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2007年9月 1日

奇蹟について (3)

 前回の本欄で「コイン並べ」のプログラムを掲示したが、一時うまく動かなかった点はご容赦いただきたい。この「コイン並べ」と同じ考え方で“奇蹟”を論じることで、ある興味ある結論にたどりつくことができるということを、生長の家総裁・谷口清超先生が説かれている。実は、清超先生が青年時代に書かれた「偶然と宇宙意志」という論文の中に、この仮想実験と似たものが出てくる。ただし、私の「コイン並べ」では5つ数字を使った数列を問題にしたのに対し、清超先生は、その論文で「0」から「9」までの10個の数字の組み合わせが出る確率について論じておられる。また、私の仮想実験では、数字の繰り返しを許さない順列であるのに対し、先生の論文では数字の繰り返しが許される順列(例えば、「1111111111」も許される)である点が違う。が、実生活に当てはめてみると、これらの違いはほとんど解消するだろう。先生は、「7286519034」が出る確率と「0123456789」が出る確率とは全く同じで、それは「ものすごく少ない」のだという。数字で表せば、それは10の-10乗(100億回に1回)で、ほとんど0に近いから「これを0とみなした方がよい」とも書かれている。つまり、同じ数列が出る確率はほとんど「0」というわけだ。
 
 さて、次にこう考えてみよう。私の仮想実験では5つの数字を使ったが、これを清超先生のように「10個」まで増やしてみる。そして、本欄の仮想実験の方法を使って引き出した最初の10個の数列が「7286519034」だったとする。また、2番目に引き出した数列は「5472908631」だったとする。そして、3番目は「2910547863」、4番目は「7863294105」……と、異なる数列を3,628,800個まで書くことができる。これら約360万回の実験のたびに目撃しているのは皆、生起する確率が「ほとんど0」の結果である。生起する確率が「ほとんど0」の現象を「奇蹟」と呼ぶことが許されれば、この360万回の実験のすべてで、実験者は「あぁ、奇蹟が起った!」と感動していいのである。ところが、普通の人間はそんなことでは感動せず、「当たり前だ」と退屈に思う。そして「0123456789」や、その逆の配列が出たときにだけ感動する。これは一体どうしたことだろう?
 
 さらに、次のように考えてみる。私たちの仮想実験では、10個の数字の組み合わせで360万通りの異なる(ユニークな)結果を得た。それでは、私たちが毎日経験している「実生活」は、一体どれくらいの“変数”で構成されているだろうか? 別の訊き方をすれば、私たちの実生活の1日を構成する要素は、どれくらいの数になるだろうか? 試しに、朝起きたときからの“要素”を列挙してみると……目覚ましの音、ラジオのニュース、配偶者の声、トイレの音、窓外の景色、鏡に映る自分の顔、子どもの顔、挨拶の声、俎板を包丁が叩く音、掃除機の音、テレビのアナウンサーの顔、その服装、トーストの焼け具合……たちまち10個以上挙げてしまったが、まだ1日のごく始まりにすぎない。つまり、私たちの1日の構成要素は「ほとんど無数」である。10個の数字の組み合わせで360万個のユニークな数列ができるのだから、「ほとんど無数」の構成要素をもつ私たちの実生活の1日が、全く同一の組み合わせで繰り返される確率は、どれほどだろうか? それは100%確実に「0」と言えるだろう。
 
 にもかかわらず、どうして私たちは「当たり前の日常」とか「単調に繰り返される日々」などと言うのだろう? 毎日毎日が奇蹟的にユニークな体験であることが100%確実なのに、「退屈」で「つまらない」などと言うのだろうか? その理由は、私たちが「7286519034」を“当たり前”と感じる一方、「0123456789」を“奇蹟的”と感じるのと同じ--つまり、完全な錯覚なのである。これらのことをじっくり考えてみると、「当たり前の奇蹟」という言葉の意味がより深く理解されるだろう。そして、それらの「1日」が24時間で構成され、「1時間」が3600秒で構成されていることを思い出せば、「今を生きる」ことの大切さがさらに実感されると思うのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○谷口清超著『神は生きている--青春の苦悩と歓喜』(日本教文社、1976年)

