悪は幻である (1)
6月18日の本欄には、「“悪を認めない”でいいのか?」と題して、大分県で行われた生長の家講習会(6月10日)での質疑応答の1コマを映像で紹介した。この時の質問には、現実に悪事を目の前にした際、それを無視するのが「悪を認めない」ことだとの誤解があったようだが、私の回答によってそうでないことが理解いただけたと思う。その後、7月8日には室蘭市で生長の家講習会が行われたが、そこでも私は午後の講話の中で「悪」の問題を取り上げた。そして、
①悪とは光に対する闇のように、非存在の別称である。
②悪は実体でなく、人の心の中の拒絶感を投影したもの。
③今の社会には“悪いこと”に注目する心のクセがある。
④悪に注目すれば悪が現れるから、善に注目する日時計主義を実行しよう。
などを話した。
そのときの映像を以下、2回に分けて掲載する。
谷口 雅宣
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コメント
合掌、ありがとうございます。
悪はない、では罪も無いのでしょうか。懺悔も必要ないのでしょうか。
投稿: だるま | 2007年7月18日 20:08
だるまさん、、私は実相には悪は無い!罪も無い!と思いますが現象界に於いては心を主とし、心を基とし悪も罪も現れると思います、神から見れば悪であり罪であると知りながら不義を行った人には悪果が現れる、影が人から離れない様に、、しかし、神は慈悲深い存在7の70倍も許される存在、その為には神を裏切らない心からの懺悔は必要であると思います。
投稿: 尾窪勝磨 | 2007年7月26日 17:08