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2007年7月29日

迷いはどこから来る? (2)

 1週間以上、本欄の執筆が途絶えていたので、不審に思った読者がいるかもしれない。8月の初旬にニューヨークで行われる「世界平和のための生長の家教修会」の準備に忙殺されていたためである。この教修会については、折にふれて本欄でも書きたいと思うが、今日は「迷いはどこから来る」かについて、読者がいろいろ書いてくださったことに応えようと思い、キーボードを叩いている。
 
 去る26日に、私は本題についての読者のコメントに対して次のように書いた:
 
①北朝鮮の食堂のメニュー
  ご飯、小魚、味噌汁、香物

②日本の食堂のメニュー
 [和食]麺類、丼物、焼魚定食、鍋物、寿司、懐石料理他……。
 [洋食]アメリカ、イタリヤ、地中海、ロシア、フランス他……。
 [中華]上海、広東、四川、台湾他……。
 [その他]韓国、インド、中東、アフリカ、東南アジア他……。

 ①は②に比べて「迷い」が少ない。したがって、神の意思に近い。
 → [正・誤]
 ②は①に比べて自由が大きい。したがって、神の意思に近い。
 → [正・誤]
 ①は②に比べて「欲望」を引き出さない。したがって、神の意思に近い → [正・誤]
 ②は①に比べて「欲望」を多く引き出す。したがって、神の意思に遠い → [正・誤]

【問い】人間の欲望をより多く実現する環境の方が、そうでない環境よりも神の意思に近いのか、それとも遠いのか?

 この問いに対して、3人の方が「神の意思に近い」と答えられた。しかし、中には「何かオカシイ……」と感じられた人もいたようだ。私が期待していたのは、実はこの「何かオカシイ」という反応だった。私の上記の問いは、正しく記述されていない言わば“ひっかけ問題”である。どこが正しくないかというと、「日本の食堂」で何が食べられるかということと「神の意思」との間に、因果関係があるかのように書いているからである。日本のレストランの店長は、はたして神の意思に従ってメニューを考えるのだろうか、それとも自分の意思にしたがってだろうか? もちろん後者である。では、その店長の心の背後に神がいるのだろうか、それとも何か別の動機があるのだろうか? 多分、ほとんどの場合は後者である。

 だいたい神は人間の嗜好や食欲を満足させるために、この現象界の事物をいろいろ操作するだろうか? 否、それをするのは人間である。世界のすべての料理は、すでに世界に存在する。そして、それらはすべて人間の作品である。それらを、東アジアの端に位置する1国の中の誰かの店に「集める」必要を感じるのは、神だろうか人間だろうか? もちろん人間である。では、一体何のために? 「お客さまに世界各地の味と食感を楽しんでもらうために」などと、その店の店長は広告に書くだろう。それはそれでいい。しかし、店を訪れる客は、それによって本当に「自由」を得るのだろうか、それとも「欲望の高揚」を得るのだろうか? 「欲望の高揚」を「自由」と呼んでいいのだろうか?
 
 こういう点について、読者からコメントをいただけたら幸甚である。
 
 谷口 雅宣

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コメント

どちらが神の意思に近いか?の質問なのでどちらかと言えば近いと答えました、他に選択肢は有りませんから、、しかし私はこれで良いと思います、イスラームの寛容性の中でも「もし、啓典の民が本当に信仰を畏れる人間であれば今までの悪事は全部水に流して幸福の楽園に入れてやろうものを。もし彼らがトーラーと福音とその他神様が啓示して下さったものを立派に実践するようならば頭上からも脚下からもいろいろ美味しい物を食べさせて戴けるだろう」5章70節、神は全ての全て現象界全てに行渡り、ミクロからマクロ全知全能、全ての人間の心の中まで全て見通され熟知される在りて在る実質、実在、餓死したり選択肢の少ない状況は望まれない、食事に於いても多様性を全ての人類又個々人に味わって貰いたい、すでに無限に与えている、気付きなさい!と思われていると思います、とすれば神の意思に近いでは無く、意思であると言っても良いのではないか?と思います、と言いましても神は素材を無限に提供しておられるだけでそれを利用して様々な作品、食事の場合は料理人を通して実現される、神の意思を背景に作った料理は行き届き清潔で限りなく美味しいし、神の意思に沿った商売は人々の支持を受け繁栄する様に設計されているのではないでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年7月30日 11:52

