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2007年8月17日

イスラームと生長の家 (6)

 このような話を聞くと、仏教に詳しい読者の中には、“永遠のムハンマド”と大乗仏教でいう「仏」とが驚くほど似ていることに気づく人がいるかもしれない。大乗仏教では、史的存在としての仏は“永遠の仏”の一表現に過ぎないと説く。彼は、一説によると紀元前563年に生まれ、ゴータマ・シッダールターとして生きた歴史上の人物であるが、これに対し「久遠本仏」は、すべての人のみならず、あらゆる生あるもの、生なきものの内部に宿るところの、時間、空間を超えた存在である。今の主題はイスラームなので、私はここで仏教に深入りするつもりはない。しかし、大乗仏教の説く“永遠の仏”の例として、『法華経』の「如来寿量品」で説かれる「生き通しの如来」について、谷口雅春先生は『生命の實相』第11巻萬教帰一篇で、次のように書かれていることを指摘したい:
 
「悟ればそのまま今すぐに自分が多宝仏とわかり、燃燈仏とわかり、生き通しの大生命であるということがわかるのであります。“自分は何年何月に生まれて釈氏の宮を出て、何年間修行して初めて仏(神の子)となった”というものではない、無限時間の始めからすでに仏(神の子)であるというふうに釈迦自身お説きになることによって、すべての人も、死後、諸仏に仕えいろいろ修養して仏になるといって記別すなわち仏になる証明を授けたが、人間は本来、そういう時間経過の後において始めて仏になるというようなものではない、無限時間前からすでに仏であり神の子であるという真理をここで、暗に悟れといっていられるのであります」(p.142)

 さて、話をイスラームにもどそう。多くの読者は、スンニ派が現実主義的で、シーア派は理想主義的だと聞くと、なぜ同じイスラームの中でこのような考え方の違いが生まれるのか、不思議に思うかもしれない。その理由は多くあるに違いない。しかし牧野氏は、この違いの主な原因の1つは、コーランそれ自体にあると指摘している。牧野氏によると、コーランに収められた啓示は、預言者の住居がメッカからメディナに移るに伴い、大別して2種あるという。メッカでの啓示は「神への畏れ」とその「霊性」が特徴であるのに対し、メディナ時代の啓示は「神への感謝」とイスラーム共同体における「正しい行為」に焦点が移るという。そして、前者がシーア派の哲学とスーフィズムに反映し、後者がスンニ派の現実主義と字義通りの法解釈に結びついたというのである。
 
 私は前回、シーア派のイスラームでは、「真実在」は物事の目に見える外的形態にあるのではなく、その形態の背後に隠れていると捉える、と書いた。この隠れた「真実在」のことをアラビア語で「ハキーカ(haqiqa)」という。イスラーム信仰者は、実生活を行いながら、この隠れた内的実体を神からの真実のメッセージとして正しく理解すべきとされている。コーランでは、そのことを「徴(しるし)」とか「神兆」という言葉で示している:
 
「我らはあの者どもに我らの徴(しるし)を見せてやろうぞ、遠い空の彼方にも、彼ら自身の中にも。そしてこれが真理だということをいつかは彼らにもわからせてやろうぞ。汝の主はあらゆることを立合いで見てい給う、それだけでももう充分過ぎるほどではないか。
 ああなんたることか、これでもまだ彼ら神様との対面を疑っておるのか。アッラーがこれほど明らかに一切をぐるりと取り巻いていらっしゃるのがわからないのか」(41章53-54節)
 
「彼(アッラー)こそはお前たちのために天から水を降らせて下さるお方。それが飲み水にもなれば、またそれで樹木が(育って)お前たちの家畜の飼料ともなり、また(アッラーは)それでお前たちのために穀物やら、オリーヴやら、棕櫚やら、葡萄やら、そのほかありとあらゆる果実を育てて下さる。まことにこれこそ、ものを考える人にとっては、まぎれもなく神兆しというべきではなかろうか。
 またお前たちのために夜と昼、太陽と月を使役して下さった。それから星々もまた御命令によって使役されている。まことにこれこそ、もののわかる人にとっては、まぎれもなく神兆というべきではなかろうか。
 またお前たちのために地上にたくさん作り出して下さったもの(動物や植物)の種々様々な色どり--まことにこれこそ、注意ぶかい人にとっては、まぎれもなく神兆というべきではなかろうか」(16章10-13節)
 
 コーランのこれらの章句は、この世界の物質的事物や事象はすべて、その外見より深い意味をもった神からの「徴」だという意味だ、と牧野氏は説明する。「要するに」と彼は言う、「外の世界、内の世界の一切の現象が神の信号、しるしとして見られるということであり、また人間の歴史に起る事件もすべて神の信号に他ならない。つまり、人間が生きているこの世界は無数の神のしるしの空間としての拡がりであり、歴史は無数の神のしるしの時間としての繋がりだということである」(p.101)。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○谷口雅春著『生命の實相』第11巻萬教帰一篇上(日本教文社、1963年)
○牧野信也著『イスラームの根源をさぐる-現実世界のより深い理解のために』(中央公論新社、2005年)

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