« 「シドニー宣言」採択される | トップページ | 迷いはどこから来る? (4) »

2007年9月10日

迷いはどこから来る? (3)

 大阪に住む「O」という69歳の男性から最近、長文の手紙をもらった。この人物は、過去にも私と妻宛に長文の手紙を送ってきた人で、その内容はあまり感心しないものの、レポート用紙25~26枚を一気に細かい文字で埋める“迫力”には感心していた。今回の手紙もA4判の用紙7枚を使っていて、何を書いているかというと、私がこの7月に「迷いはどこから来る?」との題で書いた文章(と講話の一部--7月21日同29日の本欄)が気に入らないといって、「暇な自由時間をもてあました真理を、真理の悟り(大悟徹底)とは関係のない常識の低次元思考であるが、単に緻密なだけの肉体頭脳知で茶化すインターネットの言葉遊びはやめて頂きたい」とカンカンになって怒っているのである。

 私が「暇で自由時間をもてあましている」などという間違った情報をO氏がどこから得たか知らないが、他人の悪意あるガセネタを信じたために、「怒りに任せて手紙を書く」という非生産的な活動に貴重な時間を費やさねばならない人は、実に不幸だと思う。しかし、「ガセネタを信じる」という行為も本人が選んだものだから、O氏の怒りを鎮めるには、O氏自身の自覚によるほかはないのである。幸い、ご本人はまだ聖使命員であるようなので、生長の家との縁は切れていないと思う。したがって、私がここでO氏の誤解を解くための努力をする価値は残されていると考えたい。
 
 O氏の怒りのポイントは、簡単である。それは、私が本欄に上記の日付で書いたことが、谷口雅春先生の著書にある教えと違うというのである。O氏によると、「迷いはどこから来るか?」に対する答えは、①『甘露の法雨』の「無明」の項、②『生命の實相』第21巻経典篇のp.131、③『無門関解釈』第31則「趙州勘婆」の項に明確に示されているから、これを中心に解答すべきなのに、「迷いは自由から来る」などと答えることは「唯物論世界の常識を論理的に多少深めた解答」にすぎないとコキ下ろしている。
 
 私はたまに、こういう種類の人々から手紙をもらう。「こういう種類」という意味は、手紙を書く前に誰かから偏った情報を得ていて、それを全面的に信じたうえで、「お前は間違っている」という前提のもとに、言葉だけ丁寧に書いて“忠告”とか“助言”とする種類の人である。そして、そういう人々のほとんどは「生長の家の神髄はこれだ」と自ら悟っていて、私を教化しようとするのだ。だが不思議なことに、そういう人々のほとんどは地方講師の資格ももっていないし、過去にももった形跡がないのである。O氏もその例に漏れない。つまり、よく勉強していない人が「お前は間違っている」という忠告をくださることが多いのである。

 単刀直入にO氏の間違いを指摘するには、谷口雅春先生の『新版 真理』第10巻実相篇の次のご文章を読んでもらえば足りるだろう:

「神は人間を“神の子”としてつくりたまうた。そして人間を一応“神の子”として独立自由の人格として干渉しないで其の為す『自由』にまかせ給うた。かくて人間は過ちを犯す『自由』も与えられた。“過ち”をするとはあるべき筈の“正しい位置”から墜落すると云うことである。“過ちを犯す自由”だなんて、そんな自由はある筈はない、そんな自由を神が与えたまう筈はないと抗弁する人があるかも知れない。併し、墜落する自由も脱線する自由もなくて、軌道(レール)の上だけ正しく走るように設計された機関車には果たして自由はあるであろうか。それはただ機械的に軌道の上を走るだけである。機械的に正しく軌道を走っても、それは『正しい』とは言えても、『道徳的に善である』と言うことはできない。『道徳的善である』ためには、常に墜落したり脱線したりする自由が一方にあるのに、みずから好んで墜落したり脱線したりしないところに善としての価値があるのである。自由の一方には必ず墜落や脱線が準備されているのであるから私たちは自由を濫用して脱線してはならないのである。」(p.289)

 上の引用文で雅春先生が説かれていることと、私が7月21日の本欄に掲げた講習会での解答がどれほど違うかは、多くの読者には容易に理解されると思う。もし私の説明がO氏の言うように「唯物論の常識を少し深めたもの」であるならば、谷口雅春先生も上記のご文章を書いたときには、唯物論者だったのだろうか?
 
