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2007年11月15日

人間と動物との共存 (2)

 11日の本欄で積み残した問題の1つは、こうだった--「家畜の肉を食すことと、野生の動物の肉を食すことを同等に扱っていいか?」
 
【肯定論】
 1匹の動物は、それが家畜であろうと野生であろうと独立した「生命」であることに変わりはない。したがって、肉の量や利用価値に差はあっても、1頭のウシを殺してその肉を食べることと、1頭の野生のシカを殺してその肉を食べることの間には、本質的な違いはない。もしウシの飼育と利用が環境問題を深刻化するのであれば、その恐れが少ない野生のシカを捕獲し利用することの方が、経済合理性にも合致し、環境倫理にもかなっている。
 
【否定論】
 1頭の家畜には、それが家畜とされてきただけの特殊性と利用価値がある。ウシは、永い年月をかけて人類が“改良”を重ねてきたことにより、乳や子牛の肉をはじめ、体のほとんどの部位を人間が利用できるようになっている。それに比べ野生のシカは、たとえ人間にロマンチックな感情を抱かせるとしても、1頭当たりの人間に対する利用価値は、ウシより少ない。したがって、野生のシカの頭数は、ウシの頭数が増える方向に決定すべきである。北海道の場合、野生のシカの捕獲や利用は、環境保全の意味では有効であっても、ウシの飼育数の減少につながる可能性があれば、好ましくない。

 上記の2論以外にも、肯定・否定の議論はあるだろう。例えば、人間にとっての利用価値を判断の基準に用いることは、生命の軽重を人間本位に判断する人間至上主義であるから間違いだ、とする宗教的な生命平等主義を唱えることもできる。しかし、この場合は、人間の自然界への関与自体を否定することになるだろうから、野生動物はシカだけでなくクマやサルの捕獲も許されないことになる。解決策としては「人間撤退」の方向へ進んでいくだろう。そうなると、長期的にはともかく、今目の前にある問題に対して打つ手は何もない。
 
 また、「人工(ウシ)には手をつけてもいいが、自然(野生のシカ)は尊重すべき」という考え方に基づいて論を立てることもできる。これは、「人工(ウシ)の方が自然(野生のシカ)よりも価値がある」とする上記の否定論と真っ向から対立するから、結果的には「人間撤退」の方向に近づいていくだろう。
 
 ここで読者に気づいてほしいのは、これらの議論の底流には「感情」や「文化」の問題が潜んでいるということである。これまで永い間、人類が家畜とともに生きてきたということは、人類が家畜の利用価値を“創造”してきたと考えることができる。この過程で、家畜の側が人類に適応してきただけでなく、人類の側でも家畜に適応してきた。つまり、家畜をめぐるさまざまな感情的問題を宗教や儀礼を考案することで解決あるいは緩和し、その解決策は、すでに現在の我々の文化の一部を構成しているのである。だから、上記の「否定論」は大変強力であり、たとえ「肯定論」が正しかったとしても、人類の心から否定論を払拭することは簡単にはできないだろう。

 15日付の『ヘラルド朝日』紙に、鳥とネコをめぐる興味深い訴訟のことが書かれている。ネコは、家畜よりもさらに人間に近い「愛玩動物」であるから、野鳥との価値を比較されれば、多くの人がネコを選ぶだろう。それは基本的に個人の感情の問題だが、法律でそれを定めてしまうと、人々の間に議論が起こるのはやむを得ない。ネコと鳥の選択は、論理的には説明が難しいからである。
 
 この記事によると、米テキサス州では今、野鳥の保護のためにネコを銃で撃ち殺した人が裁判にかけられている。この人は、ガルヴェストン鳥類協会(Galveston Ornithological Society)を創設したジェームズ・スティーブンソン氏(James Stevenson、54歳)で、ヒューストン市の南東沖約100キロに浮かぶガルヴェストン島に住んでいる。スティーブンソン氏はこの島に住みながら毎年、約50万人もの人を宿泊させて、バードウォッチングの指導をしているらしい。同氏は昨年11月のある日、絶滅危惧種の鳥、海鳴きチドリ(piping plover)を捕らえようとしたネコ1匹を、22口径のライフル銃で撃ち殺した。裁判の直接の容疑はこの1件だが、同氏はこのネコのほか、自分の敷地内に侵入するネコを何匹も殺したことを認めているそうだ。テキサス州の法律によると、飼いネコを残酷な方法で殺した場合、最高で2年の刑と1万ドルの罰金が科せられるという。
 
 問題は、このネコが“飼いネコ”であるかどうかだが、検察側は、ネコは有料道路の橋の下に棲んでいるとはいえ、料金所で働く人に「ママキャット」と名づけられ、エサや寝床や玩具を与えられているから「飼いネコ」だと主張している。これに対して弁護側は、スティーブンソン氏は絶滅危惧種の野鳥を守るために野生動物を殺したのだから、無罪だと主張しているらしい。アメリカの裁判は陪審員制度だから、12人の陪審員がこの件を判断するという。読者がそのうちの1人だったら、スティーブンソン氏を「有罪」とするだろうか、それとも「無罪」とするだろうか?
 
 谷口 雅宣

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コメント

私はどちらに致しましても、人間のエゴだと思いますが「テキサス州の法律の是非」は兎も角、「残酷な方法で殺した場合は有罪」となっている訳ですから「悪法も法なり」の観点から「有罪」と致します。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年11月16日 21:58

尾窪さん、

 「悪法も法なり」というのは、1つの考え方ですね。
しかし、そうであっても「残酷な方法」であるかどうかの判断はしなければなりませんよ。「ライフルで撃ち殺す」のが残酷か否かは、主観も入ってきます。

投稿: 谷口 | 2007年11月17日 15:43

もちろん主観ですが「残酷か否か?」の判断において、一瞬で耐え切れない苦しみを与え続けるよりは良いのかも知れません、しかし見た目にはフランスのギロチンもそうですが私には残酷に感じられます、ライフルではなく麻酔銃でも有効なのではないか?と思いますが、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年11月17日 17:40

このテキサス州の人々の考え方そのものがおかしい。こんなことが裁判になること自体がおかしいと思います。現代人環境問題に関して、最も重要な観点を忘れています。まさに、平和ボケといっても良いと思います。
最近のマスコミにしても、環境映画にしても肝心要の視点を失っています。それは、自然とはそのままでは、脅威だということです。ここに書いていると長くなってしまいますので、是非私のブログをご覧なってください。

投稿: yutarlson | 2007年11月20日 16:42

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