« 宗教の必要性 | トップページ | オウムのアレックス、死す »

2007年9月13日

迷いはどこから来る? (5)

 前回、本題を扱った際の結論は、「迷いとは、欲望追求のために自由を行使せんとするところから来る」だった。ところで私は昨夜、妻と渋谷で『厨房で逢いましょう』というドイツとスイス合作の映画を観た。これは、世界で有数のウデをもつ料理人が人妻に恋をし、彼女を惹きつけておくために極上の料理を提供しつづけるという筋の映画だ。私は、この映画の邦題の軽さから考えて、「気楽に楽しもう」程度の気持で観はじめたが、どうしてどうして内容はヘヴィーな“欲望追求”を扱った映画だった。原題は「Eden」--『創世記』の昔に人間が失った楽園の名前である、と同時に主人公の恋人の名前でもある。

 主人公の極上料理のシェフは、職業病ともいえる肥満のために男性としての機能に障害があるという設定だが、そのことがかえって、美人の人妻の安心感と自己正当化をもたらすことになる。つまり、「自分は料理を味わいに彼のもとに通うのであって、浮気の目的ではない」という正当化だ。一方、主人公の料理人は、自分の作る料理を陶然として食べる彼女を眺めることに喜びを感じ、さらに料理のウデを上げていく。2人は互いを「お友だち」だと主張し、実際にそう信じているようだが、第三者の目からは尋常な関係に見えない。やがて、人妻の夫が2人の関係に気づき……というように、物語は危うい方向に進んでいく。

 食事とセックスとの間に深い関係があることは、フロイトの説明をまつまでもない。だから、食べることの快楽を求めて男のもとへ通う人妻は、夫にとって明らかに“浮気妻”なのである。しかし、妻本人はそれを認めようとしない。なぜなら、夫との性生活はむしろ料理人の登場以降、“改善”しているからだ。食事を快楽追求という観点から見直してみると、我々の現在の食生活の“罪深さ”や“迷いの濃さ”が浮き彫りになってくる。映画の中には、主人公の料理人がカモの羽毛をひたすらむしり取っていくシーンや、ブタの皮を一気にはぐシーンがあったりするから、「映画制作者はカトリック教徒ではないか」などと想像してしまう。まさにこの映画は、「欲望追求のために自由を行使する」男女の迷いの深さを描いている、と私は感じた。

 この文脈の中で、『無門関』の「趙州勘婆」の公案を思い出そう。9月10日の本欄で触れた「O氏」が、迷いの問題に対する“雅春先生の回答”だとしている公案である。今回、この公案を語ることができるのはO氏の手紙のおかげだから、その機会を与えてくださったことに大いに感謝するものである。

 かの国の五台山の麓に老婆が住んでいるが、その家の前で道が2つに分かれているという。そこで旅人はどちらの道を行けば五台山に達するかに迷い、よく老婆に尋ねるのである。すると老婆は、「真っ直ぐに行け」と答える。「真っ直ぐとはどちらか?」と訊いても、答えは変わらず、やはり「真っ直ぐに行け」である。そこで旅人は、自分で選んだ道の方へと3歩、5歩……と歩き出す。すると、老婆は「足もとが危ういぞ、あんな恰好で行きよる」と言って嘲笑うのである。では、「真っ直ぐに行く」とは、どう行くことなのだろう?(公案はこの後も続くが、今はここで留める)。

 この映画の主人公の“迷い”はどこから来たのか? また、それを去るためにはどうすればいいか? 主人公が「真っ直ぐ行く」とはどうすることなのか? 等々について、読者からのフィードバックをいただけたら幸甚である。
 
 谷口 雅宣

|

« 宗教の必要性 | トップページ | オウムのアレックス、死す »