 私はO氏を個人的に批判するつもりはないから、O氏の手紙からこれ以上引用するまい。しかし、O氏が忘れている点を本欄の読者には思い出していただきたい。それは、7月21日の本欄には、次のように書いてあるのである--「この答で充分とはとても言えないが、昨年10月に書いた『表現者の悩み』『表現者の悩み(2)』の内容を補って視聴していただくと、さらに理解が深まると思う」。「とても充分とは言えない」と断っているものをわざわざ選び出して批判するO氏は、まったく不思議な人物である。

 谷口 雅宣

|

« 「シドニー宣言」採択される | トップページ | 迷いはどこから来る? (4) »

コメント

橋口さん

 あなたのこの意見はものごとを出来るだけ意地悪く悪意で取るとこういう見解になると思います。ものごとは色々な受け取り方があり、善意の人と悪意の人とでは一つの事もその解釈が180度異なります。僕はブログというのは誰でも見れて、誰でもコメント出来るので、あなたの様な悪意の人でも先生のブログにこんな失礼なコメントが出来るのですよね。便利な反面、困ったものだと思います。

 谷口先生、勝手な事を書いて申し訳ありませんでした。

堀 浩二

投稿: 堀 浩二 | 2007年9月11日 09:10

上記真理10巻を読んで「ピンとこない」「何を言いたいのかもわからない」では話になりません、「観世音に耳を傾けない?」自分が観世音?確かにそうですがそれこそ"迷い"に覆われて観世音の心が出ていません、善か?悪か?神のみぞ知る?什一会員ですが神想観、°読誦、愛行もしていない、講師でもはない私でも観世音の心が出ていないものは悪、出ているものは善だと思います、善か悪かで迷うこと自体が迷い!神のみではなく私クラスでも理解出来ます。10巻で十二分回答になっています。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月11日 11:06

大阪「0」さん、、、教化するのはトップの使命です、忠告にしても私は思い上がり、高慢だと思います、只盲目ではなく「私はこう思うのですが、、」と言う謙虚さが必要だろうと、、、又0さんはガセネタではなく自分で何も知らないで勝手にその様に思っておられるのではないでしょうか?まさに本人の自覚しかありません、自分が気に入らないからと言って理不尽な"怒り"憤怒"をあらわにされる様では煩悩の三毒、ジン、痴の迷いの中に入っておられるのではないでしょうか?これは裁くのではなくありの儘を私の意見として言っているだけで何の他意もありません。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月11日 11:34

副総裁先生

ありがとうございます
先日、私のところへ知人から「谷口雅春先生を学ぶ」という単行本が送られてきました。

副総裁先生への誹謗中傷が「これでもか」というほど書いておりました。読んでいてこの人たちは可哀想だなという思いだけでした。

生長の家で取り上げて行動している環境問題一つでも、左翼思想の一貫だと言っているのです。

実に情けない人たちが居るのだなぁ という思いです。

どこにでも、道を踏み外す人はおりますがこのような輩も本当は生長の家に戻りたいと思っているはずです。

いつかは戻られるはずです。そのときは暖かく迎えてあげたいと思います。

投稿: 佐藤克男 | 2007年9月11日 11:41

 雅宣先生、合掌ありがとうございます。
 私も先生が「迷い」に関する御文章を書かれる度に疑問を抱き勉強させて頂いている一人です。御存知の通り私も講師資格は持っておりません。

 以前、私が疑問をいだいたことは「仏であるから迷う」というお言葉が「真我が迷う」と読者に誤解されないかということ。

 「迷う」と「選ぶ(選択する)」という言葉を同じ意味合いで用いられている先生の表現が読者に誤解をうむ原因になっているのではないかという事。

 その2点です。現在も正直何かすっきりしない感を抱いておりますが理解しようと努めております。

 あと私が不思議に思うのは数多くいらっしゃる講師の方々の一人も上記のような疑問を抱いて先生に質問される方がほとんどいないということです。
 

 講師の方がブログと言うこの場で先生と問答してくだされば、自分は書きこむ必要もないとおもっております。
 
 また批判が講師でもない人からくるというのは当然であるとおもいます。講師の方々は立場的に先生を批判できないです。しかし、私はもう少し講師の方々に勇気を持って雅宣先生と問答し研鑽していただきたいとは思います。

