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2007年8月22日

「偶然はない」ということ (4)

 本シリーズで前回、私が発した質問に対して答えてくださった読者の多くは、鳥の糞が作った“人型”は、普通の意味での「奇蹟」ではないとのお考えのようである。その反面、「すべての現象はみな奇蹟である」という正反対の意味にも取れる言葉も出ているところを見ると、私の質問の意図が正確に伝わっていないかもしれない。「奇蹟」という言葉の意味は、「実際に起こるとは考えられないほど不思議な出来事」(三省堂『新明解国語辞典』)、「常識では考えられない神秘的な出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴と見なされるもの」(『広辞苑』)である。この2つの意味から考えると、奇蹟であるか否かを決める要素の1つに「起る確率がきわめて低い」ことが挙げられると、私は思う。だから、読者の中から「どんな現象でも遭遇した人が奇蹟と思えば奇蹟だ」などという、言葉本来の意味を考慮しないご意見が出るなど、予想しなかった。(それこそ奇蹟である!)

 私はやはり、日本語の正確な意味を尊重したいので、「どんな現象も奇蹟」という詩的な定義はここでは採用せず、辞書の意味に則して議論を進めていくことにする。これは、「どんな現象も奇蹟」という表現に全く真理が含まれないからではなく、現時点での議論の方向に制約をもたせたいからである。この詩的表現には、別の側面から見れば部分的に真理が含まれていることを、私は否定しない。
 
 さて、上記の辞書の定義によると、鳥の糞の潰れた跡が“人型”になることが「実際に起こるとは考えられないほど不思議」であるかどうか、あるいはそれが「常識では考えられない神秘的な出来事」であるかどうか、がここでは問題になるだろう。「神秘的」の意味が、「既知の自然法則を超越している」という意味であるならば、糞が“人型”になるのは神秘的ではない。地球上で糞のような粘体が高所から落ちれば、ニュートン力学の法則に基づいてアスファルトの道路上で四方八方に飛び散るに違いない。そういう意味では、糞が飛び散ることは神秘的ではなく、奇蹟ではない。しかし、それが“人型”になるのは、どうだろうか? それは「実際に起こるとは考えられないほど不思議」なことだろうか?
 
 かつて本欄でも何回か(例えば、2005年6月11日)扱ったことのある“火星の人面岩”の話を思い出してほしい。アメリカの火星探査船が撮影した火星表面の写真の中に、人の顔の形をした大きな岩が写っていたことから、「いったい誰が何の目的で、そんな岩を造ったか?」で大きな話題になったのだ。火星にも大気があるから嵐も吹き、地殻運動もあるから、いろいろな形の岩や山が形成されるのは何も不思議でないし、自然科学の法則を超えてはいない。しかし、よりによって“人の顔”の形をした岩があったとしたら、そのような岩が自然現象の中で“偶然に”形成される確率はきわめて低い--と多くの人が考えたのだ。そして、そんな“奇蹟的”な現象を生ずる背後には、既知の自然法則を超越したような何か--例えば、未知の知性をもった存在、あるいは火星人!--が力を及ぼしているに違いない……。が、結局、この“人面岩”は、撮影の際の光の具合で“偶然に”人の顔のように写真に写っただけで、その後に行われた、より精密な写真撮影では、何の変哲もない、普通に隆起した岩であることが証明されたのである。
 
 読者は、“人型”の糞の跡と“人面岩”との共通性に気づかれただろうか? 両者とも、①視覚にもとづく判断であり、②人間の肉体の形態に関係しており、かつ③問題の現象Whitemen が起こる確率が低いとされる3点が共通しており、ここから“奇蹟”とか“神秘”が想起されるようだ。①と②については、すでに本欄に書いたので省略する。③についてだけ述べると、この「偶然に起る確率はきわめて低い」という判断そのものが、正しくないと私は考える。もちろん私は一時、実際にそう考えて、あの“人型の糞跡”を写真に撮ったのである。が、よくよく考えてみると、前回(19日)の“糞跡”が生じる確率と、ここ(=写真)に掲げる6つの異なる“糞跡”(すべて同じ時に撮ったもの)ができる確率とは、統計的に有意な差はないと思うのである。

