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2007年7月29日

迷いはどこから来る? (2)

 1週間以上、本欄の執筆が途絶えていたので、不審に思った読者がいるかもしれない。8月の初旬にニューヨークで行われる「世界平和のための生長の家教修会」の準備に忙殺されていたためである。この教修会については、折にふれて本欄でも書きたいと思うが、今日は「迷いはどこから来る」かについて、読者がいろいろ書いてくださったことに応えようと思い、キーボードを叩いている。
 
 去る26日に、私は本題についての読者のコメントに対して次のように書いた:
 
①北朝鮮の食堂のメニュー
  ご飯、小魚、味噌汁、香物

②日本の食堂のメニュー
 [和食]麺類、丼物、焼魚定食、鍋物、寿司、懐石料理他……。
 [洋食]アメリカ、イタリヤ、地中海、ロシア、フランス他……。
 [中華]上海、広東、四川、台湾他……。
 [その他]韓国、インド、中東、アフリカ、東南アジア他……。

 ①は②に比べて「迷い」が少ない。したがって、神の意思に近い。
 → [正・誤]
 ②は①に比べて自由が大きい。したがって、神の意思に近い。
 → [正・誤]
 ①は②に比べて「欲望」を引き出さない。したがって、神の意思に近い → [正・誤]
 ②は①に比べて「欲望」を多く引き出す。したがって、神の意思に遠い → [正・誤]

【問い】人間の欲望をより多く実現する環境の方が、そうでない環境よりも神の意思に近いのか、それとも遠いのか?

 この問いに対して、3人の方が「神の意思に近い」と答えられた。しかし、中には「何かオカシイ……」と感じられた人もいたようだ。私が期待していたのは、実はこの「何かオカシイ」という反応だった。私の上記の問いは、正しく記述されていない言わば“ひっかけ問題”である。どこが正しくないかというと、「日本の食堂」で何が食べられるかということと「神の意思」との間に、因果関係があるかのように書いているからである。日本のレストランの店長は、はたして神の意思に従ってメニューを考えるのだろうか、それとも自分の意思にしたがってだろうか? もちろん後者である。では、その店長の心の背後に神がいるのだろうか、それとも何か別の動機があるのだろうか? 多分、ほとんどの場合は後者である。

 だいたい神は人間の嗜好や食欲を満足させるために、この現象界の事物をいろいろ操作するだろうか? 否、それをするのは人間である。世界のすべての料理は、すでに世界に存在する。そして、それらはすべて人間の作品である。それらを、東アジアの端に位置する1国の中の誰かの店に「集める」必要を感じるのは、神だろうか人間だろうか? もちろん人間である。では、一体何のために? 「お客さまに世界各地の味と食感を楽しんでもらうために」などと、その店の店長は広告に書くだろう。それはそれでいい。しかし、店を訪れる客は、それによって本当に「自由」を得るのだろうか、それとも「欲望の高揚」を得るのだろうか? 「欲望の高揚」を「自由」と呼んでいいのだろうか?
 
 こういう点について、読者からコメントをいただけたら幸甚である。
 
 谷口 雅宣

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2007年7月21日

迷いはどこから来る?

 去る7月15日に埼玉県で行われた生長の家講習会では、大型台風4号の接近という悪条件にもかかわらず、7千人を上回る受講者の方々が“新副都心”のさいたまスーパーアリーナに参集してくださった。当日の講話を担当する私と妻は、万一の台風直撃に備えて前日に埼玉入りをしたが、幸いにも台風は関東上陸直前にコースを東に折れてくれた。そんなこともあって、当日の昼間は多少風雨が強かったものの、講習会が終る午後3時ごろには、雲間から青空が見える“台風一過”となった。

 この日は私の講話に対する質問も多く出て、その内容も高度なものが多かったことは、受講者の真剣さを表していて嬉しかった。それらの質問のうち、神による世界の創造と人間の迷いとの関係を問うものに対し、私が答えている映像を以下に掲げることにする。この答で充分とはとても言えないが、昨年10月に書いた「表現者の悩み」「表現者の悩み(2)」の内容を補って視聴していただくと、さらに理解が深まると思う。
 
 谷口 雅宣

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2007年7月19日

イスラームにおける多様と寛容 (4)

 本欄ではこれまで3回にわたり、イスラームの中にすでに存在する多様性と寛容性について概観してきた。その一方で、オサマ・ビンラデンやその思想的基盤となっているスンニ派ワッハーブ主義の考え方、イスラーム原理主義の“祖”ともいえるサイイド・クトゥブ(1906-1966, Sayyid Qutb)の「神の主権」論などを紹介しながら、“純血主義”的で“非寛容”な思想も、同じイスラームの教典解釈から導き出されることを示した。こうなってくると、読者の中には「いったい何がイスラームなのか?」「イスラームの“本当の教え”は何か?」「イスラームの教義は無秩序なのか?」等の疑問が湧き上がってくるかもしれない。