 雅宣先生、私のこの文章もただただ表面上丁寧な言いまわしの忠告・助言と思われましたならば直ちに削除して下さい。

 ただ、先生、ここに書きこむ事は先生の御想像以上に「勇気」のいることなのです。

投稿: masaomi | 2007年9月11日 15:11

masaomiさん、、、疑問1、「仏だから迷う」「真我が迷う」と読者が誤解する?私はどちらも迷わないと思いますが、、、2、「迷う」と「選ぶ(選択する)」同じ意味合いで誤解の原因?日本語の難しい所、選択するのも迷いです、煩悩に覆われ判断に迷うのも迷いです、質問者の迷いと言う言葉を判断するに於いて疑問を抱かない人は講師であろうとなかろうと質問はしないでしょう?質問が有れば人に強要する必要はありません、自分ですれば良いと思いますし、善意であればどんな質問でも寛容で忍耐強く応対して下さると思います、又、疑問と質問と批判は違います、忠告、助言も自尊と高慢ではないでしょうか?「自分を賢いと思う愚か者よりも自分を愚か者であると思う愚か者の方がまだマシである」と言う言葉もあります、お互い悔悟してもっと謙虚に真理追究を目指して行きましょう。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月11日 16:44

神の世界は絶対善
実相の世界は絶対善
それをこの世界(現象世界)に表現しようとするなら、もうそれは相対の善
何故?
自問自答。
何故、私はそれを善と判断したの?
でも、それって本当に、本当に善なの?
違う角度(視点)から、それを見てごらん。観じてごらん。
善ていうのは、ただ一つのものなの?

絶対善は多様性を認めるけれど、
相対善は多様性を認めない。そんな思いがする。
多様性という観点を持てば、排斥せずに許容できる。そんな思いがする。

私は神の子だからこそ、仏の子だからこそ、制限のない自由を与えられているからこそ、それをこの世界で表現しようとする。そして、その表現の結果として、時に間違い、迷う。
でも、それってマイナス方向に進んでいる訳じゃないんだ。
何故って?
だって善くなろうという意思からすべては始まっているから。

【神の子の思考遊戯-おしまい】

投稿: 早勢正嗣 | 2007年9月11日 21:57

谷口雅宣先生

合掌ありがとうございます
日々のご指導心より感謝申し上げます。
寿司(ことぶき つかさ)と申します。
某教区にて地方講師として活動させて頂いています。
今回、御本文及び関連する御文章を改めて拝読致しました。

生長の家の御教えの神髄は『唯神実相哲学』ですので、まず第一に『「迷い(=無明)」は本来ない!』と喝破することが必要でありましょう。
第一声で『迷いは自由から来る』と回答してしまうと、実相と現象がこんがらがり、聞き手は困惑してしまいます。
よって「迷いはどこから来るか?」に対する答えとしましては、『本来無きものは来ること能はず!』とでも断言しておけば宜しいかと思います。
その後に『三界は唯心の所現である』ことに言及しつつ、『無軌道の倫理』即ち、雅宣先生が既に展開された説明をしていけば、回答としては及第点になると思います。

>「とても充分とは言えない」と断っているものをわざわざ選び出して批判するO氏は、まったく不思議な人物である。

それだけ「生長の家副総裁」は宗教的完成度の高い表現を常に求めらる、極めて厳しい御聖務であろうと拝察する次第です。

以上、恐れ多くも憚りながら私見を申し上げました。
御笑覧下さい。

再拝

投稿: 寿司 | 2007年9月11日 22:40

実相と現象がこんがらかる?