 この最後の点が分かりにくいと思うので、別の角度から質問をしてみたい。ボール紙を10円玉大に切り抜いたものを、5つ用意する。これらの紙製コインの表裏に、それぞれ「1」「2」「3」「4」「5」と書き込んで、「1円玉」「2円玉」「3円玉」「4円玉」「5円玉」を作る。これらの紙コインを菓子箱の中に入れ、蓋をしてよく振り、中の紙コインを充分に混ぜる。次に目をつぶるか、目隠しをして、菓子箱の中の紙コインを1枚ずつ抜き出し、自分の前に左から右へ並べる。並べ終わるまで見てはいけない。5つをすべて横に並べたあとで、コインの数字を見る。こうして並んだコインが「①②③④⑤」の順序となる確率と、「⑤④③②①」になる確率は、どちらが高いだろうか? 次に、その確率と「②④①③⑤」「③②④⑤①」「⑤③①④②」「②④⑤③①」などになる確率は、どちらがどう違うだろうか?

 我々は、上の実験で「③②④⑤①」が出ても別に驚かないが、「①②③④⑤」が出ると、何か神秘的な体験をしたと感じないだろうか? もしそうなら、それはなぜだろうか?
 
 谷口 雅宣

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コメント

合掌ありがとうございます。
糞跡が人型に「なる」確率と「ならない」確率でいいますと、前者の「なる」確率の方が極めて低いと言えます。

5つの数字が「①②③④⑤」と順序良く「並ぶ」確率と
順序良く「並ばない」確率においても前者の確率の方が極めて低いと思います。

それらの数々の極めて低い確率の事象が「当たり前に」出現していることに我々は神を見出すのではないでしょうか。

投稿: masaomi | 2007年8月23日 10:38

鳥の糞の人型について1、実際に起こるとは考えられないほど不思議であるかどうか?私は不思議だとは思いません。2、常識では考えられない神秘的なものであるかどうか?私は神秘的とは思いません。
1,2,3,4,5が出ると何か神秘的な体験をしたと感じないだろうか?もしそうならそれは何故だろう?私は神秘的な体験をしたとは思いません、数学者、物理学者、又は実験者ではありませんから回数は分かりませんが同じ事を繰り返すと(例えば一こうと言う期間)確立は皆同じ様うな気がします、

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月23日 11:39

>「①②③④⑤」が出ると、何か神秘的な体験をしたと感じないだろうか? もしそうなら、それはなぜだろうか?

私もこのような並び方が出たら神秘的な体験をしたと感じます。しかも2度3度と連続して発生するとなおさらそう感じます。
しかし、もし100回も連続して同じ配列が出てくると神秘的な感じが薄れてくるかもしれません。
何か仕掛けが無いかを疑います。

また、数字をまったく知らない人が同じことをしたときに、「①②③④⑤」には神秘性は感じないと思います。
そこに意味を見出せません。

やはり「経験」や「記憶」といった主観的な情報が、統計的な「確率」を上回って奇蹟と感じる時の判断基準となっていると言えるでしょう。

辞書には「実際に起こるとは"考えられない"」「"考えられない"不思議な出来事」という言葉が使われていますが、「確率」という言葉は使われておらず、「考える」人間が介在して初めて「奇蹟」や「神秘」が存在するという事を示しています。
雅宣先生が「偶然はない」とおっしゃっているのと同じように「奇蹟もない」といっても良いのかもしれません。

もちろんあくまで「客観的な"奇蹟"は無い」という意味であり、主観的に「これは奇蹟だ!」と考えるのは自由であり、私は色々な物事を関連付け、「吉兆だ!」とか「僥倖だ!」などと考えることが大好きです。

投稿: 古谷伸 | 2007年8月24日 09:50

この現象世界に限定して「奇蹟」を考える場合、奇蹟は主観的(
奇蹟だ!と考える人)なものは別として無い、全て自然の法則に依るものだと思います、只、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネに記述されている様なイエスによる「水をぶどう酒に変える」「ライ病を治す」「眼の見えない人を見える様にする」「死人を蘇えさせる」「海の上を歩く」「嵐を止める」「てんかんを治す」「5000人に僅かなパンと魚を与え満腹にさせる」「陸から魚のいる所を教え漁師に網で獲らせる」等これらが事実なら既知の自然法則を超越した事として「奇蹟」だと考えます。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月24日 10:54

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