« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »

2007年6月29日

暑中に水を飲む

 今年も暑い夏がやってきた……との実感がする1日だった。朝の天気情報では東京の最高気温は28℃だったが、原宿にある私の事務所の温度計はずっと30℃近くを指していた。それでいて曇り空だったから、梅雨が明ければ連日の“真夏日”は確実だろう。しかし、日本は恵まれた国だ。この梅雨のおかげで植物が育ち、湖沼の水位が上がる。この時期に、ヨーロッパでは40℃を超す熱波に襲われて、人が死んでいるというニュースが流れていた。アフリカでは、旱魃による水不足が深刻だと聞く。
 
 気象庁の25日の発表では、今年は5月ごろからペルー沖の海水温が例年より低くなる「ラニーニャ」現象が発生していて、異常気象が起こる可能性があるという。26日付の『日本経済新聞』はこのことに触れ、「1970年代以降の主な穀物高騰の局面は、エルニーニョよりラニーニャ現象が発生した時に重なる」と分析し、アメリカの穀倉地帯では「春の降雨で作付けが遅れ、夏場は高温乾燥となる傾向が強い」という丸紅経済研究所の見解を紹介している。今年は特に、アメリカがバイオエタノールの生産ブームの渦中にあるため、ラニーニャ現象が起こる前から穀物市場は記録的な高値圏にある。穀物の価格高騰は、途上国の貧困層にとっては死活問題につながる。「どうか穏便に……」と祈りたい気持だ。
 
 地球温暖化にともなう自然災害でよく言われるのは、海面水位の上昇や洪水の頻発だが、これと“正反対”の印象がある「水不足」も覚悟しなければならない。水不足の原因の1つは、気温上昇によって高山から雪が減ることだ。春から夏にかけて高山に雪があれば、雪解け水はゆっくりと山を降りる。しかし、雪がなくなってしまうと、山に降った雨は斜面を猛スピードで駆け下りるから、洪水になりやすい。川の水はいったん海へ入れば、灌漑や飲料水としての利用は困難となる。だから人々は、川と湖沼の水を使い、さらに地下水を汲み上げて不足分の水を補う。こうして地下水位が下がり、土地の一部は砂漠化していく。
 
 この「砂漠化」の危険を訴える報告書が国連の機関から出た。29日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、ドイツのボンにある国連大学が28日に発表した報告書は、温暖化の傾向がこのまま続けば、アフリカと中央アジアの砂漠化により大量の環境難民が出て、一部の国では政治不安が広がり、地球規模の環境危機をもたらすと警告している。この報告書によると、「すでに現在の時点でも、数百万、数千万の人々が水を求めて移動し、国内での住居放棄や国際的な人口移動が起こっている。それには様々な理由があるが、サハラ以南のアフリカと中央アジアの国々の場合は大抵、土地の劣化が原因である」という。

 同紙によると、これらの国々では水の過剰使用が顕著だという。その理由は、貧困国ではそれ以外に生きる手段がないかららしい。この報告書の筆者の1人であるヤノス・ボガルディ氏(Janos Bogardi)は、「今日では、乾燥地帯から逃れてくる人々は、ほとんどが経済発展地域からまだ離れている。しかし、船に乗ってヨーロッパを目指す人々が増えつつある現象は、氷山のほんの一角です」という。同じ新聞の論説欄には、アメリカの評論家、ニコラス・クリストフ氏(Nicholas D. Kristof)がアフリカの最貧国、ブルンジから書いた文章が載っている。それによると、この国の国民1人当たりの平均収入は年間約100ドル、平均寿命は45歳だ。この国にあるタンガニーカ湖は、ここ4年間で湖岸が1.5メートル後退し、多くの船が港に着けなくなった。アフリカ最大のヴィクトリア湖は昨年、湖面が毎日1.5センチの割合で低下したし、アフリカ北部の、かつて巨大だったチャド湖は、今ではほとんど消滅しかかっているという。
 
 こういう国々の指導者が、温暖化の原因である先進諸国をどう見ているか? クリストフ氏は、気候変動は先進諸国によるアフリカへの「最新型侵略行為」だというウガンダのヨウェリ・ムセヴェニ大統領(Yoweri Museveni)の言葉を引用している。また、ケニアにいる国際援助組織ケア(Care)の一員は、先進国によるCO2排出によって、同じ先進国によるアフリカ支援の効果は無に帰していると嘆いているそうだ。

 これから来る暑い夏の只中で、読者がもしペットボトル入りの市販飲料水を飲む時には、水不足に喘いでいる人々のことを思い出してほしい。今、本当に「その水」を必要としているのは、我々ではないのである。

 谷口 雅宣

| | コメント (2)

2007年6月28日

紫陽花の色を愛でる

 梅雨時に音もたてずに降る雨には、紫陽花(あじさい)がよく似合う。わが家の庭には昔から紫陽花があって、ちょうどこの頃に、ハンドボール大の紫、ピンク、青などの“花”をいっぱいにつけ、見る人の心を慰めてくれる。今“花”という言葉を使ったが、植物学的には、紫陽花の花のように見える部分はガクである。色のついたガクに囲まれて、米粒大の白っぽい花が中央部についている。私は、子どもの頃は、紫陽花をあまり好きでなかった。花らしい香りがせず、ただ大きいだけだから、空間をムダに占有していると思っていた。ところが結婚してみて、妻がこの花を好いているのを知った。そして、彼女が花屋や庭から紫陽花を室内に持ち込み、花瓶に差して誉めるのを聞きながら、その花の見方をゆっくり学んだ。

 紫陽花の花は「七変化」するという。どんな土壌に生えているかで変わるだけでなく、同じ1つの株についた紫の花同士でも、赤に近いものと青に近いものがあったりする。また、同じ1つの花の塊が、気候条件で色が違って見えることもある。そういう微妙な色の変化を楽しむことができるようになると、いつのまにか、私の心の「好きな花」という箱の中に、紫陽花がドンと座っていることに気がついた。

 雨に濡れた紫陽花の花を見ていると、心が安らぐ理由がある。紫陽花のもつ「青」「紫」「赤」の色の連続には、何か不思議な作用があるらしい。光や色彩と治療効果の研究をしているジェイコブ・リバーマン博士(Jacob Liberman)が書いた『光の医学--光と色がもたらす癒しのメカニズム』(飯村大助訳、日本教文社刊)によると、青い光は新生児の黄疸の治療に効き、リューマチ患者の痛みを和らげるという。色のスペクトルでは青の反対側にある赤い光は、偏頭痛の治療に効果があり、青と赤が混ざったピンクの色--いわゆるバブルガム・ピンク--は、アメリカの刑務所の部屋の色として使ったところ、神経の苛立ちを鎮め、暴力行為の減少に貢献したという。赤い光を短時間見ると、運動選手の瞬発力が高まり、青い光を見ると持久力が高まるらしい。
 
 そんなことを知らなくても、緑色の葉を背景にした紫陽花の色は、見るだけで我々を充分元気づけてくれると思うのだが……。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (9)

2007年6月26日

風車(かざぐるま)

 先日、芝・大門の増上寺へ行ったとき、境内の西端にズラリと並び、風車を持った石の地蔵像がとても印象的だったので、カメラで記録した。これらは「千躰子育地蔵尊」と呼ばれ、子供の無事成長、健康を願って奉安されているという。隣接して祀られた西向観音(にしむきかんのん)が、子育てや安産に霊験あらたかとされるのにちなみ、昭和50年から順次奉安されているらしいが、数えてみなかったので本当に「千体」あるかどうか分らない。ときどき木々の間をぬける風に、風車が小さく軋むような音を立てて一斉に廻る様子は、なかなか見ものである。子供の顔をした地蔵像には、赤い帽子や涎(よだれ)掛けがつけてあるから、流産児供養の意味もあるに違いない。私は、人工妊娠中絶でこの世に生まれることのできなかった人たちの慰霊の場だと考え、静かにシャッターを押した。

 ところで、増上寺のウェッブサイトの説明では、1万6千坪の境内の建物は大門から西方向へ並んで造られ、「穢土から極楽浄土に至る世界を表している」のだそうだ。西方極楽浄土の方向へ「煩悩を解脱し、大殿阿弥陀仏の元へと向かう」構造になっているという。そして、西の端には西向観音を安置した観音堂がある。ここは江戸33観音札所の第21番霊場にもなっていて、増上寺より旧い。鎌倉時代に執権、北条時頼が観音山に辻堂を建立し、石造の観音像を祀ったことに始まると伝えられ、慶長3年(1598)に増上寺がここへ移転してきたことで境内地に含まれることになったそうだ。同じ1つの土地に、様々な因縁が複雑に重なり合っていることを感じた。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (4)

2007年6月25日

神への愛

 ガザーリーの神学の中で注目すべきものは「神への愛」についての彼の考えである。彼以前のイスラーム神学では、「人間が神を愛する」ことは比喩的な意味以外では不可能だと考えられていた。なぜなら、愛する対象はまず認識できなければならないし、愛するためには、愛する側と愛される側の間に何らかの共通点がなければならないからだ。ところが、神を感覚でとらえることはできず、神の全貌を人間が認識することは不可能であるし、加えて神とは、人間とまったく異質な存在だと考えられてきたからである。認識や理解をはるかに超えた異質な対象を、人間は愛することはできない--このように、それまでの通説では、愛とは「愛される側」の性質によって引き起こされるものだと考えられてきた。
 
