「悪を認める」とは? (3)
本欄ではここ数回にわたり「悪」の問題について論じてきたが、今日(10日)、別府市で行われた生長の家講習会でも、これに関する質問が出て、私自身も少し時間をかけて話をした。私が話した内容は、本欄でこれまで述べてきたこととさほど変わらなかったが、受講者からの質問に対する答えとしては、どこか不十分だったような気がする。そこでこの場を借りて補足説明をしたい。
まず、実際の質問内容を紹介しよう。福岡市から来られた大学教員(54)の男性からの、次のような質問だ--
「最近ニュースでは官庁や会社における不正行為が明らかにされていますが、私のいる大学においても公金を不正に使用していることが判明しました。唯心所現の法則により、自分の心が現象化したものと思われますが、発見者が私1人の場合、悪人の実相をおがみ感謝するだけでいいのか。それとも現象の対処をきちんとして、通報や訴えなどの方法で悪事の広がりをストップした方がいいのでしょうか。その場合、なお一層悪を認めることにならないでしょうか」
生長の家で「悪を認めない」生き方について学ぶと、ときどきこの質問者のように「悪を認めないとは、悪現象から目を反らして何もしない」ことだと誤解する人がいる。この問題は、本欄ではすでに「悪を放置するのか?」などの題で何回か(昨年3月5日と7日に)書き、その一部が最近出た単行本『小閑雑感 Part 7』にも収録されている。そこでの議論をひと言でまとめれば、「悪を認めない」とは「悪を実在すると認めない」という意味である。現象としては悪事が目の前で起こっているだから、それを「よいこと」とするのは誤りであり、「悪い」として悪事を犯そうとする人を制止することは一向に問題がない。それどころか、それは善の実現のためには必要なことである。また、悪の実行を制止しないで放置することは、悪事を行う本人に「悪業」を重ねさせることにもつながるから、本人のためにもよくないのである。
ただしこの場合、本人を「悪人」として--つまり、悪と同一視して--警察に通報するのではなく、「自分の行為の悪さに気づかない人」として、また「もし気づけば自らの判断で悪事を選択しない人」として認め--つまり、神の子の実相を認め--ながら、その場に応じた適切な対処をすべきだろう。このとき、本人に対しては可能な限り、「自分は貴方の本質は善であり、悪人とは思っていない」というメッセージを伝えることが望ましい。いったん悪事が実行されてしまうと、その「悪い行為」とそれを行った「行為者」とが同一視される傾向があるが、ここでは、行為者の本性の善悪と、その行為自体の善悪とをはっきりと分けて考えることがポイントになる。これは、本人の実相と、現象上の行為とをはっきりと分ける生長の家の考えの実践でもある。
ここでもう一度、本欄で採用している「悪」の定義を思い出してほしい--「悪とは、ある対象を評価する人間の心の中に否定的な力(拒絶感)が生じたときに使う、その対象の呼称の1つであり、人間の心の中に生じる否定的評価を外部に投影したもの」だった。そうであるならば、ある人が犯罪行為をした場合、その「行為者」を否定的に評価せずに「犯罪行為」のみを否定することは可能なはずだ。これは結局、現象悪を否定しても実相を否定しないのと同じことだと言えよう。
生長の家では、「実在」や「実体」としての悪を認めないが、「状態」として悪が現れることは認めるのである。これは実相において人間の生命は生き通しと認めても、肉体的にはすべての人間に死が訪れることを認めるのと似ている。生長の家の信徒は、友人の葬式にきちんと出席するだろう。それは彼の実相の死を認めていなくても、肉体の死を認めているのである。それと同じように、友人が罪を犯した場合は、生長の家の信徒は彼の現象的行動が犯罪であることを認めながらも、彼の実相の完全性を信じることができるのである。そして、実相の完全さへの信仰を深めるためには、現象悪に心を集中させるのではなく、現象の善を通して実相へと心を振り向けることが大切である。
なお、本題については、今年1月28日と同29日の本欄も参照されたい。
谷口 雅宣
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コメント
合掌 ありがとうございます。
信じがたい「悪」を目の当たりにした時、どうしても
その「悪」と見える行為を行った本人をも「悪人」と
見て、自分より低い人格と感じてしまったり、また
その人を自分の視界から外そうと思ってしまいます。
しかし、今日の先生のご文章を読み「救われました!」
>>「自分の行為の悪さに気づかない人」として、また「もし気づけば自らの判断で悪事を選択しない人」
