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2007年5月27日

タラバガニの高騰

 生長の家講習会が行われた釧路市から東京・羽田に向けて飛行中の全日空機の中でキーボードを叩いている。約1カ月半ぶりに行われた講習会で、久しぶりに前回を上回る受講者が来てくださったことは有り難かった。釧路地方はまだ「早春」の趣で、若葉が萌え出る木々が広大な平地を覆っているさまを見ていると、胸がスーッとする。昨日、東京から到着した時の気温は6℃ぐらいで、持参したスプリングコートを空港内で着て外へ出たが、「寒い」のひと言が思わず漏れた。夕食時、宿舎の釧路全日空ホテルから外出して港近くへ行くと、吹く風も手伝って、思わず肩をすぼめて歩くことになった。
 
 ホテルの向い側には、土産物店と飲食店が入った「フィッシャーマンズ・ワーフ」という異名をもった建物があり、どうせ食べるなら現地のものをということで、そこで夕食をいただいた。「異名」という言葉を使ったのは、有名なサンフランシスコのフィッシャーマンズ・ワーフから採った名前なのだろうが、あまり似ていないからだ。入った店では、獲れたての魚や野菜を七輪で炭火焼きにする料理が食べられる。その際、「てっぽう汁」というのを注文したが、一杯が「550円」と高価なので驚いた。店員に「2人で1杯で足りますか?」と訊くと「内容が多いので大丈夫です」という答え。しかし、出てきた椀はそれほど大きくなく、中の具は野菜は充分あったが、タラバガニが小さい。ちょうど脚の“関節”に当たる部分を3~4㎝に切ったものが4~5本入っているだけで、殻の中身はほとんどないのである。

 その時は「まぁこんなものか」と思って、その他の具である豆腐やネギ、ワカメなどを美味しくいただいたが、翌日(今日)の『北海道新聞』の1面を見て、タラバガニの小さい理由がわかった。値段が例年の2倍近くに高騰しているのだ。理由は、ロシアからの輸入物が激減しているためという。この記事を読んで初めて知ったのだが、北海道で売られているタラバガニの9割以上が輸入もので、そのほとんどが実はロシア産らしい。そのロシアが、日本へのタラバガニの輸出を半減させているから、値段は倍になるというわけだ。ロシアの輸出縮小について、同紙は「水産資源の先行きを懸念したロシア側が乱獲や密漁を規制するなど、漁業管理強化に動いていることが大きな原因」という市場関係者の見方を紹介している。また、「韓国や中国での需要が拡大している。規制が厳しいこともあり、日本市場が敬遠されている面もある」という卸業者の見解も載っていた。

「世界は1つにつながっている」との感を強くした。中国の急速な経済成長は、その人口の多さから世界的な影響力をもつ。人間は、経済的に豊かになるにつれて、植物性蛋白質から動物性蛋白質へと食事の嗜好を変えると言われているが、タラバガニの高騰は、まさにそのことを示しているのかもしれない。このことは、中国国民が今後、豚肉食(すでに多いが)や牛肉食を増やしていく傾向と併行しているとも考えられ、それに伴う穀物飼料の需要増大、そして世界の穀物価格の上昇にもつながっていくだろう。

 講習会の午後の講話の中で、タラバガニの話を引き合いに出して現在世界的に進行中の「食品の値上がり」について触れた。今、温暖化ガスの排出削減策の1つとして、バイオエタノールの増産と利用が世界各地で始まっていて、とりわけアメリカ国内でのトウモロコシの作付面積の拡大が、ダイズ、小麦、綿花、米などの生産減少につながる可能性がある。このことは3月31日の本欄で触れたが、何せ、今年の作付面積は日本列島全体の大きさに匹敵し、昨年からの「増加分」だけで東京都の面積の22倍にもなるからだ。この分、他の農作物の作付は減り、したがって収獲も減少することになる。

 ところで、日本近海で獲れるクロマグロの漁獲については、これまで規制がなかったらしいが、水産庁は年内に漁獲規制を導入する方針を決めたという。今日付の『道新』や『日経』が伝えている。魚の乱獲の問題については昨年4月19日同6月4日の本欄でも触れたが、マグロ、マカジキ、メカジキなどの大型魚を食べることは、養殖ものの場合は穀物飼料を使い、遠洋ものの場合は化石燃料を多く使うという悩ましさがある。しかし、魚類はウシやブタに比べれば飼料効率がいいし、天然の近海ものなら安心……と考えていたところ、この話である。規制の理由は「最近は十分な大きさになる前に巻き網で大量に漁獲したり、より小さいものを養殖用に漁獲したりすることも増えている」からだそうで、資源保護の観点から規制に踏み切るらしい。

 海産資源の量が一定と仮定すれば、世界の人口が増えれば当然、1人当たりの分け前は減る。それを今まで通りに食べようとすれば、奪い合いが起こるのも当然だ。そんな状況の中では、「必要量だけ感謝していただく」というのが平和共存の道だ。だから、カニ料理も寿司も、「食べ放題」というヘドニスティックな食事の仕方を、もうそろそろやめたらどうかと私は思う。

谷口 雅宣

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コメント

宗教の使命、目的は究極のところ人間の魂の救済にあるのではないでしょうか。病気、不幸、不調和、不完全に悩む弱き人間の魂の救済に。かつての生長の家にはそのことに向かって邁進する慈悲の心が脈打っていました。ですから苦難にぶつかる度に教えにすがっては癒され、救われたものでした。生長の家は魂の拠り所でした。
いま生長の家では日々環境問題への取り組みの大切さが説かれています。環境問題への取り組みが社会的、道徳的に正しいことは分かりますが、さまざまな不幸に振り回されている弱き魂がそれで救われるのでしょうか。あの懐かしい大慈、大悲の教えに触れていたいものだと切に願っています。

投稿: 杉原素明 | 2007年5月29日 00:54

杉原さん、

 コメント、ありがとうございます。
 生長の家は「魂の救い」の面でも従来通り、運動を展開しています。この「法施」をないがしろにせずに「物施」をも併行させることが、今日的運動の展開だと心に言い聞かせています。

投稿: 谷口 | 2007年5月30日 11:48

教えを説く側と、教えを求めている側と認識が一致しているのでしょうか。求めているものがそこ(宗教)から見出せなくなった時、人はそこから去るしかありません。“教えを説く側は、教えを受ける側が何を求めているのかご存知なのかな。”“「教え」の具体的な行動には、バランスや調和も必要ではないのかな。”そんな重いも積み重なって、私の中で「生長の家」はグラグラゆれています。こんな気持ちの中で組織に属することはできないので、現在は「宿無し」です。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年5月30日 12:27

早勢さん、

 お久しぶりです。お元気ですか?

 教えを説く側は少数、求める側は多数。一致することもあれば、しないこともあるのでしょう。貴方がご不満なのは、恐らく環境問題についての私の発言なのでしょう。このブログの場では、テーマがそちらにブレていることは私も認めます。

 あなたはどんな話題を期待しておられるのですか?

投稿: 谷口 | 2007年5月31日 23:01

毎度、お騒がせをしております。

教えを説く側と、求める側の数に関しては、さほど関係ないと思います。今の生長の家の教えの主題は、“人と自然(地球環境)のふれあい”と“人と人とのふれあい”ということになるのではないでしょうか。先生も「このブログの場では、テーマがそちら(環境問題)にブレていることは私も認めます。」と書いておられますが、これって私自身にとっては、かなり重要な点なのです。ひとことで言うと、環境問題とそのほかのものとのバランスが悪すぎるのです。私達は日常、人と人とのふれあいの中で生活しているのが大部分ではないでしょうか。ですから、教えの主題や、先生の著述の多くが、環境問題に傾斜しているとの印象を持ってしまった私には、私にとって生長の家とはいったい何なのだろうということになるのです。
“人と人とのふれあい”について、書いておきたいことがあるのです。5月18日の記述に関するコメントが非公開になりました。その後、先生が投稿者に対してどのような対応をなされたのか、知る由もありませんが、これこそ重要だと思うのです。具体的な諸問題に対して、宗教が具体的にどのように対応できるのか、ということです。
本欄の趣旨とは異なるということで非公開にするのではなく、別の場を設ける等して、大いなる宗教心で回答することもできたのではないかと思います。宗教が人と人との対話を遮断するという行為は、私はおかしいと思う。なぜなら、宗教は人を信じるからです。そして、生長の家では、人間は皆、神の子です。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年6月 3日 01:04

