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2007年8月20日

イスラームと生長の家 (8)

 ここまでの議論でわかったイスラームと生長の家の類似点を確認しよう。それは3点だった。第1点は、アブラハムを起源とする3つの一神教--ユダヤ教、キリスト教、イスラーム--が本来1つであることを、コーランが明確に示していることである。イスラームの法学者の中には、この3つの一神教に加えて、「聖典をもつ」という意味においてゾロアスター教、ヒンズー教、シーク教、そして儒教までも加える人がいる。もしそうなると、一部のイスラーム信仰者にとって、“万教”は事実上、唯一の起源から出たことを意味していることになる。

 第2点は、信仰における理性の問題である。イスラームをめぐる最近の多くの報道は私たちに逆の印象を与えるかもしれないが、イスラームには長い、豊かな理性主義の伝統があることを私たちは確認した。この理性主義は、ギリシャ哲学や中世キリスト教のスコラ哲学にも匹敵する本格的なものだ。そして、私たちは生長の家もまた理性主義的な宗教であることを知っている。
 
 第3点は、もっと具体的な面である。イスラームも生長の家も、本当の存在(実在)は表面的な現象の奥に隠されていると説く。また、スーフィズムにあっては、宗教行と瞑想を深めることによって、人間と神との合一が達成できると考える。スーフィズムでは、「人間は神の子である」と明確には言わないが、人間がこの世で神性を実現することは可能だと考えているようであり、この目標は生長の家と共通している。

 私は、2004年の国際教修会で生長の家の教義の“柱”として、①唯神実相、②唯心所現、③万教帰一、の3つを提示した。この3つのうち、これまでの検討により、イスラームは少なくとも2つ--つまり②と③の面で生長の家と共通していることが分かった。私がいま「少なくとも」と書いた理由は、シーア派の思想とスーフィズムの中には①が含まれている可能性もあるからである。また、今回の教修会でアブ・エルファドル博士の講演から学んだように、穏健派のイスラームにも①が含まれている可能性がある。この点を確認するためには、もっと広く、深い研究が必要である。が、こうしてイスラームと生長の家の類似点を明確にしてみると、両者がその中心的信仰を共有する程度は、相当であると言っていいだろう。 
 最後になるが、インドネシアのイスラームにおける最近の動きについて、高義晴講師が教修会で発表したことに、ここで触れたい。高講師によると、この国には所謂“リベラル・イスラーム”という考え方を支持する人々が、相当数いるという。この考え方は、生長の家の「万教帰一」の教えととても似ているところがある。この“リベラル・イスラーム”勢力をネットワークしたジャリガン・イスラーム・リベラル(Jarigan Islam Liberal)という組織の世話人である、ウリル・アブシャール=アブダラ氏(Ulil Abshar-Abdalla)が2003年に書いた文章の一部を、次に掲げる。そこには驚くほど大胆な表現が見られるのである。

「私はさらにこう言いたい。すべての善い、積極的な価値は、それがどんなものであれ、真実の意味においてイスラーム的価値である。イスラーム(中略)とは“一般的な価値”であり、キリスト教にも、仏教にも、儒教にも、ユダヤ教にも、道教にも、地方の土着宗教や信仰にも、どこにでも見出すことができる。マルクス主義哲学にさえ、“イスラーム的”真理が存在するかもしれないのである」。

 マルクス主義が世界の大宗教と基本的価値を共有するかどうか、私にはよく分からない。しかし、ここで言わんとしていることは明らかだ。イスラームとは、世の中の多くの人々が感じているように排他的で、狭量な宗教ではないのだ。急速にグローバル化が進むこの世界で、イスラーム信仰者の数も急速に増大している今、このことができるだけ多くの人々に、確実に伝わるよう私たちは努力しなければならない。と同時に、生長の家の万教帰一の教えをさらに広く伝えることで、この地球社会に原理主義的ものの考え方と視点とを根付かせないことが、今より重要な時期はないのである。私たちは、それぞれに宿る内部神性を明らかに自覚することで、きっとこの運動を成功させることができるのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○Ulil Abshar-Abdalla, "Freshening Up Our Understanding of Islam."

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コメント

>マルクス主義が世界の大宗教と基本的価値を共有するかどうか、私にはよく分からない。

↑このコメント、マズいですよ…。

投稿: 羽柴秀吉 | 2007年8月20日 23:52

このコメントの何処がどうマズイのか?説明して貰えれば有り難いと思います。さて、ほんの一部の原理主義的なものの考え方と視点を根付かせない事と言う事は現在最も重要な事と確信致しますが何故理性的全イスラーム社会から全世界に向かっての発信が無いのか?マスメディヤは報道しないのか?彼らの怠慢に見えてしようがありません、テロ攻撃が怖いので触れないでいるのか?思想の寛容と多様性と言う事で容認しているのか?これこそが宗教はイスラームは怖いと言う印象と誤解を生む原因の様に思います、アッラー(神)は試しておられるのでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月21日 11:30

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