善人の不幸はなぜ?
前回の本欄では「生れつきの障害」をもつことの原因について書いたが、そこに掲載した講習会の録画映像では、「善人に不幸が起こるのはなぜか」という、もう1つの疑問が提出されている。前回は、これを前世からの業との関係で答えている。しかし、前世からの原因によらなくても、善人が不幸に見舞われることはある。「見舞われる」というよりも自ら「引き寄せる」と表現した方がいいかもしれない。谷口雅春先生はこのことを、旧約聖書の『ヨブ記』に出てくるヨブの物語を例に引きながらよく話された。自己に厳しい善人は、「自分は罪深い存在だ」と考えることが多いので、その場合、艱難を歓迎する「自己処罰の意識」によって自ら艱難を引き寄せることがある。
『真理』第9巻生活篇では、雅春先生は「自己犠牲」という言葉を使われて、同じ趣旨のことを次のように説かれている--
「徳」とは自己犠牲を必要とするものだというような考えが、あなたの潜在意識の何処かにありますと、個人の潜在意識は宇宙の潜在意識につながっており、自分の願望するところのものを宇宙意識に伝え、宇宙意識は一切の所に遍満していて、その願望にふさわしきものを、その人のところへ持って来てくれますから、自己犠牲を必要とするような事件がその人の身辺に集まって来てその人は不幸になるのです。「徳」と「福」とは両立しないという潜在意識の観念を打ち破らなければなりません。そのためには『生命の實相』を繰り返し繰り返し読んで、「神の国」即ち「実相世界」には犠牲がない、従って「実相世界の秩序」があらわれたら現象世界にも犠牲がなくなり、共存共栄の世界があらわれて来るものだということを潜在意識の底の底までも徹底せしめることが必要なのです。(pp.320-321)
「徳と福とは両立しない」という意味は、「有徳の人は幸福であってはいけない」ということだ。この場合の「幸福」とは「物質的に恵まれている」ことを含むだろう。これをさらに言い換えれば、「善人は豊かな財産をもってはいけない」ということにもなる。確かにこの世界には、そういう社会通念が存在する。逆に言えば、「財産家はきっと何か正しくないことをしている」という“ヤブ睨み”の物の見方が、それである。週刊誌の記事などは、ほとんどそういう立場から書かれている。そして、そういう週刊誌が大部数売れ続けている現状を考えると、世間の多くの人々が同種のストーリーを求めていることが分かる。つまり、それが人類の潜在意識(人類意識)の一端である。また実際に、アコギな方法で莫大な財産を手に入れる人も少なくないのだから、我々は誠に“心でつくる世界”に棲んでいると言えるのである。
さらに言えば、上の引用文にある「徳は自己犠牲を必要とする」という観念は、宗教運動とも関係している。この観念は「信仰者は自己犠牲を必要とする」という考え方にも通じるから、この人類意識に支配された信仰者は、「信仰すればするほど不幸になる」という“ヨブの逆説”を演じたり、あるいは「自己犠牲をしない人は信仰者に値しない」という意識で他人を裁く傾向が現れる。こうなると、宗教運動は自己犠牲を競い合う苦しい運動となり、信仰運動としての魅力が薄れていくのである。
谷口雅春先生は、こういう「善と福との共存」の問題を扱った『善と福との実現』(1974年、日本教文社刊)という素晴らしい本を書いてくださっているから、読者はぜひ参照されたい。
谷口 雅宣
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