迷いはどこから来る? (7)
「善」と「自由」との関係は、本シリーズに通底する重要なテーマである。ところが、「迷いはどこから来るか?」という疑問に対して、私が自由の話をしたところ、「迷いが自由から来るならば、迷いをなくすためには自由をなくせとの結論になる」と誤解した読者がいたようである。私は、上記の鈎括弧内の文章の前半のことは確かに言ったが、後半部分を言ったり書いたことはない。なぜなら、ことはそれほど単純でないことをよく知っているからだ。本シリーズで私が「北朝鮮」と「日本」の食堂の例を使ったのも、自由のない北朝鮮をほめたたえる目的ではなく、むしろその逆であることは、普通の読者なら文脈から理解してもらえると考えていた。「ブログ」などという自由な発言を重視する媒体を積極的に使っている人間が、言論統制の厳しい不自由な国の方が、悟りに至る道に近いなどと考えるはずがないのである。
善は倫理学における最も基本的な主題の1つであるし、古来、哲学上の重要問題でもあった。私は本シリーズでは、「自由」を「選択肢の多い状態」の意味で使っているが、「自由がなければ善はない」としているのだから、この善とは「道徳的善」の意味である。どこかでもこの例は使ったことがあるが、例えば、銀行強盗に拳銃を突きつけられて自由を奪われた銀行員が、他人の預金の一部をその強盗に渡したとしても、彼または彼女の「道徳的善」は問われないし、刑事責任も問われないだろう。その理由は、我々が一般に「自由がなければ善も悪もない」と感じているからだ。だから、動物が自由のない“本能”にもとづく行動をしても、普通は「善悪」の問題にはならない。(通俗的には「悪いサル」などという言い方はされるが、それは道徳的な善悪の問題ではない)一方人間は、他の動物や植物に比べて、大幅に自由な生き方ができる存在だから、それだけ「善」や「悪」の問題が生じるのである。
本シリーズの3回目で紹介した『新版 真理』第10巻実相篇の谷口雅春先生のお言葉は、この人間のもつ「自由」が“神の子”としての徳性の1つであることを明白に教示されている。『生命の實相』全集の中でも第13巻倫理篇上の最終部分(pp.176-188)や第14巻倫理篇下/教育篇のpp.20-21などに、同様の趣旨のご文章が載っている。因みに倫理篇下のご文章をここに掲げよう:
「人間が悪をも犯しうる自由をなぜ神が与えたのだろうかという疑問は読者からたびたび提出せられる疑問である。善とはなんであるか。それは真っ直なというだけではない、善とは人格(すなわち自由の主体)が、その自由なる生命の発露として正しい道に乗ったことを善という。強制されて正しい道にのったのは善ではない。それは人格的自由なしに、ただ外面がやむをえず正しい姿をしているというだけにすぎない。本当の善と、似て非なる強制された正しさとの区別は、肉筆で描いた線の美と、定規で描いた線の美との相違のようなものである。(中略)もし、人間が正しい道にのるほかになんらの自由もないならば、われわれの行為は定規をあてられたと同じことになり、真っ直には歩めるかもしれぬが、定規で描いた直線と同じようにすこぶる興味なく生命なき人間の動きとなってしまうのである。」
それでは、迷いが自由から来るならば、迷いをなくすためにはどうすべきか? この問いに対する答えは、すでに本シリーズ前回までの中に書かれている。すなわち、迷いは「人間は肉体である」とする謬見から来るのだから、社会に向っては「人間は神の子である」との真理を伝え、また自身においてはその自覚を深め、その自覚にもとづいた行動を起こすことが重要である。そうすることによって、数多くの選択肢がある現代社会の中にあっても、人・事・処に応じた正しい行動が多様な形で遂行できるに違いない。そして、それが「善」を表現することになる。神の御徳の1つである「善」は、こうして人間の自由な判断によって最も完全に表現されるのである。
「しかし……」と読者は不満に思うだろうか? 「理論的にはそうかもしれないが、実際は真理の伝道は難しいし、“神の子の自覚”もなかなか得られない……」。もし読者が、そういう“迷い”の渦中にあるならば、それは「実際の社会」「実際の自分」をアルと認めているからではないか? 現象は唯心所現であるから、「迷った社会」も「迷った自分」も本当はナイ。それらは、自らが描き出した“作品”である。蜃気楼から目を逸らして、昇りゆく太陽をしっかりと認めよう。あなたの“太陽”は、定規で引いたように真っ直ぐ昇らなくてもいいのである。
谷口 雅宣
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コメント
本当の"善"の意味が分かりました、"がばいばあちゃん"の「人に知られない様にするのが本当の親切だ」しかも自分の意思でと言う言葉にも共通した真理だと思いました、只強制されたとしても強制されずにした不善よりは良いかとは思います、
