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2007年11月 5日

肉体は“炎”である (2)

 前回の本欄では、「川」と「肉体」のアナロジーを使って、「肉体はナイ」という考え方の説明をしたが、肉体の「炎」としての側面については十分触れなかったので、ここでそれを述べよう。肉体の生理機能の一つである「呼吸」や「消化・吸収」について考えるとき、「炎」の比喩はより説得力を増すだろう。呼吸とは、「生物体が、酸素をとって細胞内で有機物を酸化し、炭酸ガスを体内に吐き出す働き」(『新潮国語辞典』)である。人間が属する哺乳動物では、この呼吸によって体温を一定に保っている。ということは、人間の肉体は外界から酸素を吸って体内で燃やしているのだから、その点がローソクの炎と似ている。が、ローソクの炎は「軸」の可燃成分を吸い上げて燃やす(酸化する)だけのことしかしないのに比べ、人間は体外から酸素を得て燃やした後に、そのエネルギーを使って大変多くのことを行う点が違っている。それら多くの仕事の中の1つは、内臓に溜められた食物や水分から栄養素を取り出し、さらにそれらの栄養素を分子のレベルにまで細分化して、全身の細胞の中へ送り込むことだ。これを「消化・吸収」と呼ぶことは、読者もご存じのとおりである。
 
 この「消化・吸収」の過程は、実に神秘的だ。私たちは普通、胃袋は胃酸を出して食物の一部を消化・吸収し、大腸・小腸は膵液、腸液などを分泌して消化・吸収を継続する、と考える。その際、胃や腸などの消化器官そのものには変化が起こらないと思うだろう。つまり、胃や腸などの消化器官は一種の“袋”であり、消化された食物はその“袋”の内側に開いた微細な“穴”から吸収されて、どこか別の所へ運ばれていき、袋そのものにはすぐには影響しない、と思わないだろうか? が、実際は、この吸収の過程は私たちの想像以上に高速で、物質分子が入れ替わる程度は驚くほど徹底しているらしいのである。
 
 分子生物学者の福岡伸一氏が書いた『生物と無生物のあいだ』(講談社刊)がベストセラーになっているが、この中にルドルフ・シェーンハイマー(Rudolf Schoenheimer)というユダヤ系アメリカ人の医学者が1930年代後半に行った実験が、「生命観を転換する」画期的なものとして紹介されている。それによると、シェーンハイマーは、外から食事として入ってきた物質分子がどれほどの速度で体内の分子と置き換わるかを、ネズミを使って調べようとした。そのため、タンパク質を構成するアミノ酸に含まれる窒素原子を、重窒素に置き換えた餌をネズミに与えた。この「重窒素」というのは窒素の同位体(アイソトープ)で、それを含む餌(タンパク質)は外部から計器によって特定することができるという。つまり、重窒素を含む餌をネズミに与えた後、ネズミを解剖して体の各所を計器によって調べると、どこの部位に餌の成分がゆきわたっているかが測定できるのである。その実験の結果を、福岡氏は次のように書いている:
 
「重窒素で標識されたアミノ酸は3日間与えられた。この間、尿中に排泄されたのは投与量の27.4%、約3分の1弱だった。糞中に排泄されたのはわずかに2.2%だから、ほとんどのアミノ酸はネズミの体内のどこかにとどまったことになる。では、残りの重窒素は一体どこへ行ったのか。答えはタンパク質だった。与えられた重窒素のうちなんと半分以上の56.5%が、身体を構成するタンパク質の中に取り込まれていた。しかも、その取り込み場所を探ると、身体のありとあらゆる部位に分散されていたのである。特に、取り込み率が高いのは腸壁、腎臓、脾臓、肝臓などの臓器、血清(血液中のタンパク質)であった」。(上掲書、p.158)
 
 そして、これらの実験結果を総合して、福岡氏は次のように述べる:
 
「肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感がまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい“淀み”でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が“生きている”ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる」。(同書、p.163)

 ここまで読んできた読者には、「肉体」と「炎」との類似性はもう明らかであるに違いない。「炎」というものが、高速で酸化しつつある可燃性物質の通過する痕跡の一部であるのと同じように、私たちの「肉体」は、高速で生化学反応をする物質分子が通過する痕跡の一部である。「川」という名前の実体は存在せず、そこには水の分子の流れがあるだけだと前回書いたが、これと同じように、「肉体」という実体は存在せず、そこには物質分子の流れがあるのみである。だから、「肉体はナイ」のである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)

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コメント

合掌ありがとうございます。

「肉体」と「炎」がどちらもナイもので、
そこに流れだけがあるということがよく分かりました。
私たちは常に燃えているのですね!

