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2007年9月11日

迷いはどこから来る? (4)

 この題で2回目に書いた本欄(7月29日)で、北朝鮮と日本の食堂のメニューを比較して質問した際、多くの読者からコメントをいただいたことは本当にありがたい。それに対して、私はまだロクに答えていないので、この場でそれを試みようと思う。その時の質問は、北朝鮮の食堂の乏しいメニューを①とし、日本の食堂の豊かなメニューを②とした場合、下の2つの設問の正誤を判断するものだった:

 ①は②に比べて「欲望」を引き出さないから、神の意思に近い → [正・誤]
 ②は①に比べて「欲望」を多く引き出すから、神の意思に遠い → [正・誤]

 また、その後に続けて次の質問をした--

【問い】人間の欲望をより多く実現する環境の方が、そうでない環境よりも神の意思に近いのか、それとも遠いのか?

 私はここで暗に、北朝鮮社会と日本社会とを対比して、「どちらの社会の方が神の御心をより明らかに反映しているか?」と問うているのである。同様の比較は“イスラーム社会”と“西洋社会”との間にも、“中世”と“現代”との間にも成り立つだろう。また、万民の平等と共同利益の追求により成立するとされる社会主義・共産主義社会と、自己の利益の最大化を目的として発展するとされる資本主義社会との比較も、この線に沿ってできるかもしれない。まぁ、あまり難しく考えずに、素朴に「正」と「誤」を選ぼうとすると、恐らく多くの人は「こんな二者択一は乱暴だなぁ」と感じなかっただろうか?
 
 ポイントは、「選択肢が多い」ということと「欲望」との関係である。この設問をよく読むと、その背後には「選択肢が多ければ欲望を多く引き出す」との前提がある。しかし、それは本当だろうか? 読者のコメントの中にもあったが、豊富なメニューを見て欲望を燃え立たせる人もいれば、そうでない人もいる。その逆に、貧しいメニューを見たときも、豊かな食生活を知っている人の中には、知らない人よりも不満を感じ、「もっと別のものを食べたい」と不満に感じる人もいるに違いない。その場合、現象世界に於いて人の欲望を引き出すものは、「選択肢が多い」といういわゆる“客観的条件”であるよりも、“客観的条件”に対する人の評価--すなわち主観的判断によると考えるべきだろう。そうなると、上記の[正・誤]を選ぶクイズにおいては、「そんな単純な二者択一はできないから、設問は不適当」と言って、回答を拒否するのが正解なのだ。
 
「なんと意地悪な設問か!」と読者は怒るだろうか? 正解のない設問を出すことは確かに意地悪かもしれない。しかし、この設問に答えようとする中で、明かになったことがないだろうか? その1つは、迷いは「自由」(選択肢が多い状態)からのみ来るのではなく、人間の欲望とも関係しているということである。これも読者のコメントの中にあったが、どんなに豊かな(自由な)食事ができる環境にあっても、「すべてのメニューを食べなければ……」などと欲望に引きずられる人には、本当の自由はなく、そこには迷いと苦痛とがあるばかりである。我々は、いわゆる“食べ放題”のレストランに入ったときに、そんな欲望に引きずられたことはないだろうか?

 上に書いた“客観的条件”は、“物質的条件”と言い換えることができるだろう。そうすると、人間は物質的条件を変えることで自由を得たり、迷ったり、あるいは迷いから解放されると必ずしも言えないことがわかる。例えば、お腹をすかせた人がたまたま飛び込んだ食堂のメニューに「カツ丼」と「野菜炒め」と「ざるソバ」しかなかったとする。この人が「何だこの店には3品しかないのかっ!」と不満に思えば、その人は不自由である。しかし、「そうだ、野菜炒めこそ今、自分が食べたいものだ!」と思えば、その人は自由である。無理にそう思うのではなく、本当にそう感じた場合だ。この例を、北朝鮮と日本の食事に当てはめれば、北朝鮮で“貧しい”食生活をしている人も、「この食事こそ私の求めているものだ」との心境に常にある場合は、日本の食べ放題のレストランで10回目に皿を持って立った“豊かな”人よりも、よほど自由であり、迷いが少なく、かつ神の御心に近い生き方をしていると言えないだろうか?
 
 もちろん私は、人間の幸福の実現に物質的条件は全く関係がないとは言わない。多くの人は、独房に入れられて肉体的な自由を奪われた場合は、幸福感を覚えたり悟りの境地に達することは難しい。しかし、ごく少数の人はそういう不自由な条件下でも(例えばソクラテスのように)精神を高めたり、悟りの境地に近づくことができるのである。そこで改めて問おう--迷いはどこから来るか? 現時点での答えは、こうなる……「欲望追求のために自由を行使せんとするところから来る」。

谷口 雅宣

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コメント

私は単純なのか「二者択一は乱暴だなあ」とは感じませんでした、又、設問は不適当(回答を拒否するのが正解)だとも思いませんでした、私が変なのでしょうが今の時点ではそう思えるのです、私は食べる為ではなく生きる為に食べるのですから余り好き嫌いが無くて執着が無く何でも良いのです(飢餓の経験が無く満たされているのだと現状を感謝しています)、それから「迷いはどこから来る」の答え「欲望追求のために自由を行使せんとするところから来る」確かにそうだと思いますが"迷い"の一つでもある"無明"もこの答えに当てはまるのか?まだ私の段階では分かりません。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月12日 15:48

 雅宣先生、もったいないお言葉ありがとうございます。
先生から毎回頂く御回答、不足に思ったことございません。
 消化に時間がかかりますが・・。
私の未熟さゆえどうも批判的なコメントになりがちですが、先生の寛容なお心に甘えつつ、できる限りの「誠」を持って書きこもうと努力しております。

 今後とも宜しくお願い致します。

投稿: 鈴木 雅臣 | 2007年9月13日 10:02

尾窪さん、

 迷いと無明の違いは何ですか?

投稿: 谷口 | 2007年9月13日 16:37

谷口雅宣副総裁様
わざわざ有難う御座います。
私は"迷い"を現時点では単なる選択の迷いの他に「煩悩」と捉えています、その煩悩の主たるものが六感から来る「欲を愛する(愛欲)」即ち見るもの聞くもの全てを欲しがる欲望(物欲、名誉欲、食欲、性欲、生への執着又は死ぬる欲等)ものと"もう一つ"無明"心に明かりが無い、即ち無知でものの道理をわきまえない事、言って良いこといってはならない事、なさなければならない事、なしてはならない事が分からない、ですから無明は迷いの一つであり、"迷い"の概念のほうが広いと思っています。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月13日 22:51

≪「選択肢が多い」ということと「欲望」との関係≫
に関係があるかも知れないことについて、申し上げます。
ホテル等でのバイキング形式の食事が出される場合(朝食等)出されている料理(おかず)の前を全部まわらなければならないと考えている人がいて、私はそういう光景に何回か遭遇したことがあります。
 全部まわらないで自分の好きな料理だけをとるということにすれば良いと思います。もちろん、そういうようにしている人もおりますが、出されている料理の前を全部回らなければならない、と思っている人もいるようです。

投稿: 志村 宗春 | 2007年9月17日 12:41

バイキング形式で
志村さんは1、「全部回らないで自分の好きな料理だけをとると言う事にすれば良いと思います」
2、「出された料理の前を全部回らなければならないと思っている人もいるようです」
との意見ですが
私は「全部回って好きな料理だけをとっています」
「全部回らなければならないとは思っていませんが回らなければ分からないから回るのです」
同じ食べるにしても限りがありますから、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月18日 15:29

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