 しかし、私がここで指摘したいのは、「イスラームは特殊な信仰だ」ということではない。何百年、何千年の歴史をもつ世界宗教はすべて、イスラームのような多様な考えを現代にいたるまでに生み出してきている。日本の過去を振り返ってみれば、神道や仏教が社会状況や人々の意識の変化にともなって数多くの異なった宗派を生み出してきている事実が思い出されるし、キリスト教もカトリックからプロテスタントが生まれ、さらにこの2大宗派から数多くの分派が生まれていることは周知の通りである。前回紹介した『テロと救済の原理主義』の著者、小川忠氏は、同じ原理主義的なものの考え方は、イスラームだけでなく、キリスト教、仏教、ヒンドゥー教、そして日本の教派神道の中にも見出されることを実例をもって示している。

 では、宗教の教えには「何でもあり」か? と読者は疑問を呈するかもしれない。この疑問は、しかし「宗教は変遷しない」という前提に立った疑問ではないか。言い換えれば、「神」や「仏」という不変のもの、または「絶対の真理」を説くのが宗教だから、その教義が様々に変遷するはずがないと考えるのではないだろうか。私はむしろ「宗教は変遷する」ところに重要な意味があると敢えて言おう。それは、宗教が第一に人間のためにあり、人間の意識は時代や場所によって変遷するからである。それは宗教が「神」や「仏」や「唯一絶対の真理」を説いていないという意味ではなく、それら無形の“中心真理”を表現するには無限の方法や形があるからである。そのことを、私はかつて次のように書いた:
 
「では、人間の救いが唯一絶対の原理にもとづくにもかかわらず、人類の歴史上になぜいろいろな宗教が現われてきたのだろうか? それは、人類がいろいろな言語をもち、いろいろな自然環境に棲み、いろいろな文化や社会制度をもち、いろいろな時代を生きてきたからである。つまり、数多くの別々の“神”や“仏”があるのではなく、それ(唯一の救いの原理)を求める人間の側に様々な、多様な要請が生じたときに、“唯一の原理”がそれぞれの要請に応じて多様な形で表現されてきたのである。」(『信仰による平和の道』、p.20)

 私は生長の家講習会などで、この考え方を分りやすく説明するために「宗教目玉焼き論」なるものを提示してきた。目玉焼きの卵には“黄身”と“白身”があるように、宗教の教えにも唯一絶対の真理(黄身=中心部分)と、それを人・時・処に応じて説明するために工夫された教え(白身=周縁部分)があると考えるのである。そして、前者は各宗教に共通であり、時代や場所によって変化するものではないが、後者は時代や文化や人々の意識の変化にともなって変遷すると捉えるのである。そうすることで、すべての正しい宗教が、それぞれの成立した歴史的、文化的背景の違いを認めながら、グローバル社会の中で共存していくことができると考える。

 幸いにも、前回紹介した「リベラル・イスラーム」の人々の考え方の中には、このような柔軟な思考法が見出される。彼らは、「イスラームの教えは人々のニーズに応じて自由に解釈することが可能」と考え、解釈に当たっては、コーランの字義通りの解釈を絶対視するのではなく、倫理的宗教観をもって解釈することで、イスラームは普遍的な人類文明とのつながりをもつことができるとしている。また、小川氏によると、スーダンの宗教家、マフムード・ムハンマド・ターハーは、“黄身”と“白身”という言葉を使わずに、コーランやスンナには「第一のメッセージ」と「第二のメッセージ」が混在していると捉えた。前者は「時間、空間、対象を限定した指示」で、宗祖モハンマドが生きた「7世紀のアラビア半島という特殊な時間、空間に生きた人々に対して向けられた指示」である。これに対して後者は「永遠不変の神の啓示」だという。しかし、彼はコーランの大部分がイスラームの“第一のメッセージ”であると主張したことで、異端者としてスーダン政府によって処刑されてしまった。(『テロと救済の原理主義』、p. 71)
 
 ムハンマド・ターハーのこの考え方は、私の“目玉焼き論”とほとんど同じである。また、リベラル・イスラームの考え方も、イスラームの一部の教えの時代性を認め原理主義を否定する点で、私の宗教観と似ている。また、最大のイスラーム人口を擁するインドネシアにおいて、政教分離政策が採用されて信教の自由が認められ、民主主義が機能している現実を考えるとき、イスラームの多様性と寛容性が世界平和の実現に貢献する時代が来ることが期待できるのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○小川忠著『テロと救済の原理主義』(2007年、新潮社刊)
○谷口雅宣著『信仰による平和の道--新世紀の宗教が目指すもの』(2003年、生長の家刊)

