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2007年8月25日

「偶然はない」ということ (5)

 本欄で前回、本題を扱った文章の中で読者にクイズのようなものを出したので、その“正解”を書かねばなるまい。ただし、私は統計学の専門家ではないので、私の答えが統計学的に正しいかどうかは保証できない。
 
 まず、6種類の“糞跡”の話だが、それぞれの“糞跡”はみなユニークな形をしている。ここで言う「ユニーク」の意味は、原語である英語の「unique」の本来の意味で「ユニークである」ということだ。つまり、この世に1つしか存在しない形と言えるだろう。別の言い方をすれば、これらどの“糞跡”の形も、まったく同一のものを同じ条件下で“糞跡”によって再現することは不可能である。そういう意味では、それぞれの“糞跡”がこの世で再び生じる確率は限りなく「0」に近い。その一方で、最初にご覧に入れた人型の“糞跡”が起る確率はどうだろうか? 他の6つの“糞跡”が起る確率とどう違うだろう? 私は、まったく同じ--つまり、限りなく0に近い--と考える。もし我々が、「人型」になる確率の方が「非人型」になる確率よりも小さいと考えたならば(そして、その判断は間違っていないが)、それは「非人型」である6つの糞跡を我々が頭の中で1つのグループの中に括った(言い換えれば、類似物と見なした)からである。どうして我々は、「人型」を特別扱いするのだろう? その答えは、“糞跡”という現象(外界)そのものの中にあるのではなく、我々の心の中(内界)にあるのである。
 
 次に、5種類の紙コインを使った仮想実験の話に移ろう。これについても、上の糞跡の話と同じことが言える。5種類のコインの並ぶ順番は、120通り(5×4×3×2×1=120)が考えられる。そして、それぞれの順番が「ユニーク」である(つまり、他の順番とは違うそれ独自の順番である)。糞跡と比べて違う点は、糞跡の場合、まったく同一の糞跡を再現する確率が限りなく0に近いのに対し、コイン並べの場合は、実験を繰り返しているうちに同じ並び方が実際に再現される点である。その確率は、統計的に計算できる。そしてその確率は、どの並び方であっても同一のはずだ。つまり、「①②③④⑤」の順序となる確率も、「⑤④③②①」になる確率も、「②④①⑤③」「③②⑤④①」「⑤④③①②」「②⑤④③①」……などになる確率も皆同じ(数字で表せば0.83%=120分の1)である。ということは、最初の2つの順序になったときにだけ「何か特別な現象に出会った」と感じることは、統計学的には正しくない。しかし、心理学的には“正しい”と言えるかもしれない。
 
 読者は、“糞跡”とコイン並べの2つの問題に共通する要素を理解されただろうか? 我々の心は、ランダムな現象、無秩序な現象の中にも、無意識のうちに何らかの規則性や秩序や意味を見出そうとしているのである。例えば、我々の視覚(とその延長である脳)は、自然界に存在するものの中から「人の形」に似たものを敏感に感知し、それに特別な意味を付与する働きを無意識のうちに行っている。そのことが、「人型」の糞跡をそれ以外の糞跡と本質的に違うものとして認知させるのだろう。また、紙コインの示す数列は、数字自体には特別の意味がないにもかかわらず、少数の特定の数列に我々の視覚と脳とが特別な意味を付与するので、それらが現われる機会を、それ以外のものが現われる機会と区別して、“奇蹟”とか“神秘”とか“不思議”な現象に感じさせるのである。ということは、“奇蹟”や“神秘”や“不思議”は外界で起るのではなく、内界(心の中)で起るのである。

 こうなってくると、読者の1人がおっしゃっていたように、「考える」人間が介在して初めて“奇蹟”や“神秘”が存在するというのが、どうも正解のようである。「唯心所現」の教えから言えば、ごく当たり前の結論になってしまった。が、問題が1つある。それは、別の読者がおっしゃったように、「ある人が、ある現象を“奇蹟”と思うなら、すべての現象は奇蹟と言える」か、という問題である。私は、この意見は文学的表現としては充分成り立つし、それなりの真理を含んでいると考える。しかし、これを全面的に認めると、宗教の世界における“奇蹟”も「単なる思い込み」のレベルに落とされてしまうと思う。“奇蹟”を“思い込み”から救い上げる視点はないだろうか?
 
