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2007年8月16日

イスラームと生長の家 (5)

 これまでの議論の中で、シーア派の思想の理性的側面に触れた。今回の国際教修会の第1日目の発表でも、イスラームには大別してスンニ派とシーア派があることが述べられた。スンニ派はイスラームの中で多数派を占めるものの、少数派のシーア派も相当な勢力を保っている。両者の違いはどこにあっただろう? スンニ派は、信仰者間の会議(シューラ)で選ばれた第1代から4代までのカリフの正統性を認めるが、シーア派は選挙によるカリフ制を認めずに、預言者・ムハンマドの無謬の後継者として、アリ(Ali)とその子孫をイスラーム共同体の正統な指導者(イマーム)と考えるのである。

 そういう制度的な側面とは別に、私はここで両派の思想的・哲学的違いについて述べてみたい。日本のイスラーム思想の研究者、牧野信也氏は、シーア派の考え方を“理想主義的”と表現する一方、スンニ派の思想は“現実主義的”だと捉える。牧野氏によると、両派間ではイスラーム法を「取り扱う態度が全く違う」のである。スンニ派はコーランとスンナを字義通りに解釈してイスラーム法を導き出す傾向が強いが、シーア派の法解釈はむしろ「隠喩的(metaphorical)」だという。つまり後者は、目に見える文字の意味の背後にある“見えない意味”を理解しようと努めるが、その理由は、牧野氏によると、シーア派では「何についても、事の内面を重視する」からという。「いかなるものでも、いかなることでも、それの目に見える表側ではなく、目に見えない内側にこそその実体がある、と考える」のがシーア派の特徴である。だから、イスラーム法の解釈でも、シーア派では神の御心に従うことは、必ずしも法の文面に字義通り従うことではなく、「イスラーム法の内面にひそむ精神的実在に従うことを意味する」(p.28)のである。
 
 興味あることに、シーア派はこのような考え方を人間に対しても延長する。世間一般では、人間というものを物質的な肉体として捉える。しかしシーア派では、可視的な肉体の内に純粋に霊的な“天使”がいて、それを人間の本質と捉えるのである。そして、牧野氏によると、「自己の内部にひそむこの霊的存在、天使的存在を自覚すること、言いかえれば、肉体的人間の純粋な霊的人間への変貌こそシーア的意味での人間の完成である」とする。どこかで聞いたことのある表現ではないだろうか? この考え方は、「人間は神の子である」という生長の家の信仰と、いったいどれほど違うのだろう?

 さて、次に「イマーム」について考えてみよう。シーア派では、イマームという地位を大変重んじるのに対し、スンニ派のイスラームでは、その宗教的権威はさほどのものではない。そんな違いがある理由を、もう私たちは前よりも理解できるはずだ。シーア派的ものの見方によれば、人間はみな基本的に内部神性をもっている。しかし、私たちが日常生活の経験からよく知っているように、誰もがその内部神性を現実に表しているわけではない。だが、シーア派が信ずるところでは、そういう霊的な、天使的な能力を生まれながらにもっている例外的な人物がたまに現われる。その人こそ、シーア派にとって「イマーム」と呼ぶべき人物である。
 
 イマームという言葉は、もともと「先に立つ者」という意味であるそうだ。スンニ派では、イマームは集団礼拝などで人々の前に立って儀式をする人にすぎない。しかし、シーア派ではその意味は全く異なる。彼こそ聖典・コーランが提示する真理の内的意味を霊的に把握し、イスラームの聖なる世界へ人々を導いていくことができる最高権威者なのである。

 さらに、シーア派的考えによれば、預言者・ムハンマドにも目に見える肉体的側面--“史的ムハンマド”と呼ぶべき側面--があるだけでなく、空間や時間に制約されない内的な霊的実体があるのである。言い換えれば、“史的ムハンマド”は、真に存在する永遠の“内的ムハンマド”の1つの表現に過ぎない。牧野氏によると、この“内的ムハンマド”は、人類の歴史の中で--“史的ムハンマド”の死後でさえ--「1人の歴史的人物の中に形をとって現われる。これがイマームに他ならない」という。こうして、シーア派のイマームは、永遠のムハンマドの聖霊の生れ変わりと見なされるのである。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○牧野信也著『イスラームとコーラン』(講談社学術文庫、1987年)

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