P.S.
私も最近『生物と無生物のあいだ』を読み、
人間の内なる自然の神秘、その精緻さに感動いたしました。

「日々の祈り」の中の「肉体の我から真我へと飛躍する祈り」を拝読させていただくと、
なぜ肉体がこれほどまでに精緻な仕組みなのかがよく分かり、さらにまた感動いたしました。

ありがとうございます。

投稿: 古谷伸 | 2007年11月 6日 02:38

色即是空の説明にここまでやらなければならないのですねえ!これは大変な事です、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年11月 6日 15:22

肉体という実体があるのではなく「物質分子の流れがある」のみである。『日々の祈り』の中にも、肉体を構成している原子は1年で98%が入れ替わるというところがございましたし、その論拠となる文献も分かり、さらに理解を深めることができました。

さらに理解を深めたいと思っております。お教え頂ければ、幸いです。

基本的なことで、とても恥ずかしいのですが、流れている「物質分子」はアルと考えるのでしょうか?それとも流れている「物質分子」はナイと考えるのでしょうか?(分子は原子に分解でき、原子核と電子から成り立っており、素粒子となり、エネルギーともなりということは理解しています。そのエネルギーはアルのでしょうか?)

それとも今回のロウソクの火の説明では、そこまでは考えなくても(物質分子をあると仮定している人にも)、「肉体はナイ」という結論を説明することができるということで、「肉体はナイ」を説明しやすくしていると考えたらよいのでしょうか?

投稿: 齊藤義宗 | 2007年11月 6日 15:51

斎藤さん、

 私は後者の方を意図しましたが、前者のような解釈でも、大きな問題は起こらないのではないでしょうか?

 私たちは皆、エネルギーの流れである。したがって、すべて(有情非情)は一体である……一体の宇宙の中で流転しながら共存している。「他者」というものは本来存在しない……など、いろいろな説き方ができると思います。相手の心境に応じて使われたら如何でしょう?

投稿: 谷口 | 2007年11月 6日 17:39

「物質分子」「エネルギー」はアルかナイか?私は「物質分子」はナイ、「エネルギー」はアル、只「エネルギー」は何処から来るか?と言う問題、私は今の所、神仏から来ると考えていますが、、畢竟神のみぞ知る?と言う事でしょうか?。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年11月 6日 22:40

今回の「肉体はナイ」の説明は、方向性としては、どこに導こうというものなのでしょうか?

「物質分子やエネルギーはあるのか?」についてですが、これは「存在とは何か?」を考えることと同じだと思いますが。人間は、この世では(ナイはずの)肉体をもって、日常生活を営んでいます。この世では事実です。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年11月 7日 13:39

早勢さん、

>>今回の「肉体はナイ」の説明は、方向性としては、どこに導こうというものなのでしょうか?<<

 この質問への答えは、私の斎藤さんへの回答の中にすでに含まれています。それに「どこに導くか」の問題は、私の話を読む人の解釈によりけりです。「行くな」と言っても、「そうとしか解釈できない」と言う人に対して、言葉は無力です。

投稿: 谷口 | 2007年11月 7日 15:23

早勢さんの「ナイはずの肉体をもって、日常生活を営んでいます、この世では事実です」、、、これは実相ではナイ肉体は現象ではアルと言う事だと思いますが、そこでそれを認識しましたならば人間は何を考え、日常生活をどう生きていったら良いのか?と言う事になります、釈尊は「何物かを我が物であると執着し、動揺している人々を見よ!恰も干からびて水の少ない川の中で喘ぐ魚の様ではないか!これを見て全ての執着を離れよ!」と言われています、自分の体でさえ自分の物ではない(ナイ)のを認識して、今ここに生ある事を感謝し、何物にも執着する事なく「われ、常にここにおいて切なり」の明るく前向きで自然体の生き方を望まれているのではないか!人それぞれではありますが私は思います。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年11月 7日 18:48