 谷口 雅宣

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コメント

多忙の中、親切丁寧な御回答有難う御座いました、又色々な質問を投げかけて下さい。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月27日 16:20

5種類のコインの並ぶ順番は5×4×3×2=120通りかと思います。(間違っていたら申し訳ございません。)

投稿: まー太 | 2007年8月27日 19:02

 合掌、ありがとうございます。

 副総裁先生の前回の何故だろうという問いかけに、まず今まで何気なくすごす中でもすごーい!と思う事が多々あるにもかかわらず、そこに何の疑問も持たず、その事すらも当たり前になって過ごしていたことに気がつかせて頂きました。
 改めて、何故だろうと考え、自分の中で考えがまとまった時、とてもうれしく幸せな気持になり思わず「すごーい!!」と声をあげて家族と話しました。

 数字の玉を引いて、同じ5ケタ数で数字が並ぶ時の確立はどの数字が並ぶ時にも確立は変らない。(5×4×3×2×1=120通り)
なのに何故、①②③④⑤や⑤④③②①などに数字が並ぶ時に奇跡的に思うのでしょうか?
その時、ふと思い出したのは釧路の講習会での純子先生のご講話でした。「デジタル時計で同じ数字が並び変る瞬間、子供達が歓声をあげる・・・・・」と。
私も車の中で時計を見る時、「あ、私の誕生日だ!」という時に目にとまります。そしてやはりすごい!と思います。
しかし、誕生日の時刻ではなくても私はきっと無意識にでも時刻を見ていると思います。でも、その時刻は目にとまりません。心にとまりません。
他にも、ある人にとっては13は不吉な数字となり、ある人たちにとってはとても良い数字になります。そして、善い事が起きそうだ~!などと思います。

 人はある一定の秩序や法則が頭にあったり、自分に関わる色々な事を認識して記憶している。その自分の中の認識を目の前にあるもの、起る事すべてに照らし合わせて、あてはめて考えようとするのだと思います。だから、この世界は認識の形式であり、自分の心の現わす世界なのだと思いました。
だからこそ、心の捉え方によってプラスの想いになったり、マイナスの想いになったりするので、すべてプラスの心持であればすべてよきものが現れる世界になる。

 また、奇跡のように感じすご~い!と想うのは、いつも教わっているように、神様はすべてよしとして創られた。私たちは、その悦びをこの世界で表現する事が人生の目的であり、その悦びを表現したくてしたくて仕方がないというものが人間の本能(本質)にあるのだと思います。なので、様々な事で人は悦び、ビックリし、感動する、しようとするのだと思います。神様を表現するために・・・・・。

 そう考えた時、一瞬一刻とも偶然はなく、すべて必然であり、一瞬一瞬が奇跡なのだと思います。そして、すべてよし。すべてありがたし。それが続いてゆく。

ただあるのは神様だけなのだと気がつかせて頂きました。

このような素晴らしいことを考える機会を与えて下さりありがとうございます。
                      頓首・感謝・合掌
                         木村 静香 拝

投稿: 木村静香 | 2007年8月27日 23:44

まー太さん、

 失礼しました。正しい組み合わせの数に訂正しました。どうもありがとうございます。

投稿: 谷口 | 2007年8月28日 12:50

> 宗教の世界における“奇蹟”も「単なる思い込み」のレベルに落とされてしまうと思う。“奇蹟”を“思い込み”から救い上げる視点はないだろうか?


宗教の世界における“奇蹟”という事象がどういうものなのかを、示しておけば良いのではないでしょうか。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年8月28日 14:03

「ある人が、ある現象を"奇蹟"と思うなら、全ての現象は奇蹟と言える」かという問題、これを認めると「宗教の世界における"奇蹟"も単なる思い込みのレベルに落とされてしまうと思う、"奇蹟"を思い込みから救い上げる視点はないだろうか?の問いかけに
早瀬さんの視点、、、"奇蹟"という事象を示せば良いとの事、確かにそうです、そして生長の家をはじめとし旧新約聖書にその事象が示されている事例は枚挙にいとまがありません。
しかし私はあの問題を真理を含んでいるとは言え認める必要は無いと思います、何故なら、ある人が思ったからとて全ての人が思うわけではありません、同じ現象を見ても"奇蹟"でも何でもなくて"当たり前"と思う人、何とも思わない人等様々で自分が思ったからとて全ての人が同じように思う訳ではありません、あの言葉が認められれば世の中はメチャメチャになってしまいます、ある人が"神仏"なら別ですが、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月28日 23:25

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