早勢さん、

 「人と人とのふれあいについてもっと書いてほしい」というご要望だと理解しました。その理解でよろしいですか?

 5月18日付の本欄への読者からのコメントの件ですが、コメントの内容は、沖縄の米軍基地建設のための国のやり方がヒドイ、というものだったと思います。米軍基地の建設や移転に反対する運動は、一部の政党や活動家の人々が展開しているものと理解しています。その一方の考え方に賛同された方が、「生長の家も何かすべき」とのニュアンスでコメントをくださいました。私は、これは純粋に政治的問題だと思いますから、本欄で政治論争のようなものをすることは趣旨に反すると考え、非公開の措置をとりました。

 あなたは、そういう政治論争を私が別の場を設けて展開すべきだというお考えなのですか?

投稿: 谷口 | 2007年6月 3日 12:49

> 「人と人とのふれあいについてもっと書いてほしい」というご要望だと理解しました。その理解でよろしいですか?

よろしいです。ただ、それだけかと言うとそうでもありません。この世では、多種・多様・多岐にわたる事象がある訳ですから、それらに対する生長の家の人生観・人間観・世界観をバランスよく語っていただけたら良いのではと思います。
そのような期待を抱く時、5月18日付の本欄への読者からのコメントの対処の仕方は、“政治論争のようなものをすること”としての画一的な理由づけであり、もったいないと思います。生長の家のものの見方や考え方を述べ、この問題に対して生長の家が具体的な行動を取らないかを諭す方法もあったのではないかと思います。
私は彼女はとても純粋な方だと思います。ただ、この世界はある意味で利害関係から成り立っている部分もあり、純粋を尊ぶ人は、それらを不純と感じる。そして、それらを裁きの対象とする。ハルマゲドンの考え方など、まさにそうだと思います。
不純と見えるものを、悪意にみちたものと見るのか、不純と見えるものの中に愛を見出そうとするの、見方によって事象に対する印象も変わるのではないかと・・・・・。

そうそう、総裁先生が『“日時計主義”とは素直な心のことを言うのである。』と書いていました。この言葉に、安らぎを感じました。なぜなら、『“日時計主義”とは「明るいこと」「良いこと」のみを記録する。』という言葉に対して、天邪鬼の私は、非常に窮屈を感じていたからです。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年6月 5日 00:46

早勢さん、

 ご助言、ありがとうございました。

 日時計主義が「素直な心のことだ」という意味は、「悪い現象が多く見えたら、素直にその悪さを認め、悪い、悪いと言う」という意味でしょうか? (この質問には、答えなくていいですよ)

投稿: 谷口 | 2007年6月 5日 13:12

きっと、善悪の認識のある人なら、よくなろう、よくしようと考えることでしょう。悪を認めても、光明面を見ることはできます。引用した総裁先生の言葉の前段には、「失敗は成功の母である」という言葉もあります。「失敗」をことさら「悪いこと、悪いこと」と思う人はいないでしょう。この世に無駄なことなど、ないでしょう? すべてプラス(光明面)に転換可能です。

ご返答いただき、ありがとうございました。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年6月 5日 20:47

継ぎ足しです。

「悪い現象が多く見えたら、素直にその悪さを認め、悪い、悪いと言う」

この人は、どういう意図を持って「悪い、悪い」と言ったのでしょう?
行動には色んな背景があり、先生の今回の結びは、やや強引であります。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年6月 8日 00:18

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