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2007年6月 4日

悪はなぜあるか?

 今日の『産経新聞』で解剖学者の養老孟司さんが作家の角田光代さん宛ての“手紙”の形式で「不幸があるから宗教がある」という題の文章を書いていた。それを読んだ限りでは、養老さんは「不幸」というものを否定的にではなく、肯定的にとらえているように感じた。そのこと自体に私は何も文句はないが、次の文章は、私を何かを言いたい気分にしたのだった:

「なぜ世の中には、不幸があるのだろうか。子どもが全員無事に育った親は、子どもを亡くした親の気持ちがわかるだろうか。生まれつき健康な人は、病人の気持ちがわかるだろうか。平和で民主的な社会の住人に、戦争や独裁の苦しさがわかるだろうか。世の中に宗教があるのは、それと関係しているに違いない。私はそう思う」

 養老さんの文章には、独特の反語や逆説がよく出てくるので、その意味するところは注意して読み取らねばならない。しかし、上の文章をそのまま読めば、「本当の意味で世界を知るためには、世界中の不幸を体験しなければならない」と言っているように聞こえる。また、そういう多くの人々の不幸に苦しむ気持を追体験することができなければ、宗教的な「愛」や「慈悲」の心が生まれないのだとすれば、信仰者や宗教者は競って世界の不幸の只中になだれ込んで行くべし、ということにならないだろうか? そして、そういう“不幸礼賛”の信仰が高まることで、信仰集団が現実に不幸を引き起こしたり、不幸を幸福に感じて自滅する行為に出たことを、私はいくつも思い出すのである。
 
 もちろん、養老さんの文章には真理がある。我々は実際に病気になったりケガをすることで、病人であることの苦しさを知ると同時に、健康であることの価値を実感することがよくある。また、私を含めた戦後生れの日本人のほとんどは、実際の戦争の悲惨さや苦しみを知らないし、わからないかもしれない。しかし、「悪は善のためにある」というならば、悪を消す努力は無意味かもしれない。皆さんは、どう考えますか?
 
谷口 雅宣

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コメント

副総裁谷口雅宣先生
ほぼ毎日のように先生の書き下ろしの文章を拝読出来るだけでありがたいと思っておりますのに、このブログで先生の映像が拝見出来るとは思っておりませんでした。
ブログは、本当に使いようで様々な最新技術を機能に加えて、より一層使えるツールになりますね。
私は、週に数回更新するのがやっとですが…。

投稿: 大平收一 | 2007年6月 5日 13:22

谷口雅宣先生
 先生の映像を拝見いたしました。私はこのブログを、九段会館の前にある建物の9階で読んでいます。窓からは、北の丸と皇居の美しい緑、その先に国会議事堂の屋根と六本木ヒルズなどを見渡せます。
 ここは、連休明けにオープンした最新の図書館、千代田図書館です。ちょっと時間ができたので、ほぼ毎日利用していますが、「書斎代わりにお使いください」とのコンセプト通り、ノートパソコンを持ち込む人を見かけましたので、試しにノートパソコンを持ち込みましたら、インターネットに繋がりました。ここで、書籍やインターネットで資料を調べ、原稿やレポートまで書けるので、気に入っております。普段は夜中しか先生のブログにたどり着けませんでしたが、これからは、いつでも拝読できます。音声はイアホンで聞きました。
 私の母は、94歳で今年の2月から生涯で初めてというほどの長期入院中、一昨日ペースメーカーを入れましたが、毎日、病院で感謝の生活をしております。執刀医から「10歳は若いが秘訣は」と聞かれたので、「生長の家を信仰しています」と話したら、納得していたと母は語っていました。

投稿: 久保田裕己 | 2007年6月 5日 14:46

副総裁 谷口雅宣先生
 合掌、ありがとうございます。初投稿させていただきます、出版・広報部の七尾と申します。
 先生のブログをいつも興味深く拝見させていただいています。
 今回の動画は、今までにないことで驚きと感動を覚えました。又、最後の方に、「このビデオを自分のブログに投稿する」という部分がありましたので、早速私のブログで紹介させていただきました。
 副総裁先生のお言葉が直々にネットを通じてビデオを共有できる環境があるというのは、大変ありがたいことだと思いますし、画期的で、素晴らしいなと思います。尚、先生のビデオでの問いかけついては、これから考えさせていただきます。心より感謝申し上げます。再拝

投稿: 七尾真己子 | 2007年6月 5日 17:57

副総裁 谷口雅宣先生
養老孟司氏の言われていることは、
 自他一体の心を持たねばならぬ。(あるいは、同悲の心を持つ必要がある。)不幸の真っ只中にいる人を宗教は救わなければならない。ということではないかと、私は思いました。
 しかし、世の中に不幸があることと、世の中に宗教があることとは等号(=)では結ばれないと思いました。
 次に、
≪「悪は善のためにある」というならば、悪を消す努力は無意味かもしれない。≫についての私の意見を述べさせて頂きます。
 善悪の判断(判断基準)は時代・地域・民族によって異なると思います。それは当然現象世界のことであります。その様々な場面で、悪がある・悪い状態があるから善(良い状態)の本当の意味が分かると思っている人々に対して、本当は、悪(悪い状態)は無い。ということを人・時・処の三相応に合致して伝えてゆかなければならないと思います。

