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2007年6月 6日

悪はなぜあるか? (3)

 本題での私の問いかけに対して、多くの読者からコメントをいただいた。この場を借りて感謝感激の意を表したい。皆さん、ありがとうございます。
 
 私は、先の引用文で養老孟司さんが言わんとするところが今ひとつ分からなかったが、志村宗春さんの次の指摘で、溜飲が下がる思いがした

「 養老孟司氏の言われていることは、自他一体の心を持たねばならぬ。(あるいは、同悲の心を持つ必要がある。)不幸の真っ只中にいる人を宗教は救わなければならない。ということではないかと、私は思いました」。

 志村さんと同じ意味のことを、masaomiさんは、以下のように表現された--

「他人の“不幸”を勝手にこちらで想像して、こちらの“幸福”を押し売りしてしまう、そういう“宗教活動・勧誘”は迷惑である。相手にとっての“不幸”や“幸福”はその人の立場に立って初めて解るもの、しかし相手の立場経験は100%追体験できるものではない、できる限り(神に祈ってでも)相手の立場を理解しようと努めることが本来の宗教の役割である」。

 上記のことは、私を含めた生長の家の講師にとって、十分心しておくべきことと改めて感じたのである。
 
 宗教の教義の中には、それをできるだけ多くの人々に宣布する必要から、“方程式”のように単純化し、シンプルな表現にしたものがある。「三界唯心」「罪悪深重」「イエスのほかに救いなし」、生長の家では「人間・神の子」「病気はない」「肉体はない」などがこれに当たる。初心の人は、その方程式を一種の“色眼鏡”のように使い、それを通して世界を眺めることで、これまでどうにも複雑で理解できず、不合理、不条理に悩まされてきた自分の回りの世界がクッキリ、スッキリ見え、そのことを“救い”と感じることがある。そんなとき、自分と似たような境遇で悩んでいる人と遭遇すると、とかく自分の“色眼鏡”を押し売りしてしまう傾向があるものだ。養老さんは、そのことを指摘したかったのだろう。
 
 さて、次に「悪は善のためにある」という命題について考えよう。これはなかなか難物かもしれない。なぜなら、「悪とは何か」「善とは何か」の定義しだいで、議論は別々の方向へ飛散してしまう可能性が大だからだ。そこで私としては、自分で定義したものから離れないように論を進めることにする。まず、私の定義は前回も書いたように、次のものである:
 
「悪とは、ある対象を評価する人間の心の中に否定的な力(拒絶感)が生じたときに使う、その対象の呼称の1つであり、人間の心の中に生じる否定的評価を外部に投影したものである」

 これに対して、善の定義をするためには、上記の「否定的」の替りに「肯定的」、「拒絶感」の替りに「称賛の思い」とか「賛嘆の気持」などの語に置き換えればいい。ここで読者の注意を喚起すれば、これらの定義はあくまでも「現象としての善と悪」についての定義だということだ。私が現象の側からの定義を使うのは、生長の家を知らない人にとっても理解しやすいためである。
 
「悪は善のためにある」という言葉は、「悪によってのみ善が感じられる」と言い換えることができるだろう。この言葉は、しかし極論だと私は思う。我々は醜悪のものを見なくても美しいものを「美しい」と感じることができるし、戦争を体験しなくても平和の善さを感じることはできる。また、親が目の前で殺されるのを見なくとも、親の善なる心を感じ、甘えたり感謝することはいくらでもできる。だから、現象界の事象に対して肯定的評価をするためには、否定的評価をするものが側にある必要はない。ただし、そういう否定的評価をさせる対象が側にある方が、肯定的評価がしやすい場合もあることは認めてもいいだろう。

谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生,ありがとうございます。
 私もかつて,弱い立場の人を救う人は凡ての不幸を追体験しなければならないと考えていた一人でした。例えば,医者は全ての病の苦しみを知っていなければならないし,教師は勉強や運動,対人関係の悩みなどを全て自ら体験し克服した人間でなければ務まらないと。しかし,このような考えは,現象のみを見ている唯物論的傾向が見え隠れしていることにも薄々気付き始めた頃,「生命の実相」生長の家に出会いました。
 「人間は既にそのままで救われている」「神は親であるから,神の子が神らしくなることをこそ喜び給う」というご文章を拝読し,然り!然り!と感嘆した覚えがあります。そうだ!人を救い,幸福にするには何も全ての不幸を体験またはそれに共感し共に泣き崩れる経験がすべてではないのだと。人間は既にそのままで完全であることを自ら悟り,伝えることが真の救いなのだと。
 今,多くの人々が生長の家の説くこの真理を魂の底では求めているはずです。しかしながら,人間は現象的には「変わること」に抵抗を感じるものです。現在の状態がたとえ自分にとって不都合であり,そこから抜け出したくても,それまで持ち続けてきた心の習慣性や自らのこだわり,我執といったものは捨てられない。火箸を握っていて「熱い熱い,何とかしてくれ!」と叫んでるけれどもその原因は自分が掴んでいる火箸(偽物の我)であることを認めようとしない。他に原因と責任を見出そうとし,素直に本当のもの「真理」を受け入れることができない。しかし,変わらなければよくなれないという葛藤のなかでもがいている状態の人が如何に多いことでしょうか。
 こんな議論が生長の家の関係者ばかりでなく,もっと一般的に新聞紙上やマスコミで取り上げられるようになれば,本来神の子なる人々の中から必ず生長の家の説く教えを賛嘆する人々が激増するのではないかと私は考えます。