「『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。
  外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして
  永遠に神の国を得る事能はず。
  物質に神の国を追い求むる者は
  夢を追うて走るものにして
  永遠に神の国を建つる事能ず。」

『内在の神は事物を媒介として現れるが、事物そのものには現れない。』

 これを悟ることができる人間が本当の「自由」を獲得し、例え「一」つの料理・作品・行動であれ、それを媒介として「無限=神」を表現することができる。
 (この場合メニューの内容が多かろうが少なかろうが、神から与えられた「自由」を失うことはない。メニューの内容が多くてもそのすべてをほしいという「欲望の高揚」は起こりえない。どれか「一」つで十分である。)

 物質(事物)そのもので無限(神)を表現しようとして、そこに現れない神に対し不安を抱きその不安をさらなる物質の大量獲得で解消しようとあがく心が現代の物質至上主義世界に見られる人間の欲望である。
 (この場合メニューの内容が多くても少なくても本当の自由を獲得する事ができないのである。少なければ不足に感じ、多ければそのすべてを食べようと「欲望を高揚」させる、なぜならすべてを摂取しなければ「無限=神」を表現しえないと考えるからである。しかし「すべて食べなくてはならぬ」レストランに「自由」が無いのは明らかである。)

以上のように考えをまとめてみました。合唱 ありがとうございます。

投稿: masaomi | 2007年7月31日 00:23

店長の広告「世界各地の味と食感を楽しんで貰う為に」は食の多様性の一貫で神意に沿っていると思います、その広告に依って欲望の高揚を得る人もあれば無い人もあり、それはお客様の自由である、その中でお店が存続出来るかどうか?は神意に沿ったものの考え方、生き方をオーナーがやっておられるかどうか?に掛かって来ると思います、いずれに致しましても人間は食べるために生きているわけではありませんので「何を食べ、何を着んと思い煩う勿れ」「過ぎたるは及ばざるなり」が良さそうですがこれも自由です、しかし、これら業の結果は自ら受けねばならない事は言うまでもありません、悪因悪果、善因善果は永遠の法だと確信致します。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年7月31日 11:16

考えれば考えるほど難しくなって、神意って一体なんだろう?って疑問に思えてきました。
生長の家では人間神の子、自分も実は神様なんだと教えられています。すると神意は私自身の意思になります。
迷いが少ないから楽しい時もあれば、多いから楽しい時もあります。自由があるから幸せな時もあれば、少ないから幸せな時もあります。
そう考えると、神意に正誤を付ける必要があるでしょうか?

投稿: 磯崎 | 2007年7月31日 14:04

神意に正誤を付ける必要はある、と考えます、創造主(自分ではない)の神は偉大なり!で悪因は誤、善因は正、神は善い事を好まれ、悪い事(不義)を忌み嫌われる、だから人間は何が善で何が悪かをはっきり認識する必要があると思います、本能的に分かる部分と学ぶ事に依って分かる場合があり、日々の生活の中で発見する事が出来るのではないでしょうか?ですから迷いでも選択肢の迷いと善悪の迷いをゴッチャにしてしまうとますます迷ってしまう事になるのではないか?と思います。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年7月31日 15:47

 お料理は大切な人を思って、真心を込めて作って頂いたものを感謝していただくのが最高に幸せです。
 材料に限りがあっても、世界中の材料を使えても、与えるものと受けるものに感謝があればどんな環境のなかでも神の御心に叶うと思います。
 欲望の中には神の御心は無い。欲望に引きずられるのは不自由です。 欲望を引き出す環境の中で欲望にとらわれない生き方を目指して現在の日本人は此処を選んで生まれてきたのではないでしょうか。
 又、自由のない国を選んで生まれて、其の中で本当の愛や真心の表現を学んでいらっしゃる方もきっといらっしゃると思いたいのですが。彼の国の方の自由な発言は聞くこともままならないので測りかねますが。