うまく伝わりにくいと思うのですが、
「肉体はナイ」を説明して、その先は、どうなるのですかということです。
または、「肉体の精巧な仕組み」を説明して、その先は、どうなるのですかということです。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年11月 7日 19:12

早勢さん、

>>「肉体はナイ」を説明して、その先は、どうなるのですかということです。<<

 それは、あなた自身が決めることです。私は、説明によって理解が進めばいい、とだけ思っています。

投稿: 谷口 | 2007年11月 8日 13:11

早勢さんへ
1、「肉体はナイ」を説明して、その先はどうなるのですか?2、「肉体の精巧な仕組みを説明してその先はどうなるのですか?」について1、は私の考えを言いました、早勢さんはどう思われていますか?
2、について私は神仏の偉大さに畏怖の念を抱き神仏の智慧と慈悲を感じ、生きさせて頂いている事に感謝し、日々有り難く生活させて頂いており、「われ、常にここにおいて切なり!南無」ですが早勢さんはどうなのですか?早勢さんの考え意見を出来ましたならばお聞かせ下さい。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年11月 8日 14:13

先生、ありがとうございます。
返信が遅くなってしまい、申し訳ございません。

先生のおっしゃるとおり、前者でもたいした問題にならなそうです。相手の心境に応じて、理解を深めていただけいるように、様々な角度から説明していけるようになりたいと思います。

投稿: 齊藤義宗 | 2007年11月 8日 19:01

>私は、説明によって理解が進めばいい、とだけ思っています。

何を理解すればよいのでしょうか?

>「肉体」という実体は存在せず、そこには物質分子の流れがあるのみである。だから、「肉体はナイ」のである。

これは、物質分子という視点でみると「肉体はナイ」のではなく、「肉体は見えナイ」なのではないでしょうか?

肉体の中で行なわれている現象を見て、「肉体はナイ」というのは、矛盾していませんか。
今回の話は、私にとっては消化不良の源となっています。

尾窪さん、
「肉体はアル」(いずれ捨てていってしまう肉体ですが)でも人間としてどのように生きていくかを考えることはできるし、特別な現象を見なくても、神のすばらしさは分かると思います。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年11月 9日 12:45

早勢さん、

---何を理解すればよいのでしょうか? ---

 「肉体はナイ」という言葉の意味です。

---これは、物質分子という視点でみると「肉体はナイ」のではなく、「肉体は見えナイ」なのではないでしょうか?---

 川は見えるではありませんか? 肉体も見えますよ。
しかし、物質分子は見えません。質問が混乱していませんか?

---肉体の中で行なわれている現象を見て、「肉体はナイ」というのは、矛盾していませんか。---

 「分子が流れている」のは、「肉体の中」だけではありません。あなたが呼吸している今、このときにも、大気中とあなたの肺の中とで分子が流れています。その大気中の分子は、やがてどこかの植物の体内、あるいは動物の体内を通過するかもしれないし、土中にもぐるかもしれません。そういう微細な、目に見えない分子(あるいは原子、素粒子)の流れがアルとの観点に立つと、たちまち「肉体」という目に見える存在がアルのではなく、アラワレテイルだけの仮の存在だということに気がつく人もいれば、あなたのように気がつかない人もいる……そういうことではないでしょうか?


投稿: 谷口 | 2007年11月 9日 13:16

早勢さんの話を聞いていますと「現象」と「実相」が混同して判断に迷いが生じている様に感じられます、肉体即ち物質即ち色(現象)、肉体ナシ即ち物質ナシ即ち空(実相)、ここの基本を見据えてから思考して行けば「肉体の精巧な仕組み」だけが特別な現象ではなく、森羅万象マクロからミクロ(原子、素粒子等)迄全てに於いて「精巧な仕組み」です、私はこの「精巧な仕組み」は神仏から来ていると今の時点では思っていますがそう認識した上でどう生きるか?善因善果、悪因悪果が真理であるとすれば釈尊の言われます「善き事にはますます善き事をせよ!悪しき事に向かいては心を守るべし、善き事をなすに心憂き者は悪の中に心溺るるなり、善き事をなすは幸いなればなり」と言う言葉は早勢さんの「その先どうなるのですか?」のヒントになるとは思うのですが副総裁は「それは早勢さん自身が決める事です」と明言されています。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年11月 9日 18:26

> 川は見えるではありませんか? 肉体も見えますよ。
しかし、物質分子は見えません。質問が混乱していませんか?