 ところがガザーリーは、これを“逆立ち”させて、愛が成立するのは、もっぱら愛する側に原因があると考えた。そして、同じ「愛」であってもその内容は様々で、愛には本質的に次の3種があると主張した--①自己中心の愛、②完全なものへの愛、③愛する側と愛される側の間の一種不可思議の愛、である。①は、自分の存続を維持する感情で、およそ生物すべてにこれがある。本質的には自己愛であり、自己保存本能の発露であり、自分の生命の維持と自分に利益をもたらすものを愛する段階である。

 ②は、これとは性質が異なり、自分が何らかの意味で「完全である」と認めたものに対して抱く愛であり、憧憬に近い感情である。愛することによってその対象を自己目的に利用するのではなく、ただそのものの完全さを愛するのである。もちろん“完璧な美人”を愛する場合、その美人を自分の側に取っておきたいという欲望が出ることがあるが、その場合は①の愛に転化したと考える。しかし、人間は美人が美しいというだけで、自己目的とは無関係にその美を愛することができる。これは美しい絵画、自然の風景、有徳の人、完璧な数式……等についても、同様に言えることだ。

 ③の愛とは、ガザーリーによると「恋愛」のようなものである。それは理由がよく分らないのに、相手を愛するのである。これは、相手が自分の存続に有利になるからでも、相手が美しいからでも、相手が完全であるからでもなく、理由がわからずとも、魂をささげるほど愛する。ガザーリーは、そういう愛は謎であるが、実際に存在することを認めるのである。(彼がフロイトの精神分析論を読まなかったことは確かであるが、そのことはここでは問題にしない。)そして、これら3種類の愛が同時に体験できるならば、それこそ「至上の愛」と言えるというのである。「神への愛」とは、まさにそういう種類のものだ、と彼は言う。

 神は、人間にとって自己の生命の本源であるから、生命を与えてくれた神を愛するのは、①の愛である。神は唯一無比、完全円満、完璧なる存在であるから、その神を愛するのは②の愛である。そして、神と人との間にはいわくいい難い、理屈では説明のできない引き合う力があることも事実だから、③の関係も存在するのである。こう考えていくと、神への愛とは、「すべての存在に対する愛」と同義であることが分かる。いや、人間は一度に様々なものを愛することはできないから、「すべて」を愛することは不可能である。しかし、「神への愛」によってそれが可能となる。神はすべての創造主だから、神を愛することを通して、人間はすべてのものを愛することが初めて可能になるのである。こうして、ガザーリーは「神への愛」を通してイスラームの中に初めて「社会への愛」という概念を導入した、と言われている。(井筒俊彦著『イスラーム思想史』p.157)
 
 ところで、この「神への愛」を至高とする考えに触れた時、読者はデジャヴー(既視体験)のようなものを味わなかったろうか。そうなのである。同じことはユダヤ教、キリスト教においても説かれている。新約聖書の『ルカによる福音書』第10章に、律法学者(ユダヤ教の学者)がイエスを試すために質問をしたことが書いてある:
 
「先生、何をしたら永遠の生命を受けられましょうか」。(イエスは)彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。(25~28節)

「律法」とはユダヤ教の法律のことであり、イエスは律法学者に対し、ユダヤ教の経典(トーラー)を引用させたのである。「神への愛」を説いているのは『申命記』第6章5節であり、「隣人への愛」は『レビ記』第19章18節に説かれている。ユダヤ教、キリスト教、イスラームの3宗教は、同じ神を信じる「セム的一神教」である。それぞれの信仰者が、この同じ唯一神が示されたこの共通の教えを誠心誠意守ることができれば、世界は一変するのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
○井筒俊彦著『イスラーム思想史』(1991年、中公文庫)

| | コメント (6)

2007年6月23日

イスラームの理性主義 (5)

 アル・ガザーリー(1058~1111年)はペルシャの小村、ガザーラに生まれ、すでに幼時に法学の基礎知識を得、その後にニーシャープールのイマーム・ル・ハラマインの門下に入る。ここは当時、イスラーム法学では名門中の名門で、多くの俊才が集まっていたが、ガザーリーはその中でも優秀で、論証法においては誰も彼を凌ぐことはできず、井筒氏の言葉によると、「老師イマーム・ル・ハラマインは、年若いこの天才に代講をさせ、自分は微笑してじっと聴き入っているのを常とした」(p.134)と言われている。
 
 27歳で師が亡くなり、その後数年間、彼はイスラーム哲学(イスラームでのギリシャ哲学のこと)を修め、特にアリストテレスの思想に専心したという。33歳でバグダッドのニーザム学園の教授となり、やがて名実ともにイスラーム神学と哲学の最高権威となる。ところがその頃から、これまで修めた学問に対して彼の心に疑いが生じ、1095年に、彼は意を決して学問の道を他へ譲り、自分はスーフィーの生活に身を投じるのである。井筒氏によると、この期間にガザーリーは「冥想によって神と直接触れるのでなければ決して真の救いは得られないということを確信するに至った」(p.135)という。そして故郷へ帰って完全な隠者生活に入り、1111年に生涯を閉じたのである。

 ガザーリーを学問の世界から離れさせた原因は、知(悟性)と信仰との乖離、あるいは相反の問題であったようだ。知恵によって神を知ることと、神を信仰することとの間には大きな違いがあり、そもそも知恵によって神を知ることは可能かという疑念が、彼を悩ませたと思われる。そして、彼の行き着いた結論は、「悟性は知の世界においてのみ権威をもち、宗教の世界、信仰の領域では全く何等の権威をもたない。それ故、思弁神学が思弁によって信仰を擁護しようとするものであることを標榜するなどは、笑止の限りなのである。知によって神の認識ができるはずがない」(p.143)というものだ。「信仰を論理的に演繹して見ても何になろう。数学的に分析して見ても何になろう。それらの徒らな試みは、その余りにも浅はかな故をもって、真の信仰に生きる人を淋しくするのみである。人は寧ろ行為と感情と意志の力によって自らの魂を高めることを志し、そうすることによって自ら“酔っ払わ”なくてはならないのである。すなわち宗教は体験されなければならないのである」(p.144)と彼は考えた。
 
 しかし、だからと言って、彼は盲目的信仰の復権を訴えたわけではない。彼は理性(悟性)と信仰との双方の重要性を認めながら、宗教においては両者のうち「信仰」を最重要事とすることを主張したのである。だから、彼は「徒らに伝統的教えのみに固執して悟性を無視する者は愚人であり、悟性のみに頼ってコーランとスンナを顧みぬ者は迷っている」という言葉を残している。ガザーリーの時代のイスラームは外面的な儀式化や形式化が進んでおり、そういう形式主義に対して理性の側から異議を唱えるとともに、形式化によって失われた信仰の喜びや実感を取り戻すために信仰の内面的深化を訴えたのである。井筒氏によると、「ガザーリーの史的意義は、この固形化し枯渇した信仰を再び個人の心の温床に移すことによって、その生命を甦らせようとしたところ」(p.145)にある。
 
 ガザーリーは、「ザイドは家にいる」という言葉を例に引いて、信仰の3つの段階について説いている。「ザイド」とは普通の人の名前だが、ここでは「神」のことだと考えていい。まず、第1段階の信仰は「大衆の信仰」であり、それはある信頼できる人が「ザイドは家にいる」と教えてくれたことをそのまま信じて、疑わない種類の信仰である。これは、「ザイド」の存在を信じたのではなく、それを告げた人を信じたにすぎない。第2の段階の信仰は「思弁神学者(哲学者)の信仰」で、彼はそう聞いたならばその家の前まで行って、家からザイドの話し声がするのを聞いて、確かに「ザイドは家にいる」と信じるのである。しかし、本当の信仰は、その次の第3段階へ進まねばならず、それはその家に直接足を踏み入れて自分の目でザイドを見、目と目でザイドと対面するという個人的体験を通して「ザイド」の存在を信じるのである。

 上の喩えがガザーリー本人の体験にもとづいていることは、容易に想像できるだろう。

谷口 雅宣

【参考文献】
○井筒俊彦著『イスラーム思想史』(1991年、中公文庫)

| | コメント (3)

2007年6月22日

東京ミッドタウン

 東京ミッドタウンというサイトができてしばらくたつが、この間の休日(6月7日)に行ってきた。私の家から地下鉄で2つ目という近距離にあり、朝早くから食事ができる店があるのと、東京の“最新のスポット”の様子を確かめたいという好奇心からである。実は、ここへ足を運んだのは2度目だが、1度目はオープンからあまり日がたっていなかったので、様子を見るどころか“人”ばかり見て疲れてしまったのだ。

 地中も含め巨大な構造物をコンクリートで造り、その構造物内の遮断された空間にコンパクトな“街”をつくる--こういう発想は、決して「新しい」とは言えない。六本木ヒルズ、表参道ヒルズ、恵比寿ガーデンプレイス……同様のものはすでにいくつもある。横浜の「みなとみらい地区」もこの仲間に入るだろう。こういう“街”は人間にとって便利であることは確かだ。しかし、言ってみれば「人間中心主義」が物質化したような場所だから、気が休まったり、新しい発想を得るような場所にはなりにくいと思う。特に東京では、新しいもののために古い建物や町並みが惜しげもなく破壊されていくから、“最新”のものは体験できるが、“最新”は必ずしも最高でないのである。
 
 私はまぁ、そんなことを感じるのだが、休日に、都会の朝を軽ろやかに過ごそうという人には、充分満足できる場所かもしれない。私のここの印象を、短い映像にしてみた。

谷口 雅宣

| | コメント (6)

