« トンデモ科学にご用心 | トップページ | 函館港散策 »

2007年9月25日

トンデモ科学にご用心 (2)

 前回の本欄で、私はあまりにも簡単な質問を発してしまっただろうか。さっそく、読者の1人が正解を与えてくださった。人間が心で想うことと、水の物質的成分に直接的な相関関係は「ない」というのが正解である。蒸留水を前にして人間が「これは甘い」と強く念じたところで、その水中に糖分が生じるなどということは「ない」と答えるのが、我々のような一般的な教育を受けた現代人の正解である。これはまた“常識”とも言えるが、その一方で、きちんとした科学的理論と実験との積み重ねによって得られた人類の知識の成果でもある。しかしもし、肩まで髪とヒゲを伸ばし、いかにも“宗教家然”とした風体の男が、鋭い眼光を向けて大音声とでこう言ったとする--

「人間は神の子であって、無限力である。神に不可能がないのと同じように、人間にも不可能はない。たとい蒸留水であっても、人間が信念をもって強く“甘い、甘い”と念じれば、その蒸留水は甘くなるのである!」

 読者は、この男の言葉を信じるだろうか? 言葉の前半は信じるが、後半は信じないだろうか? 前半を信じるなら、後半も信じるべきだろうか? もしそう感じるなら、それはなぜだろう? この言葉をもし、小学校5年の息子の友人が言ったとしたら、どうだろう? 生長の家の地方講師が言ったなら、どうだろう?……
 
 ある言葉の内容が正しいか否かは、それを誰が言ったかによって決まるのではなく、その言葉の内容自体によって決まる、と私は思う。また、ある言葉の一部が正しいとしても、それは全体が正しいことを必ずしも意味しないと思う。さらに言えば、ある人が生長の家の教義と似たようなことを言ったとしても、その人の言うことすべてが正しいことを意味しない。「是是非非」という言葉があるが、信仰者にもそういう慎重な態度が求められると私は思う。
 
 では、次の質問へ移りたい。ある人が次のような意味のことを本に書き、その証拠としてカラー写真を何枚も掲載し、その本が日本のみならず、海外でも翻訳されてよく売れていたとする。読者は、この人の言うことを信じるだろうか? それとも信じないだろうか?
 
「水は人間の心に感応して、美しい結晶を作ったり、醜い結晶を作ったりする。そのことは、実験によって示すことができる。これは世界がすべて心の波--波動でできているからである。即ちこの世界は、心でつくられているのである」

 生長の家の「唯心所現」の教義から考えれば、上のような主張は誠に興味深い。しかし、その反面、人類が何万年にもわたって積み上げてきた科学研究の成果から考えれば、簡単には納得できない種類のものである。もしこのようなことが日常的に起り得るならば、もっと別のことも起り得るはずである。例えば、「水」だけでなく「油」も「金属」も「空気」も人間の心に感応して、それなりの変化を生じるはずである。なぜなら、油も金属も空気も、物質としては水と本質的に等価であるからだ。つまり、水(H2O)に含まれる水素(H)原子は、油や空気中に含まれる水素と物質的にはまったく同一である。水にだけ働き、他の物質には働かない物理学の法則や化学の法則など存在しないはずである。これを逆に言えば、水の結晶の形成に人間の心が影響を及ぼすことができるなら、それこそ文字通りの“錬金術”も可能なはずである。

「信じたい」と思っていることが、必ずしも真実ではない。しかし、人間はまず「信じたい」ことを信じるのである。この難しい関係を正しく解きほぐして真理に近づくために、科学は「科学的方法」というものを考案した。その1つが論理性(理性)であり、また1つが再現性である。ある真理に到達するためには、その真理を論理によって仮説化し、その仮説が誰によっても実験的に再現できるかどうかを確認する。この確認ができれば法則を発見して真理に至る、というわけである。

 もう何年も前に遡るが、私は上の「水の結晶」の話を聞いて興味をもち、半信半疑ながら実験によって結晶の再現を試みた。例の水を入手し、シャーレも買って、冷蔵庫の中へ入れた。結果は、何ごともなかった。そこで本の出版元に電話して理由を訊いたのだが、答えはこうだった--

