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2007年9月24日

トンデモ科学にご用心

 8月末から9月初めにかけて、私は4回にわたり「奇蹟について」と題する文章を本欄に掲載した。ここでは、宗教的な意味での奇蹟を「自然界の法則を超えて、倫理的道徳的秩序を現わすために起る現象」と定義した。そして、この定義を採用すれば、生長の家を含む多くの信仰団体の中で「奇蹟的治癒」とか「奇蹟的救済」などと呼ばれるものの中には、奇蹟でないものも多く見出されるという意味のことを書いた。これはもちろん宗教を否定したり、信仰を嘲笑するためではない。むしろそれは、生長の家が「法則」を重んじるという点を強調するためである。生長の家では(そして、他の多くの信仰でも)、法則は神の創造の1つとして大いに尊重されているのである。

 このことは、聖経『甘露の法雨』冒頭の「神」の項に、「創造の神」の属性として以下のように書かれていることからも明らかだ--
 
 創造の神は
 五感を超越している、
 六感も超越している、
 聖
 至上
 無限
 宇宙を貫く心
 宇宙を貫く生命
 宇宙を貫く法則
 真理
 光明
 知恵
 絶対の愛。
 
 この点は、強調しても強調しすぎることはない。神はもちろん、法則以外にも「聖、至上、無限……知恵、絶対の愛」などの属性をもち給うが、人間が法則を無視することを望んではおられず、神はむしろ法則それ自身であるから、法則に従うことを望まれる。そのことの意味を、谷口雅春先生は『新版 真理』第9巻生活篇の中で、次のように平易に説かれている:
 
「茄子(なす)を播けば茄子が発芽し、瓜を播けば瓜が発芽するのは“法則”によるのであります。“法則”と云うものは“一定の条件に於いては一定の事物が出現する”と云う律でありまして、神が吾々にそれを利用し得るように一定の相(すがた)をもってあらわれられたのが“法則”であります。若し神が変幻自在で、一定の条件に於いて一定の結果を来さないのであるならば、私たちは迚(とて)も生活することは出来ないのです。今日は飯を食べれば、腹がふくれるが、明日は却って腹が減る、明後日はどうなるかわからないのでは御飯一杯食べることも出来ないで生活が成り立たないのであります。また在る人に対しては同じ条件で法則は左と作用し、或る人に対しては右と作用して一定の結果が得られないならば科学は成り立たないのです。だから神のあらわれとしての法則は愛憎なく平等に作用します。」(p.35)

 上の引用文の中に「科学」の2文字があることに読者は気づいてほしい。生長の家は科学を否定しないのである。科学が成り立つことは、神の御心の一部であると考えている。そのことの意味を、私はさらに詳しく「法則としての神の御徳を讃える祈り」の中で解説しているから、読者は参考にしてほしい。

 ところが、信仰に入って間もない人の中には、宗教とは科学や法則を無視した形で何かが起ることだと勘違いし、そうでなければ宗教に値しないと考える人がたまにいる。そして「医者から見離されれば、信仰しかない」などと思ったりする。こういう人に限って、科学や法則を無視した形の奇術的現象(例えば、某似非宗教家が行った空中浮遊など)を宗教の本質だと見誤り、迷信に陥っていく危険性があるのである。
 
 ここで1つ質問しよう。人間が心で想うことと、水の物質的成分に直接的な相関関係があるだろうか? 例えば、蒸留水を前にして人間が「これは甘い」と強く念じれば、その水中に糖分が生じるなどということがあるだろうか? もしあるとすれば、それは科学ではどういう名前の法則として認められているだろうか?
 