2007年6月21日

イスラームの理性主義 (4)

 ムータジラ派の考えには、合理主義が徹底されている。このような合理性を『コーラン』や『ハーディス』の上位に置くことは、しかし当時の宗教的環境では長続きするものではなかった。井筒氏の言葉を借りれば、「教義は直接に民衆の信仰生活と関係しており、いわゆる善男善女はこういう徹底した合理主義の結論に堪えられなかった」のである。このため、同派の教説を書いた書物は、「保守的な人々のあくなき敵意によって(…中略…)組織的に抹殺され、ついにイスラーム主要文化地域にはただの1冊も残存しないという驚くべき事態に立ち至った」(『イスラーム思想史』、p.54)という。この激烈な反動の先頭に立ったのが、40歳まで自身が同派で活躍していたアシュアリー(873~935年)であり、彼を端緒としたこの批判勢力の考え方が、やがてイスラームでは“正統派”とされるようになる。

 簡単にまとめてしまえば、アシュアリーはムータジラ派が「最高」の地位に置いた理性を『コーラン』と『ハーディス』の下に置くことを主張したのである。小杉泰氏は、この2つの基本経典の復権と、理性との関係について、アシュアリーの考えを次のように分りやすく述べている。
 
「アシュアリーは、それら(基本経典)の内容を信仰の前提としてすべて認める、という立場を取った。といっても、かつてムータジラ派に属し、論理的思考に親しんだ彼は、単に信ずればよいとは言わなかった。理屈で説明できるものは、できるかぎり説明する。(中略)しかし、理屈だけでは説明しきれない教義もある。その場合には、人の理屈の限界を率直に認めて、言われていることを受け入れる態度で臨んだ」。(『イスラームとは何か』、p.186)
 
 前回本欄で触れた「善(正義)と悪(不義)」の問題について言えば、アシュアリーの神学ではこうなる--神は正義であることに間違いはないが、この世での正義が何であるかを決めるのは神お1人であって、我々人間が理性によって決めることではない。人間の運命が決まっていることが不義だと考えるのも、それは人間の理性による判断だろう。しかし、神がそれを正義だと考えるならば、神の行うことはすべて正義だと確信するのが信仰者の態度である。(上掲書、p.187)
 
 こういう考え方は、人間の理性による価値判断を否定しないまでも、聖典に書かれたことの矛盾も、矛盾としてでなく、神の意思として受け入れよと言っているのだから、理性を信仰の下に置いている。そして、善も悪も神の創造としてあるがままに受け入れるのが信仰者だという意味で、「イスラーム」(神に降伏する)の語義に相応しいかもしれない。しかし、このままでは「人間の理性を創造した神」の意志について考察できず、また信仰者が社会改革を行おうとする動機が生まれない可能性がある。
 
 人間の運命については、もっと複雑な議論になる。アシュアリーは人間の自由意思を認めながら、神による運命を人間が獲得するという「運命の獲得」論を展開する。小杉氏によると、この理論は--「人間は主体的選択を繰り返して人生を生きているが、その主体的選択によって、あらかじめ決められている自分の運命を“獲得”しているのだ、という説明である」(上掲書、p.188)。この議論は難解なので、後世の学者たちは難解な議論を形容するのに、「アシュアリー派の運命獲得論のように難しい」と冗談を飛ばしたということだ。
 
 アシュアリーの神学は、「常に理性の自由をコーランに反さぬ程度にのみ限っていた所に」特徴がある、と井筒氏は言う。だから、イスラームの中の「いわゆる正統派(orthodox)の教義に至るには未だ路遠く」、イスラームの改新は「ガザーリーをまって初めて決定的な形となる」のである。(『イスラーム思想史』、p.83)
 
谷口 雅宣

【参考文献】
○井筒俊彦著『イスラーム思想史』(1991年、中公文庫)
○小杉泰著『イスラームとは何か』(1994年、講談社現代新書)

| | コメント (3)

2007年6月20日

イスラームの理性主義 (3)

 イスラームの歴史の中で最初に生まれた神学を「ムータジラ派」と呼ぶ。この名前は神学の創始者の名前ではなく、「身を引く」とか「離れ去る」という意味のアラビア語にもとづく。創始者は誰か確定していないが、ワーシル・イブン・アター(748年没)あたりから始まったとされる。そういう人々が何から「身を引いた」かも定説はない。自分の師の説から身を引いたとも、左右の極端な説の論争から身を引いたとも、保守的神学者から離れ去ったとも、正統的信仰から離脱したとも言われる。とにかく、それまでのイスラームの『コーラン』と『ハーディス』万能の考え方から距離を置く考えを明確に打ち出した人々のことをいうようである。その考えの新しさは、「理性」を重視する点である。重視するだけでなく、真理の基準として「理性」を認め、その絶対的権威を確立したとも言われる。
 
 井筒俊彦氏の次の説明を読むと、その考えが当時の基準からいかに革命的であるかが分かるだけでなく、生長の家の「万教帰一」の考え方との類似性に驚かされる:

「従来は真理といえば神の啓示と予言者の言行に依る以外にこれに達する途はなかった。ところがムアタズィラによって始めて理性の自律が認められ、それによってイスラーム思想は哲学的思索の路に踏み出すことになった。真理はコーランとスンナの外にも至るところに在る。ギリシャ思想、ペルシャ思想、インド思想、キリスト教、ユダヤ教、形は何であれ、およそ理性の正しくすぐれた行使のあるところ真理は在る。かくて彼らはイスラーム以外の思想伝統にも真理の発露を見、それを探究した。この事実がイスラーム自身の思想発展にいかばかり強力な推進力となったかは想像にかたくないであろう」(『イスラーム思想史』、pp.56-57)
 
 このような考え方が、アッバース朝前期からイスラーム界に広がり、回教暦22年には、第7代カリフ・マームーン(在位813~833年)がムータジラの教義を公認する法令を発布するに至り、同派の勢力は絶頂に達する。同派の活動は8世紀半ばから約2世紀にわたり、最盛期には6つの分派を包括する強大な神学上の学派を構成して、大小無数の書物が市場に溢れていたという。(上掲書、p.54)

 上記から分かるように、ムータジラ派の思想は、すぐれて哲学的である。例えば、本欄でもしばしば取り上げてきた「善と悪」の問題については、次のように考える。

「善行悪行いずれにせよ、全て何か行為をしようと決意してその行為を創造するのは人間自身に他ならぬ。故に人はこの世で為した事の善悪に従って、来世において賞なり罰なりを受けるのである。こう考えることによって始めて神は悪や不正や非信仰的な行いやまたは宗法違犯を完全に超越したものとして理解される。何故なら、もし神が悪を創造するならば、神は悪であることになってしまう。神が正しいことのみを創造してこそ正義なのではないか」(上掲書、p.57)

 上の議論は、「神は正義であるか否か」という大変重大なことを扱っている。つまり、神が正義であるならば、神の創造になるこの世界に悪があるのはなぜか?--という問題である。ムータジラ派の考えによれば、神は正義であるから、不義なことをなさるはずがない。したがって、人間を罪深いものとして創造し、その人間が悪行を犯したからといって、責任を人間に転嫁するような不当なことはされない。人間の行為はすべて人間によって創造されるのであり、したがってその行為の責任が人間に帰せられるのである。

 --こういう議論の何が問題か? その1つは、何が正義(善)であり不義(悪)であるかを判断する基準が「理性」に置かれていて、神に置かれていない点である。言い換えれば、上の議論では、神の創造されたものの中にも「悪」があると理性によって判断している点である。もう1つは、イスラームの「六信」(6つの基本的信仰)のひとつに「定命(運命)」があり、人間の運命はすべて神によって定められているはずなのに、ここでは人間が運命を創造することになっているからである。さらにもう1つ指摘すれば、イスラームでは「最後の審判」の際にモハンマドが信徒の罪を軽くするように、神に「とりなし」をしてくれることになっているが、上の議論では、自ら犯した罪は自ら償うとの原則が貫かれている。
 
 本欄の読者の多くは、しかしこの議論と生長の家の考え方の間にかなりの共通点を認めるに違いない。
 
谷口 雅宣

【参考文献】
○井筒俊彦著『イスラーム思想史』(1991年、中公文庫)
○小杉泰著『イスラームとは何か』(1994年、講談社現代新書)

| | コメント (0)

2007年6月19日

イスラームの理性主義 (2)

 昨年9月25日の本欄で本題について少し書いたが、イスラームの歴史的発展の初期にあっては「理性」はあまり重要でなく、「理性に対して啓示を絶対的に優位におく態度」が根深くあった。これに対して、イスラームの信仰上の問題を思弁的・論理的方法によって解決しようとする動きが、ウマイヤ朝(661~750年)の末期から起こり、アッバス朝期(750~1258年)にいたって無数の学者や学派を生み出していく。その理由について、イスラーム研究者の井筒俊彦氏は次のように書いている。
 
「ムハンマドは感覚的で非論理的なアラビア人の典型的な偉人であり、そのもたらしたコーランは、こういう視覚的・感覚的な天才、非論理的な天才の生み出した驚異すべき産物である。イスラームが始まって以来今日に至るまで、あらゆる宗教的、精神的活動の源泉となって来たコーランが、このように非論理的な精神の生み出したものである一事は、イスラーム思想の発展を辿ろうとうする者が充分に注意しなければならぬ点である」(『イスラーム思想史、p.17』)