「結晶は、うまくできる場合とできない場合があります」

 私は、この答えを聞いて実験をやめた。なぜなら、この答えは実験の元になっている仮説が正しくないことを証明しているからだ。“偶然”によってできた美しい結晶と、これまた“偶然”によってできた醜い結晶を、あとから人間が書いた言葉と組み合わせて写真を撮ったとも解釈できる--こんな安手のトリックを「科学」と呼ぶ人がいたら、私はそれを「トンデモ科学」と呼びたい。生長の家の講師がもしそんな「トンデモ科学」に与していたとすれば、それこそトンデモナイ話である。
 
 谷口 雅宣

|

« トンデモ科学にご用心 | トップページ | 函館港散策 »

コメント

肉体は死滅しても魂は滅びないという生長の家の教えには論理性、再現性があるのでしょうか。それとも「信じたい」仮説なのでしょうか。

投稿: 杉原素明 | 2007年9月26日 01:23

谷口雅宣先生
質問:炊いたご飯に対し、「ありがとうございます」と「馬鹿野郎」と、何も声をかけないで無視した実験をしたことがありますが、「ありがとう」と言い続けたご飯は6日くらい変色せず、「馬鹿野郎」と言ったご飯は4日くらいから変色始め、無視したご飯は2日目くらいから変色し、6日目には真っ黒くなった記憶があります。植物でも、毎日「ありがとうございます」とか「綺麗だねー」と声をかけると、美しく長く咲くと聞いたことがあります。またサボテンと話しをする実験を見たことがありますが、これも「トンデモ科学」なのでしょうか。日本物理学会では学校における「ご飯の声かけ実験」に反対しているようですが。

投稿: 久保田裕己 | 2007年9月26日 03:22

>水の結晶の形成に人間の心が影響を及ぼすことができるなら、それこそ文字通りの“錬金術”も可能なはずである。

 合掌ありがとうございます。
 心が物質に及ぼす実験結果の真偽は私は実験したわけではないので何も言えませんが、この氷の結晶の話の場合、水分子(H2O)の分子構造や原子そのものが変化するというわけではないので、錬金術を持ち出すのは批判としては飛躍されてないでしょうか。
 
 氷の結晶のお話、私個人としては「おとぎばなし」のように捉えてもいいのではないかとおもいます。例えウソの御伽噺であっても冒頭で「これは本当のお話です。・・」といったほうが話が面白くなるように、氷の話も「本当の科学ですよ・・」といってもらって、それが例えそれがウソだとしても怒りの感情は沸きません。

 人間は昔から嘘か真かわからないものに心をひかれ、その中には悪用されるものもあれば、「おとぎばなし」のように皆に親しまれて伝承されるものまであります。
 
 科学のみが真理だとされがちな現代のおいて、科学の話を利用した「おとぎばなし」も、それが多くの人々の心を和ませ良い方向に利用されるならあってもいいように思うのですがいかがでしょうか。
 
 


投稿: 鈴木雅臣 | 2007年9月26日 10:42

副総裁の質問
「水は心に感応して美しい結晶を作ったり、醜い結晶を作ったりする、そのことは実験によって示すことが出来る、これは世界がすべて心の波ーー波動で出来ているからである、即ち、この世界は心で作られているのである」唯心所現、、、信じるであろうか?信じないであろうか?
私は単純に信じません、しかし信じる人があってもそれはそれで批判はしません、「いわしの頭も信心から」お互い剥きになっても得るものはありません、是々非々です、そして唯心所現の解釈を整理して考えるべきではないかと考えます、この世界は人間の心が創ったのではなく神仏の心が創った、そして人間は人間の心に従って苦しみも福楽も自分に従って現れる、清い心で語り行ったならば福楽を、、、汚れた心で語り行ったならば苦しみはその人に従い現れる(心の法則)、従いまして科学の法則とゴッチャにしては訳が分からなくなると思います。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月26日 12:53

安井至さんという方の昨年(2006年)の論文ネットでみつけました。何かの参考になるのではないでしょうか。

http://www.chemistry.or.jp/kaimu/ronsetsu/ronsetsu0609.pdf#search='氷の結晶%20ありがとう'

投稿: 鈴木 雅臣 | 2007年9月26日 13:26

久保田さん
私は「トンデモ科学」であり、科学と人間の生活をゴッチャにされている、同じ花でも「綺麗だね」と言おうが「馬鹿野郎」と言おうが世話をキチンとやらなければ枯れ、花が喜ぶ様な世話をやれば言葉には関係なく綺麗に咲き乱れる、つまり、綺麗に咲かせ楽しむ為にはその様にせしめる科学的な根拠が必要であり、言葉は後からついて来る、「馬鹿野郎」と言う気持ちを人間が持つ様な状態の時はキチンと世話はしないでしょう、出来ないでしょう、従って唯心所現、早くしぼれ、枯れる、即ちこれは科学的な結果である、と思います、、、。「怒りに出る言葉は、げに苦しみなり、仕返し必ず汝の身に至らん」と言う事葉があります様にこの場合怒る自分の心を修めよと教えられている様に思いますが、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月26日 15:07

