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2007年8月30日

奇蹟について (2)

 8月22日と25日の本欄に提出した「コイン並べ」の仮想実験を書きながら、私は「頭の中だけでの実験では現実味がないなぁ~」と感じていた。読者の誰かに実際に実験してもらい、「120分の1」の確率というのが統計として実証できたらいいのだが、忙しい読者諸賢にそんな負担をかけるわけにもいかない。かと言って、私自身がそれをやっても「本当にやったの?」と疑問視されるかもしれない。いや第一に、そんな時間をとってはいられないだろう。そこで考えついたのが、このブログ上でパソコン用のプログラムを走らせて、興味のある読者に「コイン並べ」をやってもらい、「120分の1」の感触を味わってもらえたらどうか、ということだ。しかし、それにはプログラマーの助けが必要かもしれないし、これまた他人の負担を増やすことになる……。
 
 そんなことをブツブツ考えながら、私は時間を見つけてシコシコとプログラムを書いてみた。そして、上記の目的に合いそうなものをどうにかこうにか作ってみたのである。興味のある人は、下に掲げたプログラムで遊んでほしい。

 このプログラムを実行するには「RandCoins.pkg」というファイルを読者のPC上にダウンロードしなければならない。その後、下の四角い枠内のどこかをクリックすれば、プログラムが実行できる。「PUSH to draw」のボタンを押すと、灰色のウインドーが現われて5文字の数列が表示される。ウインドーの左上に「Trial」と書かれているが、これが「何回目」の実験であるかを示している。5文字の数列が出たら、その数字のどれかをクリックすると、次の実験をすることができる。やめる場合は「END」を押せばいい。ごく単純な実験である。
 
 谷口 雅宣

【注意】上記のプログラムは、都合により削除しました。   (08.05.18 記)

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2007年8月28日

奇蹟について

 前回の本欄で「宗教の世界における“奇蹟”を単なる“思い込み”から救い上げる視点はないか?」と問いかけたら、読者の1人が「宗教の世界における奇蹟とは何かを、記述してみたらいい」とコメントしてくださった。その助言に従おうと思う。とは言っても、これはなかなか簡単ではない。しかし、これまで例に挙げてきた“糞跡”や“コインの並び方”、あるいは“火星の人面岩”は、宗教的な奇蹟ではないと言えるだろう。なぜなら、これらは皆、自然法則に則って起った現象だからだ。それを、人間の側で勝手に「奇蹟だ!」と解釈しても、それを「宗教的な奇蹟」と言うわけにはいかないだろう。
 
 まずはこう言ってみたが、しかし、次のような場合を考えてみてほしい--ある青年が、困難な資格試験に合格したいと願い、毎朝、近くの神社に祈願の参詣をしていたとする。いよいよ試験当日となり、配られた問題用紙を見た青年は、思わず小さく声を上げた。なぜなら、前日に一所懸命に勉強した箇所が、ほとんどそのまま出題されていたからである。こうして、この青年は難しい試験に見事合格したとする。上の定義からすると、この場合は自然法則にのっとっているのだから--つまり、前日に勉強したことが試験に出題される確率は「0」ではないから--宗教的な奇蹟とは言えない。しかし、この青年本人にとっては、まさにこれこそ、神様が自分の祈りに答えてくださった宗教的奇蹟でなければ何であるのか!
 
 この試験の例と本質的に変わらないことは、墜落事故を起こした航空機に乗ろうとしていて乗らなかったか、あるいは乗れなかった人にも当てはまる。また、成功率が低い医療行為によって健康を回復した人、仲間と一緒に食事をしながら、自分だけ食中毒にならなかった人、交通事故でペシャンコに潰れた車中から、かすり傷だけで救出された人などにも言えるだろう。これらの人が宗教心をもっていた場合、きっとその人は「あぁ、これは奇蹟だ。神様に救われた」と感じるに違いない。これを“宗教的奇蹟”と呼ばないで、何と呼べばいいのだろうか? 事実、この種の話は、生長の家でも、他の宗教でも、「信仰体験」としてもてはやされる傾向があることは否めない。しかし、これらは「単なる思い込み」と呼ぶべきだろうか?
 
 奇蹟が成立するためには、「自然法則を超える」という要素が必要だという考え方は、キリスト教に強い。キリスト教神学者のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)は、奇蹟を3つに分類した:①様式上の奇蹟、②客体的奇蹟、③本質的奇蹟、である。①は、自然法則を超えてはいないが、自然的手段の助けなしに起るもの。②は、自然法則上では不可能のことが客体に起るもの。③は、本質的にすべての自然法則を超えて起るもの、という。カトリックの神学では、奇蹟は「超自然の唯一の絶対的原理である神が、その絶対能力を有限な自然秩序領域に適用することによって生起した現象である」とする。それが起るのは、自然界を変革するためではなく、倫理的因果律を守り、道徳的秩序を維持するためだとされる。そのような奇蹟を起こすことで、神は人間の信仰深化と、道徳の向上を期待するとともに、神自身が自らの存在を人類に示す。そういう意味で、奇跡は神の徴表(sign)と見なされるのである。
 
 実は、生長の家の立場もこれに近い。谷口雅春先生は『真理』第10巻実相篇で、次のように説かれている:
 
「善人が国を護るために戦いながら敵弾に中って死ぬ。其処には自然界の物理的法則があるだけであって、道徳的法則は見出されない。善人が人を救(たす)けようと思って寒中に水の中に跳び込む。そしてそのために彼は肺炎を起こして死ぬ如きことも自然界の物理的法則で起り得る。自然界の法則は、人の動機の善悪に対して差別なく作用するのである。それは冷厳に作用して善人悪人によって其の作用を異にすると云うことはない。このような場合には“自然界の法則”は決して神の意志をあらわしていないのである。法則が自働して、結果を導き出しているだけである。そんな危急の時に、超越内在神が働き出せば、車輪に触れながらでも傷つかず、寒中に冷水中に跳び込んでも感冒(かぜ)を引かず、肺炎にもかからないと云う奇蹟が生ずることになるのである」(pp. 142-143)

 これらのことから考えれば、自然界の法則を超えて、倫理的道徳的秩序を現わすために起る現象を、ここでは「奇蹟」と定義していいだろう。その一方で、一般に“宗教的奇蹟”と考えられるものの中には、「奇蹟紛い」のものもあることを認めねばならない。

谷口 雅宣

【参考文献】
○小口偉一、堀一郎監修『宗教学辞典』(東京大学出版会、1973年)

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2007年8月25日

「偶然はない」ということ (5)

 本欄で前回、本題を扱った文章の中で読者にクイズのようなものを出したので、その“正解”を書かねばなるまい。ただし、私は統計学の専門家ではないので、私の答えが統計学的に正しいかどうかは保証できない。
 
 まず、6種類の“糞跡”の話だが、それぞれの“糞跡”はみなユニークな形をしている。ここで言う「ユニーク」の意味は、原語である英語の「unique」の本来の意味で「ユニークである」ということだ。つまり、この世に1つしか存在しない形と言えるだろう。別の言い方をすれば、これらどの“糞跡”の形も、まったく同一のものを同じ条件下で“糞跡”によって再現することは不可能である。そういう意味では、それぞれの“糞跡”がこの世で再び生じる確率は限りなく「0」に近い。その一方で、最初にご覧に入れた人型の“糞跡”が起る確率はどうだろうか? 他の6つの“糞跡”が起る確率とどう違うだろう? 私は、まったく同じ--つまり、限りなく0に近い--と考える。もし我々が、「人型」になる確率の方が「非人型」になる確率よりも小さいと考えたならば(そして、その判断は間違っていないが)、それは「非人型」である6つの糞跡を我々が頭の中で1つのグループの中に括った(言い換えれば、類似物と見なした)からである。どうして我々は、「人型」を特別扱いするのだろう? その答えは、“糞跡”という現象(外界)そのものの中にあるのではなく、我々の心の中(内界)にあるのである。
 
 次に、5種類の紙コインを使った仮想実験の話に移ろう。これについても、上の糞跡の話と同じことが言える。5種類のコインの並ぶ順番は、120通り(5×4×3×2×1=120)が考えられる。そして、それぞれの順番が「ユニーク」である(つまり、他の順番とは違うそれ独自の順番である)。糞跡と比べて違う点は、糞跡の場合、まったく同一の糞跡を再現する確率が限りなく0に近いのに対し、コイン並べの場合は、実験を繰り返しているうちに同じ並び方が実際に再現される点である。その確率は、統計的に計算できる。そしてその確率は、どの並び方であっても同一のはずだ。つまり、「①②③④⑤」の順序となる確率も、「⑤④③②①」になる確率も、「②④①⑤③」「③②⑤④①」「⑤④③①②」「②⑤④③①」……などになる確率も皆同じ(数字で表せば0.83%=120分の1)である。ということは、最初の2つの順序になったときにだけ「何か特別な現象に出会った」と感じることは、統計学的には正しくない。しかし、心理学的には“正しい”と言えるかもしれない。
 