 井筒氏は、コーランの内容は論理的に見れば矛盾に満ちていたため、「多くの学者はこれらの数々の矛盾を如何にして論理的に解決するかという問題に一生を捧げた」といい、「コーランは真に昔のアラビア人の気持になり切り、アラビア語の美しさを味って読む人に対してでなければ、面白くないし、また本当に崇高な精神的興奮を与えてはくれないのである」(p. 18)とまで言っている。その理由は、コーランがアラビアの砂漠地帯で生きた人々の個物主義的ものの見方、感じ方を基本としていて、「著しく視覚的であり聴覚的な経典」であるからという。コーランは「描写的側面において直接視覚に訴えて来る生々しいイマージュに満ち」ており、「アッラーはあたかも人々の目前にありありと見えるかの如く描かれている」(p.20)のである。ここでは、個物を超えた「イデア(理念)」とか、個々の円形を超えた円一般などというギリシャ的な考え方は、どこにも見当たらないというのである。

 ところが、イスラームはモハンマドの死後、たちまちのうちにメソポタミアからシリア、ペルシャ、トルコを席捲し、エジプトから北アフリカへ、さらにインドまで勢力を伸ばす。そこでは、「これらの様々な古代文化圏においてアラビア沙漠の現実主義、個物主義は全く異質的な精神に衝突し、それらとの対決を迫られた」(p.24)。そして、「純アラビア沙漠的精神は後退し、そこにできた空間にビザンチン的キリスト教の神学が、古代ギリシャ的哲学精神が、ゾロアスタ教的二元論が、シリアの透徹した理性が、ヘレニズム的グノーシスと神秘主義が、目もあやに錯綜しつつ新しい思想を織り出して行く」(p.25)のである。

 イスラーム研究者の小杉泰氏の言葉を借りれば、イスラームの神学は「滔々と流れ込んだギリシャ哲学の影響に対する反作用」として生まれ、「アリストテレスの論理学に代表される理詰めの思考パターンと共に、ギリシャ哲学が好んで話題にしてきた主題がイスラームの宗教思想の中に流入した」(『イスラームとは何か』、pp.180-181)ものである。中村廣治郎氏の言うように、伝統的なイスラームの諸学はすべてこのアッバス朝期に花開き、「さらに9世紀には古代・ヘレニズム期のギリシャ語文献が大々的にアラビア語に翻訳され、その遺産の継承・発展がなされた」(『イスラム教入門』、p.56)のである。

 イスラームの発展に伴うこのような文化的“鳥瞰図”を描いてみると、イスラームで「理性主義」と呼ばれているものの位置が明らかになる。それは、仏教における「大乗」の教えの登場や、ユダヤ教からキリスト教が分離・発展していった事情とも似ている。それは、ある地方に生まれた天才的宗教家の教えが、いわゆる“世界宗教”になるための、「文化的融合」という必然的過程の中で登場しているのである。このことを思うと、私がかつて『信仰による平和の道』(2003年、生長の家刊)の中に書いた次の言葉が、イスラームにも該当することが分かるのである。
 
「宗教というものはそれぞれの発祥の地における地域的、文化的、時代的な特殊な要請にしたがって登場し、成立するものではあるが、それが真理を説き、時代の変遷にもかかわらず発展していくべきものならば、それは成立当初のローカル色や特殊性から脱却し、普遍的な真理を前面に打ち出すとともに、伝播地においては、逆にその土地のローカル色や特殊性を吸収し、応用するだけの“幅”や“柔軟性”をもたねばならないことが分かるだろう」(pp.17-18)

谷口 雅宣

【参考文献】
○井筒俊彦著『イスラーム思想史』(1991年、中公文庫)
○小杉泰著『イスラームとは何か』(1994年、講談社現代新書)
○中村廣治郎著『イスラム教入門』(1998年、岩波新書)

| | コメント (4)

2007年6月18日

「悪を認めない」でいいのか?

 本欄では、すでに1月末(28日29日)に「“悪と認める”とは?」という題で、生長の家が世の中で“悪”と呼ばれているものをどう考え、どう対処するかについて論じ、さらに6月上旬(4日5日6日)にも「悪はなぜあるか?」についても考えた。しかし、これらの議論は抽象的だったので、私たちが現実の場で具体的にどう考え、どう対処するべきかが必ずしも明確でなかったと思う。そこで、去る6月10日に大分県で行われた生長の家講習会で出た、この問題についての実際の、具体的な質問に対して、私が回答している様子を下に掲げ、読者の皆さんの参考に供したい。

 ただ、この質問自体も少し抽象的なので、私の回答も一般論として理解していただければ幸いである。この回答の背後には、上に掲げた多くの議論があること、また個別、具体的な実際の事態への対応は、場合によってはこの回答と同じ結論にならないことをご承知おきいただきたい。

谷口 雅宣

| | コメント (4)

2007年6月17日

自然と共に伸びるために

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山境内にある谷口家奥津城前で、谷口雅春大聖師22年祭が厳かに執り行われた。大村湾上空は朝からどんよりと曇り、山には霧がたちこめていた。あまつさえ年祭の開始前には一時、まとまった量の雨が降ったが、直前に雨は上がり、年祭の最中には雲間から陽が射すなど、穏やかな天候のもとに御祭が行われたことは誠にありがたかった。以下は、御祭の最後に私が述べた挨拶の概略である--
-------------------------------------------------------------

 本日は谷口雅春大聖師の22年祭に大勢お集まりくださいまして、誠にありがとうございます。皆さんもよくご存じのように、谷口大聖師はこの総本山の自然を大変愛された方でありました。私たちも総本山へやってきますと、練成会の献労などを通じて、この地の自然に深く接することで大聖師の御心に近づくことを感じます。そういう意味で、自然豊かなこの地で練成会のできる我々はとても幸せだと思います。

 自然と人間との関係を調和あるものにすることは、この21世紀最大の課題であることは、皆さんもご存じの通りです。つまり、地球環境問題の解決は大きな課題です。生長の家もこの課題を自ら解決していくのでなければ、発祥以来掲げてきた「人類光明化」の目的には近づくことができません。そういう意識で、生長の家はただ今、「自然と共に伸びる運動」を目指して歩み始めています。「人類光明化」や「国際平和」は、自然との共存なくしては実現しないことは、今や世界中の科学者が認めるところとなっています。人間が自分たちの都合を優先させて自然を破壊する行為は、却って人類への被害を大きくし、経済的にも多大な犠牲を払うことに気がついてきています。

 今年の2月に発表された国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第4次報告書が、そのことを明確に示しました。この報告書は、113カ国から約300人もの代表者が出て合意されたもので、報告書の「まとめ」の部分だけでも約600人もの科学者が執筆に加わっています。その内容をまとめると、「人類が今後、省資源の循環型社会を実現したとしても、21世紀末には地球の平均気温は約1.8℃、海面は18~38センチ上昇する。また、化石燃料に依存した高度経済成長を続けていれば、平均気温は約4℃、海面は26~59センチ上昇する」というものです。
 
 人類がこのまま化石燃料に依存した生活を続けていくとどうなるかを、ある新聞記事は次のように書いていました:

「今後20年以内に何百万人もの人々が水不足に陥ると同時に、他の何千万人もが毎年、洪水のために住居を失う。マラリアなどの熱帯性の伝染病が拡大する。ホッキョクグマは動物園以外にはほとんどいなくなり、ハリアリなどの熱帯性の害虫が生息地を広げる。世界の食糧生産は温暖化にともなって一時的に増えるが、2080年までには何億人もが飢餓に陥る可能性がある。科学者の間できわめて確かだと思われるのは、温暖化の進行によって生物の性質と生息地が変化すること、海水の酸化がさらに進行すること、湿地や湿原が失われること、サンゴの白化、アレルギーを起こす花粉の飛散拡大など。そして、これらの影響により最も深刻な被害を受けるのは貧困層の人々である」。(2007年3月12日『ヘラルド朝日』)

 こういう時代が来ないためには、今から、すべての人間が、自分のできるところから、自然にできるだけ負担を与えない生活を自ら実践する必要があるのです。団体参拝練成会に参加しておられる皆さんの多くは、すでにそのことを知り、ご自分の生活の中で「自然と共に伸びる」生き方を工夫してくださっていることと思います。日本人は伝統的に、自然との一体感を大切にして生きてきました。宗教的にも自然の中に神仏を見る生き方が、神道や日本仏教の大きな特徴でした。日本の「実相顕現」とは、だからそのような日本古来の感性を、地球温暖化時代の現代に、もっと顕著に顕わしていくことでもあります。

 人間と自然との一体感は、ここ総本山へ来れば如実に感じることができますが、しかし毎日の生活の場でも、その感性をしっかりと保持し、表現していかねばなりません。セメントやコンクリートで囲まれた都会で生活している人には、それは難しいかもしれませんが、谷口雅春先生は、私たちが心の中でそういう「自然との一体感」を維持するために、とても有難い言葉を私たちに教えてくださっています。『生命の実相』の幸福篇は、1年365日に対応して真理の言葉が集められていますが、実は今日の「6月17日」の項には、まさに自然と人間との一体を念ずる言葉が記されているのであります。雅春先生は、ここでは「自然」という言葉の代わりに「宇宙」という言葉を使われていますが、自然が宇宙の一部であることは、言うまでもありません。
 