 安井氏の論文上の「常温核融合」は「あながちトンデモ説でもない(インチキではない)」という説もあるんですね。興味を示しては危険でしょうか?

http://www5b.biglobe.ne.jp/~sugi_m/page281.htm#<2007年のJCFは同志社大学で開催される!>

投稿: 鈴木雅臣 | 2007年9月26日 15:41

私も、「水の結晶」の話はずいぶん前に耳にしたことがあります。先生のブログを拝見して、ちょっと興味が湧いたので、図書館で6冊本を借りてきてみましたが、結論を言えば、まったく科学的ではないです。

私は理系の大学を出ていますので、いろいろと実験をした経験がありますけど、これらの本には、精製水であることとガラス瓶を使用していること以外、保存温度や湿度、照射される光量やホコリ対策など実験環境・条件について何も書かれていません。しかも、水の結晶は一つとして同じ形が無いと自ら述べながら、それぞれの実験で発生した結晶の数に関するデータも掲載されていません。これでは、科学的な実験だとはお世辞にも言えません。これはご飯を使った実験についても、まったく同じことが言えます。

もちろん科学は万能ではありませんし、現在証明されている理論が、将来覆るようことが起きる可能性が無いとも言えません。しかし、科学的で無いものを科学的法則があるかのように表現し、誤解を与えるようなことは、慎むべきだと思います。だからと言って、日頃から水やご飯や植物に感謝の心を表現することを否定している訳ではありません。大いにやるべきだと思います。あくまでも科学的では無いと言いたかっただけですので、ご理解下さい。

因みに、図書館でこれらの本を探していたところ、科学のコーナーではなく、オカルト、魔術などの本と並んでいたことは、大変興味深い出来事でした。

投稿: 飯田雅俊 | 2007年9月26日 16:01

鈴木さん、

 興味深い論文をご紹介くださり、ありがとうございます。
国連大学の副学長であり、化学が専門のように見える人ですから、科学者の立場を代表していると考えていいと思います。私は、安井さんの意見と基本的に同じです。科学ならば「科学」という看板を掲げ、ファンタジー・ポエムなら「ファンタジー・ポエム」ときちんと銘打つべきです。

 本当は後者なのに前者であるとの看板を掲げることは、一種の詐欺ではないでしょうか? (あなたがウソを言われて怒るか怒らないかという話とは別次元の問題です)

投稿: 谷口 | 2007年9月26日 16:26

理系の飯田さんのコメントは文系の私にもスンナリは入りました、全くありの儘、真っ直ぐな見解の様に思います。
又杉原さんのコメントですが私は宗教(アナログ)と科学(デジタル)をゴッチャにしておられる様に思いますが死の瞬間体重が僅かですが軽くなったと言う話を聞いた事があります「そうかも知れないがそうでないかも知れない」、水が蒸発しても水が無くなった訳では無く姿を変えて又空中から水となって地上に再現される事実、「万法に証せらるるなり」と言う言葉もありますから何とも言えませんが魂が滅びると言う論理性も無い様に思います、いずれに致しましても人類の歴史の中で滅びないとの思い、発言(特に預言者、霊能者)は枚挙にいとまがありません、昼は有っても夜は無い理論、何故か?真っ暗で何も見えないから、、見えないからと言って何も無い?これも「有れば良いなあ、信じたい」と言う仮説?でしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月26日 17:14

 私は先生の仰る「トンデモ科学」の見方でも信奉者でもなんでもないですが(笑)・・・、

 その「トンデモ科学」とか「詐欺」だとか言われる批判に対して、高尾征治という方が「言葉が水の氷結状態と水力元素濃度に及ぼす影響」という科学的な論文を発表されているのではないですか?

 安井氏は論文中でそれにかかわる「常温核融合」というもの(私は内容まったくしりませんよ。)を「インチキだと思う」と書かれていますが科学者が何の科学的説明もなしにそう書く事の方がインチキではないかとも少し思いました。

>本当は後者なのに前者であるとの看板を掲げることは・・・

 「本人は本当の科学だとおもっているが、ファンタジーと思って頂いても差し支えない」という事ではないでしょうか。
 
 

投稿: 鈴木雅臣 | 2007年9月26日 17:39

>一種の詐欺ではないでしょうか?