として認め-行為者の本性の善悪と、その行為自体の善悪とをはっきりと分けて考え
生長の家の信徒は彼の現象的行動が犯罪であることを認めながらも、彼の実相の完全性を
信じることができるのである。
そして、実相の完全さへの信仰を深めるためには、現象悪に心を集中させるのではなく、
現象の善を通して実相へと心を振り向けることが大切である。>>
心に強く明記し、「善一元」「光一元」 強く明るく生きていきます。
先生、本当にありがとうございました。 感謝合掌
投稿: keiko | 2007年6月12日 10:54
合掌 ありがとうございます。
まず今回長い文章になります事をお断りいたします。
6月6日の御文章「…・ただし、そういう否定的評価をさせる対象が側にある方が、肯定的評価がしやすい場合もあることは認めてもいいだろう。」、早勢さんの日時計主義に関する御投稿、そして6月10日の御文章「…現象悪に心を集中させるのではなく、現象の善を通して実相へと心を振り向けることが大切である。」より感じ、気づかせていただいたことを述べます。
私は今回「悪」を「陰(闇)」、「善」を「光」とおきかえます。
6月6日の御文章は『「陰」がある方が、「光」を認識しやすい場合もある。』といいかえることができます。
そこでわたしは逆を考えてみました『「光」がある方が、「闇」を認識しやすくなるだろうか?』と・・
私はこの自問に対し「否」と自答しました。
『「闇」は「光」の存在を強調するものではあるが、「光」は「闇」の存在を強調するものではない。』という結論をだしました。
例えば、歌舞伎に登場する「黒子(闇)」は「役者(光)」の存在を強調するがその逆はありえません。
なぜ逆はありえないか、ここに人類の救いがあるとおもうのですが、
「歌舞伎を見る観衆(人間)は、役者(光)に目を向けるという本質を持つ。」
「役者(光)」をわざわざ『みてやろう』とおもって観ているのではなく、無意識的に「光」をみている。人間にはもともとそういう性質が備わっている、だから「黒子(闇)」を見ないで、「役者(役者)」を観てやろうと努力する必要はないし、そのような苦労をして観賞している人もいない。そして横から「黒子を見ないで役者を見なさい」と忠告されるのも勿論窮屈だし、いらぬお節介です。(早勢さんの仰りたい事はこの辺りではないかと想うのですがいかがでしょうか?)
それでは生長の家の「日時計主義」とか「神想観」とか無意味ではないかと思えてくる。無意識的に光をみるのなら、わざわざ「光」をみる作業をしなくても良いのではないかと…。
私はこの自問に対しても「否」と自答しました。
「日時計主義」とか「神想観」とかいうものは、歌舞伎の例でいうと舞台を「味わう」事ではないかと・・。黒子に気を取られていては(人間の本質として通常ありえないが)味わえない事はいわずもがな、ただたんに無意識的に役者(光〕を眺めて見ているだけではいつまでたっても歌舞伎の本質を「味わう」というところまで到達できないのではないでしょうか。やはり味わう為には役者に意識を集中させる必要がある、 そして「味わう」事により人間は喜びを感じる事ができるのではないでしょうか。
あと文章の前半の部分への付け足しになりますが、
「光」が「闇」を強調すると言う現象が起こっている場合、「善」と「悪」に言い換えますと「善」が「悪」を強調している場合を人々はその「善」を「偽善」と呼ぶのではないでしょうか。
投稿: masaomi | 2007年6月12日 12:02
光の側に居る場合は、光しか見えません。(光しか見えないというのがどういうものか感覚的にはわかりませんが) (感覚的にわからないので)光一元の世界では表現の方法はありません。(光明の中にいて、光明を感覚で認識することは可能でしょうか? たぶん無理だと思います。イメージでさえ、人間の脳は現象化(具象化)することになるでしょう。)
光と影(闇)が認識できるというのは、光と影を見渡せる場所に居る人です。当然ながら、光があるから影ができるということを知っている人です。だから、人は光が当たっているのはわかっているのに、自分の影で遊んだりします。(“だから”というのは、おかしいかな? 大目にみてください。子供の頃、自分の影で遊んだことを思い出しました。自分の影を追っかけて走ってみたり・・・・。無邪気だったんだな、きっと。)
闇の側に居る場合は、真っ暗闇で何も見えません。何も見えない世界なので、目に見える表現の方法はありません。
ふと、光と影について、書いてみました。深く読んで下さる方はそれなりに・・・・ということで。
投稿: 早勢正嗣 | 2007年6月12日 23:31
>光明の中にいて、光明を感覚で認識することは可能でしょうか?
