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2007年5月31日

パプリカの実

 木曜の休日に、久しぶりに絵を描くことができた。4月の半ば以降、ペンや筆を走らせる機会がなかったのは、生長の家全国大会の準備や大会での講話を雑誌に掲載するための原稿チェック、会議の事務関係の仕事などで心の余裕がなかったからだろう。が、幸い雨模様の天気のおかげで、家で椅子を温めることができた。隣家の母が到来物だといって、色鮮やかなパプリカの実をいくつも持ってきてくれた。それを見て「あぁ描きたい」という気持が起きた。
 
 パプリカの実の色は、なぜあんなに鮮やかなのかと思う。あの赤、黄、橙は、まるで自然物でないかのようだ。プラモデルに上等なラッカーを塗ったときのような発色で、しかも複雑に湾曲したあの形が趣深い。以前、妻が料理のためにそれを真半分に切ったものをスケッチしたことがあるが、その時は切り口の曲線と、中に詰まった小さなの種の集団が面白かった。今回は、普通に外側の形と色つやを描くつもりでスケッチし、その構図をわずかに変化させたものを、菓子箱か何かの木の蓋の裏側に、ペンとインクとアクリル・グワッシュで描いた。いわゆるミックスド・メディアの絵と言えるだろうか。

 こんな絵の描き方は、今回が初めてだ。普通は白紙の上にペンと水彩、あるいはカンバスかカンバス・ボードの上にアクリルか油絵具というオーソドックスの組み合わせだが、今回は変則的描き方に敢えて挑戦した。スケッチの軽妙さと、絵具の厚塗りによる重厚さを共存させようとしたのだが、成功しているかどうか分らない。制作過程が分かるように3枚を並べてみる。
 
 
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 谷口 雅宣
 

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2007年5月29日

環境運動家の危機感 (2)

 地球環境問題への取り組みでは先駆者的存在である米アースポリシー研究所のレスター・ブラウン所長(Lester R. Brown)が来日中で、新聞にインタビューが載っている。氏は昨年もこの時期に来日していて、私は一橋大学で行われた氏の講演会を聴きにいったことを5月22日の本欄に書いた。当時は、氏のインタビューを新聞紙上であまり見なかったが、今年は5月28日に『産経新聞』が、翌29日には『朝日新聞』がそれを掲載した。両紙とも、バイオエタノールの普及が世界の貧困問題を悪化させるという氏の主張を紹介している。そのことを訴えるために来日しているのだろうか?
 
『産経』の記事は、「人類は穀物を燃料に使うか、食糧に使うかを争う時代に入った」というショッキングな表現で始まる。『朝日』では、もう少し詳しくこの問題を解説する--「食糧とエネルギーの境界線がなくなり、石油価格が穀物価格を左右するようになった。8億人の車所有者と20億人の貧困層が同じ食糧を巡って争う構図だ。このまま食糧価格が上がれば政治不安が起き、世界の経済発展にも影響が出るだろう」。そういう危機感が氏を動かしていることが伺える。

 バイオエタノールの生産には、穀物などの作物ではなく、木くずや廃木材、稲ワラなどの食用以外のものを利用すべきことは本欄でも何回か触れた。日本ではその方面の研究が進んでいるが、何しろまだコストが高い。そこで日本石油連盟では最近、フランス産の小麦から作ったバイオ燃料を日本で流通させることにしたのだろう。また、バイオ燃料が生産しやすい植物を遺伝子組み換えでつくる計画も走り出しているようだ。18日の『産経』によると、ミシガン州立大学は、繊維質を糖に分解する酵素をつくる遺伝子を、トウモロコシに組み込む研究を進めており、イギリス系の国際石油資本「BP」はデュポンと協力して、カリフォルニア大学バークリー校に植物繊維系バイオ燃料開発研究所を設立することを計画しているという。日本でも今月、バイオ燃料の生産を目的とした遺伝子組み換え技術を開発する検討会が設置されたそうだが、設置主体がどこかはなぜか書いてない。

 現在の石油やガソリン価格の高止まりは、こういうバイオエタノール増産計画と関係していると聞いたら、読者は不思議に思うだろうか? 普通に考えると、原油からつくるガソリンに加えて、植物からつくるエタノールが市場に新たに供給されるのだから、ガソリン価格は下がってもいいはずである。需要が一定とすれば、供給量の増加は価格を下げるというのが市場の一般原則だからだ。ところが、ブッシュ大統領がこの1月の一般教書演説で、バイオエタノールの大幅な増産計画をブチ上げたことが、ガソリン価格が下がらない原因になっているというのだ。25日付の『ヘラルド・トリビューン』紙がそう伝えている。
 