 読者は、“糞跡”とコイン並べの2つの問題に共通する要素を理解されただろうか? 我々の心は、ランダムな現象、無秩序な現象の中にも、無意識のうちに何らかの規則性や秩序や意味を見出そうとしているのである。例えば、我々の視覚(とその延長である脳)は、自然界に存在するものの中から「人の形」に似たものを敏感に感知し、それに特別な意味を付与する働きを無意識のうちに行っている。そのことが、「人型」の糞跡をそれ以外の糞跡と本質的に違うものとして認知させるのだろう。また、紙コインの示す数列は、数字自体には特別の意味がないにもかかわらず、少数の特定の数列に我々の視覚と脳とが特別な意味を付与するので、それらが現われる機会を、それ以外のものが現われる機会と区別して、“奇蹟”とか“神秘”とか“不思議”な現象に感じさせるのである。ということは、“奇蹟”や“神秘”や“不思議”は外界で起るのではなく、内界(心の中)で起るのである。

 こうなってくると、読者の1人がおっしゃっていたように、「考える」人間が介在して初めて“奇蹟”や“神秘”が存在するというのが、どうも正解のようである。「唯心所現」の教えから言えば、ごく当たり前の結論になってしまった。が、問題が1つある。それは、別の読者がおっしゃったように、「ある人が、ある現象を“奇蹟”と思うなら、すべての現象は奇蹟と言える」か、という問題である。私は、この意見は文学的表現としては充分成り立つし、それなりの真理を含んでいると考える。しかし、これを全面的に認めると、宗教の世界における“奇蹟”も「単なる思い込み」のレベルに落とされてしまうと思う。“奇蹟”を“思い込み”から救い上げる視点はないだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年8月23日

本欄が書籍に (4)

Part8  読者の皆さんのおかげで本欄を書き継ぐことができているので、一定期間がたつと、書籍1冊分の文章がたまる。で、今回、出版されるのは『小閑雑感 Part 8』(=写真)で、昨年の7月から10月までに書いた本欄の文章89篇を収めている。そこで、この文章を書く参考にするため、前回、本文と同じ題名で文章を書いたのはいつか……と調べてみたら、昨年の10月18日だった。その時に扱った書籍の題名は『小閑雑感 Part 6』である。「おかしいなぁ~」と思いながら、私はさらに捜した。『Part 7』のことを書いた文章がないからである。私は、自分の本が出版される際には、発行日前に本欄で紹介することにしていた。だから、『Part 7』を紹介する文章がハードディスクのどこかに残っているはずだったが、結局、そんな文章は書かなかったことが分った。

 理由は特にない。『Part 7』の奥付にある発行日は今年5月1日だから、この頃は毎年、生長の家の4つの組織の全国大会があることを思い起こせば、その準備に忙殺されて、私が『Part 7』を本欄で紹介することを失念してしまった可能性が大きい。そして、気がついてみたら、その次の巻である『Part 8』がすでに出版されていたのだ。『Part 8』の奥付に記された発行日はこの9月1日であるが、現物はすでに日本各地で入手できる状態にある。これでは『Part 7』が冷遇されたことになるから、今回の新刊と併せて簡単に紹介しよう。

Part7 『小閑雑感 Part 7』(=写真)がカバーする期間は2006年の3~6月の4カ月で、収録文の数は93篇である。『Part 8』では、同じ4カ月間の文章が89篇あるのと比べると、若干多い。『Part 7』で最も多く扱った主題は「地球環境問題」で全部で42篇あり、「宗教・哲学」に関する文章は23篇だった。そのほか『Part 7』では「“ユダの裏切り”の理由」について3本、「皇室制度の議論を深めよう」と題する文章3本などが特徴的である。
 
 最新刊の『Part 8』では、「地球環境問題」と「宗教・哲学」と関係が『Part 7』とは逆転し、「宗教・哲学」に関する文章が34篇で「地球環境問題」は24篇に減った。私の関心が移動しつつあることが分かる。とは言っても、地球環境問題への関心が薄らいできたという意味ではなく、アル・ゴア氏の『不都合な真実』の成功以来、この問題に真剣に取り組む必要性は“世界の常識”になってきたから、私が本欄で口を酸っぱくする必要性は、逆に減ってきている。
 
 その代わりに、世界第2の宗教であるイスラームに関する記述が増えている。理由は、読者もご存じの通りだ。イラク戦争が泥沼化しつつあり、それに伴ってイスラーム過激派のテロ活動が中東地域の“戦場”だけでなく、先進国内部でも増えつつある。幸い日本は、まだ彼らの攻撃目標の外にあるようだが、イラク戦争で米英軍を支援している立場にあるのだから、いつ目標にされてもおかしくない。そんな時、「イスラームのことはよく分からない」では済まされないのである。イスラームという宗教が問題なのか、それとも当該国が置かれている政治状況が問題なのか、あるいは日米の中東政策が問題なのか……こういう問いにきちんと答えられないのでは、「万教帰一」を信奉する生長の家の人間としても、宗教者としても、あるいは日本国民としても恥ずかしい。そんな意識から、『Part 8』にはイスラームに関する文章だけで十数本ある。『Part 7』には数本しかないから、大きな変化である。

 そのほか、『Part 8』には昨年の生長の家教修会で取り上げられた「肉食」についての考察が、教修会での発表内容に即して5回に分けて書かれている。この問題は宗教的のみならず、地球環境や資源の問題とも密接に関連する現代の重要問題である。さらに、「北朝鮮の核実験」について3本、「核拡散時代への対応」について2本と、宗教とは離れているが、日本が直面する国際政治問題についても考えている。生命倫理の問題では、「夫の死後に妊娠する」こと、「代理母をどう考えるか」など、いずれも日本国内で実際に起ったことを取り上げて、私の信ずるところを書いている。読者の参考にしていただけたら、幸甚である。
 
 谷口 雅宣

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2007年8月22日

「偶然はない」ということ (4)

 本シリーズで前回、私が発した質問に対して答えてくださった読者の多くは、鳥の糞が作った“人型”は、普通の意味での「奇蹟」ではないとのお考えのようである。その反面、「すべての現象はみな奇蹟である」という正反対の意味にも取れる言葉も出ているところを見ると、私の質問の意図が正確に伝わっていないかもしれない。「奇蹟」という言葉の意味は、「実際に起こるとは考えられないほど不思議な出来事」(三省堂『新明解国語辞典』)、「常識では考えられない神秘的な出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴と見なされるもの」(『広辞苑』)である。この2つの意味から考えると、奇蹟であるか否かを決める要素の1つに「起る確率がきわめて低い」ことが挙げられると、私は思う。だから、読者の中から「どんな現象でも遭遇した人が奇蹟と思えば奇蹟だ」などという、言葉本来の意味を考慮しないご意見が出るなど、予想しなかった。(それこそ奇蹟である!)

 私はやはり、日本語の正確な意味を尊重したいので、「どんな現象も奇蹟」という詩的な定義はここでは採用せず、辞書の意味に則して議論を進めていくことにする。これは、「どんな現象も奇蹟」という表現に全く真理が含まれないからではなく、現時点での議論の方向に制約をもたせたいからである。この詩的表現には、別の側面から見れば部分的に真理が含まれていることを、私は否定しない。
 
 さて、上記の辞書の定義によると、鳥の糞の潰れた跡が“人型”になることが「実際に起こるとは考えられないほど不思議」であるかどうか、あるいはそれが「常識では考えられない神秘的な出来事」であるかどうか、がここでは問題になるだろう。「神秘的」の意味が、「既知の自然法則を超越している」という意味であるならば、糞が“人型”になるのは神秘的ではない。地球上で糞のような粘体が高所から落ちれば、ニュートン力学の法則に基づいてアスファルトの道路上で四方八方に飛び散るに違いない。そういう意味では、糞が飛び散ることは神秘的ではなく、奇蹟ではない。しかし、それが“人型”になるのは、どうだろうか? それは「実際に起こるとは考えられないほど不思議」なことだろうか?
 
 かつて本欄でも何回か(例えば、2005年6月11日)扱ったことのある“火星の人面岩”の話を思い出してほしい。アメリカの火星探査船が撮影した火星表面の写真の中に、人の顔の形をした大きな岩が写っていたことから、「いったい誰が何の目的で、そんな岩を造ったか?」で大きな話題になったのだ。火星にも大気があるから嵐も吹き、地殻運動もあるから、いろいろな形の岩や山が形成されるのは何も不思議でないし、自然科学の法則を超えてはいない。しかし、よりによって“人の顔”の形をした岩があったとしたら、そのような岩が自然現象の中で“偶然に”形成される確率はきわめて低い--と多くの人が考えたのだ。そして、そんな“奇蹟的”な現象を生ずる背後には、既知の自然法則を超越したような何か--例えば、未知の知性をもった存在、あるいは火星人!--が力を及ぼしているに違いない……。が、結局、この“人面岩”は、撮影の際の光の具合で“偶然に”人の顔のように写真に写っただけで、その後に行われた、より精密な写真撮影では、何の変哲もない、普通に隆起した岩であることが証明されたのである。
 
 読者は、“人型”の糞の跡と“人面岩”との共通性に気づかれただろうか? 両者とも、①視覚にもとづく判断であり、②人間の肉体の形態に関係しており、かつ③問題の現象Whitemen が起こる確率が低いとされる3点が共通しており、ここから“奇蹟”とか“神秘”が想起されるようだ。①と②については、すでに本欄に書いたので省略する。③についてだけ述べると、この「偶然に起る確率はきわめて低い」という判断そのものが、正しくないと私は考える。もちろん私は一時、実際にそう考えて、あの“人型の糞跡”を写真に撮ったのである。が、よくよく考えてみると、前回(19日)の“糞跡”が生じる確率と、ここ(=写真)に掲げる6つの異なる“糞跡”(すべて同じ時に撮ったもの)ができる確率とは、統計的に有意な差はないと思うのである。

 この最後の点が分かりにくいと思うので、別の角度から質問をしてみたい。ボール紙を10円玉大に切り抜いたものを、5つ用意する。これらの紙製コインの表裏に、それぞれ「1」「2」「3」「4」「5」と書き込んで、「1円玉」「2円玉」「3円玉」「4円玉」「5円玉」を作る。これらの紙コインを菓子箱の中に入れ、蓋をしてよく振り、中の紙コインを充分に混ぜる。次に目をつぶるか、目隠しをして、菓子箱の中の紙コインを1枚ずつ抜き出し、自分の前に左から右へ並べる。並べ終わるまで見てはいけない。5つをすべて横に並べたあとで、コインの数字を見る。こうして並んだコインが「①②③④⑤」の順序となる確率と、「⑤④③②①」になる確率は、どちらが高いだろうか? 次に、その確率と「②④①③⑤」「③②④⑤①」「⑤③①④②」「②④⑤③①」などになる確率は、どちらがどう違うだろうか?