投稿: 酒井幸江 | 2007年8月 1日 02:00

谷口雅宣先生。
教修会(ニューヨーク!)のご準備でお忙しい中、私達の為に更新して下さってありがとうございます。

けれどまたしても御文章が問いかけで終わっていて、更に惹きつけられる内容になってしまっているので、また更新を心待ちにしてしまいそうです。

…見事に引っかかってしまいました。前回の設問。一瞬、脱力してしまいました。

けれども前回、答えを考えながらなにがむずむずしていたのかが、今回でもう少しわかった気がします。【正・誤】の選択肢に既に違和感が内包されていたのですね。
すると神意に正・誤はなくて、正・誤はあくまで現象の中での状況で、人事所で変わってくるもので、それを判断すると言う過程が「迷い」なのでしょうか。
「自由」さえも、飛び出すとわかっていて交差点で子供の手を離したら子供にとっては悪になってしまうし…
「欲望の高揚」も、夢を叶える為に勉学に励むならば生命力が湧いて美しい姿に思えます。
赤ん坊には「欲望の高揚」はあっても「自由」はないですし…でも善でも悪でもない。粗相される大人には悪と見えますが、本人はけろり(笑)。年齢や環境、心身の健康度、国籍によっても…マニュアル的にではなく自分の頭で真剣に考えようとすると迷いは尽きません。

でも迷いが悪なら、この世に生まれて来た事自体が悪になってしまいますね。神意がわからなくなりそうですが、本能的に愛は感じます。(先生の設問にも、同じ流れの愛を感じます。)

先生の設問の真意には程遠いコメントかもしれませんが、ともかく未熟なりに、自分の頭の中にある漠然とした思いを形に表す事の難しさと楽しさを、感じながら書かせていただきました。ありがとうございました。
教修会のご盛会をお祈りしつつ、次の更新を楽しみにお待ちしております。

感謝再拝

投稿: 米山恭子 | 2007年8月 1日 02:11

「迷いは無い」と断定する事、そしてこの言葉がいかに大事であるか、皆様の御発言より再認識させて頂きました。
 
 そもそも「迷いはどこからくるのか?」と問う事自体、本来無い「迷い」の存在を認めている、そしてその間違った認識がさらなる「迷い」を産みだしてしまっています。
「無い」ものは「どこからも来ない」し、「どこにも無い」のです。『「無い」ものは「無い」。』これがあたりまえです。
 
「あたりまえ」が神意です。
 
 
『あらざるものをありと想像するがゆえに無明(迷い)なり』
 合掌。
 

投稿: masaomi | 2007年8月 1日 03:21

副総裁先生、合掌ありがとうございます。
ある国では一本のあぜ道がある、その先にはソファーがある。ある国ではそのソファーまでにあぜ道と県道と高速道路と自転車道と地下道など公共事業でありとあらゆる道を作っている。人々は適当に道を選んでソファーまで行っている。あまり利用されない道もある。迷いというほどのものは存在しない。
あるところに神の意思にそった理想郷がある。神の子であるすべての人々は願わくばその、神の御心にそった所に到達したいと思う。その道は明確に見えるときもあるが、時として周りが薄暗くなり、道が見えなくなる時もある。また森の中の道となり先の見えないときもある。時として行き止まりとなり引き返さなければならない時もある。そのような時は心を明るくし自ら道を照らし、祈り神の声を聞き正しい道を歩んでいこうとする。
迷いはどこから来る?
『真相を知らざるを迷いという』

投稿: だるま | 2007年8月 1日 06:58

masaomi様、、、「迷いはどこからも来ない!迷いは無いと断定する事が大事」と言う事ですが私は実相では無いと思いますが現象では在ると思います、何処に?個々人の心の中、万人万様に!何故迷いは起こるか?私は愛欲(六感から感得する欲望、無明を除く煩悩)から起こる、世の中のトラブルはこの煩悩から現れて来ている、従いましてこのトラブルから逃れ、安らかな日々を過ごす為には愛欲を制し、愛欲を離れる事がキーポイントだと思います、「愛欲より迷いは生じ、愛欲より恐れは生ず、愛欲を離れし人に迷い無し、またね何れかに恐れあらん!」

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月 2日 11:00

「実在にあらざる物を実在せるがごとく扱う事なかれ」

尾窪さん、ありがとうございます。
尾窪さんの御意見より、私は聖経のここの行が心に響きますがいかがですか?

投稿: masaomi | 2007年8月 2日 11:27

masaomi様、、、この言葉は真理で強烈な印象を人に与えると思います、ただ私はこの言葉の主語が省略されているつまり「実相には実在にあらざる物を現象に於いても実在せるがごとく扱う事なかれ」ですから現象として戦争、犯罪、各種のトラブルが有ってもそれは人間自身の迷い(愛欲)、例えば男女間の問題、お金に関わる問題、地位名誉に関わる問題等と迷い(国と国、為政者と為政者)の衝突であって、実相世界には無い!と言う事だと思います。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月 2日 15:48

合掌、ありがとうございます。
生身の人間には迷いは有ると思います。
長い人類の歴史ではたまにほとんど迷いのない人間も存在したと思います。地の上に立ち山を見、地表のうねりを観察し、川の流れを見、蒸気のゆれ具合を見ることにより地下の状態がつぶさに見て取れることにより、その人が杖で地面をたたくとそこから泉が湧き出てきたという普通の人間にとっては奇跡が現れる。
いついかなる場合でも、『真相』をつぶさに掴み取る事が出来る(ほとんど神の人)人には迷いは無いと言える。
私ら凡人は毎日毎日神想観をして少しでも『真相』を見て行きたいと思います。

投稿: だるま | 2007年8月 2日 20:08

生身の人間には迷いがある書きましたが、「何を食べようかな」なんてのは、迷いでもなんでもなく単なる選択だと思います。

投稿: だるま | 2007年8月 2日 20:25

今から書くお話は戯言ですので読んでいただけるなら適当に・・・・

サザエさんはご存知だと思いますが、

ある日AさんとBさんとCさんが漫画サザエさんについて語っていました。
A「サザエさんっておもしろいよね。」
B「あーあれは最高だね。」
C「そうかな、ちょっとダサくねえ。」
A「・・ところでサザエさん一家は現在世田谷に住んでるけど、その前はどこに住んでたっけ?(どこからきましたか。)」
B「確か福岡じゃないの。」
A「あー福岡か。すっきりした。」

数日後、Aさんが弱った顔をして
A「福岡のどこだったっけ?」
B「さー何処でしょう。」
A「むー弱ったすっきりしない。」
B「そう悩むこと無いんじゃない。もともとは無い作り話でしょ。」 
 
ここでAさんは「むっ!」とするでしょうか。それとも「そうだね。そのとおりだ悩むまい。」というでしょうか。それはわかりません。
  

また数日後、AさんとCさんが口論してます。
A「ワカメちゃんはあの刈上げが良いんだ。」
C「刈上げなんて時代錯誤もいいとこだ。茶髪がいいんだよ。」
と激論の末、殴り合いのけんかを始めます。
仲裁に入ったBさんに二人が
AとC「B!お前はワカメちゃんの髪型どうが良いと思う?」
B「僕は、今のまま刈上げで・・しかし漫画の内容の事で二人ともけんかするなよ。馬鹿馬鹿しいじゃあないかホントは無いのだから・・・」


A,C「もっともだ!馬鹿馬鹿しいケンカはよそうじゃないか。
そもそもこのけんかの原因はワカメちゃんにある。ワカメちゃんにいなくなってもらえばいいのだ!出版社にお願いしてあのキャラクターをなくしてもらおう!・・・・」

B「えっ・・・・・・(汗)」


投稿: masaomi | 2007年8月 2日 22:29

合掌ありがとうございます。
masaomiさま、そのとうりだと思います。
私の書いた「生身の人間」はサザエさんの話の中にいる人間です。かくさんすけさん、悪役のいる舞台の上の話です。皆さん舞台が終わり楽屋に帰ったら楽しそうに仲良くしています。

投稿: だるま | 2007年8月 3日 06:13

masaomiさん、

 サザエさんの会話、なかなか面白いじゃないですか!
 この比喩の示しているところも、なかなかイイと思います。
 創作物語の中の何が不満だといっている人に、「それは現実には
ナイんだよ」と教えている、ということですね。我々の現象生活
も創作物語みたいなものですから……。

だるまさん、

 「迷い」の問題と「選択」の問題は、どう違うでしょうか?

