イスラームにおける多様と寛容 (4)
本欄ではこれまで3回にわたり、イスラームの中にすでに存在する多様性と寛容性について概観してきた。その一方で、オサマ・ビンラデンやその思想的基盤となっているスンニ派ワッハーブ主義の考え方、イスラーム原理主義の“祖”ともいえるサイイド・クトゥブ(1906-1966, Sayyid Qutb)の「神の主権」論などを紹介しながら、“純血主義”的で“非寛容”な思想も、同じイスラームの教典解釈から導き出されることを示した。こうなってくると、読者の中には「いったい何がイスラームなのか?」「イスラームの“本当の教え”は何か?」「イスラームの教義は無秩序なのか?」等の疑問が湧き上がってくるかもしれない。
しかし、私がここで指摘したいのは、「イスラームは特殊な信仰だ」ということではない。何百年、何千年の歴史をもつ世界宗教はすべて、イスラームのような多様な考えを現代にいたるまでに生み出してきている。日本の過去を振り返ってみれば、神道や仏教が社会状況や人々の意識の変化にともなって数多くの異なった宗派を生み出してきている事実が思い出されるし、キリスト教もカトリックからプロテスタントが生まれ、さらにこの2大宗派から数多くの分派が生まれていることは周知の通りである。前回紹介した『テロと救済の原理主義』の著者、小川忠氏は、同じ原理主義的なものの考え方は、イスラームだけでなく、キリスト教、仏教、ヒンドゥー教、そして日本の教派神道の中にも見出されることを実例をもって示している。
では、宗教の教えには「何でもあり」か? と読者は疑問を呈するかもしれない。この疑問は、しかし「宗教は変遷しない」という前提に立った疑問ではないか。言い換えれば、「神」や「仏」という不変のもの、または「絶対の真理」を説くのが宗教だから、その教義が様々に変遷するはずがないと考えるのではないだろうか。私はむしろ「宗教は変遷する」ところに重要な意味があると敢えて言おう。それは、宗教が第一に人間のためにあり、人間の意識は時代や場所によって変遷するからである。それは宗教が「神」や「仏」や「唯一絶対の真理」を説いていないという意味ではなく、それら無形の“中心真理”を表現するには無限の方法や形があるからである。そのことを、私はかつて次のように書いた:
「では、人間の救いが唯一絶対の原理にもとづくにもかかわらず、人類の歴史上になぜいろいろな宗教が現われてきたのだろうか? それは、人類がいろいろな言語をもち、いろいろな自然環境に棲み、いろいろな文化や社会制度をもち、いろいろな時代を生きてきたからである。つまり、数多くの別々の“神”や“仏”があるのではなく、それ(唯一の救いの原理)を求める人間の側に様々な、多様な要請が生じたときに、“唯一の原理”がそれぞれの要請に応じて多様な形で表現されてきたのである。」(『信仰による平和の道』、p.20)
私は生長の家講習会などで、この考え方を分りやすく説明するために「宗教目玉焼き論」なるものを提示してきた。目玉焼きの卵には“黄身”と“白身”があるように、宗教の教えにも唯一絶対の真理(黄身=中心部分)と、それを人・時・処に応じて説明するために工夫された教え(白身=周縁部分)があると考えるのである。そして、前者は各宗教に共通であり、時代や場所によって変化するものではないが、後者は時代や文化や人々の意識の変化にともなって変遷すると捉えるのである。そうすることで、すべての正しい宗教が、それぞれの成立した歴史的、文化的背景の違いを認めながら、グローバル社会の中で共存していくことができると考える。
幸いにも、前回紹介した「リベラル・イスラーム」の人々の考え方の中には、このような柔軟な思考法が見出される。彼らは、「イスラームの教えは人々のニーズに応じて自由に解釈することが可能」と考え、解釈に当たっては、コーランの字義通りの解釈を絶対視するのではなく、倫理的宗教観をもって解釈することで、イスラームは普遍的な人類文明とのつながりをもつことができるとしている。また、小川氏によると、スーダンの宗教家、マフムード・ムハンマド・ターハーは、“黄身”と“白身”という言葉を使わずに、コーランやスンナには「第一のメッセージ」と「第二のメッセージ」が混在していると捉えた。前者は「時間、空間、対象を限定した指示」で、宗祖モハンマドが生きた「7世紀のアラビア半島という特殊な時間、空間に生きた人々に対して向けられた指示」である。これに対して後者は「永遠不変の神の啓示」だという。しかし、彼はコーランの大部分がイスラームの“第一のメッセージ”であると主張したことで、異端者としてスーダン政府によって処刑されてしまった。(『テロと救済の原理主義』、p. 71)
ムハンマド・ターハーのこの考え方は、私の“目玉焼き論”とほとんど同じである。また、リベラル・イスラームの考え方も、イスラームの一部の教えの時代性を認め原理主義を否定する点で、私の宗教観と似ている。また、最大のイスラーム人口を擁するインドネシアにおいて、政教分離政策が採用されて信教の自由が認められ、民主主義が機能している現実を考えるとき、イスラームの多様性と寛容性が世界平和の実現に貢献する時代が来ることが期待できるのである。
谷口 雅宣
【参考文献】
○小川忠著『テロと救済の原理主義』(2007年、新潮社刊)
○谷口雅宣著『信仰による平和の道--新世紀の宗教が目指すもの』(2003年、生長の家刊)
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