 我々は、上の実験で「③②④⑤①」が出ても別に驚かないが、「①②③④⑤」が出ると、何か神秘的な体験をしたと感じないだろうか? もしそうなら、それはなぜだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年8月20日

イスラームと生長の家 (8)

 ここまでの議論でわかったイスラームと生長の家の類似点を確認しよう。それは3点だった。第1点は、アブラハムを起源とする3つの一神教--ユダヤ教、キリスト教、イスラーム--が本来1つであることを、コーランが明確に示していることである。イスラームの法学者の中には、この3つの一神教に加えて、「聖典をもつ」という意味においてゾロアスター教、ヒンズー教、シーク教、そして儒教までも加える人がいる。もしそうなると、一部のイスラーム信仰者にとって、“万教”は事実上、唯一の起源から出たことを意味していることになる。

 第2点は、信仰における理性の問題である。イスラームをめぐる最近の多くの報道は私たちに逆の印象を与えるかもしれないが、イスラームには長い、豊かな理性主義の伝統があることを私たちは確認した。この理性主義は、ギリシャ哲学や中世キリスト教のスコラ哲学にも匹敵する本格的なものだ。そして、私たちは生長の家もまた理性主義的な宗教であることを知っている。
 
 第3点は、もっと具体的な面である。イスラームも生長の家も、本当の存在(実在)は表面的な現象の奥に隠されていると説く。また、スーフィズムにあっては、宗教行と瞑想を深めることによって、人間と神との合一が達成できると考える。スーフィズムでは、「人間は神の子である」と明確には言わないが、人間がこの世で神性を実現することは可能だと考えているようであり、この目標は生長の家と共通している。

 私は、2004年の国際教修会で生長の家の教義の“柱”として、①唯神実相、②唯心所現、③万教帰一、の3つを提示した。この3つのうち、これまでの検討により、イスラームは少なくとも2つ--つまり②と③の面で生長の家と共通していることが分かった。私がいま「少なくとも」と書いた理由は、シーア派の思想とスーフィズムの中には①が含まれている可能性もあるからである。また、今回の教修会でアブ・エルファドル博士の講演から学んだように、穏健派のイスラームにも①が含まれている可能性がある。この点を確認するためには、もっと広く、深い研究が必要である。が、こうしてイスラームと生長の家の類似点を明確にしてみると、両者がその中心的信仰を共有する程度は、相当であると言っていいだろう。 
 最後になるが、インドネシアのイスラームにおける最近の動きについて、高義晴講師が教修会で発表したことに、ここで触れたい。高講師によると、この国には所謂“リベラル・イスラーム”という考え方を支持する人々が、相当数いるという。この考え方は、生長の家の「万教帰一」の教えととても似ているところがある。この“リベラル・イスラーム”勢力をネットワークしたジャリガン・イスラーム・リベラル(Jarigan Islam Liberal)という組織の世話人である、ウリル・アブシャール=アブダラ氏(Ulil Abshar-Abdalla)が2003年に書いた文章の一部を、次に掲げる。そこには驚くほど大胆な表現が見られるのである。

「私はさらにこう言いたい。すべての善い、積極的な価値は、それがどんなものであれ、真実の意味においてイスラーム的価値である。イスラーム(中略)とは“一般的な価値”であり、キリスト教にも、仏教にも、儒教にも、ユダヤ教にも、道教にも、地方の土着宗教や信仰にも、どこにでも見出すことができる。マルクス主義哲学にさえ、“イスラーム的”真理が存在するかもしれないのである」。

 マルクス主義が世界の大宗教と基本的価値を共有するかどうか、私にはよく分からない。しかし、ここで言わんとしていることは明らかだ。イスラームとは、世の中の多くの人々が感じているように排他的で、狭量な宗教ではないのだ。急速にグローバル化が進むこの世界で、イスラーム信仰者の数も急速に増大している今、このことができるだけ多くの人々に、確実に伝わるよう私たちは努力しなければならない。と同時に、生長の家の万教帰一の教えをさらに広く伝えることで、この地球社会に原理主義的ものの考え方と視点とを根付かせないことが、今より重要な時期はないのである。私たちは、それぞれに宿る内部神性を明らかに自覚することで、きっとこの運動を成功させることができるのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○Ulil Abshar-Abdalla, "Freshening Up Our Understanding of Islam."

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2007年8月19日

「偶然はない」ということ (3)

 私は昨年夏の本欄(7月22日24日)で、「偶然はない」ということについて2回にわたって書いたことがある。その時の主要な論点の1つは、人間の意識の介入なしに「偶然」という認識は成立しないということだった。別の言葉で言えば、偶然の事実があったとしても、人間が「これは偶然だ」と認めない限り、その人にとって「偶然はない」のである。その逆に、ある人が「これは何という偶然だ!」と認識した時点では、その人が意識したことで「これ」が「偶然」と感じられたのだから、それは言葉の本来の意味での「偶然」ではなく、むしろ「必然」である。この2つの意味から、「偶然はない」と言うことができるのである。

 もっと分かりやすく言おう。私が(あるいは貴方が)ある日、町を歩いている時に、無意識にイヌの糞を踏んでしまったとする。この事実だけでは「偶然」は成立しない。これに加えて、その事実を私が(あるいは貴方が)意識することによって、初めて「私はイヌのウンチを偶然踏んだ」と認識されるのである。もし私(あるいは貴方)が、自分が糞を踏んだことをずっと知らないでいたら、「偶然踏んだ」という認識もずっと生まれないことになる。ということは、「偶然」は認識されず、認識されないものは、心でつくる現象世界にあっては「無い」に等しいのである。

 やはり、難しい表現になってしまっただろうか? これが分りにくい人は、私(あるいは貴方)が踏んだものを「イヌの糞」ではなく、もっと小さくて、問題のないものに置き換えて考えてみるといい。例えば、「イヌの毛」とか「千切れた枯葉の端」とか「煙草の灰の一片」とか「大腸菌」などだ。こういうものは、人間の目で簡単に「見える」ものではないから普通、我々の認識の中に入らない。しかし、現実には確かに存在している。そして、我々が町を歩いているときには、きっとそういうものを数限りなく踏みつけているに違いないのである。では、我々はどうしてそれを踏んだときに「ああ、今イヌの毛を偶然踏んでしまった」と思わないのだろうか? 「ああ、また大腸菌の上に偶然足を置いてしまった」と、ショックを受けないのだろうか? その答えは結局、我々にとって関心がないものは認識の中に入らないから、存在しないも同然なのだ。

 これに比べてイヌの糞は、我々にとって大いに関心がある。ならぜなら、そんなものを踏んだら足が臭くて困るからだ。自分が困るだけでなく、商談やデートの相手にも迷惑をかけるし、帰宅すれば家人にも嫌がられる。こうして、我々が日常生活で経験する「偶然」は客観的事実などではなく、“心の産物”であることがわかるだろう。ここまでは、前回までの復習である。次に、応用問題を掲げよう。
 
Whiteman  つい2~3日前のことだが、私が職場から帰宅する直前、自宅の門の前に来たところで、アスファルトの道路の上に、白いペンキを振り撒いたような模様がいくつもあるのに気がついた。よく見ると、その模様はペンキではなく、どうも鳥の糞が落ちてできたもののようだ。その模様の1つ(=写真)を見て、私は「へぇーっ」と感動してしまった。なぜって、それは見事に「人」の形をしていたからだ。鳥が糞を落とすことは感動に値しないかもしれない。しかし、その糞が道路に落ちて潰れた模様が「人」の形になる確率は、いったいどれほどのものか、と私は考えた。「これは何という偶然だ!」--私は奇蹟的な出来事を目撃したと感じたのだ。もしかしたら、これは神様が鳥を使って私に何かを語りかけているのではないか? そう思って、私は家からデジカメを持ってきて、その模様を写真に収めたのだった。
 
