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2007年9月30日

山梨県立文学館にて

 甲府市で行われた生長の家講習会が終わってから、同市にある山梨県立文学館で「宮沢賢治 若き日の手紙--保阪嘉内宛73通--」という展示を見た。私は、宮沢賢治にも保阪嘉内にも詳しくないが、主として前者への興味からこの企画展に足を運んだ。宮沢賢治も保阪嘉内も明治29(1896)年の生まれで、前者は昭和8(1933)年、後者は同12(1937)年に他界している。2人は20歳から盛岡高等農林学校で共に学ぶようになり、翌年に同人文芸誌『アザリア』を発刊し、25歳までは頻繁に手紙を交換し合う親友だった。が、賢治の国柱会入会を境にして音信が途絶え、大正14年(29歳)に賢治から出した手紙を最後に交流は終った、というのが定説らしい。

 宮沢賢治は、大正13(1924)年に詩集『春と修羅』第1集と『注文の多い料理店』を刊行している。また、月刊雑誌『月曜』(大正15年1月刊)の創刊号に「オツベルと象」、2月号に「ざしき童子のはなし」、3月号に「寓話 猫の事務所」を発表した。しかし「セロひきのゴーシュ」「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」などの多くの作品は、没後の発表である。
 
 保阪嘉内は、22歳で盛岡高農を除名処分された後、上京。23歳で1年志願兵として入営。満期除隊後は甲府にもどり、山梨教育会書記、電気会社勤務をへて、28歳で山梨日日新聞に入社し文芸部記者となる。翌年、結婚して同社をやめ35歳まで農業を営む。その間、藤井青年訓練所を開き、禊教の講師となり、村会議員に選ばれたり、陸軍中尉に任官する。35歳で東京・久留米村に転居し、日本青年協会武蔵野道場主任、武蔵女学院講師となる。

 今年7月21日付の『盛岡タイムス』に載った岡澤敏男氏の記事によると、「嘉内はキリスト教に通じる宗教的情感を土台に民衆の救済を説くトルストイアンだった」のに対し、「賢治は仏教を土台に衆生と無上道をめざそうとしていた」らしい。しかし、賢治の国柱会入会ごろから関係が徐々に悪化し、「賢治は嘉内を道連れにしようと日蓮宗に帰正を迫り、手紙は日増しに激しく“日蓮大聖人門下になってくれ”としつこく勧誘し」たという。こういう信仰上、思想上の対立で2人は袂を分ったらしい。
 
 今回の展示で私の目を惹いたのは、22歳のときに賢治が嘉内宛に出した手紙である。そこには「人間が生物を食する」ことについての若い賢治の純粋な煩悶の軌跡があった。5月19日付のその書簡には、こうある:
 
「私は春から生物のからだを食ふのをやめました。けれども先日『社会』と『連絡』を『とる』おまじなゑにまぐろのさしみを数切たべました。……食されるさかながもし私のうしろに居て見てゐたら何と思ふでせうか。『この人は私の唯一の命をすてたそのからだをまづさうに食つてゐる。』『怒りながら食つてゐる。』『やけくそで食つてゐる。』『私のことを考へてしづかにそのあぶらを舌に味ひながらさかなよおまへもいつか私のつれとなつて一緒に行かふと祈つてゐる。』『何だ、おらのからだを食つてゐる。』まあさかなによつて色々に考へるでせう。……(中略)……私は前にさかなだつたことがあつて食はれたにちがひありません。」
 
「又、屠殺場の紅く染まつた床の上を豚がひきずられて全身あかく血がつきました。●倒した豚の瞳にこの血がパッとあかくはなやかにうつるのでせう。忽然として死がいたり、豚は暗い、しびれのくる様な軽さを感じやがてあらたなるかなしいけだものの生を得ました。これらを食べる人とても何とて幸福でありませうや。」

 これらの文章の背後には、仏教の輪廻転生の思想があることは明らかだ。宮沢文学の背後に流れる「人間と動物との一体感」の源が、ここにあると感じた。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月29日

食品表示の“怪”

 食品に関する表示というのは、何が本当で何がウソなのかよく分からないところがある。日本の食糧自給率がきわめて低いことは、新聞やテレビ等の報道で繰り返し言われている。だからダイズ、トウモロコシ、小麦などは日本で売られているものの大半は輸入品である。ということは、それらを原料として作られる醤油も味噌も、シリアルも、パンも、饂飩も、スパゲッティーも、輸入によって支えられている。そして、輸入品の大半はアメリカから来ていて、アメリカではダイズやトウモロコシの大半は遺伝子組み換えである。ところが、これらを原料とした食品で日本のスーパーなどで売られているものを見ると、ほとんどの食品は「国産大豆使用」とか「国産小麦使用」とか「遺伝子組み換えでない」と表示されている。その圧倒的量からすると、どうしてもどこかにウソが隠されていると考えざるを得ないのである。
 
 これは悪い例だが、いい例も指摘しておこう。日本で都会を離れた観光地へ行こうとすると、野菜や果物が豊富に育っている畑や果樹園を通り抜ける。そして、そういう土地の「物産店」へ入ると、当然のことながら農産物の加工食品がたくさん売られている。ブルーベリー、プラム、イチジク、ウメ、アンズ、山菜、キノコ、ニンニク……。これこそ本物の「産地直売」「地産地消」だと普通は思う。それにパッケージには、いかにもその土地の産物であるかのような印刷がしてある。ところが、その裏側に貼った原産地表示のラベルを見ると、アメリカ、トルコ、中国、フィリピン……などの外国名が印刷されているのである。これは一応、ウソはついていないから“正直”の部類に入るのだろう。が、複雑な心境になる……日本の農業はそれほど衰退しているのか、と。

 この種の「看板に偽りあり」の問題としては最近、中国が槍玉に上がっている。アメリカの企業が中国で製造して輸入したものの中に、品質管理がズサンなものが次々と見つかっているからだ。単にズサンなだけでなく、コストを下げるために意図的に有害物質の残る製造法を採用していた例もあったようだ。そんな場合、「だから中国はダメだ」という話になりがちだ。しかしこれは中国だけの問題ではなく、輸入する側の“コスト削減”の要請にも問題があることを忘れてはいけない。“コスト削減”の裏側には、もちろん“利潤追求”の意図がある。

 中国との関係で原産地表示の不思議なものは、いくつもある。その1つはウナギだ。つい最近まで、スーパーやデパートで売られる安価なウナギのほとんどには「中国産」と表示してあった。ところが、中国産の食品の問題が指摘されるようになってから突然、日本中の食料品店から中国産のウナギが消えた、との印象を読者はおもちでないだろうか? 「消えた」という表現が大げさならば、「中国産」という表示がほとんどなくなってしまったと言っていい。にもかかわらず、ウナギは売られ続けていて、値段もさほど上がっていない。需要と供給との関係を考えればあり得ないことだが、現実にはある。
 
 その疑問を一部解消してくれる事件があった。宮崎県のウナギ業者の産地偽装である。29日の『産経新聞』によると、宮崎市のH商店は昨年の11月から今年7月にかけて、台湾から輸入したウナギの成魚約500トンのうち400トンを国産と偽装し、また同市のI社はその1年前から今年7月にかけて台湾や中国から輸入したウナギ約1280トンのうち900トン余を「宮崎県産」と偽って販売していたそうだ。さらにこの記事は、こういう例は“氷山の一角”だと言わんばかりに、次のように書いている:
 
「業界では外国産を国産にして輸入する“里帰り偽装”のほか、中国で養殖・加工された冷凍かば焼きの完成品を国産商品の大箱に詰め替えた“リパック”などの不正のうわさや指摘が相次いでいる」

「相次いでいる」のに、当局は取締りにはあまり熱心でないようだ。今回の事件でも、宮崎県は28日、H商店とI社に対して「厳重注意の行政指導を行った」とあるだけである。国産品として高く売れた場合、中国産の評判が落ちることで日本の輸入・販売業者が原産地偽装をすれば儲かるという奇妙な関係になる。そういう意図をもった日本の業者こそ、本当は責められるべきではないだろうか?

 谷口 雅宣
 

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2007年9月28日

温暖化対策の行方は?

 アメリカが地球温暖化の抑制にようやく重い腰を上げようとしているようだ。ワシントンで行われているアメリカ政府主催のエネルギー安全保障と気候変動に関する主要国会合にブッシュ政権の主要閣僚が出席し、例えばライス国務長官は「国連の枠組みの下で温暖化ガスを削減する対応をとる」などと言明したという。28日付の『日本経済新聞』夕刊が伝えている。2012年で期限切れとなる京都議定書の後に来るべき全世界的な制度的枠組みをつくるに際し、主導権を握ろうとする意思の表れだろう。世界第1位の温暖化ガス排出国としては当然のことだが、ぜひ実効性のある制度をつくってほしいし、京都議定書のように中途で対策を投げ出さないことを望む。

 ところで、26日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が、ノーベル賞受賞者(経済学)、ジョセフ・スティグリッツ博士(Joseph Stiglitz)と読者との間のブログ上の意見交換を掲載していたので、興味深く読んだ。
 
 地球温暖化対策では、経済成長の著しい発展途上国からの温暖化ガスの排出に規制を加えることが問題視されることが多い。つまり、今日の温暖化の主原因は先進国が温室効果ガスを排出したからであるが、それなのに、これから先進国に追いつこうとしている国に排出削減義務を負わせるのは不公平だし不合理だという議論がよく出てくる。これに対し、スティグリッツ博士は、途上国はエネルギー効率を向上させることで、経済成長と温暖化ガスの排出削減の双方を達成することができる、と明確に答えている。

 しかしそのためには、多くの途上国が実施している石油への多額の補助金を撤廃するなどして、市場の歪みを是正しなければならないという。が、これは言うほど簡単ではない。現在、政情不安となっているミャンマーを初めとした東南アジア諸国では、この補助金があるためにガソリンなどの燃料費が安くなっている。撤廃すれば値上がりは必至で、政情不安に油を注ぎかねない。そこでスティグリッツ博士は、安価なエネルギー源として石炭の利用を勧めているようだ。が、石炭を燃やせば当然、CO2が出る。そこで各国は「重要な選択」をすべきだ、と博士は言う。CO2の排出削減に使う金は、教育費や医療費、水道事業にも回せるし、あるいはより速い経済成長のためにも使える。この余分なコストを先進国が支払うべきだ、と博士は言うのである。その支払いを排出権を買うことで行うのも1つの方法だが、その場合は、排出権取引制度を現行のレベルから飛躍的に拡大しなければならないという。

 スティグリッツ博士によると、温暖化抑制のための重要な方策の1つは、森林の消滅を防ぐことである。そのためには、森林はそれを維持しているだけで「CO2の吸収」という貴重なサービスをしているのだから、それに見合う対価を途上国に支払うべきだという。そうすれば、世界の木材貿易にも新しいパターンが生まれるとしている。
 
 環境保全と経済の持続的成長の問題では、博士は両者の共存があり得るだけでなく、環境保全により経済成長を促進させることさえできるという。ただし、そのためには各国の経済政策と人々のライフスタイルを大きく変える必要がある。博士は、現在の世界経済は、各国政府の補助金などによって市場が大きく歪んでいると指摘し、例えばアメリカが石油企業に与えている補助金を引き合いに出して、これらを撤廃すべきという。そして、消費者の行動による本当のコスト(温暖化を含む)を商品やサービスに反映させるために、炭素税などによって環境費を支払わせる必要があるとする。さらに博士は、各国政府は、社会の構造を持続的成長に相応しい形に変化させるような施策をとるべきという。例えば、公共交通機関の整備に力を入れたり、人々が大都市の郊外へあまり移動しなくなるだけでなく、もっと環境に配慮した消費行動を促進するような政策を考えるべきだとしている。
 
 実現にはいろいろな困難が予想されるが、なかなか包括的な提案であり、「自然資本へのコストを商品やサービスに反映すべし」という私のかねてからの主張とも整合している。先進国に住む消費者の1人としては、この方向にむかってライフスタイルを変える努力をすべきだろう。

 谷口 雅宣

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2007年9月26日

函館港散策

 9月8日に生長の家講習会のために函館市へ行ったとき、港周辺を散策した。その際に撮影した映像を短いビデオにまとめたので、興味のある読者はご覧あれ。本当は駅の近くの「朝市」を撮影したかったのだが、夕方に朝市へ行ってもほとんどの店は閉まっていた。そこで翌朝の撮影も考えたのだが、日曜日は市は休みということだった。おかげで何か寂しげな風景ばかりが映っているが、この町は、平日はもっと活気が溢れているのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月25日