投稿: 佐々木 勇治 | 2007年6月 8日 22:13

合掌、ありがとうございます。
3回にわたっての”悪はなぜあるか?”を拝読させて頂きました。
少し、私にはわかりずらく、何度か繰り返し読ませていただきました。
しかし、読んだあと、涙があふれました。
私は、生長の家に出会う前は、ずっと幼い頃から神様、仏様、キリスト様もそんなものは本当にはない。もし、いるのなら皆幸せのはずだ。この世界は、皆自分勝手で、嘘をついたり、裏切ったり、だましたり、憎んだり、いじめたり、ぬすんだり…そして、自分も辛いことばっかり苦しいことばっかりで不幸だ。悪いこともいっぱいする。だから私は悪魔だなんだとずっと思って生きていました。いつも死にたくてしかたがなかったです。
でもその不幸・悪の中で幸福や善を見出せたか?と言えば、見出せませんでした。ずーっと真暗で苦しかったです。
そして、皆は私に愛しているとか励ましてくれたり色々云ってくれたにもかかわらず、そんなはずはない。偽善者ぶって!と思っていました。
でも生長の家に出会って、人間は神の子だと知りました。
練成会での行や真理のお話、日々の皆様の愛深いお世話により光を燈してくださり、そして生長の家を自らが生きて行く中で、自らが光を燈し出し、光そのものであったのだと気付くことが出来ました。どんなに小さくても自らが光を燈すことを行い、初めてあの時、不幸・悪、苦しみと思っていたけれども、そんなものはなかったのだ。善一元・自他一体の世界なのだと気がつくことが出来ました。
生長の家のせの字も知らず、何かから生長の家という存在を知り、検索してホームページを開いた時、”生長の家では人間は神の子であり、善一元、自他一体とといているので悪はない”と書かれていても、この現象世界にどっぷりつかってこの世界こそが本当の世界だと思って生きている人にはきっと「・・・・・」なのだと思います。
だからこそ、そのような方々のことあらゆる人の事を考えて雅宣先生はブログに書いて下さっているのだと思います。だから、何も知らない人はそうなんだと理解できるのだと思います。直接、生長の家で説かれている言葉でないほうが分りやすく思う人も大勢いるのだと思います。
しかし、生長の家の信徒にとっては、まわりくどくて、わかりずらかったり、どうしてズバッと真理を説かないのかとムズムズ思う人がいるのかもしれません。きっと、生長の家を知らない人だけではなく、信徒にもズッバと深く雅宣先生から真理を伝えてもらいたいとちょっとした嫉妬みたいものがあるのかもしれません。
真理は、ずっと雅春先生が説かれてから変ることなく一つであり、その真理は私たち信徒は常日頃から講習会、誌友会、輪読会、練成会、講演会などでさまざまなところで研鑽している。だから、あえて言わなくても信徒には雅宣先生の言わんとしていることがわかるでしょ!わかってくれている!と信じてくれているからブログで噛み砕いて書かれているのだと思います。
それは、本部講師、教化部長、地方講師、光明実践委員がいるのだからきちんと伝えてくれていると私達を信じてくれているからなのだと思います。なので、それだけお役を与えられている者、のみならず生長の家の御教えにふれた信徒の使命は偉大であり、重要なのだと思います。
すべての人にこの生長の家の素晴らしい真理を知って幸福であってほしい、と言う本当に”世界平和の祈り”そのままをお示しくださっているのだと思います。今を生きる教えそのものを身をもって一番に雅宣先生はお示しくださっているのだと思います。そして行くべき道をおしめしくださっている。
ただただ深い愛に包まれ、ありがたく思います。
永遠にこの素晴らしい真理を学び続け、研鑽いたします。
神様、雅宣先生ありがとうございます。
                       頓首・合掌
                         木村 静香 拝

投稿: 木村 静香 | 2007年6月11日 00:22

佐々木さん、
木村さん、

 お2人とも長文のコメント、ありがとうございました。

 ご指摘の通り、私の文章はシチメンドークサイところがあります。が、これは論理性を重視する点から致し方ない面もあります。「教えをストレートに」という意味では、『日々の祈り』の方が成功していると思います。

投稿: 谷口 | 2007年6月11日 14:26

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