合掌、ありがとうございます。
わたしは最近、物事を感じている状態というのはそれが発する波動に共鳴している状態だと考えるようになったのですが、こう考えますと光一元の中にいて、光を感じる事、光と共鳴する事は可能であると思うのですがいかがでしょうか?
投稿: masaomi | 2007年6月13日 09:16
説明不足でしたが、光の側に居る場合とは、光と同化しているということです。
投稿: 早勢正嗣 | 2007年6月14日 11:20
早勢さん、いつも楽しい御文章ありがとうございます。
運転中とか色々考えさせられます。(危ないかな?)
「光と同化して光の中にいることに気がつかない人」=「闇の中にいて闇しかみえていない人」=「闇の中にいる(とおもっていて)闇しかみていない(と思っている)人」とはいえないでしょうか。
そして「光と同化して光の中にいると気づいている人」=「光と闇が見渡せる位置にいる人」=「光一元の世界に立って、光一元の世界(実相世界)と光と闇の混ざった世界(現象世界)の違いを把握し見渡せる人」
なるほど、現象世界というのは、自己が神の子を自覚しやすくする為の仮の世界ということでしょうか。
例えば自分の姿を確認するために人は鏡の中の自分をみるように・・。確かに鏡が無いと自分の顔は見えません。
鏡の中の自分(仮の自分)は鏡の前に立つ自分(本当の自分)の写しであると自覚があって初めて鏡の意味があるのですね
実相世界に立つ自分(神の子)の自覚があって初めて現象世界の意味があるのですね。
とすると「闇の中にいて闇しかみてないひと」というのは「鏡の中の自分が本当の自分であると錯覚している人」かな?闇は鏡の中(現象世界)にしか存在しないから・・・
早勢さん、ありがとうございました。まだ、頭の中が整理ついていませんが、もし私が間違った方向に進んでいるとしたら御忠告くださいませ。
(余談ですが、犬や猫って鏡の中の自分を自分だと認識できませんよね・。教育すればわかるようになるもんですか?人間は教育されなくても分かるような気がするんですが、どうでしょう?昔話とかでは初めて自分の姿を鏡で見て他の者と勘違いするというのを聞いた事があるのですが、どうなんでしょう?)
合掌
投稿: masaomi | 2007年6月14日 16:51
>もし私が間違った方向に進んでいるとしたら御忠告くださいませ。
言葉は、思うように伝わらないことが多いようです。現実の生活と同じです。
たとえば、「光と同化」の話ですが、私が跳び過ぎたようです。光と同化してしまったら、光の中にいることにいう認識はなくなってしまうのではないかと私は思ったのです。昇華の最終段階で人としての使命は終わってしまったということになるのではないか。
闇の中にいる人は、文字通り、光を見出せない人です。この場合は、光のある場所を知っている人が、光のある方向を教えてあげれば良い。
光と影(闇)を知っている人は、自己責任において、現象世界を楽しんでください。
現象世界が仮の世界であっても、そこは神が神の世界を表現するために作ったモノだと思います。そして、神は善しか作らない。私達人間は、ひとつの時点の現象を捉えて、悪と判断してしまうが、それでよいのだろうか。このところ思うのは、生長の家はどうも「悪」という言葉や文字の呪縛に捉われているのではないかと思う。悪を見る行為、悪と認識する行為のおおもとには、どのような意図があるのか。そこの部分をもっと語るべきだと思う。光明思想が「悪を見るな」という行為にこだわるなら、それはおかしいと思う。「悪を見極め」、光明を導き出すぐらいの積極的な思想であってほしい。
投稿: 早勢正嗣 | 2007年6月15日 00:14
「生長の家はどうも「悪」という言葉や文字の呪縛に捉われている」
こういった生長の家の現状は、早勢さんにとって「悪」い状態ですか?もしそうであれば、早勢さんのお持ちになる光明思想なら、この生長の家の「悪」い現状から光明を見出せるはずです。
投稿: masaomi | 2007年6月15日 09:59
>こういった生長の家の現状は、早勢さんにとって「悪」い状態ですか?