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コメント

100億回の実験の全てで実験者は「ああ奇蹟が起きた」と感動していいのである。私もそう思いますが次の普通の人間は感動せず「当たり前だ」と退屈に思う、123456、、やその逆の配列が出た時だけ感動する、これはどうしたことか?についてわたしは普通の人間ですが「当たり前だ」と退屈したりはしません、123456、、やその逆が出ても感動はしません(もちろん珍しい、奇跡的(奇蹟ではない)だ、良いことがあるぞ、とか驚嘆し共鳴はします)。
又、数字の確立と実生活の確立の比較は良く分かりませんが普通の人間の私でも「当たり前の日常」とか「単調に繰り返される日々」「退屈でつまらない」などとは言いません、何故なら現在の平和で豊かな生活の保障はありませんし、冥土は日に日に近くなり、我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、朝目覚めた時が誕生、夜眠りに就いた時が臨終、昼間と言えども死は前からよりも後ろから横から突然やって来る事をよく観察すれば、、です。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月 2日 11:47

彼は自分が何を言っているのか?分からないのです、お許し下さい。しかし、同じ神仏の子です、アッラーの御前で知る事になるでしょう、それまで猶予が与えられていますので今暫くお待ち下さい、慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において、、、悔い改める者にはアッラーは寛容で慈悲深いお方ですが不義なる者にたいしては厳格で公正平等な方、地獄の業火の中の住人に永遠にならない為に、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月 2日 12:18

ここで批評や批判を述べるなら、実名で書き込んでほしいものですね。(批評や批判自体は排斥されるべきものではないと思います。当然ながらTPOは考慮しなければなりません)徳久先生の文章で神の子の自覚とは、自己責任の自覚であるというものを見たことがあります。匿名の批判というのはどうなんでしょう。生長の家の教えを知っている人らしくないとも思います。
それと、ちょっと気になったのですが。
尾窪さん、神は裁かないと思いますよ。それと、生長の家は恐怖を説くような教えではないと思いますから、『地獄の業火』などという言葉を用いるのは、似合わないのではないでしょうか。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年9月 2日 13:49

早瀬さん失礼致しました、余りにも不真面目、ふざけた、不謹慎なコメントなのでついついクルアーンの言葉を引用してしまいました、ただ優しい、思いやりのある言葉ですと自画自賛(ひょっとして私もなっているかも悔悟します)甘えになると思い、厳しい言葉を使い厳しさの中の寛容をと言おうと思った次第です、つまり、不動明王の憤怒の姿でハッとされ、仏心が現れるか?と、、、申し訳有りませんでした。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月 2日 19:11

仏心が現れるか? 既に現れているか?

私は既に現れていると考えます。表現の方法なのではないでしょうか?
世の中、良いと思ってやったことが、空回りすることがあるのではないでしょうか。そこには、愛はないのでしょうか?。
愛ある行為も表現を誤れば、人を不幸にするのだと思います。
私自身も数え切れないほど失敗してきたし、これからも失敗は当然あると思いますが、そうやって人間として生長していくのだと思います。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年9月 3日 00:15

奇蹟について数字でのご教授、ようやく理解できました。

「博士の愛した数式」と言う映画を思い出しました。


素数はとても美しいそうです。友愛数も。 

投稿: 酒井幸江 | 2007年9月 3日 01:35

副総裁先生

 「奇跡」について数字を使ったご説明、目の覚めるような思いで拝読いたしました。読み終えた後、「この世界は内も外も神の愛が充満している!」という思いが自然と湧いて参りました。
 いつも斬新な切り口で、また様々な角度からご教授下さいますので、楽しく真理を学ぶことができます♪

投稿: 竹村 | 2007年9月 3日 09:53

早瀬さん、、、実名の無い人のコメントに対して表現方法を誤っているだけで既に仏心が現れていると申されましたが私はそうは考えてないのです、つまり、仏心は誰にでも有りますが現象界での"煩悩"の泥(清浄な人から汚れの塊り迄各人各様、千差万別)が余りにも深く仏心が現れていないと思います、従いまして最高位の清浄な人(実相世界)には失敗は無いと確信しています、又、この現象界に於きまして人間の心は迷って鬼(実相世界には無い)となり、悟って仏になる(現象世界と言えども)と言う事だと思うのですが、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月 3日 10:59

