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2007年6月14日

生れつきの障害はなぜ?

 6月10日、大分県別府市で行われた生長の家講習会での講話に関連して、本欄では「悪」の問題について少し書いた。当日は、別の問題についても多くの質問が出たが、その中に「生れつきの障害」をどのような因果関係の中でとらえるかという結構、むずかしい質問があった。質問者は、「生れつき障害をもった人は高級霊である」という説明と、「前世の業の結果である」という説明の間に矛盾を感じて、前者は方便説法ではないかとの疑問を投げかけておられた。私は、両者は必ずしも矛盾しないと答えたが、そのポイントを少し書こう。
 
 一般的には、業には「善業」と「悪業」があると言われるが、何が善業で何が悪業かは必ずしも一元的に決められないということは、これまでの「悪」をめぐる議論を通じて明らかにされたと思う。なぜなら、ある人にとって善であっても、別の人にとって悪である現象はいくらでもあるからだ。また、同一人物の周囲に起こる様々な現象についても、当初「悪い」と感じられた現象も、後になって考えてみると、同じ人物が「それでよかった」と納得することもある。では、善悪の基準はまったくないのかというと、そうとも言い切れない。やはり殺人や戦争は悪であり、人々の相互の助け合いや平和共存は善である。だから、大筋においては「善業」や「悪業」と呼べるものは確かにあるが、その個別・具体的細部においては、善悪の印象が入れ替ったり、善でも悪でもないニュートラルの現象として捉えられることはある、と考えられる。
 
 その“大筋”における善悪の判断では、「生れつきの障害」をもつことは「善」とは言いにくい。しかし、そのことが前世で積んだ“悪業”の結果である場合、“悪果”が現世で現れることと、現れないために現世でもさらに悪業を積むことを比べれば、どちらが悪いだろうか? 業の流転から解放されることが“救い”であると考えれば、この質問への答えは明らかだ--前世の悪業の結果として、早期に悪果が現れることの方が「善い」のである。なぜなら、因果の法則は、原因に対してその結果が現れることで1サイクルを終了するからだ。

 これによってその人に働いていた業力は止まる。その後は、この人は善行を積むことで善業を生み出していくことが可能となるのである。言い換えれば、悪業を積んだ人は悪果を得ることが善への転機となるのである。魂の程度が高い霊は、こういう因果の法則の複雑な働きを知っているから、意識的に(自分の過去世の悪業を解消するために)生れつきハンディのある肉体を選んで降下してくることがある。しかし、そこまで魂の程度が達していない霊は、業力のまにまに無意識にそういう肉体に宿るのである。したがって、「生れつき障害をもった人は高級霊である」ということと、「障害は前世の業の結果である」ということの間には必ずしも矛盾はないのである。
 
 講習会の会場で私はこのことを説明したが、十分に理解いただけたかどうか定かでない。文章を読むより、講話を聞きたいという人のために、下にその映像も掲載する。

谷口 雅宣

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コメント

生まれつき障害を持つ人は因果の法則によって善悪にかかわらず悪業が有ったとの結論になっていますが果たしてこれで人は救われるのでしょうか?
悪業では無くなんでもない物理的な原因と言う事は考えられませんか?
悪業にしてしまうと本人は救われません、悪業では無い、罪も無いが障害にどう立ち向かいどう生き抜いて行くか?ものの考え方、生き方を教えるのが宗教ではないか?
と思います。釈尊ならどう教えたでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年6月15日 15:49

副総裁 谷口雅宣先生:

合掌 ありがとうございます。

貴重なご講和の配信を感謝申し上げます。個人的な長年の願いが実現したことに感激いたしました。

 今回のご講和を拝聴させていただき視聴覚障害(後天的)が結果的に益となった例を思い出しました。
全盲のバイオリニスト川畠成道氏は著書で『僕は、涙の出ない目で泣いた』(扶桑社)に、楽譜が読めないため、耳で聴き記憶して奏されていると書かれております。(1996年英国王立音楽院協奏曲コンクールで第1位を受賞され、2002年カーネギーホールでデビューされています。)
 ピアニストの館野泉氏は脳溢血で右半身麻痺となりましたが、左手だけで演奏され、左手の為の曲集を出されております。
 ベートーベンは耳の病のため社交の場を避け、森林や田園で楽想を考えたそうです。
「木々は神聖だ、神聖だと語りかける」「神は永遠であり全能であり全智であり偏在である。」(1815)と手記に記され、晩年、完全に聴覚が不自由な中で、田園交響曲や第九交響曲などの大傑作を残しております。
 他に多々ございますが、この様な例からも、善悪・病・不幸等の定義、概念、価値観が揺らぐのを覚えます。
 また、ノーマライゼーション(normalization)という言葉も思い出されました。1960年代、北欧諸国から始まった「障害者と健常者とが、相互に区別されず、社会生活を共にするのが正常で、本来の望ましい姿である」という社会理念や運動です。自分も皆が幸福に共生出来る社会を理想と考えるものです。そしてその為には「生物多様性」の尊重が必要だと強く思います。
このホームページはとても充実されているので、新しい発見が多く、学ばせていただいております。度重なる登場に恐縮しつつ、感想を書かせていただきました。今後とも楽しみに拝読させていただきたく思います。本当に有り難うございます。

●参考図書:『ベートーベンの生涯』、ロマン・ロラン著、片山敏彦訳、岩波書店
                                                                       再拝

投稿: 川部 美文 | 2007年6月15日 22:33

尾窪さん、

>> 生まれつき障害を持つ人は因果の法則によって善悪にかかわらず悪業が有ったとの結論になっていますが...<<

 そんな単純なことは書いていないつもりです。それに「善悪にかかわらず悪業が有った」という表現は、矛盾していませんか?