 谷口 雅宣

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コメント

直接的な相関関係は無いと思います、又、蒸留水の中に糖分は生じないと思います、「もしあるとすれば科学ではどういう名前の法則か?」これは私クラスでは皆目見当もつきません、、只、イエスが水をぶどう酒に変えたり、モーゼが海を分けたりの記述が事実としたらこれは人間の念力ではなくて預言者を通して本当に神の力が働いたものとしか考えられません。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月25日 11:39

副総裁先生

ありがとうございます。
奇跡といって良いのか、いいえ奇跡としか思えないことがあったので御報告させていただきます。

22日の早朝6時ごろですが、私は北海道へ彼岸の墓参のために羽田へ車で向かっておりました。時間がいっぱいいっぱいでしたので、ベイブリッジにさしかかったところが三車線になっておりますので、そこで追い越し車線に移動して10台ぐらいをゴボウ抜きをしたところ、後ろでサイレンが鳴ったのです。120km は出ていたと思います。

ああ、点数も無くなるが飛行機に間に合わない。
観念しました。
ベイブリッジ上で止まりましたら、ブリッジを外れたところまで誘導されて止まりました。
パトカーの助手席から警官が小走りで私の助手席の処まできて「お忙しいのは判りますが、事故を起こしたら元も子も在りませんよ。今日は警告にしておきます」とのことで許してくれたのです。

40年間車に乗ってきてパトカーのお世話になったことは数え切れないほどありますが、こんなことは始めてです。

これは奇跡でしょうか?

函館に着いてから妻に
「これは御先祖さまのお陰だ」と報告しましたら
「そんなことで御先祖様を使ったら駄目です」と叱られました。

許していただいた瞬間、無意識の内におまわりさんに手を合わせておりました。
勿論、飛行機も間に合いましたし、お墓参りもしてきました。感謝、感謝でした。

投稿: 佐藤克男 | 2007年9月25日 12:32

佐藤さん、

 ご報告、ありがとうございます。
 しかし、その例は宗教的な意味での「奇蹟」ではありませんね。少なくとも、私がここで使っている定義には当てはまりません。それはきっと、警察官の人が貴方を見て、「あぁ、この人なら常習犯ではないなぁ~」と好意を抱いたのではないでしょうか? 物理学や化学の法則に反してもおらず、もしかしたら心の法則に則っているのかもしれません。

投稿: 谷口 | 2007年9月25日 14:10

副総裁先生

ありがとうございます。

《もしかしたら心の法則に則っているのかもしれません。

妻に報告させていただきます。
奇跡よりこちらの方が嬉しいです。

投稿: 佐藤克男 | 2007年9月25日 16:12

佐藤さんへ
あなたの嬉しい気持ち、感謝感謝、おまわりさんに手を合わす気持ちは手に取る様に分かりますし、「良かったですね」、と素直に思いますが気になるのは「パトカーのお世話になった事は数え切れないほどあります」と言う事、おまわりさんの思いやりのある優しい、しかし警告の言葉に対して反省悔悟の姿勢がコメントから全く感じられない、自分が良かったから良い結果(心の法則)が出たのだ、と思われている様に感じます、善行あるのは寧ろおまわりさんの方であってあなたではない様に思いますが、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月26日 11:41

尾窪勝磨 様

アドバイスありがとうございます。
尾窪様が仰られるように反省が欠けておりました。
パトカーはその後ワザワザ本線ではなく大黒町パーキングに入っていきましたので
「これはシメシメ急いでも良いから気をつけて行きなさい」との配慮と理解して100km(制限速度は60km)程のスピードでバックミラーを注意しながら飛ばしておりました。

尾窪様には全て看通されて恥ずかしい限りです。

ただ、副総裁先生は多分このことは全て知っておられながら
善きことのみに焦点を合わせていただいたのだと改めて恐れ入りました。

投稿: 佐藤克男 | 2007年9月27日 09:21

有難う御座います、
確かに谷口副総裁の配慮だと思います、「人の目の中のゴミはよく見える自分の目の中の石ころはよく見えない」と言いますから私も人の批判や意見は常に真摯に受け止める様心掛けてはいますがまだまだ浅いものです。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月28日 01:14

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