イスラームにおける多様と寛容
これまで本欄では、イスラームが何か狂信的で奇異な信仰ではなく、キリスト教や仏教、さらには西洋哲学とも共通する面をもった尊敬すべき信仰体系であり、宗教運動であることを様々な角度から述べてきた。まず、「スーフィズム」と呼ばれるイスラーム神秘主義を概観して、イスラームには修行や直観を重んじて神と人間との合一意識を目指す伝統が存在することを述べた。(2005年8月24日、25日、30日、9月6日、8日、17日)さらに、2006年3月27日には、イスラーム法解釈に関連して「イスラームにヴァチカンはない」と題した文章の中で、この宗教にはキリスト教的な中心的権威が存在しないことが、現代の過激な原理主義的解釈を生む一因になっていると書いた。
また、昨年8月には、イギリスで旅客機の爆破テロが未然に摘発された事件に関連して、現代のイスラーム社会に内在する「法解釈の混乱」という構造的問題について、UCLAのイスラーム法学者、カーレド・アブ・エルファドル教授(Khaled Abou El Fadl)の分析を紹介しながら、6回にわたって「イスラームはどうなっている?」(8月11日、12日、13日、15日、16日、17日)と題し、過激派の思想基盤となっているワッハーブ主義の考え方を説明し、このテロ未遂事件の“動機”を判読しようと試みた。もちろん、これによってそれが解明できたとは思っていないが、読者の理解の一助にはなれたと望みたい。
ワッハーブの思想を端的に表現すれば、それは西洋の文化・文物のみならず、シーア派的神秘主義やスーフィズムも極力排除して、発祥当時のアラビア的イスラームを復権することが神への唯一の道だと考えるのである。そして、この“純粋性”を護るためには、コーランなどの聖典の原理主義的(文字通りの)解釈を主張し、イスラームの長い歴史の中で生まれた豊かな解釈の伝統を拒否するとともに、聖典から自分たちに都合のいい部分だけを選択的に取り上げて解釈する。その結果、アイマン・ザワヒリなどは、欧米的民主主義を「神の権威に縛られることなく、神の専権である立法権を人民に付与し、人民を神格化している」から、「偶像崇拝の新しい宗教だ」と見る。イスラームの文脈で何かを「偶像崇拝」と呼ぶことは、それへの物理的攻撃が正当化されるのである。
では、原理主義的イスラームの曲解は理解したとして、我々は伝統的イスラームの何から学ぶべきだろうか? それについて本欄では、スーフィズムに続いて「イスラームの理性主義」(2006年9月25日)に焦点を当てた。これは、直接的には新ローマ法王、ベネディクト16世が「イスラームは理性を尊重しない」と解釈される発言をしたことで、イスラーム世界から猛反発を受けたことがきっかけだった。本欄はそのとき、ファーラービーとアヴィセンナという西洋のスコラ哲学やキリスト教に影響を与えたイスラーム思想家に触れ、今年6月には、ギリシャ哲学の影響を受けたムータジラ派(6月19日、20日)や、アル・ガザーリーの思想(同23日、25日)を紹介しながら、そこに生長の家の教義に近い考え方や、示唆に富む思想があることを指摘してきた。
しかし、それらはイスラームの大本の聖典、コーランの考え方ではなく、後世の指導者が付加した一種の“夾雑物”ではないか、と読者は思うかもしれない。これについては、前述したエルファドル教授は、『The Place of Tolerance in Islam』(イスラームにおける寛容のありか)という本の中で、イスラームの寛容性はコーランの章句の中に直接見出されると指摘している。例えば、イスラームでは、国や文化の違いを超えて共通した宗教的儀礼や義務が課されると考えがちだが、コーランの49章13節には、神が人類を多様な国や民族として創造されたことの意義が、次のように説かれている:
「これ、すべての人間どもよ、我らはお前たちを男と女に分けて創り、お前たちを多くの種族に分ち、部族に分けた。これはみなお前たちをお互い同士よく識り合うようにしてやりたいと思えばこそ。まこと、アッラーの御目から見て、お前らの中で一番貴いのは一番敬虔な人間。まことに、アッラーは全てを知り、あらゆることに通暁し給う」(井筒俊彦訳)
また、11章120節には、「もしその気にさえおなりになれば、主は全人類をただ1つの民族にしてしまうこともおできになったのだ」とある。エルファドル氏は、これらの章句は、イスラームの伝統的な法解釈では注目されてこなかったものの、人類の多様性を認めていることは明らかであり、異なった社会間の紛争を平和裏に解決することで「お互い同士よく識り合う」ことを勧めていると解釈できるとしている。
井筒氏も上の引用文の注釈で、これは「自分の部族や血筋をやたらに誇示し合っていた異教時代の風習に反対する」という意味であり、アッラーは「血筋の純正な人」ではなく、「敬虔な人間」を貴ぶという意味だと書いている(下巻、p.138)。つまり、イスラームの神は部族主義とか民族主義を推めず、人間を平等に扱う中で敬虔さを重んじるという立場である。
谷口 雅宣
【参考文献】
○井筒俊彦訳『コーラン』上・中・下巻(1964年、岩波文庫)
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント