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2007年8月19日

「偶然はない」ということ (3)

 私は昨年夏の本欄(7月22日24日)で、「偶然はない」ということについて2回にわたって書いたことがある。その時の主要な論点の1つは、人間の意識の介入なしに「偶然」という認識は成立しないということだった。別の言葉で言えば、偶然の事実があったとしても、人間が「これは偶然だ」と認めない限り、その人にとって「偶然はない」のである。その逆に、ある人が「これは何という偶然だ!」と認識した時点では、その人が意識したことで「これ」が「偶然」と感じられたのだから、それは言葉の本来の意味での「偶然」ではなく、むしろ「必然」である。この2つの意味から、「偶然はない」と言うことができるのである。

 もっと分かりやすく言おう。私が(あるいは貴方が)ある日、町を歩いている時に、無意識にイヌの糞を踏んでしまったとする。この事実だけでは「偶然」は成立しない。これに加えて、その事実を私が(あるいは貴方が)意識することによって、初めて「私はイヌのウンチを偶然踏んだ」と認識されるのである。もし私(あるいは貴方)が、自分が糞を踏んだことをずっと知らないでいたら、「偶然踏んだ」という認識もずっと生まれないことになる。ということは、「偶然」は認識されず、認識されないものは、心でつくる現象世界にあっては「無い」に等しいのである。

 やはり、難しい表現になってしまっただろうか? これが分りにくい人は、私(あるいは貴方)が踏んだものを「イヌの糞」ではなく、もっと小さくて、問題のないものに置き換えて考えてみるといい。例えば、「イヌの毛」とか「千切れた枯葉の端」とか「煙草の灰の一片」とか「大腸菌」などだ。こういうものは、人間の目で簡単に「見える」ものではないから普通、我々の認識の中に入らない。しかし、現実には確かに存在している。そして、我々が町を歩いているときには、きっとそういうものを数限りなく踏みつけているに違いないのである。では、我々はどうしてそれを踏んだときに「ああ、今イヌの毛を偶然踏んでしまった」と思わないのだろうか? 「ああ、また大腸菌の上に偶然足を置いてしまった」と、ショックを受けないのだろうか? その答えは結局、我々にとって関心がないものは認識の中に入らないから、存在しないも同然なのだ。

 これに比べてイヌの糞は、我々にとって大いに関心がある。ならぜなら、そんなものを踏んだら足が臭くて困るからだ。自分が困るだけでなく、商談やデートの相手にも迷惑をかけるし、帰宅すれば家人にも嫌がられる。こうして、我々が日常生活で経験する「偶然」は客観的事実などではなく、“心の産物”であることがわかるだろう。ここまでは、前回までの復習である。次に、応用問題を掲げよう。
 
Whiteman  つい2~3日前のことだが、私が職場から帰宅する直前、自宅の門の前に来たところで、アスファルトの道路の上に、白いペンキを振り撒いたような模様がいくつもあるのに気がついた。よく見ると、その模様はペンキではなく、どうも鳥の糞が落ちてできたもののようだ。その模様の1つ(=写真)を見て、私は「へぇーっ」と感動してしまった。なぜって、それは見事に「人」の形をしていたからだ。鳥が糞を落とすことは感動に値しないかもしれない。しかし、その糞が道路に落ちて潰れた模様が「人」の形になる確率は、いったいどれほどのものか、と私は考えた。「これは何という偶然だ!」--私は奇蹟的な出来事を目撃したと感じたのだ。もしかしたら、これは神様が鳥を使って私に何かを語りかけているのではないか? そう思って、私は家からデジカメを持ってきて、その模様を写真に収めたのだった。
 
 ここで、読者に質問しよう。私はこの場合、奇蹟に出会ったのだろうか、それとも自分の心で勝手に“奇蹟”を作ったのだろうか?
 
 谷口 雅宣

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コメント

副総裁先生

ご無沙汰しております。
《自分の心で勝手に“奇蹟”を作ったのだろうか?》
きっとそうだと思います。
神様がそれを副総裁先生に見せて
「偶然はない」ということを更に読者に伝えたかったのだと思います。

私が作詞した「盛春歌」ですが今度NHKの高視聴率番組「歌謡コンサート」に出ることになりましたが、これも偶然が重なってこのような結果になったと言う人がおりますが、歌手の南部さんが努力に努力を重ねた結果「奇跡」と思われることが重なったのです。

私は必然だと確信します。

投稿: 佐藤克男 | 2007年8月20日 14:41

私は両方だろうと思います、同じ物を見ても認識しない、出来ない人にとっては共に無いのと一緒です、しかし、再認識させられて考える場合には様々な思いが(肯定、否定、不明、関心無し等)あるのではないでしょうか!人気テレビ「オーラの泉」では霊能者、司会者共に全て必然であると言っている様です、そうかも知れませんが私は全て必然だったらあまり面白くないなあ、、、と思っているのです、と申しますのも全てが必然ならば自爆テロも殺人も泥棒も強姦も放火もその他諸々の悪しき事も必然になりはしないか?と思えるからです、ですから今の所、畢竟神のみぞ知る!と言う所です。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月21日 12:10

ある現象を目撃し感動した結果を、奇跡と思うのなら、思い込み次第では、すべての現象は、皆、奇跡と言えるのではないでしょうか。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年8月21日 13:01

偶然、必然を離れて「奇蹟」を考えるなら早瀬さんが仰る通り全ての物質的現象は人間から見れば考える考えない、気付く気付かないは別にして奇蹟だと思います、神から見れば奇蹟でも何でもない当たり前の事かも知れませんが、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月21日 16:23

もちろん、自分の心で奇蹟をつくったのですよ。

鳥のフンで奇蹟を問うのも「スゴイ」と思ったですけど(笑)。

世界は、「神の創造したまいし、完全なる世界の投影」でありましょう。

緑の輝き、星のまたたき。

稲穂が揺れます。

ああ、オレになにを語りかけているのかな…。

それは、「神の子」の自由なのでしょうし。
「認識の形式」という、「子の宇宙」としての「創造という、迷い。迷いとしての創造」を通しての現象においては。

ちがう…のでしょうか。

投稿: roku | 2007年8月21日 21:25

rokuさん、、、オレになにを語りかけているのかな・・・?
私はその背後に神の姿、力が働いている事を見てくれ!気が付き、認識してくれ!と語りかけているのではないか?思いますが、、、、。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月22日 10:45

まあ。

善い世界が来るのでしょう。
良い世界以外にないのですから。
実相においては。

だから、いつかは。
現象の「遊び場」においても。
「ひゃくせんまんおくあそうぎこう」には、ですね。
いつかは。

まあ、膿滴滴じ。
でやる。

しかないか。

しかたないか。

ところで、誰も語りかけたりはしませんよ。

語っているのは、「わたしが」という亡霊ばかり。

投稿: roku | 2007年8月22日 22:35

rokuさん、、、気を悪くしないで下さい、正しいか間違いかは分かりませんが私の現時点での考え意見ですから、、、私は現象世界を「遊び場」とは思っていなくて、「しかないか!とかしかたないか!」は投げやりの様な気がします、又「誰も語りかけたりしませんよ!」も?です、只私も多くの人と同じように「天眼通、天耳通、」はありませんから大自然の中から人間の言葉として何も聞こえませんし見えません、しかし、神想観、瞑想、座禅その他諸々の修行を命を掛けて生涯やり続けた数少ない人には非物質や天からの語りかけが有っても不思議はないと思っているのです(信じる、信じないはその人その人の思いですから、正しい正しくない、良い、悪いの問題ではない)、又「語っているのは(わたしが)という亡霊ばかり」も正に霊も亡い、わたしも無い「我」ではないかでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月23日 11:14

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