「騙す意思」があれば詐欺ですが・・・

投稿: 鈴木雅臣 | 2007年9月26日 18:43

 副総裁先生,読者の皆様ありがとうございます。
 私は今日の記事を拝読して「ハッ!」としました。つい先日,例の「水にかける言葉の実験」のことをコメントに書いて削除されたばかりだからです。
副総裁先生の仰りたいことは,「科学的真理はどこまでも科学的実証に裏打ちされたものでなければならず,あやふやな仮設やいい加減な実験をもってその事象を肯定してはならない」ということだと捉えます。
 水と言葉の実験に関しては現段階ではそれを科学的真理とは言い難いあやふやなところがあることは事実ですから,私も安易に実験して見たことは反省致します。
 ただ,科学的事実ではないこと,例えばコメントにもあるように子供が植物や食べものに感謝や賛嘆の気持ちを言葉に表して言っているのを,「そんな科学的でないことはやめなさい!」と,私は否定できません。
 有名な話ですが,「氷が溶けると何になるか?」という理科のテストの答えに「春になる」と答えた子供の答案に花丸をあげた先生の行為を是とするか非とするかの議論がありましたが,何故かそれを思い出した皆さんの議論でした。「それとは次元が違うよ」と言われればそれまでですが・・・。

投稿: こんちゃん | 2007年9月26日 20:50

論点が違うかもしれませんが、生長の家で行っているところの病気や経済苦など人生問題を解決するための神癒祈願や練成行事で行っている祈り合いの神想観などは、世間一般では非科学的だと思われますが、これも一種のトンデモ科学なのでしょうか?
私はそう思いたくないのですが・・・

投稿: ふるちゃん | 2007年9月26日 21:33

尾窪先生
コメント有難うございます。私も宗教は直感(悟り)の上に成り立つものであって、その真理を科学的に説明したり、立証しようとするのはあまり益があるとは思いません。ただ生長の家ではキリスト教などでいう生命の不滅にとどまらず、個々人の生命(意識)が死後も残ると説かれているように思いますので、ではそうした現象は科学的にも立証できるのだろうかと疑問に思った次第でございます。

投稿: 杉原素明 | 2007年9月27日 01:54

ふるちゃんさん
あれは非科学と言われる通り、一般的には科学ではない、従ってトンデモ科学とは言わない、心の法則であると私は思います、しかし心の法則が顕現したならば高い立場から見れば立派な科学になるかも知れません、私はどちらかと言えばこちらの意見です。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月27日 23:17

こんちゃんさん
子供が植物や食べ物に感謝や賛嘆の気持ちを言葉に言っているのを「そんな科学的でない事はやめなさい」と注意する人、怒る人があるでしょうか?普通は微笑ましい光景と受け止め、そのやさしさや思いやりの心を褒めてやるのではないでしょうか?そして「きっと花は喜んで綺麗に咲きますよ、胃も活発に働いて食べ物も喜んで栄養を100%吸収して病気の無い元気な体にしてくれますよ」と言われると思います、これを「科学的でない事で子供を褒めるな」と思われる人があるとすれば潤いのない社会、人生ななるような気がします。それから
花丸をあげた先生の行為の是非論、私は初めて聞くのですが機転のきいた素晴らしい先生だと思います、勿論テストでは不正解ですが、、、こんな先生に指導して頂ければ子供は伸び伸びと明るく育つと思います。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月27日 23:51

杉原さん
先生は勘弁して下さい、私は只の受講者、読者で様々な人々のコメントを拝読させて頂き、自分の考え意見を言っているだけですから、是々非々で行く事にしていますのでよろしくお願いいたします、それで
「真理を科学的に説明したり、立証しようとするのはあまり益があるとは思いません」「生命不滅、個々人の生命(意識)が死後も残る」と説かれている、そうした現象は科学的に立証出来るか?と疑問を持った」と言う事ですがそれは何にもおかしい事でもありません、そう思うのですから、、、小泉元首相ではありませんが人生色々、人も色々です、わたしはそれに対して「益があるか無いかは別にして科学的に説明出来たり立証出来ればそれにこした事はない」と思います、只始めも知れない昔から全ての宗教の中で不滅性、永遠性を説かない宗教があったでしょうか?立証出来ないなら信じないと言うのであれば「宗教はデタラメだから止めた、無宗教で行く」と言う事になります、こんな人は結構います、ある人が「ワシが死んだらロウソクの火を消すから良く見ていてくれ」と言って死んだが火は微動だにしなかった、と言う話があります、だから釈尊は「自分が悟った真理は深遠で見難く難解であり人間の思考の域を超えており微妙であり、賢者のみ良く知るところである、所がこの世の人々は、、」と言われており、亡くなられる時「私はこの真理を知って説いたがあなた達はこの教えを良く守り、これを灯明にし、頼りにしなさい、他を灯明にし頼りとしてはならない」と最後に教えを説かれておられます、即ち何が言いたいのか?
谷口雅春大聖師は知って説かれているのですから立証がどうのこうのと言う事ではないのではないか?と言う事です。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月28日 00:54