居心地は悪いですね。
次は、居心地が悪い現状から光明を見出す方法ですか?
見出した事を色々書いているのですが・・・・。
後は、私の言葉をどのように受け止めるかです。
本欄でも、
「悪を認めないとは、悪現象から目を反らして何もしない」ことだと誤解する人がいる。
という雅宣先生の文章がありました。
ミスや欠点、失敗を見直すことで、その後のあり方は修正できます。ミスや欠点、失敗に気づくことが、修正の第一歩となります。気づかない人には、教えるとか注意する行動をとることになります。
このような行動をとった時、「悪を認めない」に指向性の強い人は私に言いました。
あなたは悪いところだけを見ている。良いところだけを見なさい。それが生長の家です。
私が良くなると思ってやった行為が、逆に否定される。窮屈ですね。
「良いことのみを見る」という言葉は、正しいかもしれませんが、人を否定したり、裁く時にも使われます。
投稿: 早勢正嗣 | 2007年6月16日 00:08
私は生意気ながら講習会の先生の御講話に対し批評をした事があります。「あれを・・どうこうするべきだ!このままじゃ生長の家はダメだ!」というような。。
しかし、私は最近反省しました。
「批評をする自分がいかに生長の家という組織や先生に依存していたか」という羞恥心が沸いてまいりました。
そして批評をする前に生活上自分の身の回りに生長の家の人間としてやらなくてはならないことがいくらでもあることに最近気がついてきました。
あくまで私の場合ですが、今現在わたしがもし他に対して批評をした場合、それは依存心の発露だとおもっています。
そして神の子としての自立の必要性を強く感じています。
投稿: masaomi | 2007年6月17日 00:14
私のようなものでさえ、神は私の存在を認めていると思います。今、生かされているからこそ、自分の存在価値というものを、自分なりに感じています。
しかしながら、生長の家の中では、自分の考えが受け入れられないように感じる。自分の居場所がないのです。見出せないのです。決して、マイナス思考ではなく、すべてのことは善につながるものだと思いから考えているのですが・・・。
依存心の発露ということに関しては、認められたいという依存心は、自然の感情であり、神も許容してくれるものだと思っています。そのように一方的に思って、自分なりに自立しているということです。
長々と書いてしまいました。ありがとうございました。
投稿: 早勢正嗣 | 2007年6月17日 03:32
こちらこそ、ありがとうございました。
投稿: masaomi | 2007年6月18日 08:39
早瀬さん、、、「自分の考えが受け入れられない様に感じる、自分の居場所が無い、見出せないのです、マイナス思考では無く、全ての事は善に繋がるものだとの思いから考えているのですが、、認められたいと言う依存心は自然の感情であり、神も許容してくれるものだと思っています、その様に一方的に思って自分なりに自立していると言う事です」とか「居心地は悪い」「光明思想が悪を見るな!と言う行為にこだわるならそれはおかしいと思う」と言う発言を聞いていますと肩書き0の私でさえ?です、早瀬さんはマイナス思考では無いと思っておられるのでしょうがそう思われているだけに一層マイナス思考の度合いが深いと思います、只一方的に思ってとありますから自分自身が分からなくなってちょっと変だな?とは思っておられるのだと推測はいたします、、自分なりに自立していると言われていますがそれは自己満足で自立では無く孤立だと思います。
投稿: 尾窪勝磨 | 2007年8月16日 18:04