『唯神実相哲学』を会得したのなら、実相と現象がこんがらかることはないのではないでしょうか。


雅宣先生が引用した『新版 真理』第10巻実相篇の文章を書いたのは、『唯神実相哲学』を説いた雅春先生ですから・・・・。

雅春先生は「皆さんの中(内)に、谷口雅春がいる」とおっしゃった記憶があります。
ならば、雅春先生が会得した境地に近づきたいものです。
【棘のある発言でした】

投稿: 早勢正嗣 | 2007年9月12日 00:05

早勢さん、、、絶対善、相対善論は良く分かりませんが早勢さんの考えられる「善」とは何んですか?正に善と言う言葉の遊びみたいで「善とは何か?」が良く分かりません、教えて下さい。
寿司さん、、、寿さんの指導順序ですと講師クラスには良いでしょうが生長の家の浅い人又は素人の方はいきなり「迷いは無い!無きものは来る事あたわず」なんて言っても「何を言っているの?チンプンカンプン?」硬過ぎて取っ付きにくい感じがします、それよりも「迷いは自由から来る」からの方が分かり易い、10巻もそうです、分かり易い、このブログは全国の素人が見ていると思いますのでその方が親切で生長の家に入りやすいのではないか、、、「人を見て法を説け」と言う言葉もありますから自分を基準にしない方が良いのではないかと思いますが、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月12日 00:56

コメントをしておられる神の子の皆様へ
私はなんだかこのコメントのやり取りを見せて頂きながら、とっても悲しくなりました。今にも涙が出そうです。ブログというものは色んな方が見ておられ自由に発言出来てとても便利なものだと思います。真理に対しての悟りの深さはそれぞれに段階が違ったり歩み方も違うものなので、それぞれの方々が神の子で素晴らしいと思いながらやり取りを見させて頂いてます。私にとって谷口雅宣先生のブログはとても神聖な場所です。家にいながらにして今必要な事を御指導頂けますので大変有難く拝見させて頂いております。また、真理の奥深さも感じさせて頂いてます。私はまだまだ理解が出来てないなぁ・・・とか疑問に思ったときには『生命の實相』などの聖典で勉強し直したり、生長の家の各種行事に参加しながら真理の研鑽をさせて頂いてます。この場所は、光のコトバで満たしていきませんか?その方が世の中の光明面を見よ!という生長の家らしさが出ませんか?そして、谷口雅宣先生のブログを真剣に見ておられる生長の家の行事に参加したことのない方は、ぜひお近くの教化部へご連絡して何かの行事に参加してみて下さい。親切丁寧に優しくわかりやすく御指導して頂けますよ。こんな偉そうな事をコメントさせて頂くほどの私ではありませんが一信徒として感じたままをコメントさせて頂きました。

投稿: 宮本京子 | 2007年9月12日 09:42

吉本さん、、、「不信心と真理の闘争は無益である」と言う事がコメントで良く分かりました、有難う御座いました。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月12日 10:09

寿司さん、

 あなたのお名前は大変珍しいので、講師名簿からさがしてもらいましたが、該当者は登録されていないそうです。どちらの教区か、教えていただけませんか? また、本名で書き込まれれば、ご発言はもっと信用されると思います。

宮本さん、

 ご心配かけてすみません。インターネットは“匿名性”が特徴なので、どうしてもイヤガラセの類に入る書き込みが匿名で行われてしまいます。そういうコメントは、当方でできるだけ早く削除しますので、気分を害されずに、今後ともご愛顧ください。


 
 

投稿: 谷口 | 2007年9月12日 10:41

 皆様、合掌ありがとうございます。
 初めは本名で書きこんでいたのですが、周囲への若干の配慮のつもりでmasaomiとローマ字表記の匿名で書きこんでおりました。おそらく雅宣先生には本名と身元を御確認頂けているとは思います。
 以後、コメントをする場合本名の鈴木雅臣に戻します。
 先生、御迷惑をおかけしました。

投稿: 鈴木雅臣 | 2007年9月12日 11:19

鈴木さん、

 「masaomi」という名前は、それほどありふれていないので、私は貴方の書き込みの内容とも照らし合わせて、それは「鈴木雅臣さん」だと思っていました。だから、コメントにもきちんと答えてきたつもりです。(内容的には不足があるかもしれませんが……)

