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2007年8月28日

奇蹟について

 前回の本欄で「宗教の世界における“奇蹟”を単なる“思い込み”から救い上げる視点はないか?」と問いかけたら、読者の1人が「宗教の世界における奇蹟とは何かを、記述してみたらいい」とコメントしてくださった。その助言に従おうと思う。とは言っても、これはなかなか簡単ではない。しかし、これまで例に挙げてきた“糞跡”や“コインの並び方”、あるいは“火星の人面岩”は、宗教的な奇蹟ではないと言えるだろう。なぜなら、これらは皆、自然法則に則って起った現象だからだ。それを、人間の側で勝手に「奇蹟だ!」と解釈しても、それを「宗教的な奇蹟」と言うわけにはいかないだろう。
 
 まずはこう言ってみたが、しかし、次のような場合を考えてみてほしい--ある青年が、困難な資格試験に合格したいと願い、毎朝、近くの神社に祈願の参詣をしていたとする。いよいよ試験当日となり、配られた問題用紙を見た青年は、思わず小さく声を上げた。なぜなら、前日に一所懸命に勉強した箇所が、ほとんどそのまま出題されていたからである。こうして、この青年は難しい試験に見事合格したとする。上の定義からすると、この場合は自然法則にのっとっているのだから--つまり、前日に勉強したことが試験に出題される確率は「0」ではないから--宗教的な奇蹟とは言えない。しかし、この青年本人にとっては、まさにこれこそ、神様が自分の祈りに答えてくださった宗教的奇蹟でなければ何であるのか!
 
 この試験の例と本質的に変わらないことは、墜落事故を起こした航空機に乗ろうとしていて乗らなかったか、あるいは乗れなかった人にも当てはまる。また、成功率が低い医療行為によって健康を回復した人、仲間と一緒に食事をしながら、自分だけ食中毒にならなかった人、交通事故でペシャンコに潰れた車中から、かすり傷だけで救出された人などにも言えるだろう。これらの人が宗教心をもっていた場合、きっとその人は「あぁ、これは奇蹟だ。神様に救われた」と感じるに違いない。これを“宗教的奇蹟”と呼ばないで、何と呼べばいいのだろうか? 事実、この種の話は、生長の家でも、他の宗教でも、「信仰体験」としてもてはやされる傾向があることは否めない。しかし、これらは「単なる思い込み」と呼ぶべきだろうか?
 
 奇蹟が成立するためには、「自然法則を超える」という要素が必要だという考え方は、キリスト教に強い。キリスト教神学者のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)は、奇蹟を3つに分類した:①様式上の奇蹟、②客体的奇蹟、③本質的奇蹟、である。①は、自然法則を超えてはいないが、自然的手段の助けなしに起るもの。②は、自然法則上では不可能のことが客体に起るもの。③は、本質的にすべての自然法則を超えて起るもの、という。カトリックの神学では、奇蹟は「超自然の唯一の絶対的原理である神が、その絶対能力を有限な自然秩序領域に適用することによって生起した現象である」とする。それが起るのは、自然界を変革するためではなく、倫理的因果律を守り、道徳的秩序を維持するためだとされる。そのような奇蹟を起こすことで、神は人間の信仰深化と、道徳の向上を期待するとともに、神自身が自らの存在を人類に示す。そういう意味で、奇跡は神の徴表(sign)と見なされるのである。
 
 実は、生長の家の立場もこれに近い。谷口雅春先生は『真理』第10巻実相篇で、次のように説かれている:
 
「善人が国を護るために戦いながら敵弾に中って死ぬ。其処には自然界の物理的法則があるだけであって、道徳的法則は見出されない。善人が人を救(たす)けようと思って寒中に水の中に跳び込む。そしてそのために彼は肺炎を起こして死ぬ如きことも自然界の物理的法則で起り得る。自然界の法則は、人の動機の善悪に対して差別なく作用するのである。それは冷厳に作用して善人悪人によって其の作用を異にすると云うことはない。このような場合には“自然界の法則”は決して神の意志をあらわしていないのである。法則が自働して、結果を導き出しているだけである。そんな危急の時に、超越内在神が働き出せば、車輪に触れながらでも傷つかず、寒中に冷水中に跳び込んでも感冒(かぜ)を引かず、肺炎にもかからないと云う奇蹟が生ずることになるのである」(pp. 142-143)

 これらのことから考えれば、自然界の法則を超えて、倫理的道徳的秩序を現わすために起る現象を、ここでは「奇蹟」と定義していいだろう。その一方で、一般に“宗教的奇蹟”と考えられるものの中には、「奇蹟紛い」のものもあることを認めねばならない。

谷口 雅宣

【参考文献】
○小口偉一、堀一郎監修『宗教学辞典』(東京大学出版会、1973年)

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コメント

宗教的な奇蹟から学ぶこと。

成功率が低い医療行為によって健康を回復した人。
この人は、奇蹟的に健康を回復したと言えるのでしょうね。
しかし、今の私は特別な苦労もせずに健康な状態でいる。
そう、ひょっとして奇蹟的に取り戻すことになるかもしれない健康を、今の私は普通に感じています。
ある人にとっては奇蹟の健康。
私自身は普通の健康。でも、普通に健康であることをありがたく思っているんです。そして、たとえ健康でなくても、生きていること(生かされていること)をありがたく思いたい。
生長の家の信仰も人それぞれだと思うけれど、私なりの生きていく考え方、生長の家から学んでいるつもりです。

余談ですが、“生き方”と変換させていたら、“逝き方”という文字が出てきました。人生、うまく生きたい、うまく逝きたいと思いました。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年8月29日 01:04

本欄は極めて意義深い文章が掲載されていると感じました。
今の生長の家に必要な定義であると思います。

投稿: 一信徒 | 2007年8月29日 02:15

私の人生はあるが儘、我今ここにありて切!人生へ空の一字を彫りつづけ!南無!ですが、奇蹟の分類1,2,3,で1-2は「奇蹟紛い」、神仏の目から見れば奇蹟は無いと思いますが人間の目からだと3が奇蹟と言えるのではないでしょうか?、"雨は善人の上にも悪人の上にも同じように降らせられる"、ですから
試験合格も「紛い」に入ります、事故死で助かる人そうでない人も自然の物理的法則の範囲「紛い」だと思います、「自然界の法則を超えて倫理的道徳的秩序を現すために起こる現象」を奇蹟と定義致しますと、かつての預言者達(ヨハネ、ダニエル、モーゼ、エリヤ、イエス、釈迦、ムハンマド、谷口雅春、他)の存在そのものこそが奇蹟であると思いますが、、、、どうなのでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月29日 12:58

早瀬さん、、早瀬さんにとって「うまく生きる」「うまく逝く」とはどの様な生き方、逝き方か教えて下さい、参考にしたいと思いますので、、、よろしくお願い致します。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年9月 2日 19:23

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