早瀬さん、、、度々申し訳ありません、「良いと思っていた事が空回り、そこに愛は無いのか?」「愛ある行為も表現を誤れば、人を不幸にするのだと思う」と言う意見ですが結果として空回りしたり、人を不幸にするのは"愛紛い"であって本当の愛では無い、ひいて言えば"見せ掛けの愛、慈悲魔"ではないでしょうか?実相世界では空回りしたり人を不幸にする様な事は無いと思いますが、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月 3日 11:19

酒井さん、
竹村さん、

 寛大なお言葉、ありがとうございます。
 数字が好きな人と、数字がきらいな人がいます。後者の人にはこういう説明は「無意味でムダ」だと感じられるようです。また、理工系の講師の人からは、「確率の計算の仕方が間違っている」などとのご指摘もいただきました(後に修正しました)。皆、ありがたい「教化」であります。

投稿: 谷口 | 2007年9月 3日 13:12

> この現象界に於きまして人間の心は迷って鬼(実相世界には無い)となり、悟って仏になる(現象世界と言えども)と言う事だと思うのですが、、、。

「鬼」と認識するのは誰なのでしょうか?
心の迷っている本人が、自分のことを「鬼」だと思っているのでしょうか?
心の迷っている人を見て、誰かがその人のことを「鬼」だと思っているのでしょうか?
なぜ、「鬼」というように認識するのでしょうか?

悟って仏になれば、現象世界といえども、すべての事象の中に、仏を見出すことはできるのではないでしょうか。

「悟れば忽ち此の世界は光明楽土となり、人間は光明生命なる実相を顕現せん。」

悟るということは、そんなに大それたことではないと思います。排斥しないで許容するというシンプルな考え方だと思います。(神はきっとどんな人でも排斥しませんよ。なぜなら、神の目は我々には見えていないものが何時でも見えているから)

投稿: 早勢正嗣 | 2007年9月 3日 23:34

成程、何事も排斥されない早勢さん、面白い慈悲深い仏様の様な考えで、素晴らしいとは思いますが私は少し違います、「神はどんな人も排斥されません」の結論はそうかも知れませんがそうあって欲しくないなあ、、、との思いがあります、何故ならこの世で人間は何をしても排斥されないと言う事になるからです、殺人、放火、盗み、悪口、怒り、二枚舌、詐欺、強姦、等々特に"迷った"殺人強姦(例えば光市母子殺人事件)の際の当人の顔はどんなでしょう?観世音や阿弥陀如来の顔ではないと思います、きっと赤鬼か青鬼の顔、"悟った"釈尊の顔は仏の顔、同じ様に見えないのです、もし、共に同じ様に排斥されないのならこの世に生を受け、悪の心を制し修め、善を行う思いも努力も意味の無いものになってしまいます。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月 4日 11:25

何事も排斥しないという趣旨で書いてきた訳ではないのですが、誤解される部分があるのでしょうね。
神の子の自覚は、自己責任の自覚ということを書きました。こういう観点から、人様に迷惑をかけた場合は、何らかの制約が生じてくるのは何の問題もないでしょう。問題はどこまで制約するのか、どこまで排斥するのかです。そこに感情というものが入ってくると、過剰な反応が引き起こされるかもしれません。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年9月 4日 17:02

尾窪さん、鬼と見える人でも拝めば神があらわれる。

もともと、現象なし、罪なしの 教義だ。モット自由に、善にもとらわれるなよ。

投稿: 橋口海賊ダ! | 2007年9月 4日 19:21

有難う御座います、、
早勢さん、、、「神は"どんな人"でも排斥しません」と言われていましたので誤解いたしました、匿名の人は誰かに迷惑をかけたのでしょうか?少なくとも私には迷惑はかかっていませんがこの人は排斥されないとなると排斥のボーダーラインの判断は何処に置けば良いのでしょうか?
又、感情が入って来ると過剰反応が起こると言う事ですがもし感情が入らないと無反応で無関心で能面、死人の様でであまり面白くないのですが、、、(私こそ排斥かな?)。
濱口さん、、、迷って一瞬は鬼になってもその煩悩の中に"仏心、神心"はおっしゃる様に有ると思いますが現れない仏心は有っても有るとは言えないと思うんです、「善にもとらわれるな!」確かにこれは真理だと思いますが"現象なし、罪なし"は実相世界の事であって現象なし罪なしに囚われると狭い自由に思えるのですが、、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月 5日 10:31

カリブさん、、、有難う御座いました。しっかり頑張って下さい。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月 5日 16:07

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