川部さん、

 とてもよい例を挙げていただき、感謝します。障害のあることを、英語では「physically challenged」とか「mentally challenged」と呼ぶことがありますが、こういう視点は重要と思います。

投稿: 谷口 | 2007年6月16日 10:23

副総裁の説明では矛盾していないと思います、即ち悪業を絶つ為に障害を持って生まれる事は善で業力のまにまに無意識に肉体に宿る場合、悪業が現世に現れない為にさらに悪業を積むは悪、、、、とするならば悪業は既成の事実、結局障害を持って生まれた子は知りもしない自分の悪業を一生背負い来世に期待するしか無い事になり二重に苦しみを負う事になり、罪の子として現世を過ごせなければなりません、悪業も無い、罪の子でも無いと言う、現世で救われる救いの言葉は無いのでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年6月19日 13:36

尾窪さん、

 「悪業も無い、罪もない」というのが生長の家の教えです。ただし、それは実相のことです。ですから、自分の実相が神の子であることを自覚すれば、業の流転から逃れることはできるのです。

投稿: 谷口 | 2007年6月20日 13:00

障害を持って生まれてきた事で、周囲の愛を引き出し、障害の無い人以上に明るく前向きに生き、多くの人に感動を与え、更に啓蒙する事のできる魂を私は高級霊と感じます。高級霊が不自由な肉体に宿り、不自由を乗り越え、又、障害を悪業の結果であるかの如く向けられる冷たい目にも屈せず、明るく、「神は愛なり」を生きる事を使命として生まれてきたのではありませんか?

投稿: 重松 | 2007年6月20日 14:36

カリスマ的な宗教指導者から「あなたに悪業も罪も有りません、あなたが障害の無い人以上に限られた、しばしの間現れて、たちまち消え去る霧の様な人生を明るく、前向きに、ひたむきに、一生懸命に生き、周囲の愛を引き出し、多くの人々に感動を与える事で当たり前の事として愚痴や不幸を口に出したり思っている人々に如何に自分たちは恵まれ有り難い存在で有るかを悟り、神仏に感謝するべきである事に気付かせる為の天の使い、即ち高級霊、神仏の顕現でありますよ」と言って上げれば何か救われる様な気がします、ご指導、意見有難うございました、今後とも生ある限り勉強させて頂きます。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年6月20日 15:55

合掌ありがとうございます。

雅宣先生のサイトを毎日少しずつ楽しみながら拝読、拝聴させていただいております。

私の子供は不自由な体で生まれてきました。といっても、その部分は二つありますので、もう片方で十分生活はできています。見た目は、世間では「障害を持っている」言うようです。

主人は恥ずかしながら別の新興宗教を勉強しています。
その影響で彼は常々「○○(子供の名前)は天使だ、高級霊だ」と言っていました。

ある日子供が結婚したいという人を連れてきました。
私は最初に不自由な体の部分のことを心配しました。
「この子ちょっと不自由なところがあるんですが…」と言いかけましたら、
「知ってますよ(ニコッ)、僕は○○さん自身が好きになりましたので、そんなことは全然気にしていません」
と言われました。

私は感動して鳥肌がたち、涙を流して喜びました。
もしかして生長の家の人かと思いましたが、宗教は勉強していないそうです。

別の宗教を勉強している主人から唱えられる言葉に対して涙を流したことがないのに、初めて会った子供の恋人の言葉に涙を流すとは、主人にはちょっと申し訳ない気がしました(笑)

投稿: 磯崎 | 2007年7月15日 09:35

磯崎さん、、、、
素晴らしいお話ですねえ、おめでとうございます、宗教心が有ろうが無かろうが人間皆仏性を持っている証拠で、相手の方も高級霊、天の使い、類は類をもって集まる!ですよね、ご主人も別の宗教と言われますが万教帰一、真理は一つ、囚われず、拘らず、偏らないで別のと区別されない方が良い様に思いますよ、素晴らしい方だと確信致します、合掌。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年7月17日 15:10

皆々様


合掌、ありがとうございます。

皆様のこの現世で素晴らしいお幸せなお相を拝見いたしました。

生長の家では、人間、悪は無い、肉体も無い。人間皆神の子。実相の世界において一体であります。礼拝しあいましょう。と教えていただいております。吾らの誌友さんの第一子が障害を持たれてお誕生して5年になります。いつも素敵な笑顔でニコニコして合掌をしてくれます。「ありがとうございます」と声に出さずに伝わってまいります。愛をいっぱい与えてくれます。私達が神の子らしい愛を表現させていただくチャンスをいただいているのです。祝福し合いの生活をすることでこの現象界の人生生活を楽しんでいます。

夫々違ったご使命があります。OO君は、頑張って素晴らしいご使命を全うしています。我々も彼から実相を礼拝しあいましょうと学ばせていただいております。愛を惜しみなく出しましょうと教えていただいております。

吾本人もいただいた肉体を大切にして、神の子として恥じないようにできるだけ多くの方々のお役に立てれるようにと考えております。この現世の足元をみて、精一杯精進させていただき、無限の力を湧き出させていただくことに集中させていただきます。人生が有り難く楽しいです。ありがとうございます。

投稿: ネイブ美枝子 | 2008年5月27日 17:02

ネイブさん、

 書き込み、ありがとうございます。

>私達が神の子らしい愛を表現させていただくチャンスをいただいているのです。<

 その通りだと思います。普通の意味で障害がない場合でも、介護をすることで愛を表現する道もありますね。それを考えれば、「皆が高級霊だ」と言うこともできるでしょう。

投稿: 谷口 | 2008年5月27日 17:28

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