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2007年8月18日

イスラームと生長の家 (7)

 前回の本欄の最後で紹介した牧野氏の解説を読むと、生長の家の教えを知っている私たちは「へぇー」と意外に思わないだろうか。言っていることは結局、我々の棲む現象世界は、神からのメッセージで満ちているということである。また、私たちは釈迦が苦行をやめ、村の娘・スジャータが提供した粥を食べた後に、悟りを開くに至ったときの言葉として、「山川草木国土悉皆成仏」「有情非情同時成道」を教わっている。生長の家では、これらの言葉は実相世界の一光景を描写したものと解釈している。『生命の實相』第11巻には、この世界に神が現れることを次のように説明している:
 
「(前略)物質世界そのものは神の創造ではない、だからそこに病気も顕われていれば戦争のような悲惨な事実も顕われているのでありますけれども、その奥には生命の実相が光っており、神が光っておりますので、一切万象に神の顕現を見ることができるのであります。それで病気が縁となって神を見る人もあり、苦難が縁となって神を見る人もできるのであります。で、“一切万象”に神の顕現を見るというふうに申しますのも真理でありますので、“従来は生長の家家族の修養および祈願”の箇条書きの中に“いっさいの大自然と生物とを神の生命の顕現なりと信じ、その生命を敬し礼し”と書いてあったのです(後略)。」(pp. 169-170)

 コーランの中の「神兆」の説明と、生長の家の「実相」の理解の間には微妙な、しかし重要な違いがある。しかし、この違いがあったとしても、現象の表面を超えて隠された本質を把握するように求める点では、両者は同じであると言える。

 このシリーズの初めの方で、私は、物質的な外見の背後にある、目に見えない“真実の実体”(ハキーカ)というものに言及した。シーア派イスラームとスーフィズムで重視されているもので、コーランではこれを「徴」とか「神兆」と呼んでいる。そういう説明を聞いて、読者の中には「唯心所現」の教えを思い出した人もいるだろう。この教えと、物事の表面の奥にある真実在を把握するというイスラームの考え方の間には、確かに類似点がある。

 生長の家の信徒にとっては、この世界の現象は“心の影”なのだから、現象世界をよくするためには、自分の心の何が“そこ”(外界)に反映されているのかを知る必要がある。こうして生長の家では、現象の“内的原因”と心の働き方(心の法則)を研究することが重要課題となる。このような、外界を知るために心の内部を探るというこの内向きの志向は、スーフィズムの中にも見出される。残念ながら、このシリーズでは、スーフィズムについて詳しく触れることができない。しかし、ひと言で表現すれば、それは「愛の力を通して、神と人との合一を目指すことを特徴とする、様々な形のイスラーム神秘主義」のことである。この定義は1995年版の『The Oxford Companion to Philosophy』(オックスフォード哲学事典)にあるものだが、これに加えて次のような説明が付されている--「この(神との)合一を達成するためには、愛とともに艱難も必要とされる」。
 
 ノースカロライナ大学のイスラーム学の権威、カール・アーンスト教授(Carl W. Ernst)によると、「スーフィーの使う言葉の基本的修辞法……は、内的現実が第一ということ」である。アーンスト教授の著書、『スーフィズムへの案内』から少し引用しよう:
 
「コーランの章句を使いながら、スーフィーたちは神のことを“最初にして最後、外部にして内部”だという。神をすべての存在の内的要素であると強調すると、内部と外部との関係をきちんと表現することが求められる。これを最も充分に達成しているのが、3段階で韻を踏みながら唱える次の言葉である--外的な形としてイスラーム法(シャーリアー)があり、内的方法としての道(タリーカ)があり、神はつねに実在(ハキーカ)である。このような種類の修辞形式の表現は、イスラーム信仰者の宗教生活の外面を内面化するものとして、スーフィーたちの特徴的な修行法を位置づけるのである。スーフィズムは、当たり前の外的生活から始まって、神の内的実在を発見するための方法だった」(p. 26)

 この引用文はなかなか難解である。しかし、ここで言わんとしているのは、スーフィズムは、観察者の心の状態を変えることによって、一見瑣末で当たり前に見える“実在”の、より深く、非日常的な次元を露呈させる試みである、ということだろうか。『イスラームの根源をさぐる』という本の中で、牧野信也氏は、多層構造の二等辺三角形を逆立ちさせて2つ並べ、スーフィズムの世界観を表現している。この図によると、左側の三角形は人間の意識を表し、右側は私たちの目の前の世界を表している。2つの三角形の構造はまったく同じであるのは、スーフィズムでは「客観的現実世界の多くの層と主観的意識の多くの層との間に1対1の対応関係があると考える」からである。つまり、私たちの意識が深まれば深まるほど、目の前には深遠なる現実が姿を現すのである。
 
Mindmatter01_2   この図を見てわかるように、これらの三角形は5層からなる。左側の三角形に注目してほしい。牧野氏の説明では、最上層は、感覚器官を通してもたらされる私たちの意識--つまり欲望--で、これを「命令する魂」という言葉で表している。第二層は私たちの理性と良心の宿る場所で、これを「批判する魂」と表現し、第3層は瞑想中に到達する「安定した魂」、第4層は深い神秘的意識を表す「幽玄の魂」、そして第5層は聖なる意識である「秘密の魂」である。スーフィズムにおいては、私たちが修行を重ね瞑想を深めることで、この意識の層を上から下へ降りることができ、それに伴ってより深く、より素晴らしい次元の実在が感得される、と考える。そして、牧野氏によると、意識の底の深奥部においては「修行者の自我意識は完全に消滅し、それまで彼の人間存在の中心をなしてきた“われ”の意識は消え去って無に帰してしまう」。そして、「われが消えてしまうのであるから、世界もない。絶対の無である」(p.191)のである。
 
 牧野氏はこの時、スーフィーの口を通して神自身が語る、という。この状態で語られた有名な言葉の1つが、ハッラージによる「我は真理なり」だ。ところが、この時代にあっては、スンニ派の法学者がこれを神への冒涜と見なしたため、ハッラージは磔にされてしまった。牧野氏は、この心境を「絶対無の自覚」と呼び、それは「神我」の自覚だという。アーンスト教授が紹介している「スーフィーらの標準的説明」によると、これは「一種の恍惚境において個人の自我意識が崩壊することにより、ここでは本当に神が語りだす」のである。こういう心境が、生長の家でいう「神の子の自覚」と同一であるかどうか、私にはわからない。しかし、この2つは大いに似ていると言えるのである。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○Carl W. Ernst, The Shambhala Guide to Sufism, (Boston: Shambhala, 1997)
○牧野信也著『イスラームの根源をさぐる--現実世界のより深い理解のために』(中央公論新社、2005年)

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