質問の主旨とは、違う回答のように思います。
物質分子までモノを拡大していくと、川という姿はナイのではなく、見えなくなるのではないですか。肉体とい姿はナイのではなく、見えなくなるのではないですか。ということです。水の分子構造であるH2Oを見て、日常目にしている水というものを見ることができますか、ということです。

物質分子の流れを見て、肉体ナシという結論に持って行くのは、少し乱暴のように私は思います、肉体を拡大していくと、そこに物質分子の流れというものが見えるということではないでしょうか。
引用された福岡氏の文章では、『私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい“淀み”でしかない。』と書いているのであり、肉体はナイとは書いていないのではないでしょうか。そして、その生命体を維持するために、出て行く分子と外部から与えられる分子の流れが出てくるということではないでしょうか。(出て行く分子と入ってくる分子のどちらが先か後か、又は同時に行なわれるのかは分かりませんが)

※モノを拡大していき、究極のところにある、サムシング・グレートを見出せというのなら、分かるような気がします。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年11月 9日 23:50

尾窪さんへ

言葉足らずよで、私の意図しないお返事をいただいています。どうして、ここに『悪因悪果』とか『悪しき事』という言葉を掲示してきたのですか?
逆質問よろしいですか?
私たちは現象世界に生きています。なぜ肉体が必要(アル)のですか? なぜ現象が必要(アル)のですか?

投稿: 早勢正嗣 | 2007年11月10日 00:14

早勢さん、

 あなたの質問のポイントがよく分りません。が、分かる範囲でお答えします。

---物質分子までモノを拡大していくと、川という姿はナイのではなく、見えなくなるのではないですか。肉体とい姿はナイのではなく、見えなくなるのではないですか。ということです。---

 では、物質分子は「見えるようになる」のですか?
川が「見える」というのは、「川が有る」のですか? それとも(何か別のものが)「川のように見える」のですか? 「姿が見える」というときには、それが「在る」のですか?

---肉体を拡大していくと、そこに物質分子の流れというものが見えるということではないでしょうか。---

 あなたはそのようにして「肉体を拡大」したことがあるのですか? もしないならば、「物質分子が見える」などとどうして言えるのですか?

投稿: 谷口 | 2007年11月10日 12:38

早勢さん返答有難う御座います、「肉体はナイ」「肉体の精巧な仕組み」を説明してその先はどうなるのですか?
と質問をされている様に思うのですが(意図が違っていますか?)、そしてその先は副総裁により「それは早勢さん自身が決める事です」と明言されています、それで私はその先について私の考え方、生き方を述べたのです、自ら悪い原因を撒くと悪い結果となるから良い原因を撒く生き方をする決心をして一瞬一瞬、生有る限り生き抜こう!と言う事を説明したのです、そして早勢さんはその先何を考えどう生き抜こうとされているのか?をお聞きしたのです。
そして逆質問「何故肉体が必要(アル)なのですか?」「何故現象が必要(アル)なのですか?」ですが「何故肉体、現象が必要(アル)なのですか?」と言う事だと思います、現時点で私は「それは神仏に聞いて見なければ分かりません」ですが私は神仏と交信不能です、従いまして
過去又は現在の神仏から啓示を受けた偉人達(例えばヨハネ、ダニエル、エリヤ、エレミヤ、イザヤ、モーゼ、イエス、ムハンマド、釈迦、谷口雅春、中山ミキ、他本物の霊能者達)の教えを聞いて信じるしか凡人の私には解答出来ませんし、事実を有りの儘、静観して教えを信じ生き抜いて行くしか方法を知りません、そこで日々教えに耳を傾けているのです。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年11月10日 22:25

早勢さんへ
前の返答について、、、「肉体はアル」でも人間としてどのように生きていくかを考えることはできるし、特別な現象を見なくても神のすばらしさは分かる」ですが
つまり「肉体はナイ」と言う真理を知らなくても、「肉体の精巧な仕組みを知らなくても」、、と言う事だと思うのですが、、、そうだと致しますと「神の素晴らしさ」はともかく人間としてどのように生きていくかは考えることはできる」、、それはそうです当たり前の事だと思います、ですから私は早勢さん個人の生き方、考え方(副総裁は早勢さん自身が決めることです、と言われていますので)をお聞きしたのです(私は私の考え方、生き方を具体的に話しています、10人10色ですから)。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年11月10日 22:59

> では、物質分子は「見えるようになる」のですか?
> あなたはそのようにして「肉体を拡大」したことがあるのですか? もしないならば、「物質分子が見える」などとどうして言えるのですか?

