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2007年6月23日

イスラームの理性主義 (5)

 アル・ガザーリー(1058~1111年)はペルシャの小村、ガザーラに生まれ、すでに幼時に法学の基礎知識を得、その後にニーシャープールのイマーム・ル・ハラマインの門下に入る。ここは当時、イスラーム法学では名門中の名門で、多くの俊才が集まっていたが、ガザーリーはその中でも優秀で、論証法においては誰も彼を凌ぐことはできず、井筒氏の言葉によると、「老師イマーム・ル・ハラマインは、年若いこの天才に代講をさせ、自分は微笑してじっと聴き入っているのを常とした」(p.134)と言われている。
 
 27歳で師が亡くなり、その後数年間、彼はイスラーム哲学(イスラームでのギリシャ哲学のこと)を修め、特にアリストテレスの思想に専心したという。33歳でバグダッドのニーザム学園の教授となり、やがて名実ともにイスラーム神学と哲学の最高権威となる。ところがその頃から、これまで修めた学問に対して彼の心に疑いが生じ、1095年に、彼は意を決して学問の道を他へ譲り、自分はスーフィーの生活に身を投じるのである。井筒氏によると、この期間にガザーリーは「冥想によって神と直接触れるのでなければ決して真の救いは得られないということを確信するに至った」(p.135)という。そして故郷へ帰って完全な隠者生活に入り、1111年に生涯を閉じたのである。

 ガザーリーを学問の世界から離れさせた原因は、知(悟性)と信仰との乖離、あるいは相反の問題であったようだ。知恵によって神を知ることと、神を信仰することとの間には大きな違いがあり、そもそも知恵によって神を知ることは可能かという疑念が、彼を悩ませたと思われる。そして、彼の行き着いた結論は、「悟性は知の世界においてのみ権威をもち、宗教の世界、信仰の領域では全く何等の権威をもたない。それ故、思弁神学が思弁によって信仰を擁護しようとするものであることを標榜するなどは、笑止の限りなのである。知によって神の認識ができるはずがない」(p.143)というものだ。「信仰を論理的に演繹して見ても何になろう。数学的に分析して見ても何になろう。それらの徒らな試みは、その余りにも浅はかな故をもって、真の信仰に生きる人を淋しくするのみである。人は寧ろ行為と感情と意志の力によって自らの魂を高めることを志し、そうすることによって自ら“酔っ払わ”なくてはならないのである。すなわち宗教は体験されなければならないのである」(p.144)と彼は考えた。
 
 しかし、だからと言って、彼は盲目的信仰の復権を訴えたわけではない。彼は理性(悟性)と信仰との双方の重要性を認めながら、宗教においては両者のうち「信仰」を最重要事とすることを主張したのである。だから、彼は「徒らに伝統的教えのみに固執して悟性を無視する者は愚人であり、悟性のみに頼ってコーランとスンナを顧みぬ者は迷っている」という言葉を残している。ガザーリーの時代のイスラームは外面的な儀式化や形式化が進んでおり、そういう形式主義に対して理性の側から異議を唱えるとともに、形式化によって失われた信仰の喜びや実感を取り戻すために信仰の内面的深化を訴えたのである。井筒氏によると、「ガザーリーの史的意義は、この固形化し枯渇した信仰を再び個人の心の温床に移すことによって、その生命を甦らせようとしたところ」(p.145)にある。
 
 ガザーリーは、「ザイドは家にいる」という言葉を例に引いて、信仰の3つの段階について説いている。「ザイド」とは普通の人の名前だが、ここでは「神」のことだと考えていい。まず、第1段階の信仰は「大衆の信仰」であり、それはある信頼できる人が「ザイドは家にいる」と教えてくれたことをそのまま信じて、疑わない種類の信仰である。これは、「ザイド」の存在を信じたのではなく、それを告げた人を信じたにすぎない。第2の段階の信仰は「思弁神学者(哲学者)の信仰」で、彼はそう聞いたならばその家の前まで行って、家からザイドの話し声がするのを聞いて、確かに「ザイドは家にいる」と信じるのである。しかし、本当の信仰は、その次の第3段階へ進まねばならず、それはその家に直接足を踏み入れて自分の目でザイドを見、目と目でザイドと対面するという個人的体験を通して「ザイド」の存在を信じるのである。

 上の喩えがガザーリー本人の体験にもとづいていることは、容易に想像できるだろう。

谷口 雅宣

【参考文献】
○井筒俊彦著『イスラーム思想史』(1991年、中公文庫)

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コメント

三島由紀夫『若きサムライのために』文春文庫
のP162の2行目に
” 国民が心から支持すればよい  ”
と、書いてあります。
地球環境問題は肉体あっての運動ではないだろうか?
肉体が死んで(殺されて)しまっては、
できないのでは、ないのか?

投稿: 紅林孝治 | 2007年6月25日 06:06

地球温暖化問題も手遅れになると死んじゃいますね、
どうも僕は頭が悪い。
ばかだなあと思う。
地球温暖化問題は危機が未来にある?
どうも僕は、先の事を考えれないみたいです。
失礼しました。

投稿: 紅林孝治 | 2007年6月25日 15:03

紅林さん、、、良く分かります!「過去を見てはならない!未来を願ってもならない!過去は過ぎ去ったものであり、未来は今だ来たっていない!只、現在の状況を良く観察して、今なすべき事を努力してなせ!誰が明日に死のある事を知ろう!死の軍勢に勝てる者はいない!」と言う言葉が有ります、だからお互いに明日をも知る事の出来ない身、地球温暖化防止の為に小さき一人ひとりが今なす事をなし、後は有能な日本及び世界のリーダー達、神仏にお任せしたらそれで良いのではないでしょうか?

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年6月26日 15:34

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