 以上、意見を送付致します。

 志村 宗春拝

投稿: 志村 宗春 | 2007年6月 5日 20:25

副総裁 谷口雅宣先生
合掌、ありがとうございます。
初めて投稿します、
副総裁先生、単純な質問を述べさせて頂きます。

(毎日ひたすらニコニコしていたら、馬鹿ではないかと思われてしまう。つまり養老さんはここで・・・・、)←この所では、なんと仰って居られるのですか?、私の学の無さからか何回聞いても聞き取れず、大変お忙しい所を真に申し訳ございませんが、教えて下さい。
ネットを通じて副総裁先生のお話が直に聞けることを喜んでおります、
林 清人再拝

投稿: 林 清人 | 2007年6月 6日 06:05

副総裁 谷口雅宣先生

初投稿させて頂きます。
まずは自己紹介。三重県在中で主に学生の活動をさせて頂いている平野明日香と申します。はじめまして。

私が生長の家に触れたのが約3年半前。その後、このブログを拝読させていただくようになりました。いつも興味深い内容ばかりで、考えさせられます。ありがとうございます。


>「悪は善のためにある」というならば、悪を消す努力は無意味かもしれない。
について私の考えですが、“悪を消す”という段階で悪を認めている、悪は在るものだと捉えていることになると思いますので、悪を消す努力というのは無意味なように感じます。
ただし、“悪は善のためにある”というのは光があれば現象では陰ができるように対になるものと悪を捉えるならば、現象上悪は在るようにみえることはあると思います。
ですので、先生のおっしゃる通り、悪を否定的に見るのではなく、善を善たらしめる大切な材料だと考えることができるかと思います。


養老孟司さんはあくまでも解剖学者であり、宗教学者ではなく、前者の立場から解剖学を学んでいるとどうしても今の科学では証明しきれない部分があり、宗教心にたどりつく場合があります。という背景より、養老さんは科学から宗教を語っているのであり、先生のように宗教から科学を語るのとは少し違うように感じるからこそ、真理が入っていても、先生に何かを言いたい気にさせたのかもしれないと感じました。


最後に、私は理学療法士という立場です。日常は脳卒中になり、歩行困難になった患者様とともに訓練をし、社会復帰を目指すことが多いためか、“歩く”という健常人にとっては当たり前なことがありがたいのだというのを実感させられます。不幸に苦しむ気持を追体験しなくても、それぞれの生活で実感できることは溢れていると感じます。すこし視野を広めてみることで「愛」や「慈悲」の心は生まれてくると感じます。

長々と失礼いたしました。これからも先生の書かれるご文章を楽しみにしております。

投稿: 平野明日香 | 2007年6月 6日 06:25

合掌 ありがとうございます。
私は難病の子供を持ち、長い間国立小児病棟で生活しました。
その間「病なし!」の教えに苦しみ(?)「人間神の子」の
教えに真っ直ぐ向かい、多くの勉強をさせて頂きました。
本当に心より「生長の家」に感謝し、今も歩ませて頂いています。
 確かに病気の子供達を見ると胸が痛いです、またそのような
お子様を持つお母さんの悲しさは、自身の肉体が覚えている位解り
ます。でも、私自身、最後は「明るさ」と「全てのものへの感謝」
で解決した様に、現象の奥の本来の姿を観る事にしかないと思います。
 この事は、病気やその他現われた現象を経験した人間でなくても
真理を学び、「愛」深い人なら相手を救ってあげる事が出来ると思い
ますし、私もその様な相手の心だけを同悲してあげるだけでなく、
今あるたった少しでもの、善い所明るい所を見てあげ、共に感謝して
あげたいと思います、その為にも私自身がいつも「明るく」「感謝」
して生きなくてはいけないと思っています。
 副総裁谷口雅宣先生いつもありがとうございます。

投稿: keiko | 2007年6月 6日 08:36

合掌ありがとうございます。

産経新聞の養老さんの記事の全文読んでみました。
まず前半部分で宗教活動のあり方を考えさせられました。
他人の「不幸」を勝手にこちらで想像して、こちらの「幸福」を押し売りしてしまう、そういう「宗教活動・勧誘」は迷惑である。
 相手にとっての「不幸」や「幸福」はその人の立場に立って初めて解るもの、しかし相手の立場経験は100%追体験できるものではない、できる限り(神に祈ってでも)相手の立場を理解しようと努めることが本来の宗教の役割である。
 そういうようなことを養老さんは仰りたいのではないでしょうか。
 
 生長の家の活動は現象の不幸やそれに伴う相対的な幸福を経験している現象人間の立場に立つのではなく、本来幸福のみの実相人間(神の子)の立場に立つ活動だと私は考えています。 
 
 相手(神の子)の立場になるという話で、お笑いタレントの千原ジュニア著の「14歳」という本の中で、引きこもりであった著者と彼のおばあさんのやりとりが非常に参考になりましたし、感銘をうけました。

