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2007年6月19日

イスラームの理性主義 (2)

 昨年9月25日の本欄で本題について少し書いたが、イスラームの歴史的発展の初期にあっては「理性」はあまり重要でなく、「理性に対して啓示を絶対的に優位におく態度」が根深くあった。これに対して、イスラームの信仰上の問題を思弁的・論理的方法によって解決しようとする動きが、ウマイヤ朝(661~750年)の末期から起こり、アッバス朝期(750~1258年)にいたって無数の学者や学派を生み出していく。その理由について、イスラーム研究者の井筒俊彦氏は次のように書いている。
 
「ムハンマドは感覚的で非論理的なアラビア人の典型的な偉人であり、そのもたらしたコーランは、こういう視覚的・感覚的な天才、非論理的な天才の生み出した驚異すべき産物である。イスラームが始まって以来今日に至るまで、あらゆる宗教的、精神的活動の源泉となって来たコーランが、このように非論理的な精神の生み出したものである一事は、イスラーム思想の発展を辿ろうとうする者が充分に注意しなければならぬ点である」(『イスラーム思想史、p.17』)

 井筒氏は、コーランの内容は論理的に見れば矛盾に満ちていたため、「多くの学者はこれらの数々の矛盾を如何にして論理的に解決するかという問題に一生を捧げた」といい、「コーランは真に昔のアラビア人の気持になり切り、アラビア語の美しさを味って読む人に対してでなければ、面白くないし、また本当に崇高な精神的興奮を与えてはくれないのである」(p. 18)とまで言っている。その理由は、コーランがアラビアの砂漠地帯で生きた人々の個物主義的ものの見方、感じ方を基本としていて、「著しく視覚的であり聴覚的な経典」であるからという。コーランは「描写的側面において直接視覚に訴えて来る生々しいイマージュに満ち」ており、「アッラーはあたかも人々の目前にありありと見えるかの如く描かれている」(p.20)のである。ここでは、個物を超えた「イデア(理念)」とか、個々の円形を超えた円一般などというギリシャ的な考え方は、どこにも見当たらないというのである。

 ところが、イスラームはモハンマドの死後、たちまちのうちにメソポタミアからシリア、ペルシャ、トルコを席捲し、エジプトから北アフリカへ、さらにインドまで勢力を伸ばす。そこでは、「これらの様々な古代文化圏においてアラビア沙漠の現実主義、個物主義は全く異質的な精神に衝突し、それらとの対決を迫られた」(p.24)。そして、「純アラビア沙漠的精神は後退し、そこにできた空間にビザンチン的キリスト教の神学が、古代ギリシャ的哲学精神が、ゾロアスタ教的二元論が、シリアの透徹した理性が、ヘレニズム的グノーシスと神秘主義が、目もあやに錯綜しつつ新しい思想を織り出して行く」(p.25)のである。

 イスラーム研究者の小杉泰氏の言葉を借りれば、イスラームの神学は「滔々と流れ込んだギリシャ哲学の影響に対する反作用」として生まれ、「アリストテレスの論理学に代表される理詰めの思考パターンと共に、ギリシャ哲学が好んで話題にしてきた主題がイスラームの宗教思想の中に流入した」(『イスラームとは何か』、pp.180-181)ものである。中村廣治郎氏の言うように、伝統的なイスラームの諸学はすべてこのアッバス朝期に花開き、「さらに9世紀には古代・ヘレニズム期のギリシャ語文献が大々的にアラビア語に翻訳され、その遺産の継承・発展がなされた」(『イスラム教入門』、p.56)のである。

 イスラームの発展に伴うこのような文化的“鳥瞰図”を描いてみると、イスラームで「理性主義」と呼ばれているものの位置が明らかになる。それは、仏教における「大乗」の教えの登場や、ユダヤ教からキリスト教が分離・発展していった事情とも似ている。それは、ある地方に生まれた天才的宗教家の教えが、いわゆる“世界宗教”になるための、「文化的融合」という必然的過程の中で登場しているのである。このことを思うと、私がかつて『信仰による平和の道』(2003年、生長の家刊)の中に書いた次の言葉が、イスラームにも該当することが分かるのである。
 
「宗教というものはそれぞれの発祥の地における地域的、文化的、時代的な特殊な要請にしたがって登場し、成立するものではあるが、それが真理を説き、時代の変遷にもかかわらず発展していくべきものならば、それは成立当初のローカル色や特殊性から脱却し、普遍的な真理を前面に打ち出すとともに、伝播地においては、逆にその土地のローカル色や特殊性を吸収し、応用するだけの“幅”や“柔軟性”をもたねばならないことが分かるだろう」(pp.17-18)

谷口 雅宣

【参考文献】
○井筒俊彦著『イスラーム思想史』(1991年、中公文庫)
○小杉泰著『イスラームとは何か』(1994年、講談社現代新書)
○中村廣治郎著『イスラム教入門』(1998年、岩波新書)

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コメント

合掌 ありがとうございます
短めにコメントします。先生は、環境問題をいわれています。そこで、今日誌友会に来られた先生いわく、それならなぜ雅宣先生の御宅では、子どもたちが、18歳になったら一人暮らしをさせるのか?それだけ、エネルギーが要るではないかといわれました。なるほど・・・ 環境の面からするとそのとおりだと思いました。でも、よくよく考えるとですね~ 環境のことばかりに執着していると、社会が成り立っていかない。
ということになりますよね。私たちは、今置かれている環境の中で、いかに地球に優しい生活をしていくかという事でしょうか?

投稿: yasuko | 2007年6月21日 20:08

 生長の家の環境問題への取り組みとは、単なるエネルギー消費・消耗の抑止運動をいうのでしょうか。
 
 そうであるのならば人間は地球の為にこの世で生活しない方がよいということになります。

 生長の家の環境運動というのは、単なるエネルギー消費・消耗の抑止ではなくて、第一に消費時の心の持ちようを問うのだと思います。

 消費時に人間が感謝の念を抱いて生活すれば、結果必要以上のエネルギーの消費をしなくなり、環境破壊(自然サイクルの破壊)という不完全な現象は現れなくなるというのが生長の家の活動ではないでしょうか。


 家族を離れて一人暮しを経験するといろいろな事物に感謝できるようになるのでは?

投稿: masaomi | 2007年6月22日 13:56

masaomi様
合掌 ありがとうございます
私のために、このようなすばらしいコメントをありがとうございます。
とてもうれしいです。精進・努力して、光明化運動に、顔晴ります。
(文章は短いのですが、この中には、私のいっぱい・いっぱいの感謝の気持ちとありがとうの気持ちがこめられています。)
                             再拝

投稿: yasuko | 2007年6月23日 21:20

私は感謝だけでは駄目だと思います、CO2排出を減らし、地球緑化を科学的に推し進める働きかけを一人から63億人まで人類全体で広げて行かなくてはならないと思います、こんな事を論じ合え実践出来る日本は本当に恵まれ素晴らしい国だと嬉しく思いますが自由の無い国、テロの殺し合い、餓死の耐えない国が数え切れない程現に存在している事を思えば国連の機能をもっともっと強化してもらいたいと同時に一人ひとりが温暖化防止の為の働きかけをし

、一隅を照らす実践をして行く事、生長の家の役割は極めて重要であると考えます。

投稿: 尾窪勝磨 | 2007年7月10日 15:05

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