 この演説のことは1月24日の本欄で触れているが、ブッシュ大統領はこの演説で、バイオエタノールなど再生可能燃料や代替燃料の使用を増やしたり、自動車の燃費基準を厳しくすることで、今後10年間でガソリン消費量を20%減らすという方針を発表したのだ。これにもとづき、米議会もエタノールの使用をこの期間に5倍近くに増やす法案を審議中という。となると、今後10年で需要が減るはずのガソリンを精製する工場を今、増設したり新設することの意味が薄れる。だから、石油会社の側では現有の精製能力の限界近くまでガソリンの増産はするものの、それ以上の投資には慎重にならざるを得ないわけだ。同紙の記事によると、アメリカの石油会社は昨年来、ガソリンの精製を日産20万バレル増やして現在、日産885万バレルのガソリンが国内で生産されている。が、ガソリン消費は日量2100万バレル近くだというから、結局海外からの輸入が必要である。

 こうしてガソリン価格が上がれば、穀物がエタノールの生産にさらに回され、トウモロコシはもちろん、他の食品の値上がりにも繋がっていく。この悪循環を断つために、ブラウン氏はエタノール工場の新設を一時中止するよう提言している。
 
谷口 雅宣
 

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2007年5月27日

タラバガニの高騰

 生長の家講習会が行われた釧路市から東京・羽田に向けて飛行中の全日空機の中でキーボードを叩いている。約1カ月半ぶりに行われた講習会で、久しぶりに前回を上回る受講者が来てくださったことは有り難かった。釧路地方はまだ「早春」の趣で、若葉が萌え出る木々が広大な平地を覆っているさまを見ていると、胸がスーッとする。昨日、東京から到着した時の気温は6℃ぐらいで、持参したスプリングコートを空港内で着て外へ出たが、「寒い」のひと言が思わず漏れた。夕食時、宿舎の釧路全日空ホテルから外出して港近くへ行くと、吹く風も手伝って、思わず肩をすぼめて歩くことになった。
 
 ホテルの向い側には、土産物店と飲食店が入った「フィッシャーマンズ・ワーフ」という異名をもった建物があり、どうせ食べるなら現地のものをということで、そこで夕食をいただいた。「異名」という言葉を使ったのは、有名なサンフランシスコのフィッシャーマンズ・ワーフから採った名前なのだろうが、あまり似ていないからだ。入った店では、獲れたての魚や野菜を七輪で炭火焼きにする料理が食べられる。その際、「てっぽう汁」というのを注文したが、一杯が「550円」と高価なので驚いた。店員に「2人で1杯で足りますか?」と訊くと「内容が多いので大丈夫です」という答え。しかし、出てきた椀はそれほど大きくなく、中の具は野菜は充分あったが、タラバガニが小さい。ちょうど脚の“関節”に当たる部分を3~4㎝に切ったものが4~5本入っているだけで、殻の中身はほとんどないのである。

 その時は「まぁこんなものか」と思って、その他の具である豆腐やネギ、ワカメなどを美味しくいただいたが、翌日(今日)の『北海道新聞』の1面を見て、タラバガニの小さい理由がわかった。値段が例年の2倍近くに高騰しているのだ。理由は、ロシアからの輸入物が激減しているためという。この記事を読んで初めて知ったのだが、北海道で売られているタラバガニの9割以上が輸入もので、そのほとんどが実はロシア産らしい。そのロシアが、日本へのタラバガニの輸出を半減させているから、値段は倍になるというわけだ。ロシアの輸出縮小について、同紙は「水産資源の先行きを懸念したロシア側が乱獲や密漁を規制するなど、漁業管理強化に動いていることが大きな原因」という市場関係者の見方を紹介している。また、「韓国や中国での需要が拡大している。規制が厳しいこともあり、日本市場が敬遠されている面もある」という卸業者の見解も載っていた。

「世界は1つにつながっている」との感を強くした。中国の急速な経済成長は、その人口の多さから世界的な影響力をもつ。人間は、経済的に豊かになるにつれて、植物性蛋白質から動物性蛋白質へと食事の嗜好を変えると言われているが、タラバガニの高騰は、まさにそのことを示しているのかもしれない。このことは、中国国民が今後、豚肉食(すでに多いが)や牛肉食を増やしていく傾向と併行しているとも考えられ、それに伴う穀物飼料の需要増大、そして世界の穀物価格の上昇にもつながっていくだろう。