トンデモ科学にご用心 (2)

 前回の本欄で、私はあまりにも簡単な質問を発してしまっただろうか。さっそく、読者の1人が正解を与えてくださった。人間が心で想うことと、水の物質的成分に直接的な相関関係は「ない」というのが正解である。蒸留水を前にして人間が「これは甘い」と強く念じたところで、その水中に糖分が生じるなどということは「ない」と答えるのが、我々のような一般的な教育を受けた現代人の正解である。これはまた“常識”とも言えるが、その一方で、きちんとした科学的理論と実験との積み重ねによって得られた人類の知識の成果でもある。しかしもし、肩まで髪とヒゲを伸ばし、いかにも“宗教家然”とした風体の男が、鋭い眼光を向けて大音声とでこう言ったとする--

「人間は神の子であって、無限力である。神に不可能がないのと同じように、人間にも不可能はない。たとい蒸留水であっても、人間が信念をもって強く“甘い、甘い”と念じれば、その蒸留水は甘くなるのである!」

 読者は、この男の言葉を信じるだろうか? 言葉の前半は信じるが、後半は信じないだろうか? 前半を信じるなら、後半も信じるべきだろうか? もしそう感じるなら、それはなぜだろう? この言葉をもし、小学校5年の息子の友人が言ったとしたら、どうだろう? 生長の家の地方講師が言ったなら、どうだろう?……
 
 ある言葉の内容が正しいか否かは、それを誰が言ったかによって決まるのではなく、その言葉の内容自体によって決まる、と私は思う。また、ある言葉の一部が正しいとしても、それは全体が正しいことを必ずしも意味しないと思う。さらに言えば、ある人が生長の家の教義と似たようなことを言ったとしても、その人の言うことすべてが正しいことを意味しない。「是是非非」という言葉があるが、信仰者にもそういう慎重な態度が求められると私は思う。
 
 では、次の質問へ移りたい。ある人が次のような意味のことを本に書き、その証拠としてカラー写真を何枚も掲載し、その本が日本のみならず、海外でも翻訳されてよく売れていたとする。読者は、この人の言うことを信じるだろうか? それとも信じないだろうか?
 
「水は人間の心に感応して、美しい結晶を作ったり、醜い結晶を作ったりする。そのことは、実験によって示すことができる。これは世界がすべて心の波--波動でできているからである。即ちこの世界は、心でつくられているのである」

 生長の家の「唯心所現」の教義から考えれば、上のような主張は誠に興味深い。しかし、その反面、人類が何万年にもわたって積み上げてきた科学研究の成果から考えれば、簡単には納得できない種類のものである。もしこのようなことが日常的に起り得るならば、もっと別のことも起り得るはずである。例えば、「水」だけでなく「油」も「金属」も「空気」も人間の心に感応して、それなりの変化を生じるはずである。なぜなら、油も金属も空気も、物質としては水と本質的に等価であるからだ。つまり、水(H2O)に含まれる水素(H)原子は、油や空気中に含まれる水素と物質的にはまったく同一である。水にだけ働き、他の物質には働かない物理学の法則や化学の法則など存在しないはずである。これを逆に言えば、水の結晶の形成に人間の心が影響を及ぼすことができるなら、それこそ文字通りの“錬金術”も可能なはずである。

「信じたい」と思っていることが、必ずしも真実ではない。しかし、人間はまず「信じたい」ことを信じるのである。この難しい関係を正しく解きほぐして真理に近づくために、科学は「科学的方法」というものを考案した。その1つが論理性(理性)であり、また1つが再現性である。ある真理に到達するためには、その真理を論理によって仮説化し、その仮説が誰によっても実験的に再現できるかどうかを確認する。この確認ができれば法則を発見して真理に至る、というわけである。

 もう何年も前に遡るが、私は上の「水の結晶」の話を聞いて興味をもち、半信半疑ながら実験によって結晶の再現を試みた。例の水を入手し、シャーレも買って、冷蔵庫の中へ入れた。結果は、何ごともなかった。そこで本の出版元に電話して理由を訊いたのだが、答えはこうだった--

「結晶は、うまくできる場合とできない場合があります」

 私は、この答えを聞いて実験をやめた。なぜなら、この答えは実験の元になっている仮説が正しくないことを証明しているからだ。“偶然”によってできた美しい結晶と、これまた“偶然”によってできた醜い結晶を、あとから人間が書いた言葉と組み合わせて写真を撮ったとも解釈できる--こんな安手のトリックを「科学」と呼ぶ人がいたら、私はそれを「トンデモ科学」と呼びたい。生長の家の講師がもしそんな「トンデモ科学」に与していたとすれば、それこそトンデモナイ話である。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月24日

トンデモ科学にご用心

 8月末から9月初めにかけて、私は4回にわたり「奇蹟について」と題する文章を本欄に掲載した。ここでは、宗教的な意味での奇蹟を「自然界の法則を超えて、倫理的道徳的秩序を現わすために起る現象」と定義した。そして、この定義を採用すれば、生長の家を含む多くの信仰団体の中で「奇蹟的治癒」とか「奇蹟的救済」などと呼ばれるものの中には、奇蹟でないものも多く見出されるという意味のことを書いた。これはもちろん宗教を否定したり、信仰を嘲笑するためではない。むしろそれは、生長の家が「法則」を重んじるという点を強調するためである。生長の家では(そして、他の多くの信仰でも)、法則は神の創造の1つとして大いに尊重されているのである。

 このことは、聖経『甘露の法雨』冒頭の「神」の項に、「創造の神」の属性として以下のように書かれていることからも明らかだ--
 
 創造の神は
 五感を超越している、
 六感も超越している、
 聖
 至上
 無限
 宇宙を貫く心
 宇宙を貫く生命
 宇宙を貫く法則
 真理
 光明
 知恵
 絶対の愛。
 
 この点は、強調しても強調しすぎることはない。神はもちろん、法則以外にも「聖、至上、無限……知恵、絶対の愛」などの属性をもち給うが、人間が法則を無視することを望んではおられず、神はむしろ法則それ自身であるから、法則に従うことを望まれる。そのことの意味を、谷口雅春先生は『新版 真理』第9巻生活篇の中で、次のように平易に説かれている:
 
「茄子(なす)を播けば茄子が発芽し、瓜を播けば瓜が発芽するのは“法則”によるのであります。“法則”と云うものは“一定の条件に於いては一定の事物が出現する”と云う律でありまして、神が吾々にそれを利用し得るように一定の相(すがた)をもってあらわれられたのが“法則”であります。若し神が変幻自在で、一定の条件に於いて一定の結果を来さないのであるならば、私たちは迚(とて)も生活することは出来ないのです。今日は飯を食べれば、腹がふくれるが、明日は却って腹が減る、明後日はどうなるかわからないのでは御飯一杯食べることも出来ないで生活が成り立たないのであります。また在る人に対しては同じ条件で法則は左と作用し、或る人に対しては右と作用して一定の結果が得られないならば科学は成り立たないのです。だから神のあらわれとしての法則は愛憎なく平等に作用します。」(p.35)

 上の引用文の中に「科学」の2文字があることに読者は気づいてほしい。生長の家は科学を否定しないのである。科学が成り立つことは、神の御心の一部であると考えている。そのことの意味を、私はさらに詳しく「法則としての神の御徳を讃える祈り」の中で解説しているから、読者は参考にしてほしい。

 ところが、信仰に入って間もない人の中には、宗教とは科学や法則を無視した形で何かが起ることだと勘違いし、そうでなければ宗教に値しないと考える人がたまにいる。そして「医者から見離されれば、信仰しかない」などと思ったりする。こういう人に限って、科学や法則を無視した形の奇術的現象(例えば、某似非宗教家が行った空中浮遊など)を宗教の本質だと見誤り、迷信に陥っていく危険性があるのである。
 
 ここで1つ質問しよう。人間が心で想うことと、水の物質的成分に直接的な相関関係があるだろうか? 例えば、蒸留水を前にして人間が「これは甘い」と強く念じれば、その水中に糖分が生じるなどということがあるだろうか? もしあるとすれば、それは科学ではどういう名前の法則として認められているだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年9月23日

地球の生命の一体感を広げよう

 彼岸の中日に当たる今日は午前10時から、東京・原宿にある生長の家本部会館ホールで「布教功労物故者追悼秋季慰霊祭」が行われた。私はこの祭の斎主を務めさせていただき、挨拶の言葉を述べた。以下は、その概略である:

 皆さま本日は、秋の慰霊祭に大勢お集まりくださり誠にありがとうございます。このお祭は、私たちの運動の先輩であり、また同志でもある方々で、現世の務めを終えられて霊界へ行かれた人たちとの魂の交流の場であります。生前のご活躍を偲び、感謝申し上げ、今後の顕幽両界での光明化運動の発展を誓い合う場として、誠に意義のあるお祭をもてたことを心から感謝申し上げます。
 
 実はこの慰霊祭で、私には1つ心配していたことがありました。それは、昨日まで気温がとても高く、異常に暑い日が続いていたことです。猛暑の中のお祭となっては、参列者の皆さまにも御霊さまにも申しわけないと考えました。今年の夏は6~7月が冷夏で、8月が猛暑つづき、そして9月に入ってもその暑さが長く続いています。「暑さ寒さも彼岸まで」という昔からの諺も実情に合わなくなってきています。関東地方はそれでも今日は、さすがに涼しくなりましたが、昨日までは真夏日でした。ちなみに、9月22日の東京の最高気温は32.3℃で平年より6.9℃も高く、山形では平年比+7.9℃の31.3℃だったそうです。そのほか仙台は+8.2℃の31.2℃、福島+9.8℃の33.6℃、宇都宮+8.5℃の32.8℃、熊谷+8.7℃の33.8℃、富山+6.8℃の31.5℃、大阪+7.8℃の35.1℃、鳥取+5.6℃の31.3℃など、全国的に暑いのです。

 気候が変わってきていることは、皆さんも--特に農業に関係しておられる方は、肌で感じていることと思います。最近は、1年ごとに気候が変わっています。私が昨年の秋の慰霊祭のときに話したことが『小閑雑感 Part 8』という本に載っていますが、そこには、こう書いてあります。

「このお彼岸の季節は、秋の到来がひとしお明らかに感じられます。“猛烈な”という枕詞がついた台風14号が日本に近づいていますが、幸い本土上陸はないとの予報です。私の家の庭にあるヒガンバナも白い花、赤い花が咲き乱れて実に美しいし、キンモクセイの香りがどこからともなく流れてきます。これからは日増しに秋が深まってきて、作物も、紅葉も、運動会も、遠足も、文化祭も……というように、自然界・人間界の活動は“収穫期”を迎えるわけで、私は個人的にはこういう“秋”が大好きです」
 
 これを読むと、台風はこの間、12号が中国大陸の方へ行きましたから、今年の発生数はわずかに減っているようです。またキンモクセイですが、この花の香りを私は今年まだきいたことがありません。実は、私の家の庭にもキンモクセイはあるのですが、まだ花をつけていないのです。ヒガンバナは白い花が咲いていますが、赤い花はまだ蕾の状態です。これから日増しに秋が深まることは事実でしょうが、彼岸の20日すぎにも気温が30℃を超える“真夏日”が続いているのですから、温暖化の進行は否めないと感じます。
 
 このお盆の時期は、私たちが親や先祖とのつながりを心に深く感じるときであります。また、先に霊界に旅立たれた魂の先輩の業績を偲び、将来に向けて決意を固めるときでもあります。つまり、現世の人間社会の中での“横のつながり”ではなく、霊界との“縦のつながり”を意識し、その大切さを確認するときであります。私たち日本人は、子は親の心を受け継ぎ、親は先祖や先人の心を受け継ぐという形でこの命の“縦のつながり”を大切にしてきました。命の流れを「川」に喩えれば、これは川上方向へ我々のルーツを「遡る」働きです。しかし、今日では、私たちはこの“縦のつながり”の中でも上流ばかりを見ていては足りなくなってきた。つまり、地球温暖化が進んでいる現代では、それを抑制することが私たちの「子」や「孫」のために必要であるという意識が生まれてきています。しかし、その意識はまだまだ不足しているのではないでしょうか? 私たちは21世紀の今、“下流”の命のこともしっかりと考えることが求められています。このことを難しい言葉で「世代間倫理」と言っています。私たちの現在の生き方によって、子や孫の世代の人間に損害を与えてはいけないのです。
 
 さて今日、新合祀者としてお名前を呼んだ238人の御霊様の中にはカタカナの名前も多かったことに皆さまは気づかれたでしょう。全部で38人の方が外国に住んでおられた私たちの運動の先輩であり、また同志であります。割合で言えば16%の人が海外で幹部活動をされていた人たちです。この割合は、今後も次第に増えてくることが予想されます。つまり、それだけ私たちの運動も国際化してきており、海外に於いても重要性が増してきているのです。先ほど、魂の“縦のつながり”の話をしましたが、こうして“横のつながり”も幅広く拡大してきている理由は、地球社会が成立しつつあるからです。私たちの運動が「国」や「地域」の範囲を超えて展開されつつあるのも、そういう理由によります。また、そうしなければ、地球規模の問題を解決することはできません。
 
 地球環境問題が深刻化しつつある中で、これを解決し、後世の人類や生類全体に棲みやすい地球環境を残すための取り組みは、幸いにも世界的にひろがっています。しかし、現在のところ、この取り組みは主として技術的なものであり、また、小規模な制度的改善運動に止まっています。私は、宗教がもしこの取り組みに何か貢献することができるとしたならば、それは“魂の一体感”を人々の心に拡大することだと思います。また、このことが科学や技術や制度改革では難しい点です。「人間は一個の肉体である」という唯物論の考え方からは、生命の“上流”や“下流”のことを思いやり、自らの行動を規制する態度は出てきません。また、地球に棲む生命相互間の関係を重んじる態度も生まれません。
 
 私たちはこれからも、人間は皆、神の子として魂の兄弟姉妹であり、地球上の存在は鉱物も生物も含めて「すべては一体」であるという教えを多くの人々に伝えることで、地球の生命間の一体感を広め、深めていく活動に邁進していきたいと思います。慰霊祭に当たり所感を述べさせていただきました。本日はお参りくださり、誠にありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月22日

温暖化ガスの排出が訴訟対象に (2)

 昨年9月22日の本欄で、自動車は地球温暖化の原因をつくったとして、カリフォルニア州がトヨタ、GMなどの自動車メーカー6社を相手に損害賠償を求める訴訟を起こしたことを書いた。その判決が9月17日、サンフランシスコの連邦地裁で下されたと18日付の『日本経済新聞』夕刊が伝えている。結局、自動車メーカーの賠償責任は認められなかった。この訴訟は、温暖化を理由に排気ガスの被害の法的責任を初めてメーカー側に問うものとして、注目を集めていた。
 
 18日付の『ニューヨーク・タイムズ』 の記事によると、サンフランシスコの連邦地裁のマーティン・ジェンキンス判事(Martin J. Jenkins)は、法廷が「地球温暖化に関わる損害について決定する権限または専門知識を有しない」ことを理由に、自動車メーカー6社に対する損害賠償請求を棄却したという。

 カリフォルニア州はこの訴訟で、自動車メーカー6社によって製造された車は、アメリカ国内で人間が生み出したCO2の20%以上、同州内では30%以上を排出しているとした。そして、これは公的不法妨害(public nuissance)であるから数億ドルの賠償金に値すると主張していた。これに対しジェンキンス判事は、「この件について法廷が判断するためには、温暖化ガスの排出削減による利益と、経済や産業を維持・発展させることによる利益とをバランスさせる必要がある」としたうえで、両者は必ずしも対立する利益ではないが、州は法廷ではなく、議会と行政の活動を通じて気候変動の問題を検討するべきである、との見解を打ち出した。また同判事は、判決の中で「この時点で地球温暖化論争の渦中に法廷が自らを置くことは本来、行政府に委ねられるべき種類の初期の政策決定を行うことになる」と述べ、法廷が地球温暖化の賠償額を裁定することは、行政府の選択を狭める可能性があることを指摘した。いわYる「三権分立」の原則を犯すというわけだ。

 しかし、これによって自動車メーカーが“免罪符”を得たわけではない。メーカー側は、北東部のバーモント州で自動車を対象にした州の温暖化ガス排出規制は違法だとする訴えを起こしていたが、上記判決の1週間前に「合法」との判断があったばかりで、カリフォルニア州でも同じ趣旨のメーカー側の訴訟に対して、近く判決が予定されているという。

 アメリカ国内で人間がこのような訴訟合戦をしているうちに、後戻りできない状態にまで温暖化が進行することにならないだろうか? 私は、そのことを危惧している。というのも、22~23日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に、北極の氷がかつてないほど退縮しているという記事が写真入りで載っているからだ。この問題は、すでに2005年9月30日の本欄でNASA(アメリカ航空宇宙局)提供の衛星写真とともに紹介し、その後も生長の家講習会などでよく扱ってきたから、知っている読者もいるだろう。今回の報道は、それ以降も北極では依然として氷が退縮していることを伝えている。

 北極周辺の氷は9月に、年間で最少の量となる。同紙の記事によると、今年の最少量はこの16日に達成されたと考えられ、その面積は412万平方kmだったという。この面積は、ここ数十年間の平均値よりも260万平方km以上も狭いらしい。このことは20日に、コロラド州ボールドゥーにあるアメリカ氷雪データセンター(the National Snow and Ice Data Center)によって発表された。アメリカが北極の氷の大きさを衛星によって記録し始めたのは1979年からだが、ロシアやアラスカの記録を何十年も遡って調べた研究者によると、今年の氷の退縮の程度は、温暖化していた1930年代を含めて、20世紀全体を通じてかつて見られないほど大きかったという。アラスカ側の北極海は青々とした海となり、カナダ北部の海も何週間も氷のない状態で、大西洋と太平洋を結ぶロシア北部の海も、1週間前にはほとんど氷がない状態だったという。
 
 海面上昇を引き起こす氷の融解は、北極海の氷のような、すでに海の中にある氷が融けた場合ではなく、陸地にある氷が融けて海に流れ込んだ場合だ。しかし、だからと言って北極海の氷の融解を楽観視してはいけない。北極海にはグリーンランドという世界最大の“島”があり、その上の氷床も融け出している。また、白い氷が融けて濃い青色の海に変われば、太陽からの熱の吸収率が一気に増大する。人類が互いに地球温暖化の責任を押しつけ合っている時間はない。一致団結して早く抜本的な対策を講じてほしい。

 谷口 雅宣

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2007年9月21日

北朝鮮の核関連疑惑

 今日の新聞各紙は、ワシントン発でブッシュ大統領が記者会見で北朝鮮の核拡散について「警告」(『朝日』)したとか、「重要視」(『産経』)しているとか、「懸念」(『日経』)を表明したなどと伝えている。しかし、その背景についてあまり書いてないので、何が大統領にそう言わせたかは判然としない。が、これは日本にとっても重要なことなので、少し説明を加えよう。

 日本のマスメディアはあまり書かないが最近、欧米では危機感をもって語られていることが1つある。それは、イスラエルの空軍機が9月6日、シリア領内に爆撃を行ったことだ。この目的が何かはまだはっきりしていない。シリア側の説明によると、イスラエルの航空機が「武器類」(munitions)を投下し、燃料タンクを落としたので、シリア軍によって追い返された、というものだ。しかし、米英の新聞に掲載された匿名情報の1つは、イスラエル機の攻撃目標は、北朝鮮技術者が働いているシリアの核関連施設、というものである。別の匿名情報では、北朝鮮の船がシリアの港に未確認の積荷を届けた3日後に、この施設が攻撃されたという。また別の情報では、イスラエル機は、レバノン国内のヒズボラ組織向けにイランから送られた武器を狙ったともいう。しかし、当のイスラエルは、この件について沈黙を守り、北朝鮮はこの事実を否定しているようだ。
 
 アメリカの『ボストン・グローブ』紙は、この事件についてイスラエルが沈黙を守っているのは、シリアには直接の攻撃によってメッセージが伝わったから、これ以上、事態を公にし、ただでさえ危険なこの地域の情勢を悪化させたくないと考えているからだ、と見ている。また、英米のメディアは、このイスラエルの行動に対して、ブッシュ大統領が“暗黙の了解”を与えていたかどうかを問題にしているようだ。
 
 この件で日本にとって重要なのは、北朝鮮がシリアで何をしていたか、だろう。6カ国協議がはかばかしく進展していない中で、北朝鮮がシリアに核技術もしくはミサイル技術を供与していたということになれば、アメリカが同国を「テロ国家」の指定から外す可能性が遠のく。指定解除は北朝鮮の念願だから、これが遠のけば6カ国協議も暗礁に乗り上げ、拉致問題の解決はさらに遠のくかもしれない。しかし、アメリカが現にそのことを公言していないのは、6カ国協議の進展を希望しているからか? あるいは公言する時期が「まだ早い」と考えているからなのか……。なかなか複雑な状況である。
 
 19日付の『ヘラルド・トリビューン』紙は、イスラエルの攻撃対象となったシリア国内の施設は「北朝鮮が支援する核関連施設」だと伝えている。そして、この攻撃は当時、北京で行われていた北朝鮮核施設の無能力化の時期を定める交渉が突然、中止されたことと関係していると報じている。そのまま交渉が始まれば、アメリカがこの件を持ち出して北朝鮮を非難し、硬化した北朝鮮が交渉のテーブルを離れるという事態を中国が危惧した……というニュアンスである。同紙がこの報道の「情報源」としているのは「アメリカとイスラエルの現役と退役官僚」だが、その情報源は、攻撃を受けたのはシリアが実施している「初歩的な核開発計画と関連した施設」だという。
 
 アメリカのゲーツ国防長官は、16日のフォックス・ニュースの中で、イスラエルがシリア国内の目標を攻撃したかどうか、あるいは北朝鮮がシリアに核関連技術を供与しているかどうかについて訊かれ、いずれの確認も避けたという。が、「そのような活動がもし行われているとしたら、非常に深刻な事態だ」とコメントしている。アメリカが恐れているのは北朝鮮の核兵器自体ではなく、その技術が中東などの紛争地域に拡散することである。北朝鮮とシリアの間には、主として武器、それも初歩的なミサイル技術に関する貿易関係が昔からあることは知られているが、核関連技術については、これまで明らかになったことはないという。
 
 こういう背景を知ってから、今日の各紙の記事を読むと新たな理解が生まれる。『朝日』は、米大統領が北朝鮮に対して「核問題の6者協議を成功させたければ、(大量破壊兵器の)拡散を止めなければならない」と警告したと書いているが、北朝鮮のシリアへの核開発協力疑惑に関しては、「疑惑が真実かどうかについては言及しなかった」としている。『産経』は、大統領が「拡散は核計画や核兵器の放棄と同等に重要だ」と指摘したが、イスラエルによるシリア空爆や、北朝鮮がシリアに核物質を輸送していたかについては、「コメントしない」などと述べるにとどまった、と書いている。また、『日経』は、「大統領は会見で北朝鮮とシリアの協力に関しては“拡散防止は一般的な意味で発言している”と述べるにとどめ、直接のコメントを避けた」とある。

 何か腫れ物に触るような慎重さではないか。その一方で、イスラエルの攻撃も、北朝鮮の疑惑も否定していない。ということは、攻撃も疑惑も事実であり、アメリカはそれを知っているが、「今は問題にしないが、将来は分らない」と北朝鮮に圧力をかけている--そういう見方ができるだろう。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月19日

念力の可能性

 8月30日の本欄に簡単な「コイン並べ」のゲームを掲載して奇蹟について考える一助としたが、その後の9月3日には、パラサイコロジー(超心理学)が成立する可能性にも触れた。読者の中には「コイン並べ」を繰り返して、一定の数列(例えば"12345")が出ることを念じた人がいるだろうか? 目的の数列が「120分の1」の確率より多く出たら一応、パラサイコロジーが成立したことになると思うが、結果はどうだったろうか? 
 