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2007年7月17日

イスラームにおける多様と寛容 (3)

 インドネシアは、その人口から言って“世界最大”のイスラーム信仰者(約2億人)を抱える国だ。この国には「リベラル・イスラーム」を自称する人々がいる、と国際交流基金(IMF)の小川忠氏は『テロと救済の原理主義』の中で指摘している。彼らは、同国において西洋近代が重視するリベラルな市民社会的価値の実現を目指す若手の知識人たちで、イスラームの教えにもそういう近代的価値観が内包されていると考え、「リベラル・イスラーム・ネットワーク」という組織をもって活動している。代表者はウリル・アブシャル・アブダラ氏(Ulil Abshar-Abdalla)で、その考え方はこれまでの常識を覆す内容であったため、保守的なイスラーム主義者からは敵視されることになった。

 リベラル・イスラームは、イスラームの教えは「人々のニーズに応じて自由に解釈することが可能」と考える。この考え方は、同じイスラームのスンニ派の立場からは“革命的”とも言える。というのは、スンニ派とは10世紀頃までに成立した「四法学派」を正統とする立場であり、これ以降は、イスラーム法学者が教典に解釈を加えることは制限されるようになり、「解釈の門は閉ざされた」とさえ言われるようになっていたからだ。ところがリベラル・イスラームを自称する人々は、コーランの(再)解釈が現代に於いて許されないことはイスラームの発展を阻害し、それ自体の存在を危うくする行為であるとし、時代に合わせた(再)解釈を主張したのである。また、解釈に当たっては、コーランの字義通りの解釈を絶対視するのではなく、倫理的宗教観をもって解釈することで、イスラームは普遍的な人類文明とのつながりをもつことができるとした。
 
 このような柔軟な考え方をもつイスラーム信仰者を、ボストン大学の文化人類学者、ロバート・ヘフナー教授(Robert W. Hefner)は“市民派イスラーム”(civil Islam)と呼び、その象徴的存在としてヌルホリシュ・マジッド(1939-2005)に注目している。彼は、現代インドネシアの代表的論客であったが、イスラーム諸国では“常識”と考えられてきた政教一致の体制についても、「イスラーム国家の樹立は本当のイスラームの教えではない」とし、コーランにも神の命令としてそのようなことは書かれていないと主張した。そして、以下のように、政教分離の必要性を説くのである。

「現在のイスラーム指導者は、神の教えと、預言者以後に紛れ込んだ人造の教えとを混同している。イスラームの価値を奉じつつ日々の生活を暮らし、宗教を汚濁に満ちた政治の世界から切り離していくことこそが、神が求める真のイスラームの教え“Tauhid”である。“Tauhid”すなわち妥協なき神の唯一性は、永遠に神聖なるものを人間の作為から切り離していく努力なのであり、神聖なるものはあくまで理性的、科学的であり、近代の合理精神と矛盾しない」(小川忠著『原理主義とは何か』、pp.205-206)

 リベラル・イスラーム・ネットワークを結成したアブシャル・アブダラ氏は、「ナフダトゥル・ウラマー」(Nahdatul Ulama)というインドネシアでは最大で“保守派”とされるイスラーム全国組織から出ているという点は、興味深い。彼は、原理主義者によるバリ島でのテロ事件(2002年10月)後の11月28日に、上述したような内容の論説を全国紙に発表して大きな反響を呼んだが、その論説中にマジッドの名前を1人だけ挙げている。このことからも、両者の考え方が近いことがわかる。
 
 リベラル・イスラームについては、ノースカロライナ大学のチャールズ・クルツマン准教授(Charles Kurzman)が1998年に出した本の中で、その歴史的な系譜をたどり、インドネシアを含む東南アジアから北アフリカにいたるまでの地域で近代以降に登場したリベラルな思想家の考えを概観している。それによると、その思考形式には大別して3種類があるらしい:①コーランやスンナそのものがリベラルであるとするもの、②コーランやスンナが直接言及していないものについては、人間の解釈が許されているとするもの、③コーランやスンナには人間の解釈が許されているとするもの。このような思考によってリベラルな解釈が施されることで、政教分離も、信教の自由も、多神教との共存も、さらに女性解放でさえ、イスラームの教えから引き出すことができるというのである。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○小川忠著『テロと救済の原理主義』(2007年、新潮社刊)
○小川忠著『原理主義とは何か:アメリカ、中東から日本まで』(2003年、講談社刊)