「宇宙全体は1つの生命で生かされている。宇宙全体が生き物なのである。その生命流れ入って『吾』となっているのである。宇宙全体が、『吾』の内に流れ込んでいるともいうことができる。
 そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手である。各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。そしてその舵は次の『言葉の力』である。--
『自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と1つである』
 常にこのことを『言葉の力』にて心に描け。これが常住の神想観である。そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。自分はすでに成仏しているのである」(p.169)
 
 この短い祈りの言葉を神想観の中で常に唱えることで、私たちは「自然」あるいは「宇宙」との一体感を深めることができます。この言葉よりもっと長い言葉を唱えたい人は、『真理の吟唱』などの中に、この言葉を具体的なイメージの形で展開した「祈りの言葉」もあります。今日は、私が最近出させていただいた『日々の祈り』の中にある「雨の恵みに感謝する祈り」を1例として紹介しましょう。

 (祈りの言葉の一部を朗読)
 
 生長の家には、この祈りのほかにも、自然と人間との一体感を深める祈りがいくつもありますから、どうぞそれらを毎日の神想観や聖経読誦の中に取り入れていただき、自然との一体感を重んじる日本人の感性を実生活に顕現していくだけでなく、事業や教育の面でもその感性を自信をもって表現していく。そういう活動を、これから大いに展開していっていただきたい。そのことが21世紀の「人類光明化」の道であり、「国際平和の実現」であり、また同時に「日本国実相顕現」の運動でもあるわけです。
 
 谷口雅春大聖師の22年祭に当たって今後の私たちの運動を展望し、ご挨拶の言葉といたします。ありがとうございました。

谷口 雅宣

| | コメント (2)

2007年6月16日

善人の不幸はなぜ?

 前回の本欄では「生れつきの障害」をもつことの原因について書いたが、そこに掲載した講習会の録画映像では、「善人に不幸が起こるのはなぜか」という、もう1つの疑問が提出されている。前回は、これを前世からの業との関係で答えている。しかし、前世からの原因によらなくても、善人が不幸に見舞われることはある。「見舞われる」というよりも自ら「引き寄せる」と表現した方がいいかもしれない。谷口雅春先生はこのことを、旧約聖書の『ヨブ記』に出てくるヨブの物語を例に引きながらよく話された。自己に厳しい善人は、「自分は罪深い存在だ」と考えることが多いので、その場合、艱難を歓迎する「自己処罰の意識」によって自ら艱難を引き寄せることがある。

 『真理』第9巻生活篇では、雅春先生は「自己犠牲」という言葉を使われて、同じ趣旨のことを次のように説かれている--
 
「徳」とは自己犠牲を必要とするものだというような考えが、あなたの潜在意識の何処かにありますと、個人の潜在意識は宇宙の潜在意識につながっており、自分の願望するところのものを宇宙意識に伝え、宇宙意識は一切の所に遍満していて、その願望にふさわしきものを、その人のところへ持って来てくれますから、自己犠牲を必要とするような事件がその人の身辺に集まって来てその人は不幸になるのです。「徳」と「福」とは両立しないという潜在意識の観念を打ち破らなければなりません。そのためには『生命の實相』を繰り返し繰り返し読んで、「神の国」即ち「実相世界」には犠牲がない、従って「実相世界の秩序」があらわれたら現象世界にも犠牲がなくなり、共存共栄の世界があらわれて来るものだということを潜在意識の底の底までも徹底せしめることが必要なのです。(pp.320-321)

「徳と福とは両立しない」という意味は、「有徳の人は幸福であってはいけない」ということだ。この場合の「幸福」とは「物質的に恵まれている」ことを含むだろう。これをさらに言い換えれば、「善人は豊かな財産をもってはいけない」ということにもなる。確かにこの世界には、そういう社会通念が存在する。逆に言えば、「財産家はきっと何か正しくないことをしている」という“ヤブ睨み”の物の見方が、それである。週刊誌の記事などは、ほとんどそういう立場から書かれている。そして、そういう週刊誌が大部数売れ続けている現状を考えると、世間の多くの人々が同種のストーリーを求めていることが分かる。つまり、それが人類の潜在意識(人類意識)の一端である。また実際に、アコギな方法で莫大な財産を手に入れる人も少なくないのだから、我々は誠に“心でつくる世界”に棲んでいると言えるのである。

 さらに言えば、上の引用文にある「徳は自己犠牲を必要とする」という観念は、宗教運動とも関係している。この観念は「信仰者は自己犠牲を必要とする」という考え方にも通じるから、この人類意識に支配された信仰者は、「信仰すればするほど不幸になる」という“ヨブの逆説”を演じたり、あるいは「自己犠牲をしない人は信仰者に値しない」という意識で他人を裁く傾向が現れる。こうなると、宗教運動は自己犠牲を競い合う苦しい運動となり、信仰運動としての魅力が薄れていくのである。
 
 谷口雅春先生は、こういう「善と福との共存」の問題を扱った『善と福との実現』(1974年、日本教文社刊)という素晴らしい本を書いてくださっているから、読者はぜひ参照されたい。

谷口 雅宣

| | コメント (0)

2007年6月14日

生れつきの障害はなぜ?

 6月10日、大分県別府市で行われた生長の家講習会での講話に関連して、本欄では「悪」の問題について少し書いた。当日は、別の問題についても多くの質問が出たが、その中に「生れつきの障害」をどのような因果関係の中でとらえるかという結構、むずかしい質問があった。質問者は、「生れつき障害をもった人は高級霊である」という説明と、「前世の業の結果である」という説明の間に矛盾を感じて、前者は方便説法ではないかとの疑問を投げかけておられた。私は、両者は必ずしも矛盾しないと答えたが、そのポイントを少し書こう。
 
 一般的には、業には「善業」と「悪業」があると言われるが、何が善業で何が悪業かは必ずしも一元的に決められないということは、これまでの「悪」をめぐる議論を通じて明らかにされたと思う。なぜなら、ある人にとって善であっても、別の人にとって悪である現象はいくらでもあるからだ。また、同一人物の周囲に起こる様々な現象についても、当初「悪い」と感じられた現象も、後になって考えてみると、同じ人物が「それでよかった」と納得することもある。では、善悪の基準はまったくないのかというと、そうとも言い切れない。やはり殺人や戦争は悪であり、人々の相互の助け合いや平和共存は善である。だから、大筋においては「善業」や「悪業」と呼べるものは確かにあるが、その個別・具体的細部においては、善悪の印象が入れ替ったり、善でも悪でもないニュートラルの現象として捉えられることはある、と考えられる。
 
 その“大筋”における善悪の判断では、「生れつきの障害」をもつことは「善」とは言いにくい。しかし、そのことが前世で積んだ“悪業”の結果である場合、“悪果”が現世で現れることと、現れないために現世でもさらに悪業を積むことを比べれば、どちらが悪いだろうか? 業の流転から解放されることが“救い”であると考えれば、この質問への答えは明らかだ--前世の悪業の結果として、早期に悪果が現れることの方が「善い」のである。なぜなら、因果の法則は、原因に対してその結果が現れることで1サイクルを終了するからだ。

 これによってその人に働いていた業力は止まる。その後は、この人は善行を積むことで善業を生み出していくことが可能となるのである。言い換えれば、悪業を積んだ人は悪果を得ることが善への転機となるのである。魂の程度が高い霊は、こういう因果の法則の複雑な働きを知っているから、意識的に(自分の過去世の悪業を解消するために)生れつきハンディのある肉体を選んで降下してくることがある。しかし、そこまで魂の程度が達していない霊は、業力のまにまに無意識にそういう肉体に宿るのである。したがって、「生れつき障害をもった人は高級霊である」ということと、「障害は前世の業の結果である」ということの間には必ずしも矛盾はないのである。
 
 講習会の会場で私はこのことを説明したが、十分に理解いただけたかどうか定かでない。文章を読むより、講話を聞きたいという人のために、下にその映像も掲載する。

谷口 雅宣

| | コメント (11)

2007年6月13日

映画『善き人のためのソナタ』

 水曜日は私にとって“週末”なので、『善き人のためのソナタ』という映画を見に恵比寿へ行った。当初、そのタイトルから韓流の恋愛モノのような映画を想像していたが、ネットで内容を調べると大変真面目な社会派の映画で、アカデミー賞外国語映画賞に推薦されたなどとあり、妻と私の趣味に合った。冷戦時代の末期、東ドイツの一党独裁体制を維持するために存在した国家監視システムと、それに抵抗する芸術家グループの葛藤、ベルリンの壁崩壊の影響などを描いている。それを実現するために、相対立する国家保安員と劇作家の心の動きを克明に追うという難しい手法を使っている点で、なかなか見ごたえがある。

 東ドイツの国家秘密警察のことを「シュタージ」と呼ぶそうだが、これはナチス・ドイツのゲシュタポにも比較される政治・思想警察・国民監視機関である。この映画のパンフレットによると、シュタージの行状については東西ドイツ統一後も長い間、映画化することはタブーとされ、今回やっと17年後に映像によって再現されたのだという。ドイツでは昨年3月の公開以来、1年以上のロングランとなり、観客の動員記録を伸ばしている。扱っている主題はノンフィクションだが、登場人物は実在でない。監督のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク氏は、西ドイツのケルン生まれで34歳の若さだ。映画制作に当たっては、元シュタージ職員を含む多くの関係者から聴き取り調査をするなど、4年がかりで綿密な調査を行ったうえで撮影に入ったという。
 
 ストーリーの細部を書くのは避けるが、大筋を言えば、“反体制派”の疑いをかけられた人気劇作家を24時間の監視体制下に置いた国家保安員のヴィースラー大尉が、その劇作家の電話も会話もセックスの様子も盗聴しながら、しだいに被監視者の信条や心情に近づき、上司への報告を偽るなどして、イデオロギーの支配から解放されていく話だ。映画の終りに向って“ベルリンの壁崩壊”が起こるが、元国家保安員の主人公は、統一後の生活は恵まれないながら、自信と信念をもって生きる様子が描かれる。
 
 この主人公を演じたウルリッヒ・ミューエ氏(54)自身が、東ドイツのグリンマ生れである。彼は自分の役柄について、パンフレットのインタビューの中で次のように語っている:
 
「ヴィースラーのような人物は実際に存在していたのです。シュタージにとって彼らは非常に危険な存在で、80年代に入るまで背信したシュタージ職員は死刑に処せられていました。彼は英雄でもあり、同時に矛盾を抱えた人物です。しかしこうした密やかな勇気は想像以上に東ドイツに蔓延していたのではないでしょうか。でなければ1989年、たった数カ月でDDR(東ドイツ)が崩壊することはなかったでしょう」

 どんな環境にあり、自身がどんな生き方をしていても、人間には正邪の判断ができる“核心”のようなものがある。たとえ時間はかかっても、大勢の人間のその良心のうねりが人類を正しい方向へ導いていくだろう--そういうメッセージを、私はこの映画から読み取った。朝鮮半島の“壁崩壊”を考えるうえでも、本欄の読者にお勧めしたい作品である。
 
谷口 雅宣

| | コメント (0)

2007年6月11日

新しい再生医療が日本から?

 本欄でときどき取り上げてきたES細胞の研究に代わるような、画期的な再生医療の技術が日本から生まれるかもしれない。「画期的」である理由は、ES細胞が卵子や受精卵などの“新しい生命”を破壊する点で倫理性が問われているのに対し、この技術は皮膚の細胞を利用するためその問題がなく、さらに患者本人のものを使うため拒絶反応の心配もないからだ。6月7日付の『日本経済新聞』などが京都大学と科学技術振興機構の成果として伝えている。
 
 この研究は、京大の山中伸弥教授らによるもので、7日付のイギリスの科学誌『Nature』の電子版に発表された。山中教授の同種の研究は、昨年7月17日の本欄でも紹介したが、4種類の遺伝子を使ってマウスの胎児の皮膚細胞からES細胞に近い多分化能をもつ幹細胞をつくるもの。前回の研究では遺伝子の種類がES細胞と3割程度異なっていたのに対し、今回の方法によれば約9割が一致するという。ただし、マウスを使った研究だから、人間に応用できるかどうかは今後の課題だ。
 
 8日付の『ヘラルド・トリビューン』紙には、この成果に対するアメリカの研究者の讃辞が並んでいる。幹細胞研究では先端をいくスタンフォード大学のアーヴィン・ワイスマン教授(Irving Weissman)は、「生命科学と再生医療の進展にとって、この研究は考えられるうちで最大のものだ」と言い、ハーバード医学校のデビッド・スキャデン教授(David Scadden)は、細胞が簡単な方法で未分化状態にもどせるということは「誠にすばらしく、ほとんどの研究者が10年先の話だと考えていた」と手放しで誉めている。また、幹細胞研究に関してアメリカのカトリック教会のスポークスマンを務めるリチャード・ドゥーアフリンガー氏(Richard Doerflinger)は、この研究は「どの段階においても人間の生命を傷つけたり、破壊したりせずにES細胞に近い能力のものをつくるのだから、深刻な道徳問題はない」としており、ダートマス大学の倫理学者、ロナルド・グリーン氏(Ronald Green)も、「これによってつくられるのは、保護されるべき初期の人間の生命だと言うのは非常に困難だ。人間に適用できれば、この議論を終らせる1つの方法になるだろう」と言う。
 
 上記の『ヘラルド』紙によると、山中教授らの昨年の研究以来、マサチューセッツ州のホワイトヘッド研究所とカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)など他の2つの研究チームによって“再現”のための実験が行われたという。その結果、いずれの場合でも、山中教授が示した4つの遺伝子を挿入することで、マウスの皮膚細胞がES細胞と酷似した状態にもどることが分ったという。ただし問題もある。その1つは、この4遺伝子のうち2つは、細胞をガン化する能力があることだ。実際、山中教授が研究に使ったマウスの20%は、ガンを発症して死んだという。
 
 一般の新聞や雑誌ではあまり語られないことだが、ES細胞を含む幹細胞をめぐる問題の1つに、「ガン化」の可能性がある。このことは、昨年12月16日の本欄でやや詳しく触れたが、ガンが発症する原因はガン細胞の元になる「ガン幹細胞」だという考え方が、専門家の間では知られている。そして、ES細胞などの幹細胞とガン幹細胞との違いは、まだよく分かっていないのである。山中教授らの研究は、倫理問題のある受精卵や生殖細胞の利用を避け、入手が容易な「皮膚」を材料として“万能細胞”を得ようとする点で、倫理性と合理性に優れている。このように、医師や研究者が倫理性を重んじながら科学の可能性を広げる努力を続けていることを知ると、信仰者として大いに勇気づけられるのである。

谷口 雅宣

| | コメント (1)

2007年6月10日

「悪を認める」とは? (3)

 本欄ではここ数回にわたり「悪」の問題について論じてきたが、今日(10日)、別府市で行われた生長の家講習会でも、これに関する質問が出て、私自身も少し時間をかけて話をした。私が話した内容は、本欄でこれまで述べてきたこととさほど変わらなかったが、受講者からの質問に対する答えとしては、どこか不十分だったような気がする。そこでこの場を借りて補足説明をしたい。
 
 まず、実際の質問内容を紹介しよう。福岡市から来られた大学教員(54)の男性からの、次のような質問だ--
 
「最近ニュースでは官庁や会社における不正行為が明らかにされていますが、私のいる大学においても公金を不正に使用していることが判明しました。唯心所現の法則により、自分の心が現象化したものと思われますが、発見者が私1人の場合、悪人の実相をおがみ感謝するだけでいいのか。それとも現象の対処をきちんとして、通報や訴えなどの方法で悪事の広がりをストップした方がいいのでしょうか。その場合、なお一層悪を認めることにならないでしょうか」

 生長の家で「悪を認めない」生き方について学ぶと、ときどきこの質問者のように「悪を認めないとは、悪現象から目を反らして何もしない」ことだと誤解する人がいる。この問題は、本欄ではすでに「悪を放置するのか?」などの題で何回か(昨年3月5日7日に)書き、その一部が最近出た単行本『小閑雑感 Part 7』にも収録されている。そこでの議論をひと言でまとめれば、「悪を認めない」とは「悪を実在すると認めない」という意味である。現象としては悪事が目の前で起こっているだから、それを「よいこと」とするのは誤りであり、「悪い」として悪事を犯そうとする人を制止することは一向に問題がない。それどころか、それは善の実現のためには必要なことである。また、悪の実行を制止しないで放置することは、悪事を行う本人に「悪業」を重ねさせることにもつながるから、本人のためにもよくないのである。

 ただしこの場合、本人を「悪人」として--つまり、悪と同一視して--警察に通報するのではなく、「自分の行為の悪さに気づかない人」として、また「もし気づけば自らの判断で悪事を選択しない人」として認め--つまり、神の子の実相を認め--ながら、その場に応じた適切な対処をすべきだろう。このとき、本人に対しては可能な限り、「自分は貴方の本質は善であり、悪人とは思っていない」というメッセージを伝えることが望ましい。いったん悪事が実行されてしまうと、その「悪い行為」とそれを行った「行為者」とが同一視される傾向があるが、ここでは、行為者の本性の善悪と、その行為自体の善悪とをはっきりと分けて考えることがポイントになる。これは、本人の実相と、現象上の行為とをはっきりと分ける生長の家の考えの実践でもある。

 ここでもう一度、本欄で採用している「悪」の定義を思い出してほしい--「悪とは、ある対象を評価する人間の心の中に否定的な力(拒絶感)が生じたときに使う、その対象の呼称の1つであり、人間の心の中に生じる否定的評価を外部に投影したもの」だった。そうであるならば、ある人が犯罪行為をした場合、その「行為者」を否定的に評価せずに「犯罪行為」のみを否定することは可能なはずだ。これは結局、現象悪を否定しても実相を否定しないのと同じことだと言えよう。

 生長の家では、「実在」や「実体」としての悪を認めないが、「状態」として悪が現れることは認めるのである。これは実相において人間の生命は生き通しと認めても、肉体的にはすべての人間に死が訪れることを認めるのと似ている。生長の家の信徒は、友人の葬式にきちんと出席するだろう。それは彼の実相の死を認めていなくても、肉体の死を認めているのである。それと同じように、友人が罪を犯した場合は、生長の家の信徒は彼の現象的行動が犯罪であることを認めながらも、彼の実相の完全性を信じることができるのである。そして、実相の完全さへの信仰を深めるためには、現象悪に心を集中させるのではなく、現象の善を通して実相へと心を振り向けることが大切である。
 
 なお、本題については、今年1月28日同29日の本欄も参照されたい。
 
谷口 雅宣

| | コメント (13)