 今後とも、よろしくお願いします。

投稿: 谷口 | 2007年9月12日 14:13

谷口雅宣先生

合掌ありがとうございます。
拙文、お目通し頂き大変恐縮です。
小心者が再度ペンネームで書き込むことをお許し下さい。


尾窪さんへ

先日の私のコメントは、講習会での質疑応答の動画を拝見しつつ、ブログの御文章を拝読して書き込んだものです。
講習会にはご案内の通り教区幹部から素人まで幅広い層が参加をしています。
私は近隣教区の講習会にも足を運びますので年に1~2回は参加をしています。
会場内では他教区の信徒の方々の姿をよく目にします。
自教区の講習会では運営に回るため、他教区の講習会でじっくりと御講話を拝聴するためです。
そうしますと、初参加者には信徒になる契機となり、教区幹部には約半年に渡る推進活動の労に報いるものとなり、他教区信徒にとっては自教区開催時のモティベーションを高めるものとなる。
講習会とは、少なくとも以上三方面からの成果を同時に求められる、主催者側からすれば、大変緊張する行事であると言うことができます。
副総裁先生、心中お察し申し上げます。
同じように、本ブログの読者も多層に渡っていると推察することは容易です。

「生長の家」の御教えは『唯神実相論』であり、「現象」と「実相」を明確に分ける。
簡単なようで、これが中々に難しい。
従って、素人に分かり易く噛み砕いて話す必要がある。
このこと自体は間違いではありません。
しかし、一方で「実相世界に超入する」断々固とした言葉の「ヒビキ」が絶対に必要です。
それは幹部信徒の満足度を高めることにもなりますし、「素人」の神性・仏性を理屈ぬきに揺り動かすことにもなるからです。

親獅子の咆哮により子獅子はその本来性を取り戻し、瓦の竹撃の音が大悟の縁となるようなものです。

聴衆の多くはその「ヒビキ」を望んでいるように私は感じます。

再拝


投稿: 寿司 | 2007年9月12日 18:41

谷口雅宣 先生 および読者の皆様

奈良教区の山中です。谷口雅宣先生がここで引用されていた『新版 真理』第10巻実相篇p.289の文章と同趣旨のご文章が、『新版 真理』第2巻基礎篇のp.44にも書かれていましたので、引用させていただきます。読者の皆様の参考になるならば幸いに存じます:

--以下、引用はじめ--
現世は魂の進歩のための脚本製作時代である

吾々が間違った想念を起しても、神は一概にそれを否定したまわないのは、学生演劇に学生が下手な脚本を書いて上演しても、決してそれに上演停止命令を出さないのと同じ事であります。現象世界は、心に描いた想念の脚本の上演又は上映と同じようなものありますから、それが上演又は上映されたときに、「成る程、今度の脚本は此処が一寸拙かったな」と気がついたら、次に脚本を書くときにはその点を注意して、一層よい脚本を作るようになるのでありましょう。それと同じく神は、吾々が間違った想念を起して、その具象化として、人生の舞台に悪いことが実演されても、それを決して停止せしめられないのは、みずからの反省と工夫とによって、人間に内在する能力を磨き出さしめんがためであります。
--以上、引用終わり--

このご文章と、『生命の實相 頭注版 第1巻 総説篇/實相篇上』の本文6頁4行目~7頁11行目と、同じく10頁後ろから6行目~13頁最後まで--これらのご文章をあわせて読めば、ここでの問題の本質がよく理解されてくるのではないかと思います。

投稿: 山中 | 2007年9月13日 00:46

善とは何か?

ご自身で調べるのが一番納得できる方法だと思います。私自身、そのようにしてきました。私の考えている善とは、雅春先生が説いてきたものです。と言っても、私の理解が浅ければ、参考になるものにはなりません。雅春先生は善に関する著書を沢山残しているはずですから、そちらの方を読んで研鑽していただいた方が良いでしょう。ここは講師の資格を持った方も見ているようですから、適切な図書を紹介してくれるでしょう。例えば、『静思集』に記述されている「新しき善悪観」(P231~P249)なんかはどうでしょうか。

神が善なのです。・・・・神を現せば善なのです。・・・・神が善の本体なのであります。・・・・「何が善か」の問題は「唯一の善は神のみである」という根本真理――此処から出発しなかったならば混雑してしまうのであります。(P232)


それで、私の思う絶対善ですが、これは善のみ存在する世界です。善でないもの、又は悪という概念さえ存在しない。

一方の相対善とは、共有できる善と共有できない善が混在している世界です。(例えば、ある事柄を見て、ある人はそれを善であると言い、ある人はそれは善ではないと言うことがある)