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2007年7月14日

悪は幻である (2)

 前回に引き続き、7月8日の室蘭での生長の家講習会の講話の一部を掲載する。ただし、ネットに登録できる1回分のビデオの長さに制限があるため、今回の分は、実際の講話よりかなり短縮してある。省略した部分には、我々の多くがもっている「戦後の日本では、犯罪が年々増えている」という印象を、警察庁発表の統計を使って「誤り」と断定している部分がある。この際に使った統計の数値は、昨年末のものでやや古かったが、昨日(13日)の『日本経済新聞』には今年前半の犯罪統計をまとめた記事が掲載されているので、その内容を簡単に紹介しよう。

 それによると、今年の1~6月に全国の警察で認知された刑法犯の件数は、昨年同期より7.1%(7万579件)少ない92万5931件だった。上半期の犯罪としては5年連続で減少しているといい、注目に値する。また、この認知件数の内訳を見ると、凶悪犯も知能犯も窃盗犯も減っている。だから、近年における海外からの人口移入の中でも、日本社会は決して“悪化”しているとは言えないことが分かる。実際の減少率は、凶悪犯(殺人や強盗など)が6.8%、詐欺犯が13.4%、窃盗犯が7.5%、粗暴犯が3.4%、それぞれ前年同期で減っている。下半期に増える可能性がまったくないわけではないが近年、同様の減少傾向が続いていることから考えて、通年での「5年連続減少」の可能性が大きいのではないだろうか。

 谷口 雅宣

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2007年7月13日

悪は幻である (1)

 6月18日の本欄には、「“悪を認めない”でいいのか?」と題して、大分県で行われた生長の家講習会(6月10日)での質疑応答の1コマを映像で紹介した。この時の質問には、現実に悪事を目の前にした際、それを無視するのが「悪を認めない」ことだとの誤解があったようだが、私の回答によってそうでないことが理解いただけたと思う。その後、7月8日には室蘭市で生長の家講習会が行われたが、そこでも私は午後の講話の中で「悪」の問題を取り上げた。そして、

 ①悪とは光に対する闇のように、非存在の別称である。
 ②悪は実体でなく、人の心の中の拒絶感を投影したもの。
 ③今の社会には“悪いこと”に注目する心のクセがある。
 ④悪に注目すれば悪が現れるから、善に注目する日時計主義を実行しよう。

 などを話した。
 
 そのときの映像を以下、2回に分けて掲載する。
 
 谷口 雅宣

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2007年7月11日

イスラームにおける多様と寛容 (2)

 民族の多様性を認めるにとどまらず、コーランは宗教の多様性も認めている、とエルファドル氏は指摘する。イスラームでは、ユダヤ教徒とキリスト教徒を“啓典の民”として認めることはよく知られているが、その意味は「同じ神から異なった啓示の書を受けている民」ということだから、神の立場から見れば、すでに宗教の多様性が前提されているのである。イスラームはもちろん、これら3つの啓典の中では、ムハンマドの受けたものが最終であり、すべてを完結すると主張する。しかし、だからと言って、ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラームに改宗しなければ救われない、とは断言しないのだ。
 
 次の章句を注意して読んでほしい:
 
「さらに我らはお前には真理の書を下し与えて、それに先立って啓示された聖典の固めとなし、確めとなした。さればお前は、彼らの間を裁くにあたっても、必ずアッラーが啓示し給うたところに依拠して行うべきであって、決して彼らの根拠なき思惑に乗せられて真理に背くようなことがあってはならぬ。我らは汝らのそれぞれに行くべき路と踏むべき大道を定めておいたのだから」(『コーラン』5章52節)
 
 上にある「お前」とは、啓示を受けたモハンマドのことであり、「彼ら」とはユダヤ教徒とキリスト教徒を指す。「我ら」という表現は、コーランで「神自身」が自分を呼ぶときの言い方で、なぜか複数形で一貫している。これを自然に読めば、神がユダヤ教徒にはトーラー、キリスト教徒には聖書、イスラーム信徒にはコーランを与え、それは「それぞれに行くべき路と踏むべき大道を定め」るためだと言っているように解釈できる。そして、問題が起きたときの裁きは、「アッラーが啓示し給うたところに依拠せよ」と言う。注目してほしいのは、「その依拠すべきものはコーランだ」と明確には言っていないことである。したがって、“啓典の民”の判断基準は、神が与えられたそれぞれの“啓典”の中に見出されるべきとの解釈も成り立つのである。

 この解釈の可能性は、上記に続くコーランの次の言葉を読めば、さらに現実性を増す:
 