 講習会の午後の講話の中で、タラバガニの話を引き合いに出して現在世界的に進行中の「食品の値上がり」について触れた。今、温暖化ガスの排出削減策の1つとして、バイオエタノールの増産と利用が世界各地で始まっていて、とりわけアメリカ国内でのトウモロコシの作付面積の拡大が、ダイズ、小麦、綿花、米などの生産減少につながる可能性がある。このことは3月31日の本欄で触れたが、何せ、今年の作付面積は日本列島全体の大きさに匹敵し、昨年からの「増加分」だけで東京都の面積の22倍にもなるからだ。この分、他の農作物の作付は減り、したがって収獲も減少することになる。

 ところで、日本近海で獲れるクロマグロの漁獲については、これまで規制がなかったらしいが、水産庁は年内に漁獲規制を導入する方針を決めたという。今日付の『道新』や『日経』が伝えている。魚の乱獲の問題については昨年4月19日同6月4日の本欄でも触れたが、マグロ、マカジキ、メカジキなどの大型魚を食べることは、養殖ものの場合は穀物飼料を使い、遠洋ものの場合は化石燃料を多く使うという悩ましさがある。しかし、魚類はウシやブタに比べれば飼料効率がいいし、天然の近海ものなら安心……と考えていたところ、この話である。規制の理由は「最近は十分な大きさになる前に巻き網で大量に漁獲したり、より小さいものを養殖用に漁獲したりすることも増えている」からだそうで、資源保護の観点から規制に踏み切るらしい。

 海産資源の量が一定と仮定すれば、世界の人口が増えれば当然、1人当たりの分け前は減る。それを今まで通りに食べようとすれば、奪い合いが起こるのも当然だ。そんな状況の中では、「必要量だけ感謝していただく」というのが平和共存の道だ。だから、カニ料理も寿司も、「食べ放題」というヘドニスティックな食事の仕方を、もうそろそろやめたらどうかと私は思う。

谷口 雅宣

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2007年5月25日

安倍提案は“掛け声”だけ?

 今日のニュースでは安倍首相の“美しい星”提案が話題になっているが、有効な具体策に乏しく“ムード先行”の感が否めない。日本経済新聞社主催の第13回国際交流会議「アジアの未来」での演説で同首相は、「2050年までに地球全体の温暖化ガス排出量を半減」することを世界共通の目標として採択することを提案した。2012年で終る京都議定書の後を見越した“世界全体の目標”を明確に打ち出したという点では評価できる。が、肝腎のその議定書の目標を日本自身が達成できるかどうか危ぶまれている現状では、もっと斬新で具体的な方策を伴った提案をしてほしかった。ただ、この分野での政府のヤル気を疑っていた私にとっては、「ヤル気はあるよ」と言ってもらった気がして、ありがたい。

 もちろん、安倍提案には具体策が全くないわけではない。しかし、数少ない具体策の中にあるのが「先進的な原子力発電技術の開発」というのだから恐れ入る。首相の考えでは、原発をどんどん更新することが“美しい星”実現への道なのだ。また、日本国民に向けては、「1日1キロ温暖化ガス削減」の運動を提唱している。このスローガンの意味は分りにくい。「国民1人が年間に1キロの温暖化ガスを削減する」のか、それともその削減を1年間(365日)継続することで、1人が年間365キロを削減するのか? 『日経』の説明を読むと、どうやら前者のようであるが、それならスローガン中の「1日」という言葉は不要である。また、この削減運動の具体例を見ると、「エコドライブ」「マイバッグ」「節水」「家電の省エネ化」「ゴミ分別の徹底」など、環境意識のある国民ならすでに実行済みのものばかりだ。

 問題は、「みんなで半減しましょう」と提案しながら、「自分はどうするか」を言わないところにある。EUは先ごろ、「2020年に1990年比で20%削減」というEU自身の削減目標を決定したが、安倍首相は日本の削減目標を言わなかった。『日経』はその理由を「日本独自の目標設定を避けたのは、現状計画の達成が厳しい事情の反映でもある」と分析している。つまり、京都議定書の目標達成が難しいからだ。これについて首相は、「日本が約束した6%の削減目標を達成するため総力を挙げて国民全体で取り組む」と強調したという。「1キロ削減」の国民運動を展開すれば議定書の目標達成にいたると考えているのだとしたら、大変甘い見方だと思う。