又、真理の伝道は難しい、神の子の自覚もなかなか得られないと言う迷いの渦中にあったとしても真理の本は手渡す事、宣伝する事は出来ます、自分で説く事が出来れば一番良いのですが初めての人には誤って伝える事があるかも知れませんので、、、、神の子の自覚!これは真理の勉強、神想観等々日々の生活の中で自分自身で感得する他ありません、道は永遠に続きます。
投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月18日 12:39
谷口 雅宣 先生
≪「実際の社会」「実際の自分」をアルと認めているからではないか? 現象は唯心所現であるから、「迷った社会」も「迷った自分」も本当はナイ。それらは、自らが描き出した“作品”である。蜃気楼から目を逸らして、昇りゆく太陽をしっかりと認めよう。あなたの“太陽”は、定規で引いたように真っ直ぐ昇らなくてもいいのである。≫
というところを読みまして、私は、救われたような気が致しました。
特に、『あなたの“太陽”は、定規で引いたように真っ直ぐ昇らなくてもいいのである。』というところにものすごく感動しました。
私自身、仕事や愛行のことがなかなかスムーズに行かないことが多く精神はやや疲れていたところでした。が、この御文章を拝見しまして、勇気が湧いてきました。
進歩していないようでも何か進歩していると信じて、自らのペースでガンバッテ行く決意であります。
志村 宗春拝
投稿: 志村 宗春 | 2007年9月18日 12:47
谷口 雅宣先生、ありがとうございます。
私も先生の御文章の最後の段落に心を打たれました。
自分で納得いかない自分、現象の自分が本来無いもので、その奥に本来の自分=実相円満完全な自分がある。しかもそれが各々個性的表現形態を具有している。こんなにすばらしいことはありません。
それを多くの人々が自覚するようになるためには、もっと多くの「対話」が必要ではないかと思います。現代の社会は本当の意味での「対話」が少なく、表面だけの会話やおしゃべりで人間関係が深まったと錯覚している嫌いがあるように思います。
また、一般に「文化人」とか「有識者」とか言われている人々の中に、どれだけ今、先生のブログ上で議論されている「迷い」についての明確な答弁をなせる人がいるかということも考えてしまいます。
投稿: こんちゃん | 2007年9月18日 20:52
谷口 雅宣先生
合掌 ありがとうございます
先生の出された問いに対してブログを読ませていただきながら、数日、自分の中で自問自答していました。この記事を読ませて頂きながら、とっても、すっきりした気持ちになりました。嬉しくて何度も読ませて頂きました。全ての人が神の子であり、自由なる生命の発露として正しい道にのることが善である・・・日々の神想観と共に真・善・美の表現をしていける私でありたい、そして、もっともっと「人間は神の子である」というこの最高の真理を多くの方にお伝えしていきたいという気持ちが魂の底から湧き上がってきます。ありがとうございます。
投稿: 宮本京子 | 2007年9月19日 09:50
副総裁 谷口雅宣 先生
合掌、ありがとうございます。
私も副総裁先生の最後のご文章に心打たれました。
私達は自由があるから「善」を表現することができるのですね。
その自由は、秩序や中心帰一の中にこそ本当の自由があるのだと思います。そして神様の「善」はその自由によって無限に表現できるのですね。その無限の善を表現して神様の理念をこの世界に成就するのですね。
神様は自由そのもの。だから私達も自由である。
それなのに、人は間違った自由の中で迷ったりする。迷っているように思ったりする。
神様は絶対であるから迷っているように見えていても迷いはない。迷わない。迷ってる中でも迷っていない。
如何なる事が起っているように見えても必ず実相が現れる為なのだと思います。
そして、実相は無限に生み出され表現される。
神様と一つになれば、善も悪もない。
絶対のみの世界がある。
日々、三正行を怠ることなく、神の子の自覚に満たされ、その姿をもって人々に伝え、愛を出し、
日々祈り、信じ、待つ事が大切だと強く実感しました。
私達は、常に神様に愛されている。
私達は、常に雅宣先生に愛されている。
感無量の幸せです。
神様、雅宣先生、ありがとうございます。
頓首・感謝・合掌
木村 静香 拝
追記:
雅宣先生のブログに書き込む方々のコメントを見たりして思うことは、どの本の、どのページに、どのような事が書かれているとわかっていたり、頭の中にそのように整理する引き出しを持っている方々は凄いと思います。
特に、男性にそのような引き出しを持っている方が多いようで、男性は凄いと尊敬します。
☆ありがとうございます☆
投稿: 木村静香 | 2007年9月20日 22:07
合掌ありがとうございます。雅春先生のお説きになった真理を別の角度から解説いただき、より深く悟りを得られそうです。
投稿: 生尾秀夫 | 2012年11月 4日 11:24