尾窪さん

ちょっと誤解をお与えしたようです。私は生命の不滅も、魂の不滅も雅春先生がお説きになっている通りに信じています。宗教上の真理は信じるか、信じないか、帰依するかしないかであって、科学的に立証できるかどうかを論じるのはあまり益がないのではないかと思っただけです。立証できなければ信じないというのではまったくありません。雅春先生が全身全霊をかけてお悟りになり、お説きになっているすべての教えを信じています。

投稿: 杉原素明 | 2007年9月29日 00:12

「ザ・シークレット」という本が10月に角川書店から出版されますが、これもトンデモ科学なのでしょうか? 発売前にアマゾンで5位です。『ザ・シークレット』あなたは「偉大な秘密」を手にしています。
[ 著者 ]ロンダ・バーン[ 訳者 ]山川紘矢 山川亜希子 佐野美代子[ 内容 ]
この「秘密」を理解した暁には、あなたは欲しいものを手に入れ、なりたい人物になれ、やりたいことがなんでもできるようになるでしょう--。全米700万部の大ベストセラー、遂に日本上陸!
[出版社からの内容紹介]あなたは「偉大な秘密」を手にしています。この「秘密」は、代々伝えられる中、人々に熱望され、隠され、失われ、盗まれ、莫大なお金で買われたこともありました。歴史上最も著名な人々は、何世紀も前に存在していたこの「秘密」を理解していたのです。プラトン、ガリレオ、ベートーベン、エディソン、カーネギー、アインシュタイン等の発明家、理論家、科学者、偉大な思想家達です。そして、ついに今日、この「秘密」が世界の人々の前に開示されたのです。「この『秘密』を理解した暁には、あなたは欲しいものを手に入れ、なりたい人物になれ、やりたいことが何でもできるようになるでしょう。また、あなたは、真実の自分を知る事ができます。そして、あなたにはすばらしい人生が待ち受けていることがわかるでしょう」――「はじめに」より
20分の映像もあります。
http://swf.jimaku.in/v/_b1GKGWJbE8/ae1POlJjQMK

投稿: 久保田裕己 | 2007年9月29日 01:39

杉原さん、コメント同感です、有難う御座いました。
久保田さんへ
「ザ・シークレット」について私はこう思います、科学だとかトンデモ科学とかの問題ではなく小説や娯楽映画として見れば面白い?そしてその中から取捨選択して真理を読み取り生きる勇気になればそれはそれで良いのではないかと、、秘密(引力の法則)を理解すればと言う前提で人々のこの世の欲望が安易に手に入る様に持ちかけています、映像を見る限り真理を混ぜながら欲望を喚起する様な設定、勿論本を売る宣伝としては理解は出来ます、しかし皆がプラトン、ベートーベン、リンカーン、長島、天皇、釈迦、王、谷口雅春、キリスト、億万長者、では余り面白い社会ではない様な気がします、やはり全てにおいて多様性、多種多様な能力が発揮できる今の社会、その中で何を考えどう生きるか!100人100色、1000人1000色が好みです。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月29日 11:04

観察者効果との違いが、今ひとつよくわかりません。「観察者が観察する」という行為自体が、観察対象に対して変化をもたらすことです。水を観察した場合に、光子が、水に当たってしまった結果、水を組成する電子や量子のレベルに、変化が起こるという意味でしょうか。光を長時間、照射した水と、暗室に放置した水とでは、水を量子のレベルで検出すると、何らかの違いが起きているのかもしれません。但し、この現象が、分子や細胞や個体のレベルでも起こりうるかと言われたら、途端に疑わしさが増えるような気がします。

投稿: JK | 2018年4月28日 06:47

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« トンデモ科学にご用心 | トップページ | 函館港散策 »