2007年6月 8日

efuto(絵封筒)に出会う

 昨日の木曜日は休日だったので、東京・大手町の逓信総合博物館でやっている「efuto=絵封筒」という展覧会を見に行った。実は、そのちょうど1週間前に新宿のジュンク堂書店で本を物色していたとき、『efuto』(フォイル刊)という横長の本を偶然見つけ、その中に収録された37人の画家やイラストレーターによる、実に多彩で個性的な絵封筒を見て、いたく感激した。そして、どうしても実物を見たいと思っていたのだ。妻も絵手紙の描き手だから、この新しいアートに親近感をもって「ぜひ見たい」と希望していたのだった。
 
「絵封筒」とは絵を描いた封筒のことだが、これをローマ字表記する理由は、イギリスとフランスで生まれたものだからだ。絵本作家のきたむらさとし氏によると、絵封筒の起源は1970年代末で、その頃、きたむら氏がロンドンの小出版社を訪れたとき、壁面に額装された小型の絵がたくさん飾ってあるのを見て、それがみな切手を貼り宛名も書いた封筒であることに気づき、「こんな封筒が送れるのか」と驚いたそうだ。これらの絵封筒はみな、その出版社の社長宛に送られたもので、元祖はフランス在住の絵本作家、デビッド・マッキー氏(David McKee)らしい。マッキー氏は当初、封筒に入った絵手紙を社長宛に描いていたのが、絵心があふれて封筒にまで描くことになったという。そして、マッキー氏の額装された絵封筒を見た他の画家やイラストレーターたちが、この新アートに共鳴して、次々と社長宛に絵封筒を送るようになったのだそうだ。

 絵封筒の面白さは、「封筒」という狭い空間に、実用とアートと遊び心をいかに共存させるかだろう。「実用」とは、住所・氏名を書き切手を貼るということで、「アート」はもちろん絵の質だ。そして「遊び心」とは、封筒に描く絵と切手の図柄、あるいは住所・氏名をユーモアたっぷりに関連づけることだ。展覧会にあった絵封筒の中には、大きく描いた顔の口から“吹き出し”を描き、その中に住所・氏名が書かれているもの。貼った切手が絵の中で「絵画」として扱われているもの。鳥の図柄の切手が、絵の中の木に止まっているもの。富士山の頂上付近を図柄とする切手の周囲に絵を描き足して、富士山全体を含む風景画に仕立てているものなど、思わず「なるほど~」と言わせるものがあり、楽しかった。
 
 とにかく「百聞は一見にしかず」だから、絵やイラストに興味のある読者は、7月8日までの会期中に一度訪れてみてはどうだろう。会場には封筒や画材を置いた“実演コーナー”もあり、その場で絵封筒を描くことができるし、また会場の博物館宛に送った絵手紙は、そこに展示してくれるそうだ。絵の上手下手よりも、受け取った人の驚きと喜びに価値があるということで、小学生などもバンバン描いているから、生命学園の活動に取り入れても悪くないかもしれない。
 
 私も早速、生長の家関連の絵手紙ブログを主宰しているT・K氏宛に、下掲の2点の絵封筒を送った。工夫や遊びがまだまだ足りないが、機会を見てさらに挑戦したい。
 
谷口 雅宣

Efuto07002Efuto07003

| | コメント (2)

2007年6月 7日

ネコが子を生んだ

うちの庭に出入りしていた
ネコが子を生みました。

妻が朝食の準備のために
台所に立っていたとき、
ミャーミャーという鳴き声に気づいて
窓ごしに庭を見ると、
ツツジの潅木の下に横たわった
母ネコの乳に食らいついて、
子ネコが何匹も蠢いていたのです。

うちのノラたちは毎年子を生みつつ
世代交替していきますが、
生まれた子すべてが
生き残るとは限りません。
都会の自然ですが、
なかなか厳しいものがあるのでしょう。
母ネコの表情がそれを表しているようです。

谷口 雅宣

| | コメント (5)

2007年6月 6日

悪はなぜあるか? (3)

 本題での私の問いかけに対して、多くの読者からコメントをいただいた。この場を借りて感謝感激の意を表したい。皆さん、ありがとうございます。
 
 私は、先の引用文で養老孟司さんが言わんとするところが今ひとつ分からなかったが、志村宗春さんの次の指摘で、溜飲が下がる思いがした

「 養老孟司氏の言われていることは、自他一体の心を持たねばならぬ。(あるいは、同悲の心を持つ必要がある。)不幸の真っ只中にいる人を宗教は救わなければならない。ということではないかと、私は思いました」。

 志村さんと同じ意味のことを、masaomiさんは、以下のように表現された--

「他人の“不幸”を勝手にこちらで想像して、こちらの“幸福”を押し売りしてしまう、そういう“宗教活動・勧誘”は迷惑である。相手にとっての“不幸”や“幸福”はその人の立場に立って初めて解るもの、しかし相手の立場経験は100%追体験できるものではない、できる限り(神に祈ってでも)相手の立場を理解しようと努めることが本来の宗教の役割である」。

 上記のことは、私を含めた生長の家の講師にとって、十分心しておくべきことと改めて感じたのである。
 
 宗教の教義の中には、それをできるだけ多くの人々に宣布する必要から、“方程式”のように単純化し、シンプルな表現にしたものがある。「三界唯心」「罪悪深重」「イエスのほかに救いなし」、生長の家では「人間・神の子」「病気はない」「肉体はない」などがこれに当たる。初心の人は、その方程式を一種の“色眼鏡”のように使い、それを通して世界を眺めることで、これまでどうにも複雑で理解できず、不合理、不条理に悩まされてきた自分の回りの世界がクッキリ、スッキリ見え、そのことを“救い”と感じることがある。そんなとき、自分と似たような境遇で悩んでいる人と遭遇すると、とかく自分の“色眼鏡”を押し売りしてしまう傾向があるものだ。養老さんは、そのことを指摘したかったのだろう。
 
 さて、次に「悪は善のためにある」という命題について考えよう。これはなかなか難物かもしれない。なぜなら、「悪とは何か」「善とは何か」の定義しだいで、議論は別々の方向へ飛散してしまう可能性が大だからだ。そこで私としては、自分で定義したものから離れないように論を進めることにする。まず、私の定義は前回も書いたように、次のものである:
 
「悪とは、ある対象を評価する人間の心の中に否定的な力(拒絶感)が生じたときに使う、その対象の呼称の1つであり、人間の心の中に生じる否定的評価を外部に投影したものである」

 これに対して、善の定義をするためには、上記の「否定的」の替りに「肯定的」、「拒絶感」の替りに「称賛の思い」とか「賛嘆の気持」などの語に置き換えればいい。ここで読者の注意を喚起すれば、これらの定義はあくまでも「現象としての善と悪」についての定義だということだ。私が現象の側からの定義を使うのは、生長の家を知らない人にとっても理解しやすいためである。
 
「悪は善のためにある」という言葉は、「悪によってのみ善が感じられる」と言い換えることができるだろう。この言葉は、しかし極論だと私は思う。我々は醜悪のものを見なくても美しいものを「美しい」と感じることができるし、戦争を体験しなくても平和の善さを感じることはできる。また、親が目の前で殺されるのを見なくとも、親の善なる心を感じ、甘えたり感謝することはいくらでもできる。だから、現象界の事象に対して肯定的評価をするためには、否定的評価をするものが側にある必要はない。ただし、そういう否定的評価をさせる対象が側にある方が、肯定的評価がしやすい場合もあることは認めてもいいだろう。

谷口 雅宣

| | コメント (3)

2007年6月 5日

悪はなぜあるか? (2)

 前回の本欄では、短い文章中にあまりに多くのことを書こうとしたために、分りにくいものになってしまった。引用した養老さんの文章にはそれほど多くのことが書かれていないのだから、“過剰反応”かもしれない。そこで今回は、落ち着いて書こうと思う。
 
 最初にお断りしておくと、私は養老孟司さんに何の恨みもないし、敵意も反感ももっていない。むしろ、常人とは違った角度から鋭い観察をし、逆説的な真理を語る氏の頭脳には、感嘆させられることが少なくない。今回の引用文の中にも一面の真理があることは、前回も書いた通りだ。もう1つお断りしておくべきことは、氏が「不幸」について書いているのに、私はそれを「悪」という言葉に入れ替えて使っていることだ。氏が私の文章を読めば、もしかしたら「不幸と悪は違う」とおっしゃるかもしれないが、私としては「不幸」は「善いこと」ではないので、「善」の反対語である「悪」という言葉に差し替えても大意は変わらないと考えて、そうした。その方が、私が本欄でこれまで書いてきたことと整合するからである。
 
 本欄では今年1月28~29日、昨年3月5日と7日などで「悪」をめぐっていろいろ書いてきた。その中で私は「悪」をこう定義した--悪とは、ある対象を評価する人間の心の中に否定的な力(拒絶感)が生じたときに使う、その対象の呼称の1つであり、人間の心の中に生じる否定的評価を外部に投影したものである。この定義を採用すれば、「不幸」についても、ほぼ同じ定義が行えるだろう。つまり、「不幸とは、人間の心中に生じた否定的評価を外部に投影したもの」の1つであり、「悪」に比べれば、恐らく評価は若干高い。言い換えれば、「あの人は不幸だ」と言ったときは、「あの人は悪人だ」と言うときより「あの人」に対する評価は若干高い、ということだ。
 