「勿論、アッラーさえその気になり給えば、汝らをただ1つの統一体にすることもおできになったはず。だが、汝らに(別の啓示を)授けてそれで試みて見ようとの御心なのじゃ。されば汝ら、互いに争って善行に励まねばならぬぞ。結局はみなアッラーのお傍に還り行く身。その時(アッラー)は汝らが今こうして言い争いしている問題について一々教えて下さるだろう」(同章53節)

 3つの一神教の間で言い争いがあったとしても、結局は神の御許へ還りいく身なのだから、そこで対立は解消する--と書いてあるのである。これはつまり、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、現世でイスラームに改宗しなくても救われるということではないか。また神は、自らその気になれば3つの宗教を統一することができるのに、それをしない目的があると書いている。これは「啓典の民の共存」を説いているのであり、「剣とコーラン」で改宗を迫るイスラームのイメージとは、相当異なると言わねばならない。
 
 次に掲げる章句も、このような信仰の多様性を認めるイスラームの寛容性をよく示している:
 
「もし啓典の民が本当に信仰し神を懼(おそ)れる人間であれば、今までの悪事は全部水に流して幸福の楽園に入れてやろうものを。もしも彼らが律法(トーラー)と福音と、そのほか神様の啓示して下さったものを立派に実践するようならば、頭上からも脚下からもいろいろと美味しいものを食べさせて戴けるだろうに」(同章70節)

「まことに、信仰ある人々、ユダヤ教を奉ずる人々、サバ人、キリスト教徒、すべてアッラーと最後の日を信じて義(ただ)しい行いをなす者、すべてこの人々は何の怖ろしい目にも遇いはせぬ、悲しい目にも遇いはせぬ」(同章73節)

 上記にある「サバ人」とは、洗礼を重んじて全身浴をするキリスト教の一派である。だから、コーランが救いの対象とするのは、基本的には同じ神を信仰する一神教徒であるが、「アッラー(神)と最後の日を信じて義しい行いをなす者」という言葉の解釈しだいでは、私は“啓典の民”以外の信仰者とイスラームとの共存の余地があると考えるのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○井筒俊彦訳『コーラン』上・中・下巻(1964年、岩波文庫)

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2007年7月10日

イスラームにおける多様と寛容

 これまで本欄では、イスラームが何か狂信的で奇異な信仰ではなく、キリスト教や仏教、さらには西洋哲学とも共通する面をもった尊敬すべき信仰体系であり、宗教運動であることを様々な角度から述べてきた。まず、「スーフィズム」と呼ばれるイスラーム神秘主義を概観して、イスラームには修行や直観を重んじて神と人間との合一意識を目指す伝統が存在することを述べた。(2005年8月24日25日30日9月6日8日17日)さらに、2006年3月27日には、イスラーム法解釈に関連して「イスラームにヴァチカンはない」と題した文章の中で、この宗教にはキリスト教的な中心的権威が存在しないことが、現代の過激な原理主義的解釈を生む一因になっていると書いた。

 また、昨年8月には、イギリスで旅客機の爆破テロが未然に摘発された事件に関連して、現代のイスラーム社会に内在する「法解釈の混乱」という構造的問題について、UCLAのイスラーム法学者、カーレド・アブ・エルファドル教授(Khaled Abou El Fadl)の分析を紹介しながら、6回にわたって「イスラームはどうなっている?」(8月11日12日13日15日16日17日)と題し、過激派の思想基盤となっているワッハーブ主義の考え方を説明し、このテロ未遂事件の“動機”を判読しようと試みた。もちろん、これによってそれが解明できたとは思っていないが、読者の理解の一助にはなれたと望みたい。

 ワッハーブの思想を端的に表現すれば、それは西洋の文化・文物のみならず、シーア派的神秘主義やスーフィズムも極力排除して、発祥当時のアラビア的イスラームを復権することが神への唯一の道だと考えるのである。そして、この“純粋性”を護るためには、コーランなどの聖典の原理主義的(文字通りの)解釈を主張し、イスラームの長い歴史の中で生まれた豊かな解釈の伝統を拒否するとともに、聖典から自分たちに都合のいい部分だけを選択的に取り上げて解釈する。その結果、アイマン・ザワヒリなどは、欧米的民主主義を「神の権威に縛られることなく、神の専権である立法権を人民に付与し、人民を神格化している」から、「偶像崇拝の新しい宗教だ」と見る。イスラームの文脈で何かを「偶像崇拝」と呼ぶことは、それへの物理的攻撃が正当化されるのである。