この現象世界では、善と認識する際に、利害関係とか価値観で左右される部分があると思うのです。そこに神が現れているのであれば、何の問題も起きないのでしょうがね・・・・・。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年9月13日 00:49

寿司さん、、、丁寧な回答有難う御座いました、又ペンネイムはペンネイムでも真心が伝われば意見が違っても構わないと思います、私は最初から本名で受講のみの楽行道に徹していますが講師になり、教えを広めたり、講習会運営をしたり、大変な善業を実践されておられます姿には敬意をはらいます、只気になったのが本名でなかったら、誰にも分からなかったら何を言っても良いと言うものではないと言う思いがありました、それは最初のコメント、、、「断言すればよろしいかと思います」「回答としては及第点になると思います」です、本部講師が講師を指導している様で愕然としたしました、誰に言っているのか?この人は分かっておられるのか?と、、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月13日 11:28

早勢さん、、、講師の資格が有ろうと無かろうとそんな事は問題では有りません、早勢さんの意見が聞きたかったのです、"絶対善"は実相世界の事、"相対善"は現象世界の事と理解してよろしいでしょうか?
私は"善"が利害や価値観で左右されるものであってはいけないのではないか?と思うんです、例え自分が不利であっても損をしようとも有りの儘、真実を証言し行動する事が大事で善が2つあってはならないと、、、現象世界であってもです、又「神が善、神を現せば善、神が善の本体、唯一の善は神のみである」の根本真理、全く私もそう思いますがそうなりますともっと難しい"神"とは何か?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月13日 11:57

尾窪勝磨さん

一言書いてみたかったので書いてみます。
これまでの議論と論点がずれているかもしれませんが・・
貴方の求めているような言葉で無かったらごめんなさい(^-^;A

尾窪さんへのメッセージです。

言葉という表現は難しいものですよね。
言葉によって、その本質を互いに共有することは至難の業です。
貴方の本意が相手の方に上手く伝わっていない様に感じる事も多いでしょう。

尾窪さんは様々な方に、問うていらっしゃいますが
究極的に言って、自分の疑問は自分でしか解けないのでは。と思います。
自分の求める答えは人に依るものでしょうか、
尾窪さんが「神」を何と信ずるかによってそれは決まるものだと思います。
最終的に、人は必ず自らの求めるものを手にするでしょう。

机上の空論はともかく。
言葉遊びもともかく。

貴方が本当に真理を知りたいのであれば、自らを持って経験すればいいのです。

どんな目に会おうとも。

泳げないのなら、何故泳げないのか検証するでしょう。
その時、先生がいればもっと上手になるかもしれません。
でも一人で試行錯誤して泳ぎたいのなら、それも良いでしょう。
様々な失敗や経験を繰り返して・・

本当に泳げるようになりたいのなら、必ず泳げるようになると思います。
何故、泳げるのか?と泳げる人に質問しても無駄なことです。
泳げないからといって、コーチを批判しても無駄なことです。

泳ぎたいのなら泳げばいいのです。
貴方の人生で検証してみてはいかがでしょうか。

私は何か言うより前に、自分の人生で実践してみています。
これが全ての近道だと思いますよ。

付け加えて言いますと私には、その上で「生長の家」は押し付けがましくない
良いコーチだと思います。
別に捉われる必要などないのではないでしょうか?

違うと思えば「生長の家」を離れればいいのではないですか?
だからといって、一概に言っている事が間違っている。
という答えにはならないと思います。
大きく批判する根拠にもならないでしょう。

自分の人生で検証なされば、自ずと解ることです。

私は、離れても離れても・・私の見識が甘いことを人生によって知らされ
その真理を身をもって知らされ・・
「生長の家」の言っている事が真理だという事を経験を持って自らに苦笑する日々です。

投稿: 龍樹 | 2007年9月13日 16:42

> 講師の資格が有ろうと無かろうとそんな事は問題では有りません、

そんな事??ですか。自分が納得するために必要な、又は参考となる本
が何なのか。“そんな事”に興味はないですか。

> "絶対善"は実相世界の事、"相対善"は現象世界の事と理解してよろしいでしょうか?

よろしいですよ。それで、そのように理解されたことを、どのように消化又は昇華しようとされるのですか。

> 私は"善"が利害や価値観で左右されるものであってはいけないのではないか?と思うんです、例え自分が不利であっても損をしようとも有りの儘、真実を証言し行動する事が大事で善が2つあってはならないと、、、現象世界であってもです、

“有りの儘” うーーん。
有りの儘の現象世界を見ると、戦争とは、お互いが善の実現を目指しているのでは?

> 又「神が善、神を現せば善、神が善の本体、唯一の善は神のみである」の根本真理、全く私もそう思いますがそうなりますともっと難しい"神"とは何か?

"神"とは何か?
当然、このような疑問が出てくることは予想されました。
ご自身で見出してください。

私は、私なりに「神は愛也」を見出しました。
ここで勝手な判断ですが、ここに書いてきたことを、机上の空論とか、
言葉遊びと解釈されると、この「神は愛也」が否定されたよう思いです。
「神は愛也」であるから、人間に自由なるものを与えているし、善を裁きのために用いることもない。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年9月13日 20:33

早勢さん
先ほど飯樹さんより「自分の疑問は自分でしか解けない」「何故泳げるか?と泳げる人に質問しても無駄な事です」とのお叱りを頂戴いたしましたがわたしは泳げない人ならともかく泳げる人なら無駄ではないと思い質問したのです、神とは何か?「愛」であるとキチット回答をして頂き無駄ではありませんでした、有難う御座います、私は自分で勉強せずに分からない事があったらすぐ人に聞く癖がありますのでどうか許してやって下さい、又よろしくお願い致します。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月13日 23:25

飯樹さん、、、
1、「言葉によってその本質を互いに共有する事は至難の業」
2、「何故泳げるのか?と泳げる人に質問しても無駄な事です」
3、「泳げないからといってコーチを批判しても無駄なことです」
4、「生長の家の言っている事が真理だ、違うと思えば生長の家を離れればいいのではないですか?」
以上の提言について私の考えを申します。
1、至難の業だからこそ確認し共有したいのです、お互い勝手にバラバラの事を思っていては誤解が生じますから、、、
2、私は泳げない人に質問する方が無駄な様な気がします。
3、私は疑問や質問、私の現時点での考えは言いますが批判した事はありません、そんなに賢くありませんから、、、只その様に思われておられるのでしたら今後注意致します。
4、私は生長の家が真理でないとか違うとか全く言った事はありませんし、離れるとか離れないとか考えた事もありません、只単純に深く考えないでどう言う事かな?と質問するだけです。今後とも疑問に思う事は質問して行きたいと思いますので答えてやろうと思われればよろしくお願い致します。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月14日 02:20

谷口 雅宣先生

 合掌 ありがとうございます
考え過ぎでコメントを入れてしまい申し訳ありませんでした。いつもイタズラ類のコメントにも「ありがとうございます」って削除しておられるのだろうなぁと改めて思いました。コメントまで頂き、ありがとうございました。

投稿: 宮本京子 | 2007年9月15日 13:21

宮本さん、、、
悲しくさせて申し訳御座いません、あなたの様な方が本当の信心のある信者だと思います、そして生長の家の99%の人があなたの様な方ばかりだと確信しています、たまに私の様な者もおりますがまだまだあなた方の段階まで行かず試行錯誤しながら学ぶ途中ですので色々な疑問や質問、自分の意見をコメントする事を勘弁して下さい、今流行のコントではありませんが「右の目で見て左の目で受け流して下さい」以上よろしくお願い致します。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月16日 22:33

尾窪様
 合掌 ありがとうございます
私が悲しくなってしまったコメントは、もう既に削除されてあります。インターネット上の嫌がらせの類に入る書き込みをたまたま目にしてしまい、真に受けてコメントしてしまいました。そのために谷口雅宣先生にまでお気を遣わせてしまい反省している所です。それから、身に余るお言葉ありがとうございます。私もまだまだ求道している一人です。そんな私には尾窪の書き込み、そして、皆様のやりとりで更に考えさせられ真理を深めさせて頂けております。ありがとうございます。

投稿: 宮本京子 | 2007年9月19日 10:07

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「シドニー宣言」採択される | トップページ | 迷いはどこから来る? (4) »