 本欄で何回も触れてきたが、私は温暖化抑制のためには、この種の“小手先”の方策や、“掛け声”だけでは足りないと考える。地球温暖化の原因は、化石燃料の大量使用からくる大気中の温暖化ガスの上昇なのだから、この原因を除かなければ問題の解決はない。安部案は、これを原子力エネルギーの増加と二酸化炭素の地下固定、家電製品の買い替えを含めた国民の省エネ努力で達成しようというようだ。自民党の経済基盤である大企業の利益にならないことはしないとの明確な意図が読み取れる。それを「環境保全と経済発展の両立」という言葉で表現しているのだとしたら、ピントがズレていると思う。先ごろのIPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)の報告書にあるように、「今、本気でクリーン・エネルギーへの転換を図れば、比較的安いコストで温暖化の進行を防げるが、対策を遅らせば将来のコストは耐え難いものになる」のである。そういう意味で、環境保全と経済発展は両立するのであって、大企業の利益増進のために環境保全対策を考えるのは主客転倒である。
 
「化石燃料を燃やす」という現在の我々の活動自体が、地球環境へのコストを現実に生んでいるのである。そのコストを商品やサービスの値段に正しく反映させることが、本当の意味で「環境保全と経済発展の両立」につながる。これには「炭素税」や「環境税」を課すのが最も分りやすく、シンプルである。が、経済界は「CO2をタダで排出できる」という既得権を失うので、猛反対している。これに対して考案されたのが、企業や事業所ごとに温暖化ガスの削減義務を負わせる「キャップ方式」と「排出権取引」である。EUはこの方式をすでに実施しているが、安倍提案にはこのいずれの方式も言及されていない。そういう意味で、今回の提案は具体的制度の提案というよりは、“掛け声”の要素が大きいのが残念だ。

谷口 雅宣

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2007年5月22日

環境にやさしくない原発

 5月7日の本欄で、今後の温暖化抑止対策の焦点は原子力発電の扱い方になると書いたが、日本政府はどうも本気で“原子力立国”への道を進もうとしているようだ。今日(22日)の『朝日新聞』夕刊によると、21日にはワシントンで、米大統領の肝いりの原子力新計画「国際原子力パートナーシップ」をめぐる日米仏露中の閣僚級会合が開かれ、「5カ国が協力して原発の普及拡大や、核拡散の恐れのない使用済み核燃料の再処理技術の研究開発などに取り組むことで一致した」そうだ。日本からは高市科学技術政策担当相らが出席し、共同声明も発表したという。同じ日の『日経』の夕刊は、「仏中ロを含む5カ国は世界規模で原子力を推進する方針を確認。最高度の安全対策を追求し、核燃料や技術の平和利用を進めることでも一致した」そうだ。
 
 私は原発については、核拡散や世代間倫理の視点から増設に反対してきたが、あまり指摘されないが、環境への深刻な影響を引き起こす要素があることを知った。原発は、核分裂反応による高熱でタービンを回して電気をつくるが、この高熱を冷却するために大量の水が必要となる。だから原発の立地は、必ず河川や湖沼、海などがある“水際”である。原発を冷却した残りの大量の温水が河川や湖沼や海に流されることで、環境に影響が及ぶことは否めない。また、大量の水を使用すること自体が、降水量の少ない地域では環境問題に直結する。さらに言えるのは、夏場に外気が高温になり冷却が不十分になれば、安全のため運転を縮小したり、一時的に止める必要に迫られることがあるという。21日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。
 
 その記事によると、地球温暖化が進行すれば雪解けにより内陸部の水量が減ったり、冷却に使う河川や湖水の温度も上がるから、原発による電力供給は不安定になるというのである。このことは2003年に、実際にフランスで起こったらしい。フランスは電力供給の8割を原発に頼っているが、この年の夏、記録的な熱波に襲われたという。国内にある58基の原発の大半は河川の近くにあってその水を利用しているのだが、この夏には17基が出力を下げたり、運転の一時停止を余儀なくされたのだ。これにより、フランスでは隣国などから電力を購入しなければならず、外国からの購入費は、1メガWh当たり最高で1千ユーロ(US$1,350)にもなったという。普段の夏場の電力料金が1メガWh当たり95ユーロであることを考えると、大変な値上がりである。
 