 では、原理主義的イスラームの曲解は理解したとして、我々は伝統的イスラームの何から学ぶべきだろうか? それについて本欄では、スーフィズムに続いて「イスラームの理性主義」(2006年9月25日)に焦点を当てた。これは、直接的には新ローマ法王、ベネディクト16世が「イスラームは理性を尊重しない」と解釈される発言をしたことで、イスラーム世界から猛反発を受けたことがきっかけだった。本欄はそのとき、ファーラービーとアヴィセンナという西洋のスコラ哲学やキリスト教に影響を与えたイスラーム思想家に触れ、今年6月には、ギリシャ哲学の影響を受けたムータジラ派(6月19日20日)や、アル・ガザーリーの思想(同23日25日)を紹介しながら、そこに生長の家の教義に近い考え方や、示唆に富む思想があることを指摘してきた。
 
 しかし、それらはイスラームの大本の聖典、コーランの考え方ではなく、後世の指導者が付加した一種の“夾雑物”ではないか、と読者は思うかもしれない。これについては、前述したエルファドル教授は、『The Place of Tolerance in Islam』(イスラームにおける寛容のありか)という本の中で、イスラームの寛容性はコーランの章句の中に直接見出されると指摘している。例えば、イスラームでは、国や文化の違いを超えて共通した宗教的儀礼や義務が課されると考えがちだが、コーランの49章13節には、神が人類を多様な国や民族として創造されたことの意義が、次のように説かれている:
 
「これ、すべての人間どもよ、我らはお前たちを男と女に分けて創り、お前たちを多くの種族に分ち、部族に分けた。これはみなお前たちをお互い同士よく識り合うようにしてやりたいと思えばこそ。まこと、アッラーの御目から見て、お前らの中で一番貴いのは一番敬虔な人間。まことに、アッラーは全てを知り、あらゆることに通暁し給う」(井筒俊彦訳)
 
 また、11章120節には、「もしその気にさえおなりになれば、主は全人類をただ1つの民族にしてしまうこともおできになったのだ」とある。エルファドル氏は、これらの章句は、イスラームの伝統的な法解釈では注目されてこなかったものの、人類の多様性を認めていることは明らかであり、異なった社会間の紛争を平和裏に解決することで「お互い同士よく識り合う」ことを勧めていると解釈できるとしている。

 井筒氏も上の引用文の注釈で、これは「自分の部族や血筋をやたらに誇示し合っていた異教時代の風習に反対する」という意味であり、アッラーは「血筋の純正な人」ではなく、「敬虔な人間」を貴ぶという意味だと書いている(下巻、p.138)。つまり、イスラームの神は部族主義とか民族主義を推めず、人間を平等に扱う中で敬虔さを重んじるという立場である。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○井筒俊彦訳『コーラン』上・中・下巻(1964年、岩波文庫)

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2007年7月 9日

白鳥大橋を渡る

 昨日、室蘭市文化センターと苫小牧市民会館の2会場で行われた生長の家講習会は、好天に恵まれ、前回を上回る3千人近い受講者の方が参集してくださったことは、誠にありがたい。会場から千歳空港までの帰途、室蘭湾をまたぐ白鳥大橋を渡る機会があり、青空によく映える白く華麗な吊橋を映像に記録することができた。全長は1,380mで、サンフランシスコの金門橋(1,970m)にはおよばないものの、横浜ベイブリッジ(890m)、大黒大橋(736m)、東京のレインボーブリッジ(798m)よりも大きく、「関東以北では最大」と言われている。が、実際にその上を走ってみると、すぐに終ってしまったという印象だ。きっと、周囲の風景の雄大さと比べてしまうからだろう。
 
谷口 雅宣

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2007年7月 6日

出発と帰還

 誰でも知っている日本の昔話「桃太郎」「浦島太郎」「一寸法師」に共通しているのは何か? 桃太郎は鬼退治に出発し、見事目的を果たして帰還する。浦島太郎は亀の背中に乗って竜宮城へ潜行し、再び帰還して元の浜辺へもどる。一寸法師もやはり小さい体のまま冒険に出かけ、見事つとめを果たして帰還する。彼らは当初、一種の“変わり者”であるが、人生における困難な務めを果たして帰還することで、“英雄”となるのである。このパターンは、しかし日本だけにあるのではない。

 旧約聖書にある預言者モーセの話も、釈迦の修行も、ギリシャ神話のプロメテウスも、イエスの物語でさえ、この共通パターンを内に秘めている。アメリカの神話学者、ジョセフ・キャンベル(Joseph Campbell)は、かつてこのことを次のように描いた。
 
「英雄は日常世界から危険を冒してまでも、人為の遠くおよばぬ超自然的な領域に赴く。その赴いた領域で超人的な力に遭遇し、決定的な勝利を収める。英雄はかれにしたがう者に恩恵を授ける力をえて、この不思議な冒険から帰還する」。(『千の顔をもつ英雄』上、p.45)

