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2007年9月 3日

奇蹟について (4)

 前回の本欄では、10個の数字からなる数列が出る確率の問題を通して、私たちが毎日経験するいわゆる“日常”や“当たり前”の生活が、少なくとも数学的な意味においては全く“日常”でも“当たり前”でもなく、「毎日毎日が奇蹟的にユニークな体験であることが100%確実」であることを示した。この「100%確実」という判断は、今の人間の肉体的一生が80年前後であるという事実を踏まえたうえでの表現であることをお断りしておく。
 
 ところで、8月28日の本欄では「宗教的な意味での奇蹟」とは何かを考え、谷口雅春先生の『真理』第10巻とキリスト教神学を参考にしながら、生長の家では、単に稀な現象のことを奇蹟とは認めず、それが「自然法則を超える」場合に奇蹟として認めていることを指摘した。そして、宗教的意味での奇蹟を「自然界の法則を超えて、倫理的道徳的秩序を現わすために起る現象」と定義した。すると、0から9までの10枚のコインが「7286519034」の順序で並ぶ場合と「0123456789」の順序で並ぶ場合は、どちらが宗教的な意味での奇蹟であって、どちらがそうでないのだろうか? 読者にはもう、答えは明白だろう。いずれの場合も自然法則を超えていない(つまり、出る確率がゼロではない)から、宗教的には奇蹟でないのである。
 
 だから、この厳密な意味での奇蹟の定義を採用すれば、「毎日毎日が奇蹟的にユニークな体験」だという上記の表現は正しくない。しかし、その一方で、「奇蹟」という言葉の意味には「常識では考えられない不思議なできごと」(『新潮国語辞典』)とか「常識では理解できないような出来事」(『大辞林』)が含まれていることを考えれば、「常識」のレベルが変わることによって、同じ現象が「奇蹟」として扱われたり、扱われなかったりすることがあり得るのである。そして私は、本欄の仮想実験で10枚のコインが、わずか1回のトライアルで「7286519034」と並んだり、あるいは「0123456789」と出る理由が「常識」では理解できないと思うので、この実験のすべての結果を「奇蹟的」と呼ぶことは許されると考える。さらに言えば、これと同じ理由で、私は毎日の体験を(緩い意味で)「奇蹟的」と呼ぶことも許されると思う。
 
 何かすごく面倒な言い方になってしまったが、ここで再び「偶然」とは何かを考えよう。辞書的な意味(『新潮国語辞典』)では、偶然とは「予期しなかったさま」であり「たまたま」である。これをもっと厳密に哲学的に表現すると、偶然とは「因果律によってあらかじめ知ることができない事件が起ること」(『新潮国語辞典』)であり、「事象の因果系列に対して、それに含みえない事象が生起すること」(『大辞林』)である。前者と後者の意味は微妙に異なる。『新潮国語辞典』の意味では、「原因がわからない事象が起った」ときに使う言葉が「偶然」である。ところが『大辞林』では、「原因がなく事象が起った」ときに「偶然」というらしい。私には前者の意味は分かるが、後者の意味は採用できない。なぜなら、何ごとにも原因があるというのが因果の法則だからだ。
 
 そこで前者の意味を採用すると、「原因がわからない」という言葉の代わりに使うのが「偶然」ということになる。何のことはない、これではコイン並べの第1回で「7286519034」が出るのも「0123456789」が出るのも「偶然だ」とすることは結局、「原因がわからない」と言うのと同義なのだ。つまり、「君、それは偶然だよ!」とまことしやかに述べることは「原因がわからない」と言っているに過ぎないのである。谷口清超先生は前回触れた論文の中で、そのことをきちんと指摘されている:
 
「実験的に2という数字を選ぶときは、それは第1回目に出てくることもあり、6回目に出てくることもあり、14回目に出てくることもある。では何が原因で、ある時は1回目に出、ある時は6回目に出、ある時は14回目に出るのであるか。それは決して“偶然に”出るのではない。偶然に第1回目に出るのではなく、それが第1回目に出るには出るだけの理由があって出るのである。ただその原因を吾々はしらない、それで偶然に出ると名づけるだけなのである。“偶然”をかつぎ出すのは、人間の無智の告白以外の何ものでもないのである」(谷口清超新書文集2『神は生きている』、p.157)
 
 そして、先生がこの引用文の次に書かれている言葉に注目しよう--「吾々はその原因に或る偉大なる叡智者を確信するのである。その叡智者を名づけて吾々は“神”と呼ぶのである。“凡ての原因”を名づけて“神”と呼ぶ」。したがって、「神の子」である人間が、コイン並べの結果に影響を与えることが「できない」とは言えない、と先生はいう。
 
「そこで実際の操作において吾々がもし“0123456789という数列を引き出そう”と心に思って、実験をする場合と、何も思わずに、ただ無意識的に数列を引き出す場合と、果たしてそれは同一の結果を得るであろうか。これは非常に重大な問題である。(中略)唯物論者が偶然に帰している原因の中にも、実はこの人間の心の作用があるのではないか。若し心が物質や環境に作用を及ぼすものであると考えるならば、明かにこの心的原因は見逃すことの出来ない問題である」(同書、pp.158-159)

 なかなか注意深い表現であるが、ここにはパラサイコロジー(超心理学)が成立する可能性が示されていると考えていいだろう。
 
 谷口 雅宣

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コメント

全ての事象は原因(神)があって結果がある、個々人の人生に於きましては"唯心所現"と致しますと偶然ではなくて必然になります、従いまして心的原因、パラサイコロジーは成立致します、「精神一到何事かならざらん」と言う言葉もありますから証明は出来ませんが心が作用する様な気が致します。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月 3日 23:48

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