投稿: masaomi | 2007年6月 6日 11:14

谷口雅宣先生

 私はこの世に悪と見えるものが何故、出て来るかと言ったら、それは善を表現する為であると思います。それは内に無限の才能を秘めている画家は表現の最初の段階は稚拙な絵を描いて行きますが、段々、経験と訓練を重ねる事によって、高度な芸術を表現して行きますが、その表現というのは稚拙な状態(迷い)から高度な表現力(悟り)に昇華して行く事によって、表現されます。
 従って、その表現の初期段階として迷いとか悪が一時的に出て来るのだと思います。ただ、だからと言って、全ての悪や不幸を経験する必要は無く、その人がある道で苦労して悟りを啓いたら、その他の道での不幸を経験しなくて良いと思います。

堀 浩二拝

追伸

突然、先生のユーチューブが出て来たのはびっくり致しました。素晴らしいですね。

投稿: 堀 浩二 | 2007年6月 6日 16:07

副総裁谷口雅宣先生

 いつもご指導ありがとうございます。

 現象に立っていれば、いつまでたっても悪と見えるものがあると思えるでしょうが、唯神実相にたっていれば、ありようがないです。理屈ではないと思います。

 ありがとうございます。

投稿: 岩井 正子 | 2007年6月 6日 16:31

林さん、

>>(毎日ひたすらニコニコしていたら、馬鹿ではないかと思われてしまう。つまり養老さんはここで・・・・、)←この所では、なんと仰って居られるのですか?、

 私が言っているのは、「ここで言外に……」です。はっきり言っていないが、そういう意味が言葉の背後に感じられるという意味です。

投稿: 谷口 | 2007年6月 8日 13:26

谷口雅宣副総裁先生

合掌 ありがとうございます。

 突然の動画に正直驚きましたが、お訴えになられて居られる事、心に響く感じが致しました。
 敢えて「問い掛け」で終わる。
 ここから後は私達の判断に委ねられて居られます。

 養老氏の見解もひとつの「宗教観」であると私は思いますが、現代人はこうしたものを“ひとつの見解”として捉えず、兎角「ああ、宗教とはこうしたものか」と捉え勝ちな傾向が御座います。即ち「全体」として捉えてしまう。
 
 生長の家の御教えに触れた者ならば、宗教の深遠さが理解出来ますが、その辺りで、私は副総裁先生が敢えて問い掛けをなされた、という印象を受けました。

 この記事の後に副総裁先生は更に新しい記事を更新なさって居られますが、それを拝読する前に一旦、コメントを書かせていただきました。

再拝。

投稿: 長瀬祐一郎 | 2007年6月 9日 13:23

副総裁谷口雅宣先生

先ほどインターネットをみていましたら、東京電力にTEPCOとして、養老孟司さんとのエコ対談が掲載されていました。

すでにご存知かもしれませんが、ご参考までに。
http://www.tepco.co.jp/oze/ecology/index-j.html

この中で、養老先生は「感性は外に出なきゃ磨かれません。人間の本来の能力ってすごいんですよ。文明が人間をバカにしているだけです。」と述べられており、“毎日ひたすらニコニコしていたら馬鹿ではないかと思われてしまう”と言われた事と結びつきました。
毎日“ひたすら”ということでただただニコニコしているだけでは駄目で、ちゃんと感性を働かせてニコニコするようにとの想いが込められているのでは?と感じました。

また、養老先生は「都会では「仕方がない」と言ったら負けですから。そうやって人のせいにして生きるというのが、都会の生き方。仕方のないことと、そうでないことの区別がつかなくなっちゃったんですね。」とも言われており、各人が正しいことを判断する能力を身につけることが大切だと感じます。

日々の生活に追われ、一定の環境にとどまるのではなくて、様々な環境にでることで感性を磨き、それを生活に生かすことが大切なんですね。

自分のなかでも少しすっきりしました。ありがとうございます。

投稿: 平野明日香 | 2007年6月10日 01:29

谷口雅宣 先生

〈悪は「善のためにある」というならば、悪を消す努力は無意味かもしれない〉

ということですが、わたしの見解を述べさせていただくと、

始めの〈悪は善のためにある〉という部分ですが
ある段階以下の自覚にある霊魂には当てはまるかと思います。

まだ真の高き覚りの境涯に達していない霊魂には“仮に”悪とみえる環境が現れて来、それによって「真理」に導かれ「悪なし、善一元」の実相を覚ることになりますので、〈悪は善のためにある〉という表現は当てはまります。(正確には、悪は善を導くために仮にある、ですが)
しかし、後ろの〈悪を消す努力は無意味かもしれない〉ということにはなりません。

また、真の「実相のみ独在、神の善のみ独在」という高い自覚に達した霊魂には〈悪は「善のためにある」〉という表現は当てはまりません。実相には“悪なし”ということを覚っているからです。

では、失礼致します。再拝。

投稿: 横山浩雅 | 2009年11月14日 12:36

この記事へのコメントは終了しました。

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