神への愛
ガザーリーの神学の中で注目すべきものは「神への愛」についての彼の考えである。彼以前のイスラーム神学では、「人間が神を愛する」ことは比喩的な意味以外では不可能だと考えられていた。なぜなら、愛する対象はまず認識できなければならないし、愛するためには、愛する側と愛される側の間に何らかの共通点がなければならないからだ。ところが、神を感覚でとらえることはできず、神の全貌を人間が認識することは不可能であるし、加えて神とは、人間とまったく異質な存在だと考えられてきたからである。認識や理解をはるかに超えた異質な対象を、人間は愛することはできない--このように、それまでの通説では、愛とは「愛される側」の性質によって引き起こされるものだと考えられてきた。
ところがガザーリーは、これを“逆立ち”させて、愛が成立するのは、もっぱら愛する側に原因があると考えた。そして、同じ「愛」であってもその内容は様々で、愛には本質的に次の3種があると主張した--①自己中心の愛、②完全なものへの愛、③愛する側と愛される側の間の一種不可思議の愛、である。①は、自分の存続を維持する感情で、およそ生物すべてにこれがある。本質的には自己愛であり、自己保存本能の発露であり、自分の生命の維持と自分に利益をもたらすものを愛する段階である。
②は、これとは性質が異なり、自分が何らかの意味で「完全である」と認めたものに対して抱く愛であり、憧憬に近い感情である。愛することによってその対象を自己目的に利用するのではなく、ただそのものの完全さを愛するのである。もちろん“完璧な美人”を愛する場合、その美人を自分の側に取っておきたいという欲望が出ることがあるが、その場合は①の愛に転化したと考える。しかし、人間は美人が美しいというだけで、自己目的とは無関係にその美を愛することができる。これは美しい絵画、自然の風景、有徳の人、完璧な数式……等についても、同様に言えることだ。
③の愛とは、ガザーリーによると「恋愛」のようなものである。それは理由がよく分らないのに、相手を愛するのである。これは、相手が自分の存続に有利になるからでも、相手が美しいからでも、相手が完全であるからでもなく、理由がわからずとも、魂をささげるほど愛する。ガザーリーは、そういう愛は謎であるが、実際に存在することを認めるのである。(彼がフロイトの精神分析論を読まなかったことは確かであるが、そのことはここでは問題にしない。)そして、これら3種類の愛が同時に体験できるならば、それこそ「至上の愛」と言えるというのである。「神への愛」とは、まさにそういう種類のものだ、と彼は言う。
神は、人間にとって自己の生命の本源であるから、生命を与えてくれた神を愛するのは、①の愛である。神は唯一無比、完全円満、完璧なる存在であるから、その神を愛するのは②の愛である。そして、神と人との間にはいわくいい難い、理屈では説明のできない引き合う力があることも事実だから、③の関係も存在するのである。こう考えていくと、神への愛とは、「すべての存在に対する愛」と同義であることが分かる。いや、人間は一度に様々なものを愛することはできないから、「すべて」を愛することは不可能である。しかし、「神への愛」によってそれが可能となる。神はすべての創造主だから、神を愛することを通して、人間はすべてのものを愛することが初めて可能になるのである。こうして、ガザーリーは「神への愛」を通してイスラームの中に初めて「社会への愛」という概念を導入した、と言われている。(井筒俊彦著『イスラーム思想史』p.157)
ところで、この「神への愛」を至高とする考えに触れた時、読者はデジャヴー(既視体験)のようなものを味わなかったろうか。そうなのである。同じことはユダヤ教、キリスト教においても説かれている。新約聖書の『ルカによる福音書』第10章に、律法学者(ユダヤ教の学者)がイエスを試すために質問をしたことが書いてある:
「先生、何をしたら永遠の生命を受けられましょうか」。(イエスは)彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。(25~28節)
「律法」とはユダヤ教の法律のことであり、イエスは律法学者に対し、ユダヤ教の経典(トーラー)を引用させたのである。「神への愛」を説いているのは『申命記』第6章5節であり、「隣人への愛」は『レビ記』第19章18節に説かれている。ユダヤ教、キリスト教、イスラームの3宗教は、同じ神を信じる「セム的一神教」である。それぞれの信仰者が、この同じ唯一神が示されたこの共通の教えを誠心誠意守ることができれば、世界は一変するのである。
谷口 雅宣
【参考文献】
○井筒俊彦著『イスラーム思想史』(1991年、中公文庫)
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コメント
谷口雅宣先生。
いつも様々な視点から学びを提供して下さってありがとうございます。
>人間は一度に様々なものを愛することはできないから、「すべて」を愛することは不可能である。しかし、「神への愛」によってそれが可能となる。神はすべての創造主だから、神を愛することを通して、人間はすべてのものを愛することが初めて可能になるのである。
この御文章にはっとして、何度も読み返してしまいました。神への愛から社会への愛へ繋がるのですね。
世界中の、立場の違うもの同士の葛藤が、この教えによって早くなくなるように、祈りつつ、自分自身も実行していきたいと思いました。
再拝
投稿: 米山恭子 | 2007年6月28日 10:10
自己愛は分かりますが神への愛は?です(信仰者もそうでない人も愛すると言うより愛されているのではないでしょうか?だから愛と言うよりも憧れ、感謝)の方が自然の様な気がします、それよりも愛と言う場合慈悲の愛、家族愛、男女間の性愛、友達に対する思いやりの様な愛を言う様な気がしますが如何でしょうか?
投稿: 尾窪勝磨 | 2007年6月28日 13:10
米山さん、
ガザーリーのこの理解は、井筒氏の文章の中に出てきます。私も、そこを読んでハッとしました。
尾窪さん、
上記の②の愛を体験したことがあれば、「神への愛」は理解しやすいのではないでしょうか? 「神を愛する」という言い方は、日本人はあまり使わないかもしれませんが、一神教ではよく使う言い方です。
投稿: 谷口 | 2007年6月28日 23:07
聖書ではそうかも知れません、聖書の民は選民として誇りを持っているのでしょうが神は民族を選ばれない、平等で等しく愛されているものと思います、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ」と聖書で教わったユダヤの人達の唯一の神(ここで言う主)は創世記の創造神では無く、アブラハム、イサク、ヤコブの神、イスラエルの先祖の神、即ち創造神では無く民族神ではないでしょうか?創造神は愛を含め全ての物質を生きとし生けるものに与えに与えて、全ての見返りを一切求められないない存在、有りて有る実質、実在の様に思います、人間は神仏に愛されっぱなしで良いのであり、神を愛するとは思い上がりで神は求めておられない様な気がします、寧ろ神仏の教えを良く守り、実行し感謝してくれる事を望んでおられるのではないか!と思うのですが、、、
投稿: 尾窪勝磨 | 2007年7月 4日 10:37
雅宣先生、auの携帯では「?の愛」って出ています。文字化けと思われます。
たぶん番号をふられてるのだと思いますが、意味が分かりづらくなるので、次回から、特殊文字は極力お避けくださいm(_ _)m
よろしくお願い致しますm(_ _)m
投稿: 森田 | 2007年7月 8日 14:19
森田さんへ、、、申し訳ありませんが1,文字化け。2,番号をふる。3,特殊文字の具体的な意味を教えて下さい。
面倒かも知れませんがよろしくお願い致します。
投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月15日 11:08