 多くの物語も劇も宗教神話も、出発と帰還の間に展開する「超人的な力との葛藤」の部分で多様性を発揮するが、上記のパターンを忠実にたどっている。我々の人生でさえ、このパターンを模倣して「故郷に錦を飾る」ことが暗黙裡に求められる。また、我々が「旅をする」こと自体、このパターンをなぞるものであることが多い。だから、出発と帰還が無数に交錯する駅、空港、港は、そういう数々のドラマの集積場として、ロマンや哀愁や喜びを湛えて感じられるのだろう。
 
 先日、横浜港へ行ったとき、夜の港を往き来する船を見ながら、こんな感想をもった。それを簡単な映像に表現してみた。
 
 谷口 雅宣

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2007年7月 5日

6月の異常気象

 6月29日の本欄で、今年は「ラニーニャ現象」が発生していることに触れ、それにより「異常気象が起こる可能性があるという」などと書いたが、世界的にはすでにそれが起こっているらしい。日本では2日、6月が“空梅雨傾向”だったと気象庁が発表している(3日『日経』)。特に四国は、月間降水量が平年の39%という状態で、1946年以来2番目の少なさで、都市単位の降水量を見ても、高知が平年比23%、福岡が同15%と、2005年に次ぐ少雨。これに伴い、6月の日照時間も伸び、伊豆大島と千葉・館山では平年より57%長く、青森の深浦では同43%長かったそうだ。関東などでは、7月に入って梅雨らしい雨模様が続いているのはありがたいが、九州地方では渇水状態からいきなり豪雨という極端な変化が起こっている。

 世界に目を向けると、ラニーニャの影響は国内よりひどいようだ。『日経』は4日の夕刊でそれをまとめているが、ヨーロッパは南部と東部が猛暑に襲われる一方、北部と西部は冷夏だという。南欧各地では日中40℃を越える日が続き、アテネでは最高気温が46℃を記録、イタリアではエアコンの使用増大で大規模停電が起きた。中国では南部と内陸部が豪雨となり、広東、湖南などで洪水によって66人が死亡。その反面、東北部の吉林省などは旱魃という。昨年、歴史的少雨を記録したオーストラリアでは、南東部が豪雨に襲われ、6千人以上が避難する事態となり、露天掘りの炭鉱では水が溜まって一時、採掘できない状態だったそうだ。アメリカは、南東部や西部が歴史的な旱魃に見舞われ、山火事が多発しており、カリフォルニア州では牧草が育たないため、肉牛の飼育頭数が大幅に減る見込みという。

 この『日経』の記事によると、ラニーニャとは、太平洋上の日付変更線と赤道が交差する付近から南米のペルー沖に至る海面の温度が平年より低くなる現象をいい、これが起こると、世界的な大気の循環が影響を受けて、気温の均衡が崩れるのだという。地球温暖化との関係ははっきりしないが、温暖化により寒暖や降雨・乾燥の「変動」が激しくなることが指摘されているから、一種の“相乗効果”が起こっているのかもしれない。
 
 ところで、6月23日号のイギリスの科学誌『New Scientist』は、地球環境問題に関するアメリカ国民の意識調査の結果を報じていて、興味深い。中でも意外に感じたのは、アメリカ国民がこれまで日本が行ってきたのと似た方法で、この問題への対処を希望しているらしいことである。より具体的に言おう。現在、CO2の排出量を減らすために考えられている方法には、大別して次の3つがある:①排出基準を厳しくする、②炭素税を実施する、③排出量の上限設定と排出権取引を併用する。日本は、このうち①を実施してきていて、それなりの省エネ、省資源効果を上げてきているが、ご存じの通り、炭素の排出量は年々増加しており、京都議定書の目標達成にははるかに及ばない。そこで私は、本欄などで①に加えて②を推奨してきたが、③にもある程度の効果は認めている。この③は、ヨーロッパ諸国が積極的に導入・実施していることは、本欄で何度も触れたとおりである。
 
 同誌の調査によると、アメリカ国民は上記3つの中では①を希望している人が多いそうだ。私などは、アメリカは「自由」を重んじる歴史や国民性などから、政府の干渉が少ない③の方法を重点的に用いる可能性があると考えてきた。ところが、この意識調査の結果では、アメリカ人は市場原理の活用によって排出削減をしようとするこの方法に対して、疑問をもつ傾向が見られるという。そして逆に、①のような、電力会社やメーカーに対して明確な基準を示す方法を支持する傾向があるそうだ。また、アメリカにおいては、「発電」と「自動車の利用」が炭素の2大排出源となっているが、この2つを比べると、後者よりも前者の規制を強化することを好む傾向があるという。
 