 こう考えれば、養老さんの引用文の出だしの言葉--「なぜ世の中には、不幸があるのだろうか」は、「なぜ世の中には悪があるか」と問うているのとほぼ等しいと言えると思う。そして、本欄で展開してきた「悪」に対する議論が、ほぼそのまま「不幸」に対しても援用できるだろう。すなわち、「悪」という何か黒々とした実体が存在しないと同じように、「不幸」という客観的な存在はないのである。それらは皆、観察者の心の投影であり、「不幸」と思われる人自身の心を必ずしも正確に反映していない。言い換えれば、“客観的”に不幸であろうと思われる人自身は、必ずしも自分を不幸だと考えていないこともあるし、“客観的”には幸福だと考えられる人であっても、自分を不幸だと考えていることもあるのである。

 私は、養老さんの文章が全く間違いだと言っているのではない。氏は、読者の常識を前提にして新聞紙上に文章を書いているのであり、紙面に制限もあるのだから、「そもそも客観世界に不幸は存在するか」などという七面倒くさい議論は、省略しているに過ぎない。そんなことよりも、氏がここで言いたいのは、人間が他人を理解する心の大切さなのだろう。これを心理学では「感情移入」とか「empathy」と呼ぶが、それをより正確に実行するためには、“不幸”な状況を経験している人とそうでない人との間には違いがあり、経験者は未経験者に勝るということだろう。そういう意味では、私は引用した氏の文章に全く異論はない。
 
 ただし、引用文に続いて書かれた次の文には、異論を唱えたいのである--「毎日ひたすらニコニコしていたら、バカではないかと思われてしまう」。

谷口 雅宣

| | コメント (3)

2007年6月 4日

悪はなぜあるか?

 今日の『産経新聞』で解剖学者の養老孟司さんが作家の角田光代さん宛ての“手紙”の形式で「不幸があるから宗教がある」という題の文章を書いていた。それを読んだ限りでは、養老さんは「不幸」というものを否定的にではなく、肯定的にとらえているように感じた。そのこと自体に私は何も文句はないが、次の文章は、私を何かを言いたい気分にしたのだった:

「なぜ世の中には、不幸があるのだろうか。子どもが全員無事に育った親は、子どもを亡くした親の気持ちがわかるだろうか。生まれつき健康な人は、病人の気持ちがわかるだろうか。平和で民主的な社会の住人に、戦争や独裁の苦しさがわかるだろうか。世の中に宗教があるのは、それと関係しているに違いない。私はそう思う」

 養老さんの文章には、独特の反語や逆説がよく出てくるので、その意味するところは注意して読み取らねばならない。しかし、上の文章をそのまま読めば、「本当の意味で世界を知るためには、世界中の不幸を体験しなければならない」と言っているように聞こえる。また、そういう多くの人々の不幸に苦しむ気持を追体験することができなければ、宗教的な「愛」や「慈悲」の心が生まれないのだとすれば、信仰者や宗教者は競って世界の不幸の只中になだれ込んで行くべし、ということにならないだろうか? そして、そういう“不幸礼賛”の信仰が高まることで、信仰集団が現実に不幸を引き起こしたり、不幸を幸福に感じて自滅する行為に出たことを、私はいくつも思い出すのである。
 
 もちろん、養老さんの文章には真理がある。我々は実際に病気になったりケガをすることで、病人であることの苦しさを知ると同時に、健康であることの価値を実感することがよくある。また、私を含めた戦後生れの日本人のほとんどは、実際の戦争の悲惨さや苦しみを知らないし、わからないかもしれない。しかし、「悪は善のためにある」というならば、悪を消す努力は無意味かもしれない。皆さんは、どう考えますか?
 
谷口 雅宣

| | コメント (14)

2007年6月 2日

ブッシュ氏の“心変わり”

 ブッシュ大統領が31日、ワシントン市内で行った演説で提唱した地球温暖化抑制のための“長期的な地球全体の目標”(a long-term global goal)をめぐり、世界は当惑気味だ。本欄でもたびたび触れてきたように、ブッシュ氏は長年、地球温暖化の重要性を否定し、それが人間の活動によるとの科学者の見解を無視してきたことは有名だが、その彼が今年の年頭教書演説で初めて「気候変動」に触れ、今度は温暖化対策がまるで自分の持論であったかのように「来年末までに温室効果ガスを削減する長期的な世界目標を設定する」(1日『朝日新聞』)と述べたのだ。

『朝日』は、その記事に「来年までに削減目標 米大統領、各国に協議提案」という見出しをつけたのに対し、『産経新聞』は1日の記事に「米大統領 温暖化対策“先送り” サミット提案同調せず」という見出しをつけた。この2つの見出しは、まるで違うことを言っているようだ。『産経』の記事が否定的なのは、この日にホワイトハウスのペリーノ大統領副報道官が、CO2の排出量削減の数値目標設定と、世界的な排出権取引の双方に米政府としては反対することを確認したからだ。同日の『日経』は、「温暖化ガス削減 米、来年中に目標」という見出の記事と、「米、ようやく本腰 温暖化対策新提案 実効性に疑問も」という解説記事の2本立てでこれを報じた。

 メディアは恐らく、6日からの主要国首脳会議(ハイリゲンダム・サミット)直前にブッシュ氏が新提案をした真意をはかりかねているのだろう。安倍首相が打ち出した「2050年までに世界全体の排出量を半減する」という目標には原子力発電の振興と国民運動以外の具体策を欠いていたが、ブッシュ氏の新提案はそれに輪をかけて抽象的である。「それぞれの国は独自の中期的削減目標をもって取り組み、各国を縛る国際的枠組みは必要ない」というのだから、実効性を疑問視する声が出ても無理はない。が、ドイツのメルケル首相は「サミットに向けた重要な態度表明」として評価し、英ブレア首相も「初めて数値目標の必要性に触れた」(1日『日経』夕刊)として歓迎した。しかし、EUのディマス欧州委員(環境担当)は、1日に発表した声明の中で「(温暖化ガスの)削減義務にも排出権取引にも言及せず、あいまいな目標を示しただけ」と批判した。(2日『日経』)
 
 さらに、1日の中国中央テレビの報道では、温家宝首相が5月30日の国務院常務会議で、気候変動に対応するための国家計画をまとめたらしく、そこにはエネルギーをムダ遣いする成長方式を改め、人口増加を抑えることなどが提起されているという。また、オーストラリア政府の首相諮問委員会は1日、ハワード首相宛ての報告書を発表し、そこには、世界的合意の形成を待たずに、2012年までに同国に温暖化ガスの排出権取引市場を設立すべきだと書いてあるらしい。(2日付『日経』)

 各国それぞれの事情がある中で、こうして「温暖化ガスの排出削減は急務」という世界的合意は形成されつつある。排出量が最も多いアメリカや中国がその削減に最も消極的であるのは残念だが、これで主要各国が地球温暖化問題に対して“同じ方向”を向いたという点を私は評価したい。あとは、6日からのサミットでさらに有意義な合意に到達できることを祈るものである。

谷口 雅宣

| | コメント (1)

2007年6月 1日

ペーパーレス雑誌現る!

 完全なペーパーレスの雑誌--いずれそんなものも登場するだろうと思っていたが、こんなに早く現れるとは予想していなかった。しかも、中高年向きだというのだから驚いた。小学館がインターネット専用で7つもの雑誌を創刊したのだ。

『フォーマルの流儀』『Designer's Style』『農家に棲む』『ダーウィンのひ孫』『昔、売ります』『江戸前の手引き』『渚でくらす』の7冊で、タイトルを見た限りでは、退職後の“団塊の世代”をターゲットにしたもののように思える。「スーク(SooK):雑誌の市場」というサイトで、それぞれの「創刊0号」が無料で読めるらしい。「らしい」と書いたのは、実際に全部を試してみたわけではないからだ。理由は、ダウンロードに時間がかかり、自宅からダイヤルアップでアクセスするの(今現在)では、時間と経費が気になる。「快適ライフスタイルMagazine」という宣伝文句がついているが、私の私的通信環境では「快適」なアクセスはできそうもない。

 が、職場のLAN経由でアクセスすると流石に使い勝手はいい。フルカラーの雑誌のページを3段階に拡大・縮小できるから、私のように“老眼”が始まっている者にも読みやすく、また見やすい。雑誌本来の「紙のページを繰って読む」という感覚が保たれている点が、これまでのネット上の新聞等とは異なる。6月1日の『日本経済新聞』によると、月750円を払って会員登録すれば、7誌は読みたい放題だという。また、会員以外の人も6~7ページ程度は試し読みができる。そして、バックナンバーは他の電子書籍販売サイトで売る予定らしい。

 なかなか野心的な試みで好感がもてる。その理由は、紙を使わないから森林保護になり、インクでの印刷工程が省け、雑誌の運搬もしないから化学薬品の使用やCO2の排出削減にもなるだろう。ただ、カラー写真を多用した雑誌は、自宅の本棚に入れておき、ときどき開いて見て楽しむという用途があるはずだから、その点での読者の不満は残るかもしれない。恐らくそれを意識して、「7冊750円」という値段にしたのだろう。

 生長の家でも毎月7誌を出しているから、この方面への展開は考えていいはずだ。特に、多部数を買っても活用しきれない場合は、環境保全に逆行する点は見逃せない。また、検索サイトから「生長の家」を探して生長の家のサイトを見つけ出した利用者が、7誌あるどの雑誌も目に触れないまま、別のサイトへと流れていくことのデメリットは、今後ますます拡大していくだろう。「ネット版普及誌」のようなものの早期登場に期待したい。

谷口 雅宣

| | コメント (2)

« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »