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2007年7月11日

イスラームにおける多様と寛容 (2)

 民族の多様性を認めるにとどまらず、コーランは宗教の多様性も認めている、とエルファドル氏は指摘する。イスラームでは、ユダヤ教徒とキリスト教徒を“啓典の民”として認めることはよく知られているが、その意味は「同じ神から異なった啓示の書を受けている民」ということだから、神の立場から見れば、すでに宗教の多様性が前提されているのである。イスラームはもちろん、これら3つの啓典の中では、ムハンマドの受けたものが最終であり、すべてを完結すると主張する。しかし、だからと言って、ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラームに改宗しなければ救われない、とは断言しないのだ。
 
 次の章句を注意して読んでほしい:
 
「さらに我らはお前には真理の書を下し与えて、それに先立って啓示された聖典の固めとなし、確めとなした。さればお前は、彼らの間を裁くにあたっても、必ずアッラーが啓示し給うたところに依拠して行うべきであって、決して彼らの根拠なき思惑に乗せられて真理に背くようなことがあってはならぬ。我らは汝らのそれぞれに行くべき路と踏むべき大道を定めておいたのだから」(『コーラン』5章52節)
 
 上にある「お前」とは、啓示を受けたモハンマドのことであり、「彼ら」とはユダヤ教徒とキリスト教徒を指す。「我ら」という表現は、コーランで「神自身」が自分を呼ぶときの言い方で、なぜか複数形で一貫している。これを自然に読めば、神がユダヤ教徒にはトーラー、キリスト教徒には聖書、イスラーム信徒にはコーランを与え、それは「それぞれに行くべき路と踏むべき大道を定め」るためだと言っているように解釈できる。そして、問題が起きたときの裁きは、「アッラーが啓示し給うたところに依拠せよ」と言う。注目してほしいのは、「その依拠すべきものはコーランだ」と明確には言っていないことである。したがって、“啓典の民”の判断基準は、神が与えられたそれぞれの“啓典”の中に見出されるべきとの解釈も成り立つのである。

 この解釈の可能性は、上記に続くコーランの次の言葉を読めば、さらに現実性を増す:
 
「勿論、アッラーさえその気になり給えば、汝らをただ1つの統一体にすることもおできになったはず。だが、汝らに(別の啓示を)授けてそれで試みて見ようとの御心なのじゃ。されば汝ら、互いに争って善行に励まねばならぬぞ。結局はみなアッラーのお傍に還り行く身。その時(アッラー)は汝らが今こうして言い争いしている問題について一々教えて下さるだろう」(同章53節)

 3つの一神教の間で言い争いがあったとしても、結局は神の御許へ還りいく身なのだから、そこで対立は解消する--と書いてあるのである。これはつまり、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、現世でイスラームに改宗しなくても救われるということではないか。また神は、自らその気になれば3つの宗教を統一することができるのに、それをしない目的があると書いている。これは「啓典の民の共存」を説いているのであり、「剣とコーラン」で改宗を迫るイスラームのイメージとは、相当異なると言わねばならない。
 
 次に掲げる章句も、このような信仰の多様性を認めるイスラームの寛容性をよく示している:
 
「もし啓典の民が本当に信仰し神を懼(おそ)れる人間であれば、今までの悪事は全部水に流して幸福の楽園に入れてやろうものを。もしも彼らが律法(トーラー)と福音と、そのほか神様の啓示して下さったものを立派に実践するようならば、頭上からも脚下からもいろいろと美味しいものを食べさせて戴けるだろうに」(同章70節)

「まことに、信仰ある人々、ユダヤ教を奉ずる人々、サバ人、キリスト教徒、すべてアッラーと最後の日を信じて義(ただ)しい行いをなす者、すべてこの人々は何の怖ろしい目にも遇いはせぬ、悲しい目にも遇いはせぬ」(同章73節)

 上記にある「サバ人」とは、洗礼を重んじて全身浴をするキリスト教の一派である。だから、コーランが救いの対象とするのは、基本的には同じ神を信仰する一神教徒であるが、「アッラー(神)と最後の日を信じて義しい行いをなす者」という言葉の解釈しだいでは、私は“啓典の民”以外の信仰者とイスラームとの共存の余地があると考えるのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○井筒俊彦訳『コーラン』上・中・下巻(1964年、岩波文庫)

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コメント

イスラム教によると依拠すべきものはコーランと言う事ななっています、すると現在の破壊、殺戮の連鎖、美味しい物も食べられず、恐ろしい目、悲しい目に日々遭遇し永遠に止まりそうもありません、これが神の意思に反するとすれば各派の宗教指導者が間違っている、神の名の元に自分(我)の教えを教えとして教え空しく神を崇めているいる事になります、発祥当時のアラビア的イスラームに復権するのであればムハンマドやイエス、釈迦が生涯何を語り、どう行動したか?を静観するべきではないか、アッラーの傍に行って争いの問題について教えて貰った所でこの世の解決にはなりません、彼らが我に囚われ、縛られ、自分を是とし他を非とする呪縛から離れられない限り解決出来ないとなればそれこそメシヤ、キリストの再臨を待つしか無いのでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年7月12日 18:41

谷口雅宣先生

 今回の記事「イスラームにおける多様と寛容(2)」と(1)を読ませていただき、やっとこれまでのイスラムの記事の内容が少し理解できるようになりました。(遅い、ですね)
 私は『コーラン』を生長の家から解釈するとどうなるのかということを考えていましたが、「多様と寛容」というキーワードで考えるとまた別の見方ができることがわかりました。
 祭祀についても多様性を認めている箇所があります。『コーラン』22章66節です。

「いろいろな集団が現に守っている祭祀はみなそれぞれに我らが設けてやったもの。されば汝は、このことで、何もよその人々からとやかく言われることはない。汝はいつも主をお喚びすればよい。」

 先生が指摘されるように、『コーラン』には義を行う人は何宗でも楽園に入ることができるということは、イスラムは非常に寛容な宗教だと思います。あと、悪人でもひとたび神に振り向き善行を行えば、アッラーはすぐ赦してくださる、というところが非常に寛容で、本来、赦している神だと思います。

山岡睦治(本部講師)

投稿: 山岡睦治 | 2007年7月13日 16:58

副総裁 谷口雅宣先生:
本部講師 山岡睦治様:

合掌 ありがとうございます

副総裁先生のご文章と山岡様のコメントを拝読して、
イスラム教は、多様性・寛容性を有することが解りました。
実は、今までイスラム文化に対して一種の偏見を抱いておりました。
しかし、今回のご講義のお陰で、新しい観方が可能となり、
視野が拡大したような気がいたします。
難解な経典を、わかり易くご指導いただき、本当にありがとうございました。

                                         再拝
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投稿: 川部 美文 | 2007年7月13日 19:56

谷口雅宣先生
私もイスラム教に対する理解が深まってきました。
もう10年以上前になると思いますが、『マルコムX』という映画を見ました。少年時代に犯罪を積み重ねて、刑務所で服役中にイスラム教の教えを学んで出所後に、伝道師になったマルコムXという実在の人物の話でした。
この映画の中で、主人公が所属していた団体を追われ、イスラムの信仰を見直すために、巡礼をした際に様々な人種の人たちと一緒に祈りを捧げたことで、それまで黒人を解放するためのイスラム教という認識から、人類を救う教えという認識へ変わっていく瞬間は、当時信仰をし始めたばかりだった私を感動させましたが、先生の解説を拝読しながら、そのときのことを思い出しました。『コーラン』も是非読んでみたいと思いました。

投稿: 大平收一 | 2007年7月14日 09:53

コーランを読んでいませんので良く分かりませんがムハンマドが生きていた時代には何の問題も無く平和な時代であったと聞いています、死後問題が起こっているのはアラブ以外のシリヤ、イラクに進撃、エルサレムの占領、ナイルの支配によって異民族に広がり、イジュマーとかキヤース等新たなる法解釈がなされ、様々な問題が起こって来ているのではないでしょうか?イスラム教のスンニー派では他の宗派には無関心か時には存在を認めていない、同じイスラム教のシーアー派とは似て非なるものと言う事です、スンニー派ですらイジュマーキヤースの取り扱いによってハナフィー派、マーリキ派、シャーフィ派、ハンバル派に分かれ、イスラームは一つではないと言う事にります、本物のイスラム教をイスラム教として世界に広めて欲しい、そうすればイスラム教に対する偏見、恐怖は無くなり、多様と寛容は理解出来ます。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年7月17日 12:53

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