投稿: 谷口 | 2007年8月 3日 12:12

 これは悟りを開かれた数少ない大聖師の意識です、実相世界の実在心のみに生きておられる方ですから迷いなんてありません、この様な人間ばかりなら戦争、犯罪、飢餓、温暖化問題等は現象世界には一切無いでしょう、しかしこの世、現象世界には「迷いと言う心的なものが無い(真我心)と思う人よりも有る(我心)と思う人々で満ち溢れています」実在は非実在を認めない!実在心(真我心)なら迷わない!は実相世界の事、現象世界は仮虚心(我心)だから迷うのです、人類全員が真我心になれていない現実が有ります、これを無視しては何も解決致しませんし、机上の空論で「ああ、そうですか!」で終わり、そこからは何も生まれて来ないと思います。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月 3日 12:34

谷口先生、

 褒めていただいて恐縮です。

投稿: masaomi | 2007年8月 3日 20:57

谷口先生、ありがとうございます。
目的地へいくつかの道があり、どの道ににしようかと迷うもの。
目的地への道筋が判らず、道に迷いたどり着けない(無明)もの。
後者の迷いを出来るだけ少なくしたいと思う毎日であります。
合掌、ありがとうございます。

投稿: だるま | 2007年8月 4日 09:08

尾窪さん、

 コメントを書いてくださるのは有難いのですが、「アドレス(URL)」という欄には私のサイトのURLを入れないで、貴方のものを入れていただけませんか? そうしないと、貴方の意見を私の意見だと誤解される人が出るかもしれませんので……。よろしくお願いします。

投稿: 谷口 | 2007年8月 4日 09:29

谷口雅宣副総裁様、インターネット操作に詳しくなくて申し訳御座いません、、、、。失礼致していますが、(URL)に私のアドレスを入れますと「アドレス(URL)を正しく入れて下さい!」のメッセージが入り送信出来ません、勉強しますので今回のみお許し下さい。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月 4日 12:12

尾窪さん、

 はい、「今回のみ」ということで了承します。

投稿: 谷口 | 2007年8月 5日 09:10

だるまさん、

>>目的地へいくつかの道があり、どの道ににしようかと迷うもの。
>>目的地への道筋が判らず、道に迷いたどり着けない(無明)もの。

 この2つにあまり差があるように思えないのですが……。

 例えに「食堂のメニュー」を使ったので、これを続けるとすれば、貴方の言う「目的地」とは「実際の料理の出来ばえ」に該当するのでしょうか? メニューには「五目餡かけご飯」と書いてあって、大体そういう料理の味がどうであるかを想像できても、本当にどういう出来ばえで、どういう味であるかは、実際の料理を味わってみないと分らないと
思います。「こんなショッパイのでは……」と思ったり、「ネギが辛い」と思ったり、「餡が冷めている」と思ったりすることもあるはずですから……。

 あなたの仰る意味が分らないわけではないのですが、メニューに「ジャンガリガリガッチョ」と書いてあるのと、「五目餡かけご飯」と書いてあるのでは、前者を選ぶのが「迷い」であり後者の場合は「選択」だとは、ハッキリ言えないと思います。


投稿: 谷口 | 2007年8月 5日 09:19

生長の家副総裁 谷口雅宣先生 合掌ありがとうございます。

ご指導ありがとうございました。

投稿: だるま | 2007年8月 5日 10:47

だるまさん、、、「真相を知らざるを迷いと言う」と言う事ですね、そうしますと迷いは真相を知らない!と言う所から出ると言う事ですよね、と致しますと「真相とは何の真相」なのですか?教えて下さい。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月 5日 11:33

「真相を知らざるを迷いと言う」これは「甘露の法雨」の中の言葉ですよね。「甘露の法雨解釈」とか解説された本があると思います。そちらでお願いします。

投稿: だるま | 2007年8月 6日 11:06

だるまさん、、、有難うございました。申し訳ありませんがもう一つ、だるまさんの目的地(神の意思にそった理想郷)とはどんな所をイメージされますか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月 6日 13:05

尾窪勝磨様、ありがとうございます。
 ”『汝らの内』にのみ神の国は有るなり。”
という甘露の法雨の言葉を思い出します。
具体的には人によってそれぞれ、その人にしか出来ないことを目指し、それが人間一人ひとりがこの世に生を受けた目的使命であると。

投稿: だるま | 2007年8月 7日 07:00

だるまさん、、、有難う御座いました、それからこれからは尾窪さん、、でお願いします、私は宗教が数ある趣味の一つなのです、その中で生長の家が好きですが一般の受講者に過ぎませんし、肩書きは何にも無い只の年金生活者ですから、、、これからも真理探索によろしくお願い致します。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月 7日 09:42

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