 ここで、読者に質問しよう。私はこの場合、奇蹟に出会ったのだろうか、それとも自分の心で勝手に“奇蹟”を作ったのだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2007年8月18日

イスラームと生長の家 (7)

 前回の本欄の最後で紹介した牧野氏の解説を読むと、生長の家の教えを知っている私たちは「へぇー」と意外に思わないだろうか。言っていることは結局、我々の棲む現象世界は、神からのメッセージで満ちているということである。また、私たちは釈迦が苦行をやめ、村の娘・スジャータが提供した粥を食べた後に、悟りを開くに至ったときの言葉として、「山川草木国土悉皆成仏」「有情非情同時成道」を教わっている。生長の家では、これらの言葉は実相世界の一光景を描写したものと解釈している。『生命の實相』第11巻には、この世界に神が現れることを次のように説明している:
 
「(前略)物質世界そのものは神の創造ではない、だからそこに病気も顕われていれば戦争のような悲惨な事実も顕われているのでありますけれども、その奥には生命の実相が光っており、神が光っておりますので、一切万象に神の顕現を見ることができるのであります。それで病気が縁となって神を見る人もあり、苦難が縁となって神を見る人もできるのであります。で、“一切万象”に神の顕現を見るというふうに申しますのも真理でありますので、“従来は生長の家家族の修養および祈願”の箇条書きの中に“いっさいの大自然と生物とを神の生命の顕現なりと信じ、その生命を敬し礼し”と書いてあったのです(後略)。」(pp. 169-170)

 コーランの中の「神兆」の説明と、生長の家の「実相」の理解の間には微妙な、しかし重要な違いがある。しかし、この違いがあったとしても、現象の表面を超えて隠された本質を把握するように求める点では、両者は同じであると言える。

 このシリーズの初めの方で、私は、物質的な外見の背後にある、目に見えない“真実の実体”(ハキーカ)というものに言及した。シーア派イスラームとスーフィズムで重視されているもので、コーランではこれを「徴」とか「神兆」と呼んでいる。そういう説明を聞いて、読者の中には「唯心所現」の教えを思い出した人もいるだろう。この教えと、物事の表面の奥にある真実在を把握するというイスラームの考え方の間には、確かに類似点がある。

 生長の家の信徒にとっては、この世界の現象は“心の影”なのだから、現象世界をよくするためには、自分の心の何が“そこ”(外界)に反映されているのかを知る必要がある。こうして生長の家では、現象の“内的原因”と心の働き方(心の法則)を研究することが重要課題となる。このような、外界を知るために心の内部を探るというこの内向きの志向は、スーフィズムの中にも見出される。残念ながら、このシリーズでは、スーフィズムについて詳しく触れることができない。しかし、ひと言で表現すれば、それは「愛の力を通して、神と人との合一を目指すことを特徴とする、様々な形のイスラーム神秘主義」のことである。この定義は1995年版の『The Oxford Companion to Philosophy』(オックスフォード哲学事典)にあるものだが、これに加えて次のような説明が付されている--「この(神との)合一を達成するためには、愛とともに艱難も必要とされる」。
 
 ノースカロライナ大学のイスラーム学の権威、カール・アーンスト教授(Carl W. Ernst)によると、「スーフィーの使う言葉の基本的修辞法……は、内的現実が第一ということ」である。アーンスト教授の著書、『スーフィズムへの案内』から少し引用しよう:
 
「コーランの章句を使いながら、スーフィーたちは神のことを“最初にして最後、外部にして内部”だという。神をすべての存在の内的要素であると強調すると、内部と外部との関係をきちんと表現することが求められる。これを最も充分に達成しているのが、3段階で韻を踏みながら唱える次の言葉である--外的な形としてイスラーム法(シャーリアー)があり、内的方法としての道(タリーカ)があり、神はつねに実在(ハキーカ)である。このような種類の修辞形式の表現は、イスラーム信仰者の宗教生活の外面を内面化するものとして、スーフィーたちの特徴的な修行法を位置づけるのである。スーフィズムは、当たり前の外的生活から始まって、神の内的実在を発見するための方法だった」(p. 26)

 この引用文はなかなか難解である。しかし、ここで言わんとしているのは、スーフィズムは、観察者の心の状態を変えることによって、一見瑣末で当たり前に見える“実在”の、より深く、非日常的な次元を露呈させる試みである、ということだろうか。『イスラームの根源をさぐる』という本の中で、牧野信也氏は、多層構造の二等辺三角形を逆立ちさせて2つ並べ、スーフィズムの世界観を表現している。この図によると、左側の三角形は人間の意識を表し、右側は私たちの目の前の世界を表している。2つの三角形の構造はまったく同じであるのは、スーフィズムでは「客観的現実世界の多くの層と主観的意識の多くの層との間に1対1の対応関係があると考える」からである。つまり、私たちの意識が深まれば深まるほど、目の前には深遠なる現実が姿を現すのである。
 
Mindmatter01_2   この図を見てわかるように、これらの三角形は5層からなる。左側の三角形に注目してほしい。牧野氏の説明では、最上層は、感覚器官を通してもたらされる私たちの意識--つまり欲望--で、これを「命令する魂」という言葉で表している。第二層は私たちの理性と良心の宿る場所で、これを「批判する魂」と表現し、第3層は瞑想中に到達する「安定した魂」、第4層は深い神秘的意識を表す「幽玄の魂」、そして第5層は聖なる意識である「秘密の魂」である。スーフィズムにおいては、私たちが修行を重ね瞑想を深めることで、この意識の層を上から下へ降りることができ、それに伴ってより深く、より素晴らしい次元の実在が感得される、と考える。そして、牧野氏によると、意識の底の深奥部においては「修行者の自我意識は完全に消滅し、それまで彼の人間存在の中心をなしてきた“われ”の意識は消え去って無に帰してしまう」。そして、「われが消えてしまうのであるから、世界もない。絶対の無である」(p.191)のである。
 
 牧野氏はこの時、スーフィーの口を通して神自身が語る、という。この状態で語られた有名な言葉の1つが、ハッラージによる「我は真理なり」だ。ところが、この時代にあっては、スンニ派の法学者がこれを神への冒涜と見なしたため、ハッラージは磔にされてしまった。牧野氏は、この心境を「絶対無の自覚」と呼び、それは「神我」の自覚だという。アーンスト教授が紹介している「スーフィーらの標準的説明」によると、これは「一種の恍惚境において個人の自我意識が崩壊することにより、ここでは本当に神が語りだす」のである。こういう心境が、生長の家でいう「神の子の自覚」と同一であるかどうか、私にはわからない。しかし、この2つは大いに似ていると言えるのである。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○Carl W. Ernst, The Shambhala Guide to Sufism, (Boston: Shambhala, 1997)
○牧野信也著『イスラームの根源をさぐる--現実世界のより深い理解のために』(中央公論新社、2005年)

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2007年8月17日

イスラームと生長の家 (6)

 このような話を聞くと、仏教に詳しい読者の中には、“永遠のムハンマド”と大乗仏教でいう「仏」とが驚くほど似ていることに気づく人がいるかもしれない。大乗仏教では、史的存在としての仏は“永遠の仏”の一表現に過ぎないと説く。彼は、一説によると紀元前563年に生まれ、ゴータマ・シッダールターとして生きた歴史上の人物であるが、これに対し「久遠本仏」は、すべての人のみならず、あらゆる生あるもの、生なきものの内部に宿るところの、時間、空間を超えた存在である。今の主題はイスラームなので、私はここで仏教に深入りするつもりはない。しかし、大乗仏教の説く“永遠の仏”の例として、『法華経』の「如来寿量品」で説かれる「生き通しの如来」について、谷口雅春先生は『生命の實相』第11巻萬教帰一篇で、次のように書かれていることを指摘したい:
 
「悟ればそのまま今すぐに自分が多宝仏とわかり、燃燈仏とわかり、生き通しの大生命であるということがわかるのであります。“自分は何年何月に生まれて釈氏の宮を出て、何年間修行して初めて仏(神の子)となった”というものではない、無限時間の始めからすでに仏(神の子)であるというふうに釈迦自身お説きになることによって、すべての人も、死後、諸仏に仕えいろいろ修養して仏になるといって記別すなわち仏になる証明を授けたが、人間は本来、そういう時間経過の後において始めて仏になるというようなものではない、無限時間前からすでに仏であり神の子であるという真理をここで、暗に悟れといっていられるのであります」(p.142)

 さて、話をイスラームにもどそう。多くの読者は、スンニ派が現実主義的で、シーア派は理想主義的だと聞くと、なぜ同じイスラームの中でこのような考え方の違いが生まれるのか、不思議に思うかもしれない。その理由は多くあるに違いない。しかし牧野氏は、この違いの主な原因の1つは、コーランそれ自体にあると指摘している。牧野氏によると、コーランに収められた啓示は、預言者の住居がメッカからメディナに移るに伴い、大別して2種あるという。メッカでの啓示は「神への畏れ」とその「霊性」が特徴であるのに対し、メディナ時代の啓示は「神への感謝」とイスラーム共同体における「正しい行為」に焦点が移るという。そして、前者がシーア派の哲学とスーフィズムに反映し、後者がスンニ派の現実主義と字義通りの法解釈に結びついたというのである。
 
 私は前回、シーア派のイスラームでは、「真実在」は物事の目に見える外的形態にあるのではなく、その形態の背後に隠れていると捉える、と書いた。この隠れた「真実在」のことをアラビア語で「ハキーカ(haqiqa)」という。イスラーム信仰者は、実生活を行いながら、この隠れた内的実体を神からの真実のメッセージとして正しく理解すべきとされている。コーランでは、そのことを「徴(しるし)」とか「神兆」という言葉で示している:
 
「我らはあの者どもに我らの徴(しるし)を見せてやろうぞ、遠い空の彼方にも、彼ら自身の中にも。そしてこれが真理だということをいつかは彼らにもわからせてやろうぞ。汝の主はあらゆることを立合いで見てい給う、それだけでももう充分過ぎるほどではないか。
 ああなんたることか、これでもまだ彼ら神様との対面を疑っておるのか。アッラーがこれほど明らかに一切をぐるりと取り巻いていらっしゃるのがわからないのか」(41章53-54節)
 
「彼(アッラー)こそはお前たちのために天から水を降らせて下さるお方。それが飲み水にもなれば、またそれで樹木が(育って)お前たちの家畜の飼料ともなり、また(アッラーは)それでお前たちのために穀物やら、オリーヴやら、棕櫚やら、葡萄やら、そのほかありとあらゆる果実を育てて下さる。まことにこれこそ、ものを考える人にとっては、まぎれもなく神兆しというべきではなかろうか。
 またお前たちのために夜と昼、太陽と月を使役して下さった。それから星々もまた御命令によって使役されている。まことにこれこそ、もののわかる人にとっては、まぎれもなく神兆というべきではなかろうか。
 またお前たちのために地上にたくさん作り出して下さったもの(動物や植物)の種々様々な色どり--まことにこれこそ、注意ぶかい人にとっては、まぎれもなく神兆というべきではなかろうか」(16章10-13節)
 
 コーランのこれらの章句は、この世界の物質的事物や事象はすべて、その外見より深い意味をもった神からの「徴」だという意味だ、と牧野氏は説明する。「要するに」と彼は言う、「外の世界、内の世界の一切の現象が神の信号、しるしとして見られるということであり、また人間の歴史に起る事件もすべて神の信号に他ならない。つまり、人間が生きているこの世界は無数の神のしるしの空間としての拡がりであり、歴史は無数の神のしるしの時間としての繋がりだということである」(p.101)。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○谷口雅春著『生命の實相』第11巻萬教帰一篇上(日本教文社、1963年)
○牧野信也著『イスラームの根源をさぐる-現実世界のより深い理解のために』(中央公論新社、2005年)

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2007年8月16日

イスラームと生長の家 (5)

 これまでの議論の中で、シーア派の思想の理性的側面に触れた。今回の国際教修会の第1日目の発表でも、イスラームには大別してスンニ派とシーア派があることが述べられた。スンニ派はイスラームの中で多数派を占めるものの、少数派のシーア派も相当な勢力を保っている。両者の違いはどこにあっただろう? スンニ派は、信仰者間の会議(シューラ)で選ばれた第1代から4代までのカリフの正統性を認めるが、シーア派は選挙によるカリフ制を認めずに、預言者・ムハンマドの無謬の後継者として、アリ(Ali)とその子孫をイスラーム共同体の正統な指導者(イマーム)と考えるのである。

 そういう制度的な側面とは別に、私はここで両派の思想的・哲学的違いについて述べてみたい。日本のイスラーム思想の研究者、牧野信也氏は、シーア派の考え方を“理想主義的”と表現する一方、スンニ派の思想は“現実主義的”だと捉える。牧野氏によると、両派間ではイスラーム法を「取り扱う態度が全く違う」のである。スンニ派はコーランとスンナを字義通りに解釈してイスラーム法を導き出す傾向が強いが、シーア派の法解釈はむしろ「隠喩的(metaphorical)」だという。つまり後者は、目に見える文字の意味の背後にある“見えない意味”を理解しようと努めるが、その理由は、牧野氏によると、シーア派では「何についても、事の内面を重視する」からという。「いかなるものでも、いかなることでも、それの目に見える表側ではなく、目に見えない内側にこそその実体がある、と考える」のがシーア派の特徴である。だから、イスラーム法の解釈でも、シーア派では神の御心に従うことは、必ずしも法の文面に字義通り従うことではなく、「イスラーム法の内面にひそむ精神的実在に従うことを意味する」(p.28)のである。
 
 興味あることに、シーア派はこのような考え方を人間に対しても延長する。世間一般では、人間というものを物質的な肉体として捉える。しかしシーア派では、可視的な肉体の内に純粋に霊的な“天使”がいて、それを人間の本質と捉えるのである。そして、牧野氏によると、「自己の内部にひそむこの霊的存在、天使的存在を自覚すること、言いかえれば、肉体的人間の純粋な霊的人間への変貌こそシーア的意味での人間の完成である」とする。どこかで聞いたことのある表現ではないだろうか? この考え方は、「人間は神の子である」という生長の家の信仰と、いったいどれほど違うのだろう?

 さて、次に「イマーム」について考えてみよう。シーア派では、イマームという地位を大変重んじるのに対し、スンニ派のイスラームでは、その宗教的権威はさほどのものではない。そんな違いがある理由を、もう私たちは前よりも理解できるはずだ。シーア派的ものの見方によれば、人間はみな基本的に内部神性をもっている。しかし、私たちが日常生活の経験からよく知っているように、誰もがその内部神性を現実に表しているわけではない。だが、シーア派が信ずるところでは、そういう霊的な、天使的な能力を生まれながらにもっている例外的な人物がたまに現われる。その人こそ、シーア派にとって「イマーム」と呼ぶべき人物である。
 
 イマームという言葉は、もともと「先に立つ者」という意味であるそうだ。スンニ派では、イマームは集団礼拝などで人々の前に立って儀式をする人にすぎない。しかし、シーア派ではその意味は全く異なる。彼こそ聖典・コーランが提示する真理の内的意味を霊的に把握し、イスラームの聖なる世界へ人々を導いていくことができる最高権威者なのである。

 さらに、シーア派的考えによれば、預言者・ムハンマドにも目に見える肉体的側面--“史的ムハンマド”と呼ぶべき側面--があるだけでなく、空間や時間に制約されない内的な霊的実体があるのである。言い換えれば、“史的ムハンマド”は、真に存在する永遠の“内的ムハンマド”の1つの表現に過ぎない。牧野氏によると、この“内的ムハンマド”は、人類の歴史の中で--“史的ムハンマド”の死後でさえ--「1人の歴史的人物の中に形をとって現われる。これがイマームに他ならない」という。こうして、シーア派のイマームは、永遠のムハンマドの聖霊の生れ変わりと見なされるのである。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○牧野信也著『イスラームとコーラン』(講談社学術文庫、1987年)

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2007年8月15日

イスラームと生長の家 (4)

 中村廣治郎氏は、理性主義思想家のアル・ファーラービーとアヴィセンナについて、次のように述べている: 「彼はトルコ系の学者でダマスカスで没している。アリストテレスに続く“第2の師”といわれるように、プラトン、アリストテレスの著作の注釈者として、また論理学、倫理学、政治学、知識論についての研究者として多くの著作を残し、のちの学者に大きな影響を与えた。(…中略…)このファーラービーに導かれ、アリストテレスの哲学を完全にマスターして壮大な哲学体系を構築し、晩年にはさらにそれをこえて神秘主義への接近を試みる“東方哲学”を構想したのがアヴィセンナことイブン=スィーナー(1037年没)である」(p. 92)

 日本のイスラーム学の重鎮で、コーランの邦訳者として有名な井筒俊彦氏は、大部の『イスラーム思想史』の中で1章を割いてアヴィセンナの哲学を描いている。井筒氏によると、「イスラームのスコラ哲学は彼(アヴィセンナ)をまって、体系化された」(p.264)のであり、「アヴィセンナはファーラービーとラーズィーの両方の学風を一身に代表し、抽象的思想の側面と、具体的実験的研究の側面とのいずれにおいても優秀な才能を示した」(p.272)という。井筒氏はまた、アヴィセンナの重要な著書『医学典範』について「この大著は東洋諸国はもとより、西欧においてすら近世に至るまで全医学界を実際に支配したのである」と述べる。さらに、アヴィセンナのもう一つの重要書『治癒』は、井筒氏の言葉で表現すれば、「イスラームにおける最も完璧な古典哲学の経典として、回教徒の間では今なおその権威を保ち、また12世紀にラテン語訳されて中世のキリスト教スコラ哲学の発展に重大な影響を及ぼした」(p.273)のである。

 このように見ていけば、理性と論理性がイスラームの伝統の大きな特徴の1つであることは、明らかである。このような事実が、私たちを含む西側の人間に正しく伝わっていないのは、西側のニュース・メディアによる偏った報道が原因の一部といえる。さらに言えば、イランで優勢なシーア派のイスラームでは、「理性」が独立した法源として認められていることを指摘したい。『The Great Theft』の中で、アブ・エルファドル博士がイスラーム法の法源についてまとめて書いてある所(p.31)には、「多くの法学者、とりわけシーア派法学者は、理性が独立した法源であると信じた」とある。

 アブ・エルファドル博士はまた、イスラームの“穏健主義者”の間ではイスラム法の理解を助けるものとして「理性」が高く評価されていると述べている。上掲書の157ページで、博士は「“清教主義者”にとって論理性は(…中略…)嫌忌すべきものである」と述べているが、“穏健主義者”にとって状況は相当違っている:

 「(清教主義者の)このような勝手な理解は、穏健主義とは根本的に対立する。穏健主義者はむしろ、こんな修辞的な質問を提示するのだ--神は我々が人生で直面するほとんどの問題をすでに解決されているのに、なぜ人間に理性を与えて下さったのだろう? イスラーム神学によると、神は天地創造の際に、最高の栄誉に値する1つの神秘を創った、と宣言されている。この神秘こそ論理性であり、理性(アクル)である。しかし、もし清教主義的な見方を採用すれば、神は人間の生に関わるほとんどすべてのことを疑問の余地なく解決されているのだから、人間が論理性や理性的能力を活用する余地はほとんどなく、残されているのはただ服従するだけ、ということになる」。

 さて、イスラームの理性に対する一般的な考えは明確になったと思うので、次にイスラームの考え方の中で、生長の家のそれと大なり小なり似通った、もっと個別的な考え方に焦点を当ててみたい。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○中村廣治郎著『イスラム入門』(岩波新書、1998年)
○井筒俊彦著『イスラーム思想史』(中公文庫、1991年)

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2007年8月14日

イスラームと生長の家 (3)

 さて、今回はイスラームにおける理性と論理性について考えてみたい。なぜそうするかというと、私は、イスラームと生長の家がこの特徴を共有していると思うからである。生長の家を学んだ人なら誰でも合意してくれるだろうが、谷口雅春先生が打ち立てられた“実相哲学”はきわめて理性主義的であり、論理性に於いて優れているということだ。しかし、2001年9月、ニューヨークの世界貿易センタービルを崩壊させたテロ攻撃は、非合理で、理屈に合わないと多くの人が感じたことだろう。私も当時、そう感じた。が、イスラームについて書いたアブ・エルファドル博士の2冊の本(教修会のテキスト)を読めば、現代のイスラーム内部には“清教主義者”(puritans)と“穏健主義者”(moderates)という2つの対立勢力が存在し、あのテロ攻撃は“清教主義者”が生み出したものだと分かる。また、私たちが気をつけなければならないのは、マスメディアは「普通でない」「異常な」ことに注目する一方で、穏健なイスラーム勢力についてはほとんど何も報道しないということだ。だから、私たちは「イスラーム」と聞けば、それは普通でない“清教主義者”のことだと考える傾向があるのである。
 
 そこで私は、これから少しの間、穏健派イスラームの考え方をいくつかの角度から眺めながら、生長の家の教義と比較してみたい。

 2006年9月24日の本欄で、私は、ローマ法王ベネディクト16世がドイツのレーゲンスブルク大学で行った講義によって引き起こされた論争について触れた。その当時、法王は暴力や非合理性とイスラームの教えとを結びつける発言をした、と大々的に報じられたのである。その結果、世界中のイスラーム信者から怒りや抗議の声が次々と上がった。私はその時、ヴァチカンのウェッブサイトで見つけた法王の講義文から次の部分を引用し、本欄に掲載したのだった。

「暴力的な改宗に反対するこの議論の中で、決定的なしかたで述べられているのは、このことです。すなわち、理性に従わない行動は、神の本性に反するということです。(中略)ギリシア哲学によって育てられたビザンティン人である皇帝にとって、この言明は自明なものでした。それに対し、イスラームの教えにとって、神は絶対的に超越的な存在です。神の意志は、わたしたちのカテゴリーにも、理性にも、しばられることはありません。クーリーはそこで、有名なフランスのイスラーム研究者のR・アルナルデスの研究を引用します。アルナルデスは、イブン・ハズムが次のように述べたことを指摘しています。『神は自分自身のことばにさえしばられることがない。何者も、神に対して、真理をわたしたちに啓示するよう義務づけることはない。神が望むなら、人間は偶像崇拝でさえも行わなければならない』」
 
 上の文章を読んですぐ分かる問題点は、前回の本欄で確認したとおり、コーランは暴力によるイスラームへの改宗を支持していないのに、それを支持しているかのごとく書かれていることである。また、私たちが心しておくべきことは、イスラームの伝統は、キリスト教や仏教もそうであるように、きわめて多面的であり、多様性に満ちているということだ。アブ・エルファドル博士は、著書や今回の教修会での講演の中で、この点も明確にしている。にもかかわらず、上記の文章では、イスラーム内部のそのような思想の違いを無視して、イスラームの教えが恰も単一的であるかのように扱っている。
 
Farabicenna  上記の引用文でさらに問題なのは、イスラームの伝統が、ギリシャ哲学とその本質的特徴である理性的思惟と無関係であるかのような書き方をしていることだ。オックスフォードのセント・アントニー大学でイスラーム学を教えているタリク・ラマダーン教授(Tariq Ramadan)は、この点を指摘している。2006年9月21日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に寄せた「A Struggle Over Europe's Identity」(ヨーロッパの独自性をめぐる苦悶)という論説の中で、ラマダーン教授はイスラーム信者に対して、上記の引用文のような「ヨーロッパ思想史からイスラームの理性主義の影響を消し去ったものの見方」に異議を唱えるよう訴えている。そして、「イスラーム理性主義者であるアル・ファーラビー(10世紀)、アヴィセンナ(11世Averroghazali 紀)、アヴェロエス(12世紀)、アル・ガーザーリー(12世紀)、アッシュ・シャティビー(13世紀)、イブン・カールダン(14世紀)」はヨーロッパの思想形成に「決定的な貢献」をしたといい、イスラーム信者は「ヨーロッパと西洋社会の基盤となった中心的価値観を共有している」と述べている。

Shatibikhaldun  私は今、イスラームの伝統は、コーランやスンナよりも論理と理性を常に優先してきたと言っているのではない。実際、日本のイスラーム学者の1人である中村廣治郎氏は『イスラム教入門』の中で、「カラーム」と呼ばれる理性的神学がイスラームの中に定着するまでには、「永い時間が必要であった」と述べている。中村氏によると、その理由は「コーランとスンナ(模範としての預言者の言動)を特に重視する保守的な“伝統主義者”の間で、神学的思弁そのものをビドア(異端的革新)として排斥する根強い傾向があったから」(p.78)という。しかし、12世紀までには、理性主義はイスラームの中にしっかりと根付いたのである。
 
 谷口 雅宣

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2007年8月13日

イスラームと生長の家 (2)

M_greattehft  イスラームの教えの中に、もし私たち生長の家の信仰者もよく知っているようなものがあるならば、それを次に見てみよう。アブ・エルファドル博士は、その著書『The Great Theft:Wrestling Islam From The Extremeists』(大いなる盗み--過激派からイスラームを取りもどす戦い)の中で、コーランの中には私たちが驚くような章句があることを教えてくれている。それは29章46節にある次の言葉である。注意して読んでほしい:
 
「[ユダヤ教徒やキリスト教徒に]こう言っておくがよい、“わしらは、わしらに下されたものも、お前がたに下されたものも信仰する。わしらの神もお前がたの神もただ1つ。わしらはあのお方にすべてを捧げまつる”と。」(井筒俊彦訳、以下同じ)
 
 読者は、驚いただろうか? もしそうなら、なぜ驚くのだろう。それは、ユダヤ教、キリスト教、イスラームというアブラハムを起源とする3宗教が一体であることを、コーラン自身がここで明確に述べているからだ。このことは、今回の教修会で、マレリー講師が「ユダヤ教、キリスト教との類似点と相違点」について述べた際、各宗教が認める“啓典”の状況について次のようにまとめたこととも一致する:
 
「これらの宗教は、それぞれが選んだ聖典が神の言葉の啓示であると信じている。ユダヤ教では、重要教典は“トーラー”であり、キリスト教では“聖書”である。この“聖書”とは、旧約と新約から成るものだ。イスラームにとって、重要教典はコーランである。それぞれが選んだ聖典は同一ではないが、後に生まれた2宗教(キリスト教とイスラーム)は、先に生まれた教典にも、神の説く真理が示されていると認める。しかし、それぞれの宗教は、自分たちが選んだ教典に於いて、最も完全に神の真理が示されていると考えるのだ。そして、自分たちの教典より後に生まれたものは真理とは認めず、先に生まれた教典については、自分たちが選んだ教典に示された“プリズム”を通して解釈するのである」
 
 上掲した最後の文章を注目してほしい。これは、イスラーム信仰者はユダヤ教の教典にもキリスト教の教典にも、同じ唯一神による真理が示されていると考える、ということだ。もちろんこれらの3宗教は、3つの教典のどれが一番優れているかで意見を異にする。しかし、重要な点は、これら3宗教の礼拝の対象が同一であることを、コーラン自体が明確に述べていることで、イスラームでは(ユダヤ教やキリスト教とは違い)それを信じるように教えられているということだ。

 私はさらに、アブ・エルファドル博士が上掲のコーランの章句を引用した後に、括弧書きで挿入している言葉について、注意を喚起したい。博士はそこで、コーランで使われる“啓典の民”という言葉について解説している。その言葉がユダヤ教、キリスト教、イスラームの信者を指すことは、私たちが教修会で学んだとおりである。しかし博士は、その挿入句の中で「イスラーム法学者たちは“啓典の民”としての地位を、ゾロアスター教徒、ヒンドゥー教徒、シーク教徒にも与えており、さらに一部の法学者らは、儒教の信者までその中に含める」と言っている。儒教の信者まで“啓典の民”に加えて上記のコーランの章句を解釈すれば、それは生長の家の「万教帰一」の考え方と実質的に違わないことになるだろう。読者はどう思うだろうか?

M_tolerance  もしコーランの中で、神がイスラーム信者に対して、すべての“啓典の民”に向って「わしらは、わしらに下されたものも、お前がたに下されたものも信仰する。わしらの神もお前がたの神もただ1つ。わしらはあのお方にすべてを捧げまつる」と言うように命じているとしたら、それは非イスラーム信者をイスラームに改宗させるためだろうか。私はそう思わない。コーランには、イスラームへの強制的改宗は神の意思でないと、何回も(2章256節、10章99節、18章29節などで)述べられているからだ。さらに言えば、アブ・エルファドル博士は『The Place of Tolerance in Islam』(イスラームにおける寛容性の位置)という著書の中で、コーランには「注目すべき一団の章句」があることを指摘し、そこでは「宗教的な信念と法の体系はいくつも存在し得る」と認めているという。それは例えば、次の章句である:
 
「我らは汝らのそれぞれに(ユダヤ教徒、キリスト教徒、回教徒、それぞれ別々に)行くべき路と踏むべき大道(法規や道徳的行動の規準)を定めておいたのだから。勿論、アッラーさえその気になり給えば、汝ら(ユダヤ教徒、キリスト教徒、および回教徒の三者)をただ1つの統一体にすることもおできになったはず。だが、汝らに(別々の啓示を)授けてそれで試みて見ようとの御心なのじゃ。されば汝ら、互いに争って善行に励まねばならぬぞ。結局はみなアッラーのお傍に還り行く身。その時(アッラー)は汝らが今こうして言い争いしている問題について一々教えて下さるだろう」(5章52-53節)

 神はここでイスラーム内部のいろいろな教派に向って語りかけているのではなく、“啓典の民”全体に呼びかけているのである。だから、このコーランの章句は事実上、神がユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラーム信者にそれぞれ異なった聖典を与えたのは、それぞれの信者がそれぞれの仕方で徳性を追求するためだと述べていることになる。だから、イスラームの教えは、3つの一神教が一体であることを強調していると言え、さらに解釈次第では、この一体性の中には、世界の他の主要な宗教すべてが含まれていると考えることもできるのである。

谷口 雅宣

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2007年8月12日

イスラームと生長の家

 今年の「世界平和のための国際教修会」はとても刺激的で、内容のあるものだった。第1日目に雪島達史・本部講師がオリエンテーションの中でも述べたが、今回の教修会は世界第2の宗教、イスラームについてである。「万教帰一」を説く生長の家の運動に携わる私たちは、かねてからこの宗教についてよく知りたいと感じてきた。谷口雅春先生はイスラームについて、しかし余り多くのことを話されず、また文章にも残されなかった。近年になって、とりわけ2001年9月11日、私たちの想像を絶する破壊と憎悪が宗教の名において行われたという事実に直面してからというもの、イスラームを知ることの重要性はますまず強まっている。
 
 この重要性は世界中で感じられていて、9・11以降、イスラームに関する数多くの記事が書かれ、本が出版されている。生長の家では“偉大な宗教”は皆、人類の中心的価値を共有していると説くが、イスラームの教えが本当にそういう“偉大な宗教”の1つであるかという疑問が、私たちの運動の中でも上がっていた。2004年にブラジルのサンパウロ市で行われた国際教修会では実際、そういう質問が私宛に寄せられたのである。それは、エドゥアルド・ヌネス・ダ・シルバという人からのこんな質問だった。

「谷口先生、日本では神道や仏教、キリスト教が広く信じられ、また、いろいろな角度から研究されてきました。しかし、モハンマドとイスラームについては、尊敬の念は払われていても、あまり詳しく説明されていません。現在、マスメディアがイスラームを盛んに取り上げているだけでなく、キリスト教社会とイスラームとの間に争いが広がっています。生長の家はイスラームをもっと理解すべきではないでしょうか?」

 教修会の席上、私はこの質問に「まったく同感です」と答えた。だから、やや遅ればせながら、イスラームに焦点を合わせた今回の教修会となったのである。

 教修会の第1日目には、前にも述べたように、私たちは名高い業績をもつイスラーム思想家で、カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授、カリード・アブ・エルファドル博士(Khaled Abou El Fadl)の講演を聴く光栄に浴した。さらに、同博士と質疑応答の時間をもつこともできた。これにより私たちは皆、イスラームに関する重要な一般的な知識を得ただけでなく、コーランの教えについても学ぶことができた。過去2回、2003年と2004年に行われた「世界平和のための国際教修会」では、すべての発表が生長の家の本部講師、あるいは本部講師補によって行われた。同じことが、2003年から2006年まで4回行われた日本での生長の家教修会についても言える。しかし、今年の国際教修会では、この慣習を破って、初めて外部の専門家を招請することになった。それは、世界第2の宗教とはいえ、イスラームについて、今日まで私たちはあまり知識がなかったからである。
 
 そんな状況の中で、このきわめて重大なテーマについてたった1日半、勉強会しただけで、私はイスラームについて何か決定的なことを言えるとは思わない。もちろん、今回の教修会以前にも、私はイスラームについてある程度の知識をもってはいた。アメリカを襲った同時多発テロ直後から実際、私はイスラームについて書いてきた。しかし、私が書いたものは散発的で、不完全なものだった。私のブログを読んでくださっている人は、その中のいくつかを思い出してくれるだろう。また、英語版の『信仰による平和の道』の冊子(Realizing Peace by Faith、2003年刊)やポルトガル語版(Caminho da Paz pela Fe、2004年刊)の中にも、イスラームについて触れた箇所があるのを思い出す人がいるかもしれない。しかし、これらの言及箇所は、ひいき目に言っても“予備的”であり、量的にも決して多くはない。

 言いわけがましく聞こえるだろうか。私が言いたいは、自分はイスラームやコーランの教えの専門家ではないということだ。残念ながら私はここで、世界中で今日まで続いてきたイスラームの伝統の複雑さや幅の広さについて述べる時間も、そのための学問的訓練も受けていない。これは、私がイスラームに関心がないという意味ではない。それどころか、今回の教修会の準備をしてみて、私はイスラームについてさらに深く知りたいと思うようになった。きっと今回発表をした本部講師の人々も、同じ思いをもっているに違いない。これはもちろん、私たちがイスラームに改宗するという意味ではない。しかし、この宗教の中には、キリスト教や仏教もそうであるように、私たちの心の琴線に触れる何かがあるのだ。それは一体なぜだろう?
 
 谷口 雅宣

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2007年8月11日

ニューヨークの印象 (3)

 8月4~5日の国際教修会が終ったあと、少し“羽”を休めるためにマンハッタンへもどり数日、本探しや観光をした。8月9日の本欄にもこの街の印象を少し書き、映像も紹介したが、日本の大都市にも様々な側面があるように、それだけで描き尽くせる場所ではない。今回は、アップタウン(街の北部)にある広大なセントラル・パークや母校のコロンビア大学へは行かず、もっぱらダウンタウン(街の南部)で過ごした。その辺のスケッチを映像でまとめたものを2本、下に掲載する。1本にまとめたかったのだが、私のパソコンのソフトでは長いビデオは作れないようなので、半分にせざるを得なかった。悪しからず……。
 
谷口 雅宣

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2007年8月10日

ニューヨークの印象 (2)

 国際教修会が行われたエディス・メーシー会議場はニューヨーク市の中心から北へ、車で約1時間のところにある。この「1時間」というのは街の混雑しだいで、パークウェイという貨物車通行禁止の自動車専用道路が混んでいないときには、30分で行けることもあるようだ。パークウェイを下りるとすぐに、シカやリスやウサギがいる森に入り、そんな環境に、宿泊施設付きの会議場があるのは羨ましい。ここは、全米のガールスカウト組織が運営する施設らしいが、他団体にも施設を貸してくれる。生長の家も過去に国際教修会や特別練成会で借りた実績がある。ここの講堂(定員200人)で教修会は行われた。今回はそこへ、アメリカ、ブラジル、日本、カナダ、コロンビア、パナマ、ペルー、パラグワイ、イギリスの9カ国から約180人が集まり、英語→ポルトガル語、英語→スペイン語の同時通訳入りで行われた。
 
 そんな会場の環境と雰囲気をまとめた短いビデオを、以下に掲載する。

 谷口 雅宣

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2007年8月 9日

ニューヨークの印象

「世界平和のための国際教修会」のために行ったニューヨーク市は、私が大学院生として2年間を過ごした懐かしい街だ。最近も何回か行っているが、行くたびにその街の活気と、脇目もふらずに早足で歩く人々のバイタリティーに驚かされる。東京にも似たところがあるが、秩序が保たれ、クリーンな東京に比べて、ニューヨーク市は歩行者の信号無視と自動車のクラクション騒音、そして道路の凸凹が著しい。また古い建物が数多く残っている点が違う。どちらがいいか一概には言えないが、私は両方とも好きであり、両方とも「どうにかならないか」と思う。放っておけない気持になるのだ。

