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2007年8月13日

イスラームと生長の家 (2)

M_greattehft  イスラームの教えの中に、もし私たち生長の家の信仰者もよく知っているようなものがあるならば、それを次に見てみよう。アブ・エルファドル博士は、その著書『The Great Theft:Wrestling Islam From The Extremeists』(大いなる盗み--過激派からイスラームを取りもどす戦い)の中で、コーランの中には私たちが驚くような章句があることを教えてくれている。それは29章46節にある次の言葉である。注意して読んでほしい:
 
「[ユダヤ教徒やキリスト教徒に]こう言っておくがよい、“わしらは、わしらに下されたものも、お前がたに下されたものも信仰する。わしらの神もお前がたの神もただ1つ。わしらはあのお方にすべてを捧げまつる”と。」(井筒俊彦訳、以下同じ)
 
 読者は、驚いただろうか? もしそうなら、なぜ驚くのだろう。それは、ユダヤ教、キリスト教、イスラームというアブラハムを起源とする3宗教が一体であることを、コーラン自身がここで明確に述べているからだ。このことは、今回の教修会で、マレリー講師が「ユダヤ教、キリスト教との類似点と相違点」について述べた際、各宗教が認める“啓典”の状況について次のようにまとめたこととも一致する:
 
「これらの宗教は、それぞれが選んだ聖典が神の言葉の啓示であると信じている。ユダヤ教では、重要教典は“トーラー”であり、キリスト教では“聖書”である。この“聖書”とは、旧約と新約から成るものだ。イスラームにとって、重要教典はコーランである。それぞれが選んだ聖典は同一ではないが、後に生まれた2宗教(キリスト教とイスラーム)は、先に生まれた教典にも、神の説く真理が示されていると認める。しかし、それぞれの宗教は、自分たちが選んだ教典に於いて、最も完全に神の真理が示されていると考えるのだ。そして、自分たちの教典より後に生まれたものは真理とは認めず、先に生まれた教典については、自分たちが選んだ教典に示された“プリズム”を通して解釈するのである」
 
 上掲した最後の文章を注目してほしい。これは、イスラーム信仰者はユダヤ教の教典にもキリスト教の教典にも、同じ唯一神による真理が示されていると考える、ということだ。もちろんこれらの3宗教は、3つの教典のどれが一番優れているかで意見を異にする。しかし、重要な点は、これら3宗教の礼拝の対象が同一であることを、コーラン自体が明確に述べていることで、イスラームでは(ユダヤ教やキリスト教とは違い)それを信じるように教えられているということだ。

 私はさらに、アブ・エルファドル博士が上掲のコーランの章句を引用した後に、括弧書きで挿入している言葉について、注意を喚起したい。博士はそこで、コーランで使われる“啓典の民”という言葉について解説している。その言葉がユダヤ教、キリスト教、イスラームの信者を指すことは、私たちが教修会で学んだとおりである。しかし博士は、その挿入句の中で「イスラーム法学者たちは“啓典の民”としての地位を、ゾロアスター教徒、ヒンドゥー教徒、シーク教徒にも与えており、さらに一部の法学者らは、儒教の信者までその中に含める」と言っている。儒教の信者まで“啓典の民”に加えて上記のコーランの章句を解釈すれば、それは生長の家の「万教帰一」の考え方と実質的に違わないことになるだろう。読者はどう思うだろうか?

M_tolerance  もしコーランの中で、神がイスラーム信者に対して、すべての“啓典の民”に向って「わしらは、わしらに下されたものも、お前がたに下されたものも信仰する。わしらの神もお前がたの神もただ1つ。わしらはあのお方にすべてを捧げまつる」と言うように命じているとしたら、それは非イスラーム信者をイスラームに改宗させるためだろうか。私はそう思わない。コーランには、イスラームへの強制的改宗は神の意思でないと、何回も(2章256節、10章99節、18章29節などで)述べられているからだ。さらに言えば、アブ・エルファドル博士は『The Place of Tolerance in Islam』(イスラームにおける寛容性の位置)という著書の中で、コーランには「注目すべき一団の章句」があることを指摘し、そこでは「宗教的な信念と法の体系はいくつも存在し得る」と認めているという。それは例えば、次の章句である:
 
「我らは汝らのそれぞれに(ユダヤ教徒、キリスト教徒、回教徒、それぞれ別々に)行くべき路と踏むべき大道(法規や道徳的行動の規準)を定めておいたのだから。勿論、アッラーさえその気になり給えば、汝ら(ユダヤ教徒、キリスト教徒、および回教徒の三者)をただ1つの統一体にすることもおできになったはず。だが、汝らに(別々の啓示を)授けてそれで試みて見ようとの御心なのじゃ。されば汝ら、互いに争って善行に励まねばならぬぞ。結局はみなアッラーのお傍に還り行く身。その時(アッラー)は汝らが今こうして言い争いしている問題について一々教えて下さるだろう」(5章52-53節)

 神はここでイスラーム内部のいろいろな教派に向って語りかけているのではなく、“啓典の民”全体に呼びかけているのである。だから、このコーランの章句は事実上、神がユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラーム信者にそれぞれ異なった聖典を与えたのは、それぞれの信者がそれぞれの仕方で徳性を追求するためだと述べていることになる。だから、イスラームの教えは、3つの一神教が一体であることを強調していると言え、さらに解釈次第では、この一体性の中には、世界の他の主要な宗教すべてが含まれていると考えることもできるのである。

谷口 雅宣

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コメント

啓典の民としてはユダヤ、キリスト、イスラーム教徒であると殆どの人が解釈されると思います、只此処で言われる神は全知全能、全ての全てなる創造神であると思いますので全人類共通の唯一神である、とするならば当然生長の家の万教帰一の考え方と全く違わないと確信致します、万教帰一を掲げた教団は生長の家のみである事を考えました時、如何に広く深い教えであるかの証明でもありますし、広く世界中に知れ渡る必要を感じます。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月15日 10:39

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