 もっと具体的に表現すれば、①の方法は、例えば自動車燃料の場合、石油会社に対して化石燃料とバイオ燃料の混合割合を明確に示すことであり、発電事業の場合、発電1kWh当たりに必要な化石燃料とバイオ燃料の割合に、一定の基準を設けることである。②の方法はもっと単純で、電力や自動車燃料に、それらの製造過程で排出される温室効果ガスの量に応じて税金を課すことである。そして③は、メーカーや企業が排出できる温室効果ガスに上限を設けて、この上限に達しないレベルでの活動を実現した企業が、それができなかった企業に対して、上限値までの“排出権”を売る制度を実施することである。

 地球温暖化とそれに伴う気候変動の現状を見ると、人類は今後①~③のすべての政策を実施していく必要があるが、どれもが消費者が支払う電気代や燃料費の値上がりにつながる。今回の調査は、そのことを告げたうえで、「どの方法なら、いくらまでの値上がりを支持しますか?」とアメリカ全土の1491人のアメリカ人に尋ねたもの。調査の実施主体は、同誌のほか、『ワシントン・ポスト』紙、ABCニュース、スタンフォード大学である。調査の詳しい方法や内容については、ここの文書を参照してほしい。

 谷口 雅宣

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2007年7月 2日

緑のインコ (3)

 4月22日の本欄で、インドやスリランカ原産のワカケホンセイインコが家の庭に来るようになった話を書いたが、最近ではほとんど毎日、家の南西の木の枝に吊るした餌入れを目当てにやってくる。来る前には必ずといっていいほど、甲高い鳴き声を辺りに響かせるから、人間の方でも「おぉ、来たな」と分かる。大抵、朝6時半から7時ごろには来ていて、妻と私は朝食のパンをかじりながら、5メートルほど先の餌入れに留まっているワカケを横目で眺める……というパターンが多い。
 
 しかし、人間とは勝手なもので、最初の数週間は「また来てるぞ!」と感動をもって眺めていても、1カ月もたつと「また食べてる」と少し疎ましく感じ、2カ月もすると「まだ食べてるぞぉ~」と文句を言いたくなる。というのも、この鳥は大食だからだ。時には20分も30分も餌入れに留まり、食べ口に嘴を突っ込んで食べ、突っ込んで食べしている。その動作が、何とも言えずノロノロとしている。そして時々、人間の方を見る。こういうことは、別に責めるべきことではないのだが、野生の鳥がもつ敏捷さとか、人間への遠慮が一向に感じられない。鳥のくせに、どちらかというとネコのようにも見える。ローマ時代から人間とつき合って来た鳥だというから、無理もないのかもしれない。
 
 このたび、彼(?)の映像を撮影することに成功したので、読者諸賢にもその不思議なノロマさをご覧いただきたい。
 
 谷口 雅宣

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2007年7月 1日

宗教と政治

 今年もはや半年が過ぎたが、まるで7月入りしてはいけないかのように、国会はバタバタと“重要法案”なるものを成立させ、参議院選挙へ突入しようとしている。政界の混迷は今に始まったことではないが、昨今の数々の出来事は、方向性を失ったこの国が、急速に変化する国際情勢の中で“千鳥足”を踏んでいるのではないかと思わせる。生長の家は現在、どの特定の政党も支持しているわけではないが、個人レベルでも、我々が目指す「人類光明化」「国際平和」「自然と共に伸びる」生き方を理解し、その方向へ近づく政策を掲げている政治家があまり見当たらないのは残念である。特に、アメリカの対テロ政策の是正と地球温暖化抑制のための真剣な取り組みが、現政権下ではほとんど見られない。宗教政党が政権の一翼を担っている中で、このような状態にあるのだから、宗教が政治に深く関与することの問題がここにも示されていると思われる。
 
 ご存じの読者は多いと思うが、生長の家は昭和58年(1983年)以来、政治に関与することをやめて純粋な宗教運動を展開してきているが、今でも時々、かつてのような政治運動をすべきとの意見を吐露する人がいる。先日行われた秋田教区での生長の家講習会でも、それについて私の考えを質す人がいた。時宜を得た質問なので、その際の私の答えを映像とともに下に掲げることにする。

 なお、この件に関するさらに詳しい説明は、平成15年の生長の家教修会の内容を記録した『歴史から何を学ぶか』(2004年、生長の家刊)に収録されているから、興味のある読者はぜひそれを参照してほしい。特に同書の59~66ページ、そして巻末の資料1と資料2を読んでいただければ、大方の疑問は解消すると思う。
 
 谷口 雅宣

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