 “念力”には個人差があると思う。また、自分の念力を信じるか信じないかで差が出てくることも考えられる。ただし、この種の“凝念”は神への信仰とは関係がないということを知っておくべきである。それどころか、超心理学的な力が自己目的に濫用されると、むしろ神の御心とは異なる方向へ人間を迷い込ませる危険性がある。これらを心得たうえで、純粋に知的な興味から超心理学的な可能性を実験してみたい人のために、もう一つのプログラムを作ってみた。名づけて「ウィルパワー・バージョン1.0 Kaminoko.exe」である。

「Kaminoko.exe」は普通のウィンドウズのアプリケーションである。上のプログラム名が表示された箇所にマウス・カーソルを当てて右クリックすると、自分のPCにプログラムの保存(ダウンロード)ができる。好きなフォルダーに「Kaminoko.exe」を保存した後は、通常のアプリケーションと同様に実行すればいい。前作の「コイン並べ」では、「PUSH」ボタンを押すと1から5までの数字がランダムに並んだが、今回は「人間神の子」という5文字が画面にランダムに(「神人の間子」「間子人の神」「の人子間神」……などと)表示される。それだけのプログラムである。

 いわゆる“念力”が働く可能性があるとしたら、「PUSH」ボタンを押す際に「人間は神の子である!」という念を込めて押した場合だろう。統計的には、偶然に「人間神の子」と出る確率は「120分の1」である。また、「神の子人間」と出る確率も同じだから、両者を同じ“念力”が働いた結果と考えた場合、ボタンを60回押して2回以上、意味のある言葉が画面に並べば、超心理学的力が働いたと考えていいかもしれない。ただし、「5つの文字をランダムに選ぶ」ために使った関数が、コンピューターの内部で実際にどのように働いているか私は知らないので、この関数自体が偏った結果を生む場合は、念力がなくても念力があったような結果が出る可能性もある。
 
 さらに、ボタンを60回とか120回押した結果を書きとめておくのは大変だから、「Kaminoko.exe」には表示された文字を数字化して記録しておく機能も付け加えた。「数字化」といってもごく単純なもので「人」「間」「神」「の」「子」の5文字をそれぞれ「1」「2」「3」「4」「5」の数字に置き換えただけのものである。だから、プログラム終了後に「Kaminoko.dat」というテキストファイルを開いて調べてみて、「12345」と「34512」が書き込まれていれば、その箇所が“当たり”ということになる。

 これはあくまでも“気楽な実験”として作った。だから、結果が“偶然”の確率より低いものであっても、読者は「私は信仰がない」などと落胆されないように。また、これによって信仰が数量化されるなどとも考えないようにお願いする。繰り返しになるが、念力と信仰の質とは関係がないのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月18日

動き始めた排出権取引

 2012年までの京都議定書の目標達成が日本にとって“きわめて困難”とされている中で、CO2の排出削減目標の半分に達する量を、日本企業が排出権購入によってすでに獲得したという記事が、17日の『日本経済新聞』の第1面トップに掲載された。にわかには信じがたい話だが、『日経』の特ダネの恰好になっているので、恐らく事実だろう。その反面、CO2の排出権を得ることが、温暖化対策の困難さとは関わりなく比較的容易であることを示している。この記事によると、日本が2012年までに削減しなければならない温暖化ガスの量は、CO2換算で2005年比1億7500万トン(1990年比では7600万トン)。ところが、今年上半期までに主要企業によって獲得されるCO2排出権は年換算で8900万トンに上るという。
 
 排出権取得が進んでいるのは総合商社、電力会社、金融ファンドなどで、取得量が最も多いのは三菱商事(1383万トン)、続いて住友商事(770万トン)、丸紅(633万トン)、JMD温暖化ガス削減(580万トン)、日本カーボンファイナンス(476万トン)、Jパワー(345万トン)、三井物産(325万トン)、中部電力(313万トン)など。全体の排出権取得費は2008~2012年の5年分で4500億~6700億円になるという。
 
 これらの企業が排出権取得を急いでいる理由の1つは、京都議定書の目標達成期限が近づくにつれて排出権の需要が増える際に、日本政府や他企業などに排出権を販売しようと計画しているため。排出権の購入時より販売時の価格が上がれば、利益が生まれるのだ。この記事によると、日本政府は年2千万トン程度の排出権を買う計画があるため、5年間で1億トン分は売れることになる。ただし、この「2千万トン」という数字は、1990年比で6%削減する場合のCO2削減量の1.6%分だ。現在は、同年比で13.8%を削減しなければならいほど排出量が増加しているから、政府が購入しなければならない排出権の量は大幅に増えることが予想される。その場合、排出権の値段はさらに上がるから、それを売る企業の収入はさらに増えるだろう。こうなると、先に排出権を獲得した企業が値上がり後にそれを政府に売ることは、政府から企業への一種の“補助金”の様相を呈してこないか。また、日本政府より高い値段で排出権を買う者があれば、企業はそちらへ排出権を売る可能性もある。

 排出権取引は、こういう様々な“灰色”の部分をもっているため、環境NGOなどからは疑問の目で見られることがある。私も、この制度には何か“錬金術”のような危うさがあると感じているが、何もしないよりはマシかもしれない。

 ところで、日本国内で初めて実施された企業間の排出権取引の結果が最近、環境省から発表された。9月12日の『日経』によると、この排出権取引は「自主参加型排出権取引制度」といい、各企業が省エネ設備などを導入するための補助金を国から受ける代わりに、CO2の排出削減目標を設定するもの。この目標を省エネ努力で達成できなかった企業は、制度に参加している他企業から排出権を買えば目標達成ができる。それでも達成できない企業には、補助金返還などの罰則がある。環境省が発表したのは、昨年4月から今年8月までの第1期分の国内排出権取引で、大規模な工場や店舗をもつ31社が参加し、24件の取引で8万2624トンが売買された。1トン当たりのCO2の価格は平均で1212円。最高は2500円、最低は900円だった。このために政府が拠出した補助金の額は約26億円で、それにより削減されたCO2は37万7千トンだったという。
 
 上に書いた国内での排出権の取引価格は、企業に排出削減を義務づけているEU(欧州連合)での取引価格(1トン約3千円)よりかなり安い。今後、日本での排出権取引制度が整備され、国内から国際取引にも参加できるようになれば、CO2の値段も国際基準に近づいていくことになるだろう。しかし、政府から補助金を得て省エネのための新設備を導入するこの方式には、問題がないのだろうか? 新設備を製造し、設置するまでに排出されるCO2の量が、削減量の計算式に入っているかどうか、気になるところだ。
 
谷口 雅宣

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2007年9月17日

迷いはどこから来る? (7)

「善」と「自由」との関係は、本シリーズに通底する重要なテーマである。ところが、「迷いはどこから来るか?」という疑問に対して、私が自由の話をしたところ、「迷いが自由から来るならば、迷いをなくすためには自由をなくせとの結論になる」と誤解した読者がいたようである。私は、上記の鈎括弧内の文章の前半のことは確かに言ったが、後半部分を言ったり書いたことはない。なぜなら、ことはそれほど単純でないことをよく知っているからだ。本シリーズで私が「北朝鮮」と「日本」の食堂の例を使ったのも、自由のない北朝鮮をほめたたえる目的ではなく、むしろその逆であることは、普通の読者なら文脈から理解してもらえると考えていた。「ブログ」などという自由な発言を重視する媒体を積極的に使っている人間が、言論統制の厳しい不自由な国の方が、悟りに至る道に近いなどと考えるはずがないのである。

 善は倫理学における最も基本的な主題の1つであるし、古来、哲学上の重要問題でもあった。私は本シリーズでは、「自由」を「選択肢の多い状態」の意味で使っているが、「自由がなければ善はない」としているのだから、この善とは「道徳的善」の意味である。どこかでもこの例は使ったことがあるが、例えば、銀行強盗に拳銃を突きつけられて自由を奪われた銀行員が、他人の預金の一部をその強盗に渡したとしても、彼または彼女の「道徳的善」は問われないし、刑事責任も問われないだろう。その理由は、我々が一般に「自由がなければ善も悪もない」と感じているからだ。だから、動物が自由のない“本能”にもとづく行動をしても、普通は「善悪」の問題にはならない。(通俗的には「悪いサル」などという言い方はされるが、それは道徳的な善悪の問題ではない)一方人間は、他の動物や植物に比べて、大幅に自由な生き方ができる存在だから、それだけ「善」や「悪」の問題が生じるのである。

 本シリーズの3回目で紹介した『新版 真理』第10巻実相篇の谷口雅春先生のお言葉は、この人間のもつ「自由」が“神の子”としての徳性の1つであることを明白に教示されている。『生命の實相』全集の中でも第13巻倫理篇上の最終部分(pp.176-188)や第14巻倫理篇下/教育篇のpp.20-21などに、同様の趣旨のご文章が載っている。因みに倫理篇下のご文章をここに掲げよう:

「人間が悪をも犯しうる自由をなぜ神が与えたのだろうかという疑問は読者からたびたび提出せられる疑問である。善とはなんであるか。それは真っ直なというだけではない、善とは人格(すなわち自由の主体)が、その自由なる生命の発露として正しい道に乗ったことを善という。強制されて正しい道にのったのは善ではない。それは人格的自由なしに、ただ外面がやむをえず正しい姿をしているというだけにすぎない。本当の善と、似て非なる強制された正しさとの区別は、肉筆で描いた線の美と、定規で描いた線の美との相違のようなものである。(中略)もし、人間が正しい道にのるほかになんらの自由もないならば、われわれの行為は定規をあてられたと同じことになり、真っ直には歩めるかもしれぬが、定規で描いた直線と同じようにすこぶる興味なく生命なき人間の動きとなってしまうのである。」

 それでは、迷いが自由から来るならば、迷いをなくすためにはどうすべきか? この問いに対する答えは、すでに本シリーズ前回までの中に書かれている。すなわち、迷いは「人間は肉体である」とする謬見から来るのだから、社会に向っては「人間は神の子である」との真理を伝え、また自身においてはその自覚を深め、その自覚にもとづいた行動を起こすことが重要である。そうすることによって、数多くの選択肢がある現代社会の中にあっても、人・事・処に応じた正しい行動が多様な形で遂行できるに違いない。そして、それが「善」を表現することになる。神の御徳の1つである「善」は、こうして人間の自由な判断によって最も完全に表現されるのである。
 
「しかし……」と読者は不満に思うだろうか? 「理論的にはそうかもしれないが、実際は真理の伝道は難しいし、“神の子の自覚”もなかなか得られない……」。もし読者が、そういう“迷い”の渦中にあるならば、それは「実際の社会」「実際の自分」をアルと認めているからではないか? 現象は唯心所現であるから、「迷った社会」も「迷った自分」も本当はナイ。それらは、自らが描き出した“作品”である。蜃気楼から目を逸らして、昇りゆく太陽をしっかりと認めよう。あなたの“太陽”は、定規で引いたように真っ直ぐ昇らなくてもいいのである。

 谷口 雅宣

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2007年9月15日

迷いはどこから来る? (6)

「趙州勘婆」の公案で、老婆が言う「真っ直ぐに行け」とはどういう意味かについて、読者からいろいろコメントをいただいた--①迷った自分の心を信じないで心の主(仏心)になること、②欲するところに従って矩(のり)を超えないこと、③自分の行く道が正しい道であって、実はその道しかナイと信じること、④内に神の国があると自覚すること、などである。それぞれが“正解”の要素を含んでいると思う。が、映画『厨房で逢いましょう』の主人公の立場に当てはめてみた場合、これらがどんな解決策を具体的に示しているのかは、判然としないものもある。①は「自分の人妻への恋心を信じるな」ということだろうか。また②は、人妻への恋の料理は続けてもいいが、「やりすぎるな」ということだろうか。一方③は、逆に人妻への恋を自信をもって貫徹せよということになるのか。また④は、人妻との関係に“神の国”を求めるなということなのだろうか。

 この公案に対する谷口雅春先生の解釈は、「真っ直ぐに行け」とは「実相を直視せよ」の意だ、と極めて明快である。しかし、そのことが具体的にどのような選択になるのかは、それほど明快ではない。先生の言葉を引用すれば、「2つの道を超えた真直の道であるから、右か左かの選択ではない。そのどちらをも超えたところの真実一路である」ということである。(『無門関解釈』pp.242-243)
 
 雅春先生は「2つの道」の喩えとして、病人が医薬品の服用を続けるか、薬を捨てるべきかに迷った場合を取り上げられ、このような「2つある道のうちの1つを選ぶと云うような、現象道の選択ではないのである。どちらの道をも放ち去って、ただ驀直に、本来一つしかない唯一路を往けと云うことである」と説かれている。迷いながらの選択であれば、薬を捨てることも、薬の服用を続けることも“迷いの道”であり、そのような心境では本来の自然治癒力が発揮されないとも書かれている。そういう意味では、『厨房で……』の主人公は、美人の人妻との関係を断とうが断つまいが、彼女への執着心を放下しないかぎり心の自由を得られず、したがって「迷い」から解放されないだろう。

 では、どのようにすれば執着心が放下できるのか? これは恐らく、一般論では片付けられない。「彼女から物理的に離れる」という選択肢が有効な場合も、そうでない場合もある。また、彼女の夫との“三角関係”に突入し、互いに傷だらけになった挙句に執着が放下できる場合もあれば、そうでない場合もある。あるいは、神想観を繰り返し実修することで、自分の特技で人妻を誘い自己の生を確認しなければならないような、そんな歪んだ生き方をしなくても、自分がそのまま“神の子”である実相を観ることができれば、「2つの道」のいずれも選択せずに彼女への執着心から解放されるだろう。この最後の選択肢が生長の家のお勧めだが、この映画の中ではそれは実現されない。この映画の実際のストーリーは、1番と2番の選択肢の中間あたりで展開していくのである。
 
 さて、ここで本シリーズのメイン・テーマにもどろう。「迷い」はどこから来るのだろうか? 聖経『甘露の法雨』には「真相を知らざるを迷いと云う」とあるが、この「真相」とは何の真相だろう? 「快苦は本来物質の内に在らざるに、物質の内に快苦ありとなして、或は之を追い求め、或は之より逃げまどう、かかる転倒妄想を迷いと云う」とも示されている。味や食感や香りの中に快苦があると思い、それを追究するのが料理人であるが、聖経のこの一節は、美食を否定したり戒めているのだろうか? 私はそうは思わない。生長の家は快楽主義ではないが、禁欲主義でもない。食事は肉体維持のために必要な営みであるが、それを人生最大の目的にするような生き方は、人生の真相を知らないと言わねばならない。一方、人を喜ばせる美味しい料理を作ることは「愛の表現」の一形態として充分有意義であり、芸術表現の1つでもある。しかし、芸術表現にも節度が必要で、これを人妻を絡め取る手段として使うことは、愛の真相を知らず、愛と執着とを混同した「迷い」である。
 
 これらの「迷い」は結局、「人間は肉体である」とする謬見から来たものだ。聖経にあるように、在るものを無いとし、無いものを在るとする転倒妄想が迷いである。つまり、人間の本質は神性・仏性であるのに、それが自分ではなく肉体が自分だと考え、実在でない肉体がここに在ると考える。そのような謬見は自ら選び取ったものであり、神が強制されたものではない。我々は常に謬見を棄て去り、神の膝にかき上がる自由をもっているのだが、自らそれをしないだけである。その意味で、迷いは「謬見をもつ自由」から来ているとも言える。いま謬見を棄てて真理を取れば迷いは無くなるが、神はそれを我々に強制し給わないのである。なぜなら、自らの意思で真理を取ることが最高の善であるからだ。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月14日

オウムのアレックス、死す

 12日の本欄で、最近の脳科学の発見について触れたが、そういう科学的研究によってもよく理解できないことは、自然界には多くあるようだ。鳥は、状況に応じて複雑な鳴き声を発することはよく知られているが、そういう鳴き声が人間の言語のように複雑なメッセージを伝えているかどうかについては、科学者の間ではまだ論争がある。たいていは「言語」ではなく「ものまね」か「単純な要求」程度の意味しかないと考えられてきたようだ。ところが、アメリカの心理学者、ペッパーバーグ博士(Irene M. Pepperberg)が育てたアレックスというオウムは、100を超える英語を覚えて話すことで有名になり、テレビ番組などに出ていたという。そのアレックスの死亡記事が12日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に載った。
 
 同紙の記事によると、このオウムは先週まで、飼い主のペッパーバーグ博士と一緒に合成語や、発音が難しい単語の練習を続けていたそうだ。そして6日の夜、自分のカゴにもどる際に博士の方を見て、「You be good, see you tomorrow. I love you.」(いい子でね、また明日。愛してるよ)と言ったそうだ。その翌朝、博士はアレックスがカゴの中で死んでいるのを見つけたという。この鳥は31歳だった。記事の見出しは「A thinking parrot's loving good-bye」(考える鳥の愛を込めた別れ)である。まぁ、本当に「愛」まで込められていたかどうかは定かでないが、人間の言語を操る鳥がいることを科学はまだ説明できていない。

 アレックスが話した英語が人間の言語と本質的に同じであるかについては、否定論もある。オウム類は基本的な表現手段として人間の音声を真似ることはできても、そのことは、人間がすでに幼児期に得る論理性や、物事を一般化する能力をオウムがもっていることを示すわけではない、と考える科学者もいる。しかし、この記事によると、アレックスは紙製の青い三角形を見ると、紙の色、その形、そして(三角形に触れたあとで)それが何でできているかを言葉で話すことができたという。この種の実験を実際に観察した心理学者の渡辺茂氏は、『ヒト型脳とハト型脳』という本の中で、その様子を次のように描いている:
 
「このオウムは英語の質問に英語で答えることができる。このオウムに黄色い紙の五角形と灰色の木の五角形、緑の木の三角形と青い木の三角形など、色や形、材質のどれかが同じである2つの物を見せる。そして“何が同じか?”“何が違うか?”と質問する。この問題は見本合わせよりはるかに難しい。なぜなら、オウムは見せられた物を色、形、材質といった様々な性質に分解してから、何が“同じ”で何が“違うか”を判断しなくてはならない。三角形という形が同じだった場合の正しい答えは“三角形”ではなく“形”である。つまり、どの属性が同じだったのかを答えなくてはならない。オウムがよく知っている物を用いたテストで、正答率は約77%だった。さらに、はじめて見る物のテストでの正答率反応率は85%だった」。(p.21)

 アレックスという鳥は、何かの突然変異で人間の言語を獲得した特殊中の特殊のケースなのだろうか。それとも鳥類は一般に、言語を操る能力を備えているが、アレックスのような特殊の訓練を受けないのでしゃべらないのだろうか。もし鳥類が言語能力を潜在的にもっているとしたら、類人猿やサルはどうか。イルカやゾウなどの高等哺乳動物はどうか……など、疑問が次々に湧いてくる。そんな時、「ヤマメにニジマスを産ませる」実験に東京海洋大学の研究グループが成功したというニュースが飛び込んできた。今日の新聞各紙が報道している。ニジマスの精原細胞(精子の元細胞)をヤマメの稚魚に移植すると、ニジマスの精子と卵子をもつ雌雄のヤマメができるそうだが、その雌雄からニジマスを誕生させたのだという。こんなアクロバットまがいの研究をする理由は、この技術を利用して「5年後にはマグロを産むサバをつくりたい」からだという。管理しやすい小さな魚から、大きな魚を得るためらしい。
 
 私はこのような科学者の動機には倫理性が欠けていると思うし、人間至上主義が透けて見える。魚類で得た技術が一気に哺乳類に応用されることはないだろうが、人間のために動物を利用することに何も問題がないのであれば、現在の技術をもってすれば、サルや類人猿、あるいはブタを代理母として、人間の子を産ませることもできるに違いない。精子や卵子を物質と同等に考えれば、それらの遺伝子を操作して、人間の“親”が望む形質のデザイナー・ベビーを動物に産ませる。そうすれば“優秀人間”の増産ができ、不妊治療の負担が軽減され、少子化対策にもなるだろう--こんな怖ろしい考えに結びつかないように、科学研究における倫理規定を早急に整えることが必要である。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○渡辺茂著『ヒト型脳とハト型脳』(文春新書、2001年)

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2007年9月13日

迷いはどこから来る? (5)

 前回、本題を扱った際の結論は、「迷いとは、欲望追求のために自由を行使せんとするところから来る」だった。ところで私は昨夜、妻と渋谷で『厨房で逢いましょう』というドイツとスイス合作の映画を観た。これは、世界で有数のウデをもつ料理人が人妻に恋をし、彼女を惹きつけておくために極上の料理を提供しつづけるという筋の映画だ。私は、この映画の邦題の軽さから考えて、「気楽に楽しもう」程度の気持で観はじめたが、どうしてどうして内容はヘヴィーな“欲望追求”を扱った映画だった。原題は「Eden」--『創世記』の昔に人間が失った楽園の名前である、と同時に主人公の恋人の名前でもある。

 主人公の極上料理のシェフは、職業病ともいえる肥満のために男性としての機能に障害があるという設定だが、そのことがかえって、美人の人妻の安心感と自己正当化をもたらすことになる。つまり、「自分は料理を味わいに彼のもとに通うのであって、浮気の目的ではない」という正当化だ。一方、主人公の料理人は、自分の作る料理を陶然として食べる彼女を眺めることに喜びを感じ、さらに料理のウデを上げていく。2人は互いを「お友だち」だと主張し、実際にそう信じているようだが、第三者の目からは尋常な関係に見えない。やがて、人妻の夫が2人の関係に気づき……というように、物語は危うい方向に進んでいく。

 食事とセックスとの間に深い関係があることは、フロイトの説明をまつまでもない。だから、食べることの快楽を求めて男のもとへ通う人妻は、夫にとって明らかに“浮気妻”なのである。しかし、妻本人はそれを認めようとしない。なぜなら、夫との性生活はむしろ料理人の登場以降、“改善”しているからだ。食事を快楽追求という観点から見直してみると、我々の現在の食生活の“罪深さ”や“迷いの濃さ”が浮き彫りになってくる。映画の中には、主人公の料理人がカモの羽毛をひたすらむしり取っていくシーンや、ブタの皮を一気にはぐシーンがあったりするから、「映画制作者はカトリック教徒ではないか」などと想像してしまう。まさにこの映画は、「欲望追求のために自由を行使する」男女の迷いの深さを描いている、と私は感じた。

 この文脈の中で、『無門関』の「趙州勘婆」の公案を思い出そう。9月10日の本欄で触れた「O氏」が、迷いの問題に対する“雅春先生の回答”だとしている公案である。今回、この公案を語ることができるのはO氏の手紙のおかげだから、その機会を与えてくださったことに大いに感謝するものである。

 かの国の五台山の麓に老婆が住んでいるが、その家の前で道が2つに分かれているという。そこで旅人はどちらの道を行けば五台山に達するかに迷い、よく老婆に尋ねるのである。すると老婆は、「真っ直ぐに行け」と答える。「真っ直ぐとはどちらか?」と訊いても、答えは変わらず、やはり「真っ直ぐに行け」である。そこで旅人は、自分で選んだ道の方へと3歩、5歩……と歩き出す。すると、老婆は「足もとが危ういぞ、あんな恰好で行きよる」と言って嘲笑うのである。では、「真っ直ぐに行く」とは、どう行くことなのだろう?(公案はこの後も続くが、今はここで留める)。

 この映画の主人公の“迷い”はどこから来たのか? また、それを去るためにはどうすればいいか? 主人公が「真っ直ぐ行く」とはどうすることなのか? 等々について、読者からのフィードバックをいただけたら幸甚である。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月12日

宗教の必要性

 イギリスの科学誌『New Scientist』が9月1日号で「宗教の必要性」を問いかける特集記事を掲載した。「人間の道徳性が生来のものであるならば、宗教を信じることの意味がどこにあるのだろう?」という書き方である。こういう特集の裏側には、宗教を理由としたテロや戦争が現に行われていることへの批判があることは言うまでもない。私がここに「生来の」と訳したところは、原語では「hard-wired in the brain」である、直訳すると「脳に直に配線されている」とでもなるのだろうか。つまり、最近の脳科学の研究によると、善と悪を識別するなどの道徳性や倫理性の判断は、人間の脳の一部が直接行っているらしいのだ。ということは、どんな人間でも、脳に異常がないかぎり、宗教など信じなくても良心があり、善悪の判断ができるということだから、テロや戦争の元になるような信仰をもつ必要はないというわけである。もっと端的に言えば、「無神論者も道徳的・良心的でありえる」ということだ。

 この記事は、宗教を「争いの元」として単純に否定しているのではない。宗教と道徳性や、信仰と幸福度が正比例し、宗教と喫煙・薬物中毒が反比例するなどの科学的研究にもきちんと触れたうえで、宗教の教えと道徳意識が必ずしも一致しないこと、宗教が憎悪や戦争を正当化する傾向があること、宗教の信者が多い国において、殺人や未成年者の死、性感染症の患者が多いことなどを示す科学的研究に言及し、現代における宗教の意味を問いかけているのである。
 
 私がこの記事を読んで興味をもったのは、米テネシー州のヴァンダービルト大学の社会学者、ガーリー・ジェンセン教授(Gary Jensen)の研究である。この研究では、殺人という社会現象に焦点を当て、それが起る頻度(割合)と、その地域で支配的な信仰の内容に関係があるかどうかを調べた。その結果、善悪二元論的な信仰が強い地域では、殺人事件が多いことが分ったという。例えば、アメリカは最も殺人事件が多い国だが、そこでは96%の人が神を信じると答える一方で、76%が悪魔の存在も信じると答えるそうだ。これと同様の傾向を示す国はフィリピン、ドミニカ共和国、南アフリカだった。しかし、神への信仰はあっても悪魔をあまり信じない国--例えば、悪魔を信じる人が18%しかいないスウェーデン--では、殺人事件と信仰との相関関係は低いことがわかったという。この研究などは、「善一元」の信仰の重要性を示しているように思う。

 また、宗教を信じる“動機”と信仰者の行動に関係があるとする研究も興味深い。こちらはカンザス大学の社会心理学者、ダニエル・バットソン氏(Daniel Batson)によるもので、同氏は信仰の動機を“内的宗教性”(intrinsic religiosity)と“外的宗教性”(extrinsic religiosity)に二分した。前者は、神を信仰することや教会へ行くことそれ自体が信仰の目的であるが、後者は、それらを社会的活動の一種として捉え、しばしば個人の利益が信仰の目的になっている。このような二者間で対比すると、内的宗教性は他人への思いやりや偏見の少なさと関係しているが、外的宗教性は逆に、偏見の多さと関係していることが分かったという。つまり、後者の傾向のある人は、他人を助けるのは、その人にとって“正しい”(自己目的にかなう)人である場合だけということになる。これなどは、いわゆる“ご利益信仰”の弊害を示しているのかもしれない。

 現在の科学は「神を信じるか否か」などの単純な違いで人を分けるのではなく、「どんな神を信じるか」「信じる目的は何か」などのより深く、意味のある視点から、信仰の意味や宗教の存在意義を問うているようだ。私はこれを、歓迎すべきことと思う。
 
谷口 雅宣

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2007年9月11日

迷いはどこから来る? (4)

 この題で2回目に書いた本欄(7月29日)で、北朝鮮と日本の食堂のメニューを比較して質問した際、多くの読者からコメントをいただいたことは本当にありがたい。それに対して、私はまだロクに答えていないので、この場でそれを試みようと思う。その時の質問は、北朝鮮の食堂の乏しいメニューを①とし、日本の食堂の豊かなメニューを②とした場合、下の2つの設問の正誤を判断するものだった:

 ①は②に比べて「欲望」を引き出さないから、神の意思に近い → [正・誤]
 ②は①に比べて「欲望」を多く引き出すから、神の意思に遠い → [正・誤]

 また、その後に続けて次の質問をした--

【問い】人間の欲望をより多く実現する環境の方が、そうでない環境よりも神の意思に近いのか、それとも遠いのか?

 私はここで暗に、北朝鮮社会と日本社会とを対比して、「どちらの社会の方が神の御心をより明らかに反映しているか?」と問うているのである。同様の比較は“イスラーム社会”と“西洋社会”との間にも、“中世”と“現代”との間にも成り立つだろう。また、万民の平等と共同利益の追求により成立するとされる社会主義・共産主義社会と、自己の利益の最大化を目的として発展するとされる資本主義社会との比較も、この線に沿ってできるかもしれない。まぁ、あまり難しく考えずに、素朴に「正」と「誤」を選ぼうとすると、恐らく多くの人は「こんな二者択一は乱暴だなぁ」と感じなかっただろうか?
 
 ポイントは、「選択肢が多い」ということと「欲望」との関係である。この設問をよく読むと、その背後には「選択肢が多ければ欲望を多く引き出す」との前提がある。しかし、それは本当だろうか? 読者のコメントの中にもあったが、豊富なメニューを見て欲望を燃え立たせる人もいれば、そうでない人もいる。その逆に、貧しいメニューを見たときも、豊かな食生活を知っている人の中には、知らない人よりも不満を感じ、「もっと別のものを食べたい」と不満に感じる人もいるに違いない。その場合、現象世界に於いて人の欲望を引き出すものは、「選択肢が多い」といういわゆる“客観的条件”であるよりも、“客観的条件”に対する人の評価--すなわち主観的判断によると考えるべきだろう。そうなると、上記の[正・誤]を選ぶクイズにおいては、「そんな単純な二者択一はできないから、設問は不適当」と言って、回答を拒否するのが正解なのだ。
 
「なんと意地悪な設問か!」と読者は怒るだろうか? 正解のない設問を出すことは確かに意地悪かもしれない。しかし、この設問に答えようとする中で、明かになったことがないだろうか? その1つは、迷いは「自由」(選択肢が多い状態)からのみ来るのではなく、人間の欲望とも関係しているということである。これも読者のコメントの中にあったが、どんなに豊かな(自由な)食事ができる環境にあっても、「すべてのメニューを食べなければ……」などと欲望に引きずられる人には、本当の自由はなく、そこには迷いと苦痛とがあるばかりである。我々は、いわゆる“食べ放題”のレストランに入ったときに、そんな欲望に引きずられたことはないだろうか?

 上に書いた“客観的条件”は、“物質的条件”と言い換えることができるだろう。そうすると、人間は物質的条件を変えることで自由を得たり、迷ったり、あるいは迷いから解放されると必ずしも言えないことがわかる。例えば、お腹をすかせた人がたまたま飛び込んだ食堂のメニューに「カツ丼」と「野菜炒め」と「ざるソバ」しかなかったとする。この人が「何だこの店には3品しかないのかっ!」と不満に思えば、その人は不自由である。しかし、「そうだ、野菜炒めこそ今、自分が食べたいものだ!」と思えば、その人は自由である。無理にそう思うのではなく、本当にそう感じた場合だ。この例を、北朝鮮と日本の食事に当てはめれば、北朝鮮で“貧しい”食生活をしている人も、「この食事こそ私の求めているものだ」との心境に常にある場合は、日本の食べ放題のレストランで10回目に皿を持って立った“豊かな”人よりも、よほど自由であり、迷いが少なく、かつ神の御心に近い生き方をしていると言えないだろうか?
 
 もちろん私は、人間の幸福の実現に物質的条件は全く関係がないとは言わない。多くの人は、独房に入れられて肉体的な自由を奪われた場合は、幸福感を覚えたり悟りの境地に達することは難しい。しかし、ごく少数の人はそういう不自由な条件下でも(例えばソクラテスのように)精神を高めたり、悟りの境地に近づくことができるのである。そこで改めて問おう--迷いはどこから来るか? 現時点での答えは、こうなる……「欲望追求のために自由を行使せんとするところから来る」。

谷口 雅宣

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2007年9月10日

迷いはどこから来る? (3)

 大阪に住む「O」という69歳の男性から最近、長文の手紙をもらった。この人物は、過去にも私と妻宛に長文の手紙を送ってきた人で、その内容はあまり感心しないものの、レポート用紙25~26枚を一気に細かい文字で埋める“迫力”には感心していた。今回の手紙もA4判の用紙7枚を使っていて、何を書いているかというと、私がこの7月に「迷いはどこから来る?」との題で書いた文章(と講話の一部--7月21日同29日の本欄)が気に入らないといって、「暇な自由時間をもてあました真理を、真理の悟り(大悟徹底)とは関係のない常識の低次元思考であるが、単に緻密なだけの肉体頭脳知で茶化すインターネットの言葉遊びはやめて頂きたい」とカンカンになって怒っているのである。

 私が「暇で自由時間をもてあましている」などという間違った情報をO氏がどこから得たか知らないが、他人の悪意あるガセネタを信じたために、「怒りに任せて手紙を書く」という非生産的な活動に貴重な時間を費やさねばならない人は、実に不幸だと思う。しかし、「ガセネタを信じる」という行為も本人が選んだものだから、O氏の怒りを鎮めるには、O氏自身の自覚によるほかはないのである。幸い、ご本人はまだ聖使命員であるようなので、生長の家との縁は切れていないと思う。したがって、私がここでO氏の誤解を解くための努力をする価値は残されていると考えたい。
 
 O氏の怒りのポイントは、簡単である。それは、私が本欄に上記の日付で書いたことが、谷口雅春先生の著書にある教えと違うというのである。O氏によると、「迷いはどこから来るか?」に対する答えは、①『甘露の法雨』の「無明」の項、②『生命の實相』第21巻経典篇のp.131、③『無門関解釈』第31則「趙州勘婆」の項に明確に示されているから、これを中心に解答すべきなのに、「迷いは自由から来る」などと答えることは「唯物論世界の常識を論理的に多少深めた解答」にすぎないとコキ下ろしている。
 
 私はたまに、こういう種類の人々から手紙をもらう。「こういう種類」という意味は、手紙を書く前に誰かから偏った情報を得ていて、それを全面的に信じたうえで、「お前は間違っている」という前提のもとに、言葉だけ丁寧に書いて“忠告”とか“助言”とする種類の人である。そして、そういう人々のほとんどは「生長の家の神髄はこれだ」と自ら悟っていて、私を教化しようとするのだ。だが不思議なことに、そういう人々のほとんどは地方講師の資格ももっていないし、過去にももった形跡がないのである。O氏もその例に漏れない。つまり、よく勉強していない人が「お前は間違っている」という忠告をくださることが多いのである。

 単刀直入にO氏の間違いを指摘するには、谷口雅春先生の『新版 真理』第10巻実相篇の次のご文章を読んでもらえば足りるだろう:

「神は人間を“神の子”としてつくりたまうた。そして人間を一応“神の子”として独立自由の人格として干渉しないで其の為す『自由』にまかせ給うた。かくて人間は過ちを犯す『自由』も与えられた。“過ち”をするとはあるべき筈の“正しい位置”から墜落すると云うことである。“過ちを犯す自由”だなんて、そんな自由はある筈はない、そんな自由を神が与えたまう筈はないと抗弁する人があるかも知れない。併し、墜落する自由も脱線する自由もなくて、軌道(レール)の上だけ正しく走るように設計された機関車には果たして自由はあるであろうか。それはただ機械的に軌道の上を走るだけである。機械的に正しく軌道を走っても、それは『正しい』とは言えても、『道徳的に善である』と言うことはできない。『道徳的善である』ためには、常に墜落したり脱線したりする自由が一方にあるのに、みずから好んで墜落したり脱線したりしないところに善としての価値があるのである。自由の一方には必ず墜落や脱線が準備されているのであるから私たちは自由を濫用して脱線してはならないのである。」(p.289)

 上の引用文で雅春先生が説かれていることと、私が7月21日の本欄に掲げた講習会での解答がどれほど違うかは、多くの読者には容易に理解されると思う。もし私の説明がO氏の言うように「唯物論の常識を少し深めたもの」であるならば、谷口雅春先生も上記のご文章を書いたときには、唯物論者だったのだろうか?
 
