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2007年10月 9日

キンモクセイ、香る

 ようやくキンモクセイが香る時季となった。ここ数日、朝自宅の雨戸を開けると、柑橘類に似た馥郁とした甘い香りが流れてきて、心が躍る。あぁ、いよいよ本格的な秋が来たと感じるのである。昨年は彼岸の中日には咲いていた花だが、温暖化の進行で季節の歩調が狂い、今年は2週間以上も開花が遅れている。しかし、咲いてくれるだけでありがたい気持だ。

 今年、キンモクセイの香りがひと際ありがたい理由が、もう一つある。自宅北側の通用口の脇に植えた1株が育って、今年初めて枝いっぱいの花を咲かせてくれたからだ。「初めて」という言い方は、本当は正確でない。この株を買った3年前には一度咲いたからだ。鉢植えや苗で買った植物は、最初の年は花や実をきちんとつけるものだ。しかし、地植えしてしばらくたつと、その土地のもろもろの条件と折り合いをつけるために植物自身が余分のエネルギーを使うのだろう、花や実がつかなくなったり、ついても貧弱なものになることが多い。そして、移植地の環境に適応したものだけが、そこで立派に成長するのである。
 
 この点、植物は子供の成長と似ている。私は18歳から子供3人を外へ出し、学生時代を1人で過ごさせた。言わば“株分け”をしたのである。その後、就職しても、社会人として安定的な成長が始まるまでは、分かれた“株”はとかくゴタゴタ、ドタバタするものである。長男は、3年ほど勤めた会社を同僚とともにやめて、起業した。二男は、最初の会社に数カ月で見切りをつけ、兄の会社で数年働いたが、今は別の可能性を求めて就職活動中だ。学生だった3番目の長女が、ようやく仕事らしい仕事を得たのが今年の春だ。3人とも、これからいろいろ苦労しながら成長していくだろうが、そういう秋に、一時元気がなかった庭のキンモクセイが花をつけた。これを「幸先良し」と感じるのは、親のひいき目だろうか。

 今朝は、雨上がりの明治通りを妻と一緒に本部事務所まで歩いて行った。途中、日露戦争の英雄、東郷平八郎を祀る東郷神社の境内を通るのだが、そこはキンモクセイの香りでいっぱいだった。この花は橙色をしているが、小さいので目立たない。私が香りの主を探して目をキョロキョロさせていると、妻が目の前の背の高い立木群を指差して、
「あそこに立派なのがあるわ」
 と教えてくれた。
 2階の屋根に達するほどの木が3~4本、豊かな枝を広げて並んでいるのが、緑の塀のようだった。よく見ると、その緑の隙間から、橙色の豆粒のような花がいっぱい顔を出している。それに比べ、わが家の通用口の苗木は、まだ胸のあたりまでしかない。
「うちの木があの大きさになるころは、僕らはもういないね……」
 私はそう妻に言ってから、自分の言葉の意味を改めて考え直した。妻は、「そうね……」と答えたような気がしたが、返事の声は小さくてよく聞き取れなかった。二人は黙ったまま、キンモクセイの前を通り過ぎた。妻と私は昨日(8日)、86歳で他界した親戚の告別式に出席し、棺に色とりどりの花を詰めて帰ってきた。花に埋もれた老人の、眠ったような顔が、私の脳裏に鮮明に残っていた。こんなに多くの花が、一人の人間の葬儀に使われるのだ、と私は改めて感心した。花と人間の深い関係が、そこにもあった。

 樹木の中には、人間よりはるかに永く生きるものがある。キンモクセイがそれに当たるかどうか知らないが、東京のような都会でも、植えた人間がどこかへ移っていった後も、立派に生き続ける木は無数にあるだろう。最初は自分のために植えた木でも、やがて多くの人々のために新緑を輝かし、木陰をつくり、香りを送り、実を落とし、黄葉・紅葉で人の目をなぐさめる。植物のもつ「根を張って動けない」という不自由が、逆に偉大な菩薩行を可能ならしめている。そう考えると、私は樹木の前で手を合わせたくなるのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

「花と人間の関係」
何処かでこう言う言葉を聞いた事があります「人の一生は草のよう、野の花の様に咲く、その上を風が吹けば消え去り、そこに有ったと言う事を知るものもいない」色々な解釈があると思いますが草にも花にも心がある、人間にも自分の心、神仏の心がある、これらは別々ではなく元々同じく平等であると認識しながら手を合わす、そして自然と合一した生き方が出来れば最高かな?残念ですがなかなかこの境地になれません。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年10月10日 13:16

副総裁先生,ありがとうございます。
私の住む地方でもようやくキンモクセイの香が漂うようになりました。
キンモクセイについて私はいつも疑問に思うのですが,あれほどの芳香を放っているのに,いざ近くで香りを楽しもうとすると香らないのです。
「灯台もと暗し」とは意味合いが違いますが,人間もまた同じようなものなのかも知れません。近くにいると分からないその人のやさしさや,人格が放つ「芳香」に,離れていると気付くものなのかも知れません。
また,よい香りだから近くによってもっとよくそれを楽しもうという「欲」を出すと,自然のままの香りが楽しめない。「そのままが大切なのですよ」と教えてくれているような気がします。

投稿: 佐々木勇治 | 2007年10月10日 19:43

合掌ありがとうございます(^人^)

私も今年初めてのキンモクセイの香りに気が付きました(*^o^*)

先生のご文章を読ませて頂き、とても嬉しくなりました(*^^*)

変わらず、香りにて私達を喜ばせてくれるキンモクセイの様に、さりげなく、菩薩の生活を営みたいと思います(*^^*)

ほのぼのと、暖かい気持ちにならせて頂きました(^人^)

ありがとうございます(^人^)

投稿: 龍娘娘 | 2007年10月10日 20:12

佐々木さん、

 「キンモクセイに鼻を近づけても匂わない」という経験をしたことがあります。人間の感覚は、繰り返し刺激すると鈍感になることと関係があるかもしれません。

 「近くにいる人には、その人の良さが分からない」ということも、確かにあると思います。イエスも故郷に帰った時に、「あいつは大工の息子じゃないか!」と言われた、と聖書にはあります。

投稿: 谷口 | 2007年10月10日 22:38

龍娘娘さん、

 メールで本名を教えてくださり、ありがとうございました。事情がわかりましたので、ペンネームでのコメント歓迎します。青年会のお仲間にもよろしくお伝えください。

投稿: 谷口 | 2007年10月11日 15:42

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