『見える』という言葉は不適切のようなので、『存在を知ることができる』に変更します。

> 川が「見える」というのは、「川が有る」のですか? それとも(何か別のものが)「川のように見える」のですか? 「姿が見える」というときには、それが「在る」のですか?

肉体の目で見えたモノを、脳は有ると認識するのではないでしょうか。それで不都合があるのでしょうか。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年11月12日 17:40

尾窪さんへ

「肉体はナイ」「肉体の精巧な仕組み」を説明してその先はどうなるのですか?
の件ですが、副総裁が「あなた自身が決めることです。」と言っているので、私は本欄の記事を起因とした場合、何も考えることはありません。むしろ、肉体の中でおこなわれている現象を示して、「肉体はナイ」ということには?マークです。例えば、歯車が時を刻む時計を示して、時計の内部にある歯車だけを抽出して、そこには歯車が動くだけであって、時計はないと言っているように、私は感じました。

そこで、本欄のは全く切り離して、お尋ねの件について、私の考えを書きます。
一応、私は生長の家の教えを知っているつもりなので、肉体も物質も現象も、本来あるものではない。人間はそのものは肉体ではない。そこの部分はわきまえているつもりです。

「何故肉体、現象が必要(アル)なのですか?」について

私という存在を考える時、この肉体(現象)という存在は無視することはできません。この肉体(現象)を無視して自分を認識することはできないし、自分が一体何者であるかを考えることもできません。人間は生まれてきたときは白紙の状態です。何かを体験することによって何かを知ることができます。何を知るかとという目的は神(神の子・人間)であると考えます。
雅春先生は著書を沢山残していますが、『神 真理を告げ給う』の第4章 地上に於ける人間生活の意義(99ページ~)を読んでみると自己研鑽につながると思います。

「肉体はナイ」「肉体の精巧な仕組み」のその先について

色んなことを考えて、文字に書き出すことが億劫です。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年11月12日 18:55

早勢さん、

---肉体を拡大していくと、そこに物質分子の流れというものが見えるということではないでしょうか。---

 貴方の上記の言葉に対して、私は物質分子は「見えない」のだからその「流れ」も見えないことを指摘しました。そうすると貴方は今回、

---『見える』という言葉は不適切のようなので、『存在を知ることができる』に変更しますーーー

 とおっしゃいました。しかし、あなたは見えない物質分子の存在をどうやって「知る」ことができるのですか? 実際に目で見えないし、電子顕微鏡を覗いたのですか? それとも、学校の理科の教科書にそう書いてあるので「知った」のですか?

---肉体の目で見えたモノを、脳は有ると認識するのではないでしょうか。それで不都合があるのでしょうか。---

 「肉体の目で見えたモノ=有る」では、全然不都合です。それでは「三日月」というモノも存在しないといけません。奇術も幻術も「ホンモノ」と認識しなければなりません。映画もテレビドラマも「現実」だと認識することになります。

投稿: 谷口 | 2007年11月12日 23:28

早勢さん「何も考えることはありません」「文字に書き出すことが億劫です」迄お尋ねして申し訳ありませんが出して頂かないと分かりません(泣)、
肉体を時計として例にいたしますと「時計はナイ」「時計の精巧な仕組み」を説明してその先どうなるのですか?の質問に「何も考えることはありません」と言う事になるのですが
私は「井戸を見て井戸を掘った人のことを考えなさい」の意味の考え方を文字に書いたのです、「考えない」も一つの考え方ですからこの件は了解致しました。
「肉体を無視することは出来ません」ですが「ナイ(しかも実相では)と言っているだけで無視しなさい」と誰も言わないと思います、それから「何を知るかの目的は神であると考える」について
目的は達成されたと思うのですがその先はどうするのですか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年11月13日 03:17

早勢さんへ
「私達は現象界に生きています。なぜ肉体が必要(アル)のですか?なぜ現象が必要(アル)のですか?」との早勢さんの逆質問に私の現時点での考えを述べました、早勢さんの考えを聞かせて下さい。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年11月14日 11:13

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