 私はO氏を個人的に批判するつもりはないから、O氏の手紙からこれ以上引用するまい。しかし、O氏が忘れている点を本欄の読者には思い出していただきたい。それは、7月21日の本欄には、次のように書いてあるのである--「この答で充分とはとても言えないが、昨年10月に書いた『表現者の悩み』『表現者の悩み(2)』の内容を補って視聴していただくと、さらに理解が深まると思う」。「とても充分とは言えない」と断っているものをわざわざ選び出して批判するO氏は、まったく不思議な人物である。

 谷口 雅宣

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2007年9月 9日

「シドニー宣言」採択される

 オーストラリアのシドニーで開かれているAPEC(アジア太平洋経済協力会議)は8日、首脳会談で地域内の省エネルギー目標と森林面積拡大目標を含む特別声明「シドニー宣言」を採択した。具体的には、省エネ目標は2030年までに2005年比で25%以上改善し、森林面積は2020年までに域内で2千万ha以上拡大するというもの。中国などの域内途上国が数値目標を設けることに強く反対していたことから考えれば、これらの数字が合意されたことは進歩といえる。反面、これらの数字は“数値目標”とは言え拘束力がなく、域内の21の加盟国と地域が自主的に設定することになった点が残念である。

 また、合意されたのは「省エネ目標」(エネルギー利用効率の改善)であってCO2の「削減目標」ではない。したがって、この目標が達成されたとしても、CO2の排出量が地域全体で増加する可能性もある。その場合、国別の削減目標を定めた京都議定書の考え方と矛盾することになってくる。9日付の『日本経済新聞』によると、このような合意に至った理由は、「経済成長に伴って増える温暖化ガスの排出量を減らすのは難しいため、技術革新などで達成されやすい省エネ目標を優先した」かららしい。同紙によると、「エネルギー効率」という言葉の明確な定義は今回の合意の中で示されていないが、「通常は国内総生産あたりのエネルギー消費量で測る」という。だから、経済成長が盛んな中国などで国内総生産が50%増えると、エネルギー効率が25%しか向上しない場合は、CO2の排出量は増えることになる。
 
 しかし、森林面積の拡大目標を明示したことは歓迎できることだ。この提案をしたのが中国であるという点も、注目に値する。中国では、急速な経済発展に伴って広大な面積の森林が一時、失われて砂漠化が進行していたが、2000年以降は国主導の造林事業などで森林面積が拡大している。今回、この経験を踏まえて自らの得意分野を国際的な努力目標に格上げしたことで、京都議定書以降も国別のCO2削減目標の設定を推進するヨーロッパなどの議論に“先手”を打つねらいがあると見られる。8日付の『朝日新聞』によると、中国では2000~05年の平均で、毎年、九州全体に相当する約400万haの森林面積を拡大しているという。森林面積を2000万ha以上拡大した場合、増加分の森林の炭素吸収量は約14億トンになるらしい。
 
 中国は現在、アメリカについで世界第2位の温暖化ガス排出国だ。この国がCO2の排出削減に本腰を入れるようになれば、第1位のアメリカも重い腰を上げずにいられなくなるだろう。しかし、今回の合意では、「排出削減」ではなく「エネルギー効率」の向上と「森林拡大」に重点を移そうとする方向に動いたようだ。アメリカやオーストラリアもそれに同調しているから今後、京都議定書後のグローバルな温暖化対策をめぐり、ヨーロッパ等の「排出削減」派との間に“綱引き”が行われることが予想される。

 中国政府が最近発表した「再生可能エネルギー中長期発展計画」によると、同国では風力や太陽光などの自然エネルギーの利用割合を、現在の8%から、2010年に10%、2020年には15%にまで高める考えらしい。(5日付『日経』)これに対し、日本の資源エネルギー庁の統計を見ると、2005年度の確定値で再生可能エネルギーと未活用エネルギーを加えた利用率(一次エネルギー総供給に占める割合)は、消費エネルギー全体のわずか「2.8%」である。そして、同庁の定義する「自然エネルギー」(太陽熱利用、バイオマス直接利用、風力発電、その他温度差エネルギー)の総計では、わずか「0.2%」という状態である。これらを見ていると、日本は自然エネルギーを活用した温暖化対策の面でも、いつのまにか中国に大きく遅れをとってしまっているのである。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○資源エネルギー庁『平成17年度(2005年度)エネルギー需給実績(確報)概要

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2007年9月 8日

「9」の縁起

 明日9日に行われる生長の家講習会のために、台風が通過したばかりの北海道函館市に来ている。30℃を超えた東京から来てみると、27℃の気温は涼しく、夕方になるとさらに気温は下がり、海からの風は心地よくありがたい。空の半分以上を雲が覆い「台風一過」という感じではないが、明日はきっと“講習会日和”のよい天候になるだろう。

 中国の陰陽の思想によると、割り切れない奇数は「陽」の数で縁起がいいとされている。日本でも、偶数よりも奇数を重んじる。そこで9月9日は「重陽(ちょうよう)の節句」といい、最大の奇数である「9」が2つ重なる縁起のいい日にされているらしい。日本では「菊の節句」と呼ばれ、平安時代には宮中で不老長寿を願う行事が行われたそうだ。函館空港から宿舎までの車中、畑山宏・教化部長がそのことに触れながら、「明日は平成19年の9月9日で、9が3つ並びますからさらにおめでたい。そう言って運動を進めました」と報告してくれた。また、「菊」の節句だから、講習会を「聴く」のに最適な日なのだそうだ。ちなみに、台風は「9号」が過ぎ去り、同教化部長の函館での生活は「9年目」に入っている。「9」の数字は「苦」に喩えられることもあるが、このように善い方向に心を振り向ければ、「苦」はたちまち「楽」に転じるものだと感銘した。

『北海道新聞』の8日の夕刊に、道産のトウモロコシが東京で高値でも売れているという記事が載っていた。興味をもって読み進んでいくうちに、頭の中に疑問符がいくつも浮かび上がった。トウモロコシの産地は岩見沢市郊外の農場で、ここで午前3時半に懐中電灯の光をたよりに1本1本もぎ取ったものを、すぐに倉庫に運び込み、そこで真空冷却器で2℃に急速冷却する。これを保冷コンテナに積み、午前9時半に新千歳空港発の全日空機で羽田空港へ運び、トラックに積み替えて、東京・世田谷のスーパー「成城石井」成城店へ運ぶ。その店頭に並ぶのが同じ日の午後2時40分ごろなのだという。収獲から約11時間で店頭に並ぶという新鮮さが付加価値となって、通常のものより100円ほど高い「1本298円」でもよく売れるのだという。

 私は、消費者に柔らかくておいしい新鮮なトウモロコシを食べてもらおうという関係者の熱意に、文句を言うつもりは毛頭ない。食品は新鮮さが“命”だから、遠方の人にそれを届けるためには「航空機」や「保冷コンテナ」が必要なのは当然である。しかし、その過程で大量のCO2が排出されることを忘れないでほしいのである。この「CO2の排出」は、地球環境全体にとってマイナスのコストである。が、現在の法律・経済システムの中ではこのコストは全く計算されずに、トウモロコシの値段が決定されている。ものの値段に、環境へのコスト(負荷)が正しく算入されずに経済活動が行われれば、環境破壊が進行することは明らかなことだ。これは「制度上の欠陥」なのであって、消費者を喜ばそうという「人の心」の問題ではない。別の言い方をすれば、人々の心が善意に満ちていても、制度上の欠陥が改善されない限り、社会や環境が悪化することはあり得るのである。

 地球温暖化を抑止するためには、「CO2の排出」を商品やサービスのコストに正しく算入する制度が、早急に施行されなければならない。これを行うための最もわかりやすい制度は、化石燃料の使用量に応じて課税する「環境税」や「炭素税」である。これと同じ効果は、企業や団体のCO2排出量の上限を定め、それを超える部分の削減を義務づける「キャップ・アンド・トレード」の制度と排出権取引によっても実現可能である。しかし後者は、煩雑で検証が難しいから、事務コスト等の余分なものが発生するし、効果は確実には予測できない。日本においては、このいずれの制度的変更も経済団体の反対で実施されていない。まことに残念なことである。
 
 安倍首相は、現在進行中のAPECの首脳会議で温暖化ガスの中・長期的削減を提案したそうだが、京都議定書の目標達成もおぼつかない現状の中では、包括的数字だけを示したとしても実効性はきわめて乏しいと思う。政治的意志を伴わないボランティア精神や国民運動だけでは、化石燃料の利用を基盤とした現在の社会・経済制度を変えることはできないのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月 7日

人と車が“食品”を奪い合う

 明日の8日からオーストラリアのシドニーで開かれるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の首脳会談では、地球温暖化問題が主要議題になるとされているが、議長国のオーストラリアなどが域内の諸国が数値目標を掲げることをねらっているが、中国を初めとした発展途上国がそれに反対の意向を示していて、なかなか身のある成果を期待できない状況だ。その一方で、長期化している原油価格の高止まりにより、農産物からエタノールやヤシ油などの燃料を取り出すことが利益を生むようになっているため、小麦や大豆などからトウモロコシやヤシの生産に切り替える農家が増えている。その結果、食品全体の価格上昇が始まっている。本欄で何回も書いてきたが、このような状況が長く続けば、農地を「人」と「自動車」が奪い合うという新たな倫理問題が生まれることになる。

 6日付の『日本経済新聞』は、バイオエタノール需要のおかげで作付けの減った小麦や大豆の価格が高騰し、それが加工食品や外食の値段の上昇につながり始めたことを伝えている。日清食品は、来年1月から即席麺など製品の9割を最大で11%値上げする。小麦はバイオ燃料ブームのほかに、産地であるオーストラリアやヨーロッパの天候不順で生産量が落ち込む見通しとなったために価格が高騰している。このため、製粉各社は業務用小麦を値上げする動きに出ており、それが小売り段階でのパンの値上げにつながる可能性があるという。食用油やカカオ豆も値上がりしているため、菓子メーカーは、内容量を減らして売る実質値上げをすでに実施しているらしい。例えば、江崎グリコの「ポッキー」、森永製菓の「チョコフレーク」、おやつカンパニーの「ベビースターラーメン」などが、これに該当する。
 
 外食産業では、すかいらーくがこの6日から、全体の75%に当たる2400店で、ほぼ全メニューを一律10円値上げするそうだ。また、日本マクドナルドでは6月から、人件費上昇を理由に9割の店舗で値上げをしているほか、スターバックスも11月からカフェラテなどを20~40円値上げする予定という。穀物の値上がりは、穀物飼料の値上がりにつながるから、それによって肥育される牛や養殖魚類の価格にも反映する。そこからさらに乳製品の値上がりにもつながっている。昨年チーズを値上げした雪印乳業と明治乳業は、乳原料の値上がりが続いていることから、再値上げも検討中という。

 食品の値上がりは、日本のような豊かな国ではさほど痛手にならなくても、世界の多くの貧しい国々にとっては、人命の問題になることを忘れてはいけない。そんな理由もあって、私は日本で一部販売されている自動車用のバイオ燃料をまだ買っていないのである。バイオエタノールなどのバイオ燃料は、現在のようなトウモロコシやサトウキビ、ヤシ、小麦などから作らずに、できるだけ食品と競合しない原料から作るべきである。農家や企業家にはぜひ、そういう観点から生産品を選んでほしいと思う。

 この方面での“明るい話題”がないわけではない。トヨタ自動車は、私が期待している家庭電源からの充電式ハイブリッド車(プラグイン・ハイブリッド)を7月に公開し、すでに公道走行試験を始めている。また、6日の『日経』によると、同社は海外では、電気自動車で実績のあるフランス電力と提携して、フランスに200箇所ある街頭の充電システムを活用して走行試験を行うという。この型の自動車は、電気代の安い夜間に充電できるから、燃料の消費を大幅に抑えることができる。また、食品の値上がりを抑えながらバイオ燃料を使うためには、生産効率を上げることが重要だ。7日の『日経』によると、三井造船は、バイオエタノールの生産性を従来の4倍にまで高める技術を開発した。
 
 最近、汎用プラスチックであるポリプロピレンを、石油からでなく、雑草から合成する技術を開発した企業もある。地球環境産業技術研究機構と本田技術研究所による技術で、“脱石油”という意味で大いに期待できる。7日付の『日経』が伝えるところでは、この技術は、植物に含まれるセルロース(繊維)を糖に分解したあと、遺伝子を組み換えた大腸菌などの微生物を使って「プロパノール」というアルコールの1種を作り、これからポリプロピレンを合成するらしい。重さ2~3kgの雑草から1kgのポリプロピレンを作れるという。このプラスチックは、フィルムや容器、自動車部品としても利用できるし、雑草は農産物と競合しないから、「食料を奪う」という倫理問題も惹き起こしにくいだろう。日本の企業は、こういう分野でどんどん世界をリードしていってほしいものだ。

谷口 雅宣

 

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2007年9月 4日

ヴァチカンも“炭素ゼロ”へ?

 宗教が地球環境問題に取り組むことは、ひと昔前までは好奇の目で見られていたが、今では“当たり前”のように考えられつつあることは嬉しい限りだ。環境マネージメントの国際基準である「ISO14001」を生長の家がいち早く取得したことは、本欄の読者なら旧聞に属することだろう。そして今年からは、教団の活動から実質的にCO2の排出をなくしてしまう“炭素ゼロ”の運動が生長の家では始まっている。ところが、世界最大の宗教であるキリスト教の“総本山”とも言えるローマ法王庁が、いきなり“炭素ゼロ”を実現したと聞いて驚いた。
 
 キリスト教は、環境問題を起こした“元凶”のように一部では言われることがある。それは、『創世記』第1章28節に、神が人間を創造された際に、それを祝福して「生めよ、ふえよ、知に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」と仰ったと書いてあるからで、ここから「人間は自然界を自由に利用し、支配して構わない」という人間至上主義が生まれた、と理由づけるのである。私は、この説をあまり好まない。『創世記』は、何もキリスト教だけの聖典ではなく、ユダヤ教もイスラームもそれを典拠とした教えを説いている。また、神道発祥の地であり、大乗仏教が華開いた地であるわが日本では、キリスト教など意に介しない多くの人々が、数々の環境問題を起こし、現在も森林破壊を続けているのである。

 まぁ、このことはさておき、ヴァチカンの“炭素ゼロ”とはこういう話である。今日(9月4日)付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、ハンガリーのある新興企業がこの夏、ローマ法王庁に対して寄付を申し出たという。その寄付の内容は、ハンガリーのティツァー川(Tizsa River)にある“ハゲ山”ならぬ“ハゲ島”の15ヘクタールの土地にこの企業が植樹することにより、ヴァチカンが2007年に排出するCO2をすべて吸収させる、というものだ。これにより相殺されるのは、自動車の運転、事務所の暖房、バシリカ聖堂の夜間照明などから排出されるCO2だという。植樹でできた森は「ヴァチカン気候林」(Vatican Climate Forest)と名づけられ、ヴァチカンは世界で初めてカーボン・ニュートラル(炭素ゼロ)を達成した“国”となるらしい。

 この寄付を受け入れるためのセレモニーの中で、ヴァチカンのポール・プーパード枢機卿(Paul Poupard)は、法王のベネディクト16世が最近、「国際社会は“緑の文化”を尊重しまた支援しなければならない」と述べたことを紹介したうえで、「『創世記』には、神は初めに地を豊饒にするための保護者(guardian)として人間を定められたと書かれている」と語ったという。ヴァチカンは最近、自ら太陽光発電装置を導入するなど、環境問題に取り組み出しているそうだ。また、この試みでは、ハンガリーは森林が回復して気候変動と経済の悪化が防げ、寄付をした企業は、ヴァチカンの“お墨付き”をもらうことで大きなパブリシティ効果が得られる。ハンガリーの“ハゲ島”は総面積が225ヘクタールあり、この新興企業以外にもヨーロッパの複数の国とコンピューター・メーカーのデルが、カーボン・オフセットのためのプロジェクトを購入済みという。

 今年の夏の異常な暑さは、日本だけでなく全世界で観測されている。ギリシャでは今、全国に森林火災がひろがっているし、北極では氷の融解が急速に進んでいる。今日の『日本経済新聞』によると、日本の今年6~8月の天候は「予想外」のこと続きで、3ヵ月間の平均気温では平年比は+0.5℃とさほど高くならなかったが、8月を中心に猛暑となり、埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市の「40.9℃」を最高に、全国101地点で最高気温を記録したそうだ。反面、6~7月は予想外の涼しさで、関東以北の梅雨入りの時期も、当初の発表より約1週間も遅れ、関東甲信地方は6月22日ごろとなった。この梅雨入りは、1967年と並んで観測史上最も遅かったという。梅雨明けもこれに伴って遅れたため7月が低温となり、8月の猛暑が一気に起きたことになる。
 
 人類は汚職や疑惑や宗教対立にかける時間を大幅にへらし、衆知を集めて、もっと速く、もっと決定的に、化石燃料を基礎とした文明から脱却していかなければならないと思う。

谷口 雅宣

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2007年9月 3日

奇蹟について (4)

 前回の本欄では、10個の数字からなる数列が出る確率の問題を通して、私たちが毎日経験するいわゆる“日常”や“当たり前”の生活が、少なくとも数学的な意味においては全く“日常”でも“当たり前”でもなく、「毎日毎日が奇蹟的にユニークな体験であることが100%確実」であることを示した。この「100%確実」という判断は、今の人間の肉体的一生が80年前後であるという事実を踏まえたうえでの表現であることをお断りしておく。
 
 ところで、8月28日の本欄では「宗教的な意味での奇蹟」とは何かを考え、谷口雅春先生の『真理』第10巻とキリスト教神学を参考にしながら、生長の家では、単に稀な現象のことを奇蹟とは認めず、それが「自然法則を超える」場合に奇蹟として認めていることを指摘した。そして、宗教的意味での奇蹟を「自然界の法則を超えて、倫理的道徳的秩序を現わすために起る現象」と定義した。すると、0から9までの10枚のコインが「7286519034」の順序で並ぶ場合と「0123456789」の順序で並ぶ場合は、どちらが宗教的な意味での奇蹟であって、どちらがそうでないのだろうか? 読者にはもう、答えは明白だろう。いずれの場合も自然法則を超えていない(つまり、出る確率がゼロではない)から、宗教的には奇蹟でないのである。
 
 だから、この厳密な意味での奇蹟の定義を採用すれば、「毎日毎日が奇蹟的にユニークな体験」だという上記の表現は正しくない。しかし、その一方で、「奇蹟」という言葉の意味には「常識では考えられない不思議なできごと」(『新潮国語辞典』)とか「常識では理解できないような出来事」(『大辞林』)が含まれていることを考えれば、「常識」のレベルが変わることによって、同じ現象が「奇蹟」として扱われたり、扱われなかったりすることがあり得るのである。そして私は、本欄の仮想実験で10枚のコインが、わずか1回のトライアルで「7286519034」と並んだり、あるいは「0123456789」と出る理由が「常識」では理解できないと思うので、この実験のすべての結果を「奇蹟的」と呼ぶことは許されると考える。さらに言えば、これと同じ理由で、私は毎日の体験を(緩い意味で)「奇蹟的」と呼ぶことも許されると思う。
 
 何かすごく面倒な言い方になってしまったが、ここで再び「偶然」とは何かを考えよう。辞書的な意味(『新潮国語辞典』)では、偶然とは「予期しなかったさま」であり「たまたま」である。これをもっと厳密に哲学的に表現すると、偶然とは「因果律によってあらかじめ知ることができない事件が起ること」(『新潮国語辞典』)であり、「事象の因果系列に対して、それに含みえない事象が生起すること」(『大辞林』)である。前者と後者の意味は微妙に異なる。『新潮国語辞典』の意味では、「原因がわからない事象が起った」ときに使う言葉が「偶然」である。ところが『大辞林』では、「原因がなく事象が起った」ときに「偶然」というらしい。私には前者の意味は分かるが、後者の意味は採用できない。なぜなら、何ごとにも原因があるというのが因果の法則だからだ。
 
 そこで前者の意味を採用すると、「原因がわからない」という言葉の代わりに使うのが「偶然」ということになる。何のことはない、これではコイン並べの第1回で「7286519034」が出るのも「0123456789」が出るのも「偶然だ」とすることは結局、「原因がわからない」と言うのと同義なのだ。つまり、「君、それは偶然だよ!」とまことしやかに述べることは「原因がわからない」と言っているに過ぎないのである。谷口清超先生は前回触れた論文の中で、そのことをきちんと指摘されている:
 
「実験的に2という数字を選ぶときは、それは第1回目に出てくることもあり、6回目に出てくることもあり、14回目に出てくることもある。では何が原因で、ある時は1回目に出、ある時は6回目に出、ある時は14回目に出るのであるか。それは決して“偶然に”出るのではない。偶然に第1回目に出るのではなく、それが第1回目に出るには出るだけの理由があって出るのである。ただその原因を吾々はしらない、それで偶然に出ると名づけるだけなのである。“偶然”をかつぎ出すのは、人間の無智の告白以外の何ものでもないのである」(谷口清超新書文集2『神は生きている』、p.157)
 
 そして、先生がこの引用文の次に書かれている言葉に注目しよう--「吾々はその原因に或る偉大なる叡智者を確信するのである。その叡智者を名づけて吾々は“神”と呼ぶのである。“凡ての原因”を名づけて“神”と呼ぶ」。したがって、「神の子」である人間が、コイン並べの結果に影響を与えることが「できない」とは言えない、と先生はいう。
 
「そこで実際の操作において吾々がもし“0123456789という数列を引き出そう”と心に思って、実験をする場合と、何も思わずに、ただ無意識的に数列を引き出す場合と、果たしてそれは同一の結果を得るであろうか。これは非常に重大な問題である。(中略)唯物論者が偶然に帰している原因の中にも、実はこの人間の心の作用があるのではないか。若し心が物質や環境に作用を及ぼすものであると考えるならば、明かにこの心的原因は見逃すことの出来ない問題である」(同書、pp.158-159)

 なかなか注意深い表現であるが、ここにはパラサイコロジー(超心理学)が成立する可能性が示されていると考えていいだろう。
 
 谷口 雅宣

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2007年9月 1日

奇蹟について (3)

 前回の本欄で「コイン並べ」のプログラムを掲示したが、一時うまく動かなかった点はご容赦いただきたい。この「コイン並べ」と同じ考え方で“奇蹟”を論じることで、ある興味ある結論にたどりつくことができるということを、生長の家総裁・谷口清超先生が説かれている。実は、清超先生が青年時代に書かれた「偶然と宇宙意志」という論文の中に、この仮想実験と似たものが出てくる。ただし、私の「コイン並べ」では5つ数字を使った数列を問題にしたのに対し、清超先生は、その論文で「0」から「9」までの10個の数字の組み合わせが出る確率について論じておられる。また、私の仮想実験では、数字の繰り返しを許さない順列であるのに対し、先生の論文では数字の繰り返しが許される順列(例えば、「1111111111」も許される)である点が違う。が、実生活に当てはめてみると、これらの違いはほとんど解消するだろう。先生は、「7286519034」が出る確率と「0123456789」が出る確率とは全く同じで、それは「ものすごく少ない」のだという。数字で表せば、それは10の-10乗(100億回に1回)で、ほとんど0に近いから「これを0とみなした方がよい」とも書かれている。つまり、同じ数列が出る確率はほとんど「0」というわけだ。
 
 さて、次にこう考えてみよう。私の仮想実験では5つの数字を使ったが、これを清超先生のように「10個」まで増やしてみる。そして、本欄の仮想実験の方法を使って引き出した最初の10個の数列が「7286519034」だったとする。また、2番目に引き出した数列は「5472908631」だったとする。そして、3番目は「2910547863」、4番目は「7863294105」……と、異なる数列を3,628,800個まで書くことができる。これら約360万回の実験のたびに目撃しているのは皆、生起する確率が「ほとんど0」の結果である。生起する確率が「ほとんど0」の現象を「奇蹟」と呼ぶことが許されれば、この360万回の実験のすべてで、実験者は「あぁ、奇蹟が起った!」と感動していいのである。ところが、普通の人間はそんなことでは感動せず、「当たり前だ」と退屈に思う。そして「0123456789」や、その逆の配列が出たときにだけ感動する。これは一体どうしたことだろう?
 
 さらに、次のように考えてみる。私たちの仮想実験では、10個の数字の組み合わせで360万通りの異なる(ユニークな)結果を得た。それでは、私たちが毎日経験している「実生活」は、一体どれくらいの“変数”で構成されているだろうか? 別の訊き方をすれば、私たちの実生活の1日を構成する要素は、どれくらいの数になるだろうか? 試しに、朝起きたときからの“要素”を列挙してみると……目覚ましの音、ラジオのニュース、配偶者の声、トイレの音、窓外の景色、鏡に映る自分の顔、子どもの顔、挨拶の声、俎板を包丁が叩く音、掃除機の音、テレビのアナウンサーの顔、その服装、トーストの焼け具合……たちまち10個以上挙げてしまったが、まだ1日のごく始まりにすぎない。つまり、私たちの1日の構成要素は「ほとんど無数」である。10個の数字の組み合わせで360万個のユニークな数列ができるのだから、「ほとんど無数」の構成要素をもつ私たちの実生活の1日が、全く同一の組み合わせで繰り返される確率は、どれほどだろうか? それは100%確実に「0」と言えるだろう。
 
 にもかかわらず、どうして私たちは「当たり前の日常」とか「単調に繰り返される日々」などと言うのだろう? 毎日毎日が奇蹟的にユニークな体験であることが100%確実なのに、「退屈」で「つまらない」などと言うのだろうか? その理由は、私たちが「7286519034」を“当たり前”と感じる一方、「0123456789」を“奇蹟的”と感じるのと同じ--つまり、完全な錯覚なのである。これらのことをじっくり考えてみると、「当たり前の奇蹟」という言葉の意味がより深く理解されるだろう。そして、それらの「1日」が24時間で構成され、「1時間」が3600秒で構成されていることを思い出せば、「今を生きる」ことの大切さがさらに実感されると思うのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○谷口清超著『神は生きている--青春の苦悩と歓喜』(日本教文社、1976年)

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