コメント

この映画を見ていませんのでよく分からないのですが1、主人公が独身かどうか?2、彼のもととはお店なのか?彼の自宅なのか?又別の場所か?それで質問1、は料理人の迷いはどこから来たのか?ですが私は単純に彼の心から来たと思います、自分の眼に好ましいもの(人妻)を見て良くない考え行動をしている(プロの料理人なら全ての人に対して分け隔てなく、邪心無く良い料理を作って喜んで食べて頂く事が第一にする事)、質問2、それを去るにはどうしたら良いのか?本人の自覚によるしか無いです、と言ったんではどうしようもないのですがいずれにいたしましても「李下の冠」ではありませんが誰の目から見ても疑われる様な状況を作らない事が第一だと思います、質問3、主人公が「真っ直ぐ行く」とはどうする事か?良くない(邪心)考えが起こったら心を制し守り、迷った自分の心を信じないで心の主(仏心)になる事、例えば木(心)を削って(邪心と言う煩悩)弓の矢(料理人と言う職業)を真っ直ぐに(仏心)する様にです。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月14日 00:37

奈良教区の山中です。ここで言われている「真っ直ぐに行く」というのは、要するに「欲するところに従いて矩(のり)を超えず」という状態のことだと抽象的には言えるだろうと思います。

それをこの映画の主人公の場合で言うならば、個我の“執着”から解放されて、動物への愛に目覚めたために肉食料理の提供を自発的に止めたり、自分が思いを寄せる女性の夫の立場に立つことができるようになったたために、この美人の人妻への“こだわり”をサラリと捨てる、ということでしょうか。

こういう状態にこの映画の主人公がなるには、根本的には「実相を悟れば自然に矩を超えず」と『生命の實相 頭注版 第30巻』p.197にあるように、(魂において自他は一体であるという)実相を悟ることが一番なのでしょうが、その実相を悟らないうちは、例えば「霊魂進化の神示」(『新編聖光録』pp.59-61)にも書かれているように、却って苦を嘗める体験を通じて、本当の悦びは物質や肉体への執着にはないのだということをしみじみと思い知らされるしかないのだろうと思います、選択の自由は依然として許されていますので…。

いずれにせよ、「自由」には二つの意味があって、“選択の自由”という意味と、欲望にとらわれた状態からの“解放”あるいは“解脱(げだつ)”という意味とがある、というのが、ここでの重要なポイントだと思うのですが、いかがでしょうか?

投稿: 山中 | 2007年9月14日 05:14

 公案の件ですが、迷いはナイという生長の家の真理から言って、自分の行く道が正しい道であって、その道がまっすぐの道で、実はその道しかナイというのが正解であり、それに反して道がいくつもあると思って、自分が間違った選択をするかも知れないという考え自体が迷いであるという事だと思います。
 そんな考えを持って歩む限り、どちらの方向に進もうともそれは迷いが歩んでいるのであり、その足取りはおぼつかず、行き着く先は奈落の底という事になるのだと思います。

投稿: 堀 浩二 | 2007年9月14日 09:25

 神の国を外に求める場合、その者の生活は食事・性生活に限らず一挙一動が快楽追求へと繋がってしまうのではないでしょうか。
 欲望とは永遠に神の国にたどり着けない人間の不満より起るもの、内に神の国がある事を自覚できないものは「真っ直ぐに行く」事はできません。
 シェフがそれを自覚しない限り、どう行動しようと「真っ直ぐに行く」ことはできないのではないでしょうか。

 映画を観て見たいです。

投稿: 鈴木雅臣 | 2007年9月14日 10:10

言葉じりを捉えている様で申し訳ありません、「欲するところに従いて矩を超えず、と言う事だと思います」ですがこの意味について私は「欲望の儘に振る舞い行動しても倫理、道徳、法に触れない」と言う事だと思うんです、だと致しますと(違っていれば成り立ちませんが)この料理人は「欲するところに従って矩を超えている」状態になっていると言う事になります、それで「それを去るにはどうすれば良いか?」と次の質問に進んで行くんだと思いますが。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月16日 22:59

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 宗教の必要性 | トップページ | オウムのアレックス、死す »