用で生じる温室効果ガスが、地球環境に対して現実に「コスト」を生んでいるのだから、そのコストを利用者が支払う制度の導入はきわめて合理的だと思い、大いに歓迎する。石原都知事は東京五輪をブチ上げるなど「環境より経済優先」だと思っていたが、この点においては見直すべきかもしれない。ただし、五輪の東京開催があれば、環境税の効果が消えてしまう可能性はあるのである。

 『日経』の記事によると、都の環境税構想は、①炭素税、②電気・ガス税、③自動車税、④緑化税、の4段構えである。「炭素税」は、ガソリン1リットルにつき1.9円、軽油は同2.2円、灯油は同2.1円で、それぞれガソリンスタンドなどでの販売時に徴収される。「電気・ガス税」は、一定使用量以上の家庭から、1kWh当たり0.3円を徴収。「自動車税」は、自家用乗用車では現行の税額を5%増して徴収。「緑化税」は、個人の都民税として均等割になっている現行の1000円を1500円にし、法人都民税は5%増しにするという案である。これによって都は、上限で「890億円」の新たな税収を見込んでおり、これを一般家庭の省エネ補助、太陽エネルギー普及、緑化促進などに使う考えのようだ。ただし、4種の新税をすべて実施するのではなく、4案から「単独または複数案を組み合わせて2009年度以降の導入を目指す」としている。
 
 政府の環境税構想は産業界の強い反対に合って頓挫状態であるから、業界に弱い自民党政権下では実施は無理、と私は思っていた。が、国がやらなくても、地方公共団体レベルで実施が可能であれば、まだ希望がもてるかもしれない。上記のような分かりやすい税であれば、多くの都民も納得してくれると思うのだ。大体、都内のCO2排出量は、京都議定書の基準年である1990年と比較して、2005年で約7%増加している。これに対して、都は2020年までに2000年比で25%削減を目標としているらしいから、生ぬるい対策では目標達成はできまい。都は、今後予想される業界からの反対に負けないよう初心を貫いてほしいと思う。

 ところで同じ『日経』は、国民の環境意識の高まりが「じわりと増えている」例として、「カーボンオフセット」の仕組みが好評だとの記事を載せている。それによると例えば、JTB関東が10月に実施した「CO2ゼロ旅行」では、旅行代金1000円のうち400円を“グリーン電力”として支払うと銘打ったところ、募集人数の8割が参加するヒットとなったため、同社は今後も同様の企画を継続する考えという。また、環境志向の月刊誌『ソトコト』は9月に、年間購読料のうち約1000円をCO2排出削減事業などに寄付するとした新制度を導入したところ、9月の新規申し込みが前月の約1.5倍になったらしい。また、日本郵政は来年用の年賀状に、5円の寄付金を上乗せした「カーボンオフセット年賀」というのを新たに設け、1億枚を用意しているという。
 
 このような国民レベルの動きを見ていると、政府や業界レベルの環境意識の低さが際立ってくる。日本の電力10社の今年9月中間期の連結決算が出そろったが(1日『日経』)、それを見ると中部電力を除く9社が経常減益となっていて、原油価格の高騰や渇水による水力発電所の稼働率低下などが利益を圧迫したことがうかがえる。つまり、環境へのコストが現実に企業の収益を圧迫しているのだ。また、東京電力は、柏崎刈羽原子力発電所の停止が大きく作用し、来年3月期の決算で、28年ぶりに最終赤字を計上する予想だという。原油価格の高騰は、中東の政情不安の影響が大きく、今後の急速な改善は見込めない。かと言って、国民の支持が少ない原発への依存は、ますます困難となるだろう。だから、「環境税」の実施を突破口として、日本ではもっと国民の意識を汲み上げた政治が行われ、地球的要請に応える業界再編へと進まないか、と私は夢想するのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年11月 2日

キノコ採りしませんか (3)

 10月31日の本欄を読んだ読者から、「キノコを採りたくても、近くに生えてないから……」という不満気な声が聞こえてきたので、ここで“裏ワザ”を公開する。それは「自分で栽培してしまう」のである。風通しのいい日陰があれば、シイタケはほぼ間違いなく栽培できる。だから、都会でもキノコ採りは楽しめる。JマートなどのDIY店で売っているホダ木を買ってきて、風通しいい日陰に立てかけておく。乾燥しすぎないように注意する。朝夕の寒暖の差が大きくなる春と秋の2回、シイタケは出てくる。自然に出るのを待つ方法と、ホダ木に刺激を与えて驚かせ、“芽”を出す方法がある。
 
 好きな時期にまとめて食べたいときは、“刺激法”がいい。わが家ではこのあいだ、刺激法で出したシイタケをおいしくいただいた。“芽”が出てから傘が成長する様子を動画にしたので、興味のある人はご覧あれ。

 谷口 雅宣

 

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