 今回この街を訪れたときの印象を短いビデオにまとめたので、以下に掲載する。
 
 谷口 雅宣

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2007年8月 8日

生長の家の国際教修会が終る (4)

 ニューヨークで行われた国際教修会の第2日目(8月5日)の分の報告を、音声と画像で以下に掲載する。前回同様の急ごしらえなので、映像・音声の質や編集の乱れ等については、ご容赦願いたい。
 
谷口 雅宣

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2007年8月 7日

生長の家の国際教修会が終る (3)

 このたびの国際教修会の内容について、映像による簡単な報告を以下に掲載する。ファイルの大きさの都合から2分割してお届けするが、今日のものは第1日目(8月4日)の分である。とりあえずの急ごしらえの報告なので、映像・音声の質や編集の乱れ等については、ご容赦願いたい。
 
谷口 雅宣

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2007年8月 6日

生長の家の国際教修会が終る (2)

 国際教修会第1日目のメイン・スピーカーであったカリード・アブ・エルファドル博士は、前日にお会いした時、持病から来る疲れのために講演など不可能ではないかと疑ったほどだったが、きちんと約束通りに舞台に登壇され、前日とは別人のようなしっかりとした声で、堂々と2回の講演をこなして控え室に戻られた。イスラーム社会の現状--とりわけ中東諸国のイスラームがどうなっており、何が問題なのか、またイスラームの本質とは何であるかを、はっきりとした英語で話された。「目を醒まされた」という感じがした。アブ・エルファドル博士は毎年8月前半は、母国のエジプトに帰省し、そこでゆっくりと精神を鎮め、祈りと読書に没頭する習慣だったところ、今回は、生長の家のこの行事のために休養期間を短縮されて、カイロからニューヨーク入りし、その翌日に講演をこなして下さったのである。病人でなくても楽でない旅程なのに、何とも申しわけないという気がした。
 
 同博士は講演の中で、今回は「10年来の慣習を破って」休暇を短縮したと仰っていた。誤解のないように言っておくと、今回の講演は、生長の家の側からは無理に依頼したのでは決してない。また、同博士は、健康状態がよくないので、いろいろな所にしばしば講演に招かれる人でもない。さらに同博士は、生長の家を以前から知っていたのでもない。にもかかわらず、有名でもない“他の信仰団体”のために入門的な話さえも厭わずに、不都合や苦痛を押して来てくださったのか、正直言って私にはわからない。もちろん、事前には生長の家について一般的な説明資料は渡してあった。が、それだけである。大学構内へ何度も足を運んで講演依頼をしてくれたアメリカの教化総長の熱意に動かされた部分は、もちろんある。しかし、それだけではない“何か”を、私は今回の博士の側の熱意の中に感じている。
 
 アブ・エルファドル博士は脳腫瘍を患っておられて、歩行も自由でなく、普段の移動は車椅子である。しかし頭脳はあくまでも明晰で、大学の講義や執筆活動は続けていられる。サウジアラビアを中心としたイスラーム原理主義の批判の先鋒にあるため、テロリストからの脅迫もあるらしく、ボディーガードとして大きな猟犬を飼い、大学の研究室は公表されていないらしい。そんな立場にある人が、東洋の東の端で始まった(イスラームと比べれば)小さな宗教運動のために無理を押したり、危険を冒す必要はまったくないのである。博士に会った際、私としては、感謝してもし切れない気持を表明したつもりだが、あまり上手でない英語でどこまで伝わったか定かではない。会場を去られるときには、英語版の『甘露の法雨』『天使の言葉』を初めとした生長の家の英文書籍をお渡しして、幹部一同で見送りさせていただいた。

 ところで、私がどうやってアブ・エルファドル博士を知ったかは、実は昨年1月24日の本欄に書いてあるのである。その「ニューヨークで本を買う」という文章には、ブラジルでの国際教修会の帰途、ニューヨークに立ち寄り、そこの大手書店で買った本のリストが掲げてある。その中に、「Khaled Abou El Fadl, The Great Theft: Wrestling Islam From the Extremists (New York: Harper-Collins, 2005)」という1冊がある。私がこの書店に入らなかったならば、また、大書店の何千冊もある本の中から、私がこの1冊を見つけなかったならば、今回の教修会の内容はまったく違ったものになっていただろう。生長の家では「偶然はない」と説いているが、私は、今回ほどこの言葉の重さを感じたことはない。谷口雅春先生が生長の家を始められる直前、ふと立ち寄った書店の棚にホルムズ博士の著書を見つけたという話を思い出す。
 
 また、イスラームの聖典『コーラン』には、「徴(しるし)」(sign)という言葉を使って、この現象世界は、神から人へ送られる「徴」が満ち満ちているのに、人々はそれに気づかないと書かれている。「本との出逢い」については過去、本欄にも書いたことがあるが、本だけでなく、我々はあらゆるものに毎日出遭っているのに、その「徴」をしっかりと受け止めず、「当たり前」として棄て去っていることが多いのだ。だから今日は、私は上記の本屋とは別の古書店へ入って、注意深く“徴の本”を探したのだった。
 
谷口 雅宣
 

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2007年8月 5日

生長の家の国際教修会が終る

 8月4日から5日にかけてニューヨク市郊外のエディス・メイシー会議場(Edith Macy Conference Center)で行われた2007年度の「世界平和のための生長の家教修会」が終った。本欄の読者には1週間ほどご無沙汰したが、諸準備があり多忙だったという理由でご容赦願いたい。国際教修会は昨年1月21~22日にブラジルのサンパウロ市で行われて以来、1年7カ月半ぶりだが、アメリカ、ブラジルを初め9カ国から180人以上の生長の家の幹部らが一堂に会して2日間にわたって研鑽できたことは、誠に意義あることだった。16カ国から2,800人以上が集まった前回の国際教修会と比べると、もちろん規模は小さい。が、これは会場がブラジルからアメリカへ移動したことで、教勢が盛んなブラジルからの参加者が減ったことが主な理由である。ご存じの通り、現在のアメリカは“テロに対する戦争”の最中で、海外からの入国審査を相当厳しくしている。このことと、アメリカとブラジルの間の経済格差が参加者数の減少として表れている。
 
 しかし、そんな参加者数の減少は、今回の国際教修会の特徴ではない。今回の特徴は、何といってもテーマを「イスラーム」に絞って研鑽を行ったことだ。生長の家の国際教修会で別の宗教のことを研鑽したと聞くと、読者の一部から「何をバカなことを!」とお叱りを受けるかもしれない。が、「万教帰一」を旗印に宗教共存と世界平和の実現を目指している運動体が、キリスト教に次いで世界第2の信者数をもつイスラームについて、ほとんど何も知らないという現状に甘んじていては、「本当はやる気がない」と思われても仕方がないだろう。さらに9・11以降、世界各地でイスラーム原理主義の暴発が続き、それを抑えようとする“テロとの戦争”が拡大している中で、「自分はイスラームと関係ない」と言うことは「世界と関係ない」と言うのとほとんど同義である。そんな姿勢では、「人類光明化運動」も「国際平和信仰運動」も絵に描いた餅に過ぎない。そんな反省から、今回はしっかりと“目を外に向ける”ための研修が行われたのである。

 ところが、問題が1つあった。それは、生長の家創始者である谷口雅春先生も、現生長の家総裁、谷口清超先生も、イスラームについてあまり多くを語っておられないことだ。その理由は主として、御教え発祥の地である日本そのものが今日にいたるまで、経済関係はともかく、文化的、思想的にイスラームとの関係が深くなかったことによる。それでも最近は、日本の大都市などでイスラームの信仰者が歩いている姿を見かけるようになった。が、そういう人に、あてもなく声を掛けてイスラームの講義をしてもらうわけにもいかない。しっかりとした宗教的、思想的、文化的な知識と教養をもったイスラーム国出身者に、イスラームの教義をはじめ、現代のイスラーム原理主義の諸問題を分りやすく解説してもらうことができたら、それは最良の条件である。となると、日本の大学か大学院レベルの専門家に講師をお願いすることになるが、今年の国際教修会はアメリカで行うことが1年前から決まっていた。そんな中で、ひょんなことから“最良の条件”に該当する講師が見つかったのである。
 
 その人は、エジプト人でUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の法学校の教授をしているイスラーム法学者、カリード・アブ・エルファドル博士(Khaled Abou El Fadl)である。エルファドル博士については、7月1011日の本欄で触れただけでなく、昨年8月中旬に書いた「イスラームはどうなっている?」というシリーズでも、その見解を紹介してきた。同博士は、UCLAの教授になる前はイェール大学、テキサス大学でも教鞭を取り、ペンシルバニア大学で法学博士、プリンストン大学でPh.D.を取得するなど、アメリカ最高レベルの大学で認められているだけでなく、母国のエジプトとクウェートでもイスラーム法学者として最高位の資格を取得している人だ。そんな人から、生長の家の教修会でイスラームについての講義を受ければ、第一級の知識と洞察を得られるかもしれない--その夢が実現したのが今回の国際教修会なのである。
 
 そんな教修会で何が起こり、どんな成果があったかは、次回以降で書くことにする。

 谷口 雅宣

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