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2007年7月17日

イスラームにおける多様と寛容 (3)

 インドネシアは、その人口から言って“世界最大”のイスラーム信仰者(約2億人)を抱える国だ。この国には「リベラル・イスラーム」を自称する人々がいる、と国際交流基金(IMF)の小川忠氏は『テロと救済の原理主義』の中で指摘している。彼らは、同国において西洋近代が重視するリベラルな市民社会的価値の実現を目指す若手の知識人たちで、イスラームの教えにもそういう近代的価値観が内包されていると考え、「リベラル・イスラーム・ネットワーク」という組織をもって活動している。代表者はウリル・アブシャル・アブダラ氏(Ulil Abshar-Abdalla)で、その考え方はこれまでの常識を覆す内容であったため、保守的なイスラーム主義者からは敵視されることになった。

 リベラル・イスラームは、イスラームの教えは「人々のニーズに応じて自由に解釈することが可能」と考える。この考え方は、同じイスラームのスンニ派の立場からは“革命的”とも言える。というのは、スンニ派とは10世紀頃までに成立した「四法学派」を正統とする立場であり、これ以降は、イスラーム法学者が教典に解釈を加えることは制限されるようになり、「解釈の門は閉ざされた」とさえ言われるようになっていたからだ。ところがリベラル・イスラームを自称する人々は、コーランの(再)解釈が現代に於いて許されないことはイスラームの発展を阻害し、それ自体の存在を危うくする行為であるとし、時代に合わせた(再)解釈を主張したのである。また、解釈に当たっては、コーランの字義通りの解釈を絶対視するのではなく、倫理的宗教観をもって解釈することで、イスラームは普遍的な人類文明とのつながりをもつことができるとした。
 
 このような柔軟な考え方をもつイスラーム信仰者を、ボストン大学の文化人類学者、ロバート・ヘフナー教授(Robert W. Hefner)は“市民派イスラーム”(civil Islam)と呼び、その象徴的存在としてヌルホリシュ・マジッド(1939-2005)に注目している。彼は、現代インドネシアの代表的論客であったが、イスラーム諸国では“常識”と考えられてきた政教一致の体制についても、「イスラーム国家の樹立は本当のイスラームの教えではない」とし、コーランにも神の命令としてそのようなことは書かれていないと主張した。そして、以下のように、政教分離の必要性を説くのである。

「現在のイスラーム指導者は、神の教えと、預言者以後に紛れ込んだ人造の教えとを混同している。イスラームの価値を奉じつつ日々の生活を暮らし、宗教を汚濁に満ちた政治の世界から切り離していくことこそが、神が求める真のイスラームの教え“Tauhid”である。“Tauhid”すなわち妥協なき神の唯一性は、永遠に神聖なるものを人間の作為から切り離していく努力なのであり、神聖なるものはあくまで理性的、科学的であり、近代の合理精神と矛盾しない」(小川忠著『原理主義とは何か』、pp.205-206)

 リベラル・イスラーム・ネットワークを結成したアブシャル・アブダラ氏は、「ナフダトゥル・ウラマー」(Nahdatul Ulama)というインドネシアでは最大で“保守派”とされるイスラーム全国組織から出ているという点は、興味深い。彼は、原理主義者によるバリ島でのテロ事件(2002年10月)後の11月28日に、上述したような内容の論説を全国紙に発表して大きな反響を呼んだが、その論説中にマジッドの名前を1人だけ挙げている。このことからも、両者の考え方が近いことがわかる。
 
 リベラル・イスラームについては、ノースカロライナ大学のチャールズ・クルツマン准教授(Charles Kurzman)が1998年に出した本の中で、その歴史的な系譜をたどり、インドネシアを含む東南アジアから北アフリカにいたるまでの地域で近代以降に登場したリベラルな思想家の考えを概観している。それによると、その思考形式には大別して3種類があるらしい:①コーランやスンナそのものがリベラルであるとするもの、②コーランやスンナが直接言及していないものについては、人間の解釈が許されているとするもの、③コーランやスンナには人間の解釈が許されているとするもの。このような思考によってリベラルな解釈が施されることで、政教分離も、信教の自由も、多神教との共存も、さらに女性解放でさえ、イスラームの教えから引き出すことができるというのである。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○小川忠著『テロと救済の原理主義』(2007年、新潮社刊)
○小川忠著『原理主義とは何か:アメリカ、中東から日本まで』(2003年、講談社刊)

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