 日本政府が進めようとしている“原子力立国”の構想では、こういう問題をどう考えているのだろうか。日本の原発の多くは海岸近くに位置している。その場合、冷却用に使った水は海に流されて海水の温度を上昇させることになる。そう考えていくと最近、気象庁から発表された日本周辺の海水温の上昇のニュースが、気になってくる。5月16日の『日経』によると、日本周辺の海面水温は、過去100年間で、世界の平均値に比べて最大で3倍を超える「0.7~1.6℃」暖かくなっていることが分ったそうだ。日本周辺だけがなぜ世界の平均より上昇しているのか、理由は定かでない。気象庁の分析は「温暖化ガスの排出増などで大気の温度が上がり、海面がその影響を受けた」というものだが、では、なぜ日本周辺の大気が世界平均よりも上昇しているかの説明はない。
 
 原発は、冷却する際に大量の温水を外部へ流すだけでなく、冷却水の通る冷却塔から熱を大気中に発散する。上記の『トリビューン』紙の記事によると、このとき原発によって暖められた水の「3分の1は冷却塔から蒸発する」という。これはフランスの原発の話だが、日本の原発の構造はどうなっているのだろうか。そういう観点から原発の環境への影響を考える必要はあると思う。

谷口 雅宣

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2007年5月21日

宗教と科学 (3)

5.デジタルとアナログの協力
 上に例示した宗教の教えには、連続性を強調したものが3つある。一見別々の存在として映る“個人”や“個生命”は愛によって結ばれていることと、すべての存在には尊い仏性が宿るとすることは、いずれも外見の如何にかかわらず、宇宙の存在のすべては連続し、互いに深く関連し合っているという意味である。これが宗教本来の考え方だと私は思う。宗教は、存在を切り分けて孤立させるのではなく、一見バラバラに存在していると見える“個”を、“全体”に統一する働きである。私はこれを「アナログ」(連続的)の働きと呼ぶ。
 
 これに対して科学は、全体を理解するために個を取り出し、それを深く研究する。科学は、高等生物を細胞の集合体としてとらえ、細胞の研究から分子生物学を生み出した。そして、細胞の核に折り畳まれたDNAの情報を取り出し、同じ細分化の手法によって多数の遺伝子を特定した。また、分子を細分化して原子にいたり、さらに素粒子論を生み出してきたのも、科学本来の細分化の営みだと思う。「自然」や「宇宙」という統一体を研究するのに、それを部分や側面に分解して、それぞれを研究することで、科学は物理学、生物学、化学、生態学、天文学、気象学、地理学……などの様々な研究分野を派生させた。私はこれを「デジタル」(離散的)な働きと見る。

 デジタルな科学の研究では、多様で変化する物事や事象の中からいくつものサンプルを離散的に抽出して、それらを測定し、それらの値の間に法則性を見出して、その法則によって研究対象を説明しようとする。しかし、人間を組織や臓器に分解して、それぞれの組織や臓器の機能や相互の関連性を理解したとしても、それは「人間」を理解したのではなく「肉体」を理解したのである。そこからは、何か切実なものが抜け落ちてしまう。人間の理解は、無人称で無名の抽象的で、孤立した人間の理解では足りない。そのデジタルな人間に具体的でアナログ(連続)的要素を吹き込まねばならない。

 すなわち、具体的にある時代の、ある文化圏の、ある民族の、ある国の、ある階級の、ある家族の、何番目の子として生まれた特定の人間が、同じように具体的な別の人間とどのような関係をもって生きたか……。あるいは、その具体的人間が、どんな社会環境、自然環境で育ち、具体的にどんな業績を残したか……というような他との「つながり」(連続)の要素を加味して理解したとき、それはよりリアルな人間理解に達すると言わねばならない。私が言いたいのは、科学によるデジタルな理解に、文学や哲学や宗教のようなアナログの理解が加わったときに、人間はより満足できる知恵に到達するということである。

 私はこのように、宗教と科学は本来対立すべきものではなく、相互補完の関係にあると考える。科学技術の発展がめざましい現代では、科学のもつデジタルで、物事を細分化する働きが社会全体に広がり、家族が分解し、個人は孤立しつつあるように思える。それは科学が悪いというよりは、本来アナログ的役割をもっていた文学・哲学・宗教が、デジタルになりつつあるからではないか。つまり、宗教に限って言えば、物事のつながりや関連性を説く宗教が、個々バラバラの教義や儀式・祭式を立ててそれに固執し、それぞれの“殻”から出ていかないからではないか。互いの共通点よりも、相違点を自己の存在意義と考えているからではないだろうか。

