山梨県立文学館にて
甲府市で行われた生長の家講習会が終わってから、同市にある山梨県立文学館で「宮沢賢治 若き日の手紙--保阪嘉内宛73通--」という展示を見た。私は、宮沢賢治にも保阪嘉内にも詳しくないが、主として前者への興味からこの企画展に足を運んだ。宮沢賢治も保阪嘉内も明治29(1896)年の生まれで、前者は昭和8(1933)年、後者は同12(1937)年に他界している。2人は20歳から盛岡高等農林学校で共に学ぶようになり、翌年に同人文芸誌『アザリア』を発刊し、25歳までは頻繁に手紙を交換し合う親友だった。が、賢治の国柱会入会を境にして音信が途絶え、大正14年(29歳)に賢治から出した手紙を最後に交流は終った、というのが定説らしい。
宮沢賢治は、大正13(1924)年に詩集『春と修羅』第1集と『注文の多い料理店』を刊行している。また、月刊雑誌『月曜』(大正15年1月刊)の創刊号に「オツベルと象」、2月号に「ざしき童子のはなし」、3月号に「寓話 猫の事務所」を発表した。しかし「セロひきのゴーシュ」「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」などの多くの作品は、没後の発表である。
保阪嘉内は、22歳で盛岡高農を除名処分された後、上京。23歳で1年志願兵として入営。満期除隊後は甲府にもどり、山梨教育会書記、電気会社勤務をへて、28歳で山梨日日新聞に入社し文芸部記者となる。翌年、結婚して同社をやめ35歳まで農業を営む。その間、藤井青年訓練所を開き、禊教の講師となり、村会議員に選ばれたり、陸軍中尉に任官する。35歳で東京・久留米村に転居し、日本青年協会武蔵野道場主任、武蔵女学院講師となる。
今年7月21日付の『盛岡タイムス』に載った岡澤敏男氏の記事によると、「嘉内はキリスト教に通じる宗教的情感を土台に民衆の救済を説くトルストイアンだった」のに対し、「賢治は仏教を土台に衆生と無上道をめざそうとしていた」らしい。しかし、賢治の国柱会入会ごろから関係が徐々に悪化し、「賢治は嘉内を道連れにしようと日蓮宗に帰正を迫り、手紙は日増しに激しく“日蓮大聖人門下になってくれ”としつこく勧誘し」たという。こういう信仰上、思想上の対立で2人は袂を分ったらしい。
今回の展示で私の目を惹いたのは、22歳のときに賢治が嘉内宛に出した手紙である。そこには「人間が生物を食する」ことについての若い賢治の純粋な煩悶の軌跡があった。5月19日付のその書簡には、こうある:
「私は春から生物のからだを食ふのをやめました。けれども先日『社会』と『連絡』を『とる』おまじなゑにまぐろのさしみを数切たべました。……食されるさかながもし私のうしろに居て見てゐたら何と思ふでせうか。『この人は私の唯一の命をすてたそのからだをまづさうに食つてゐる。』『怒りながら食つてゐる。』『やけくそで食つてゐる。』『私のことを考へてしづかにそのあぶらを舌に味ひながらさかなよおまへもいつか私のつれとなつて一緒に行かふと祈つてゐる。』『何だ、おらのからだを食つてゐる。』まあさかなによつて色々に考へるでせう。……(中略)……私は前にさかなだつたことがあつて食はれたにちがひありません。」
「又、屠殺場の紅く染まつた床の上を豚がひきずられて全身あかく血がつきました。●倒した豚の瞳にこの血がパッとあかくはなやかにうつるのでせう。忽然として死がいたり、豚は暗い、しびれのくる様な軽さを感じやがてあらたなるかなしいけだものの生を得ました。これらを食べる人とても何とて幸福でありませうや。」
これらの文章の背後には、仏教の輪廻転生の思想があることは明らかだ。宮沢文学の背後に流れる「人間と動物との一体感」の源が、ここにあると感じた。
谷口 雅宣