谷口 雅宣

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2007年5月20日

宗教と科学 (2)

3.素朴な人間観の超克
 ここで言う「人間」とは、生物学上の概念というよりは、「これが自分という人間である」と思っている各人の素朴な人間観のようなものを指す。もちろん、各人のもつ人間観は厳密に言えばみな微妙に違っている。しかし、その中でも共通な部分があるはずだ。それは、各人が家庭や学校、社会生活を通して形成されてきた「人間とはこうである」という常識的な認識のことである。

 この認識によれば、「人間」はしばしば「自然」と対立している。「人間」は欲望をもって他人や自然を支配したり、利用しようとする。そんな周囲から奪ったり、周囲を利用することで生きる存在が人間であり、その本質はどんな人間でも変わらないとする考え方を、“素朴な人間観”と仮に呼ぼう。これを信奉する人間は、前に書いた人間至上主義に陥りやすいのである。だから、「自然の背後に人間以上の価値を認める」ためには、この“素朴な人間観”を超える「人間とは何か」の認識を、多くの人々が共有する必要があると思う。

 それは宗教、倫理、道徳教育のことだ、と人は言うかもしれない。伝統的には、確かにそうだった。しかし、21世紀初頭の今日では、科学の発見により、宗教、倫理、道徳の言葉を使わなくても、“素朴な人間観”を超えるものを提示することができると思う。もちろん私は、宗教、倫理、道徳を否定するものではない。しかし、古い徳目や、伝統的な宗教の戒律をそのままの形で、家庭を含めた教育の場に復活することは、国際化やグローバル化が進んだ現代社会では難しいことがある。そんな時、宗教、倫理、道徳の“色”に染まっていない「科学的知見」を導入することは、効果的ではないだろうか。

4.科学的知見と宗教
 私は「科学的知見が宗教や倫理・道徳の代用になる」と言うつもりはない。そうではなく、科学的知見を宗教者が自らの信仰や信念を通して見たとき、そこに何らかの“教化”や“教え”を読み取ることが可能だと思うのである。簡単な例で言えば、「諸行無常」の教えは地球物理学や医学・生理学などの言葉で語ることができるだろう。すなわち、一見堅固に見える山脈や列島や大陸さえも、生滅流転する存在であること。また、「これが私だ」と思っている人間の体は、細胞や分子レベルでは刻一刻変化していることなどは、この教えの証左である。
 
「あなたの隣人を愛しなさい」という教えは、遺伝学や分子生物学の知識を使うことで、現代人により説得力をもって伝えることができるだろう。つまり、遺伝子を比べれば、人類のどんな異民族の違いも無視できるほどのものであり、他の動物との違いでさえ百分の五程度しかない。だから、前掲の聖句に加えて、「私の兄弟の最も小さい者にしたことは、すなわち私にしたのである」という聖句も、生態学や生物多様性の視点を導入すれば、現代の重要問題への解決策を示していると見ることができる。

「悉有仏性」の教えも、マスメディアの報道からは信じにくくても、大脳生理学の知見から納得させられるかもしれない。それによると、「良心」や「理性」の座は大脳新皮質の前頭葉のどこかにある。その場所は、高等な哺乳動物に共通してあるが、人間において最も発達し、複雑な機能分化が見られる。だから人間には皆、良心や理性があり、それにしたがった生きることが人間らしい生き方である、と。

 宗教と科学が一致しない点は、もちろんある。しかし、一致点と不一致点がある場合には、一致点を重視するのが宗教本来の考え方だと、私は思う。(つづく)

谷口 雅宣

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2007年5月19日

宗教と科学

 宗教専門紙の『中外日報』からの依頼で、4回連続で短文を書いた。それぞれ5月3日、8日、15日、22日の同紙に掲載されるが、さらに1文を加筆して以下に順次掲げることにする:

1.地球環境と宗教
 地球環境問題がようやく国際政治の前面に上ってきた。しかし、この21世紀最大の問題をどう理解するかについて、人類はまだ合意に達していないようだ。私は5年前に生長の家から上梓した『今こそ自然から学ぼう』に「人間至上主義を超えて」という副題をつけて、この現代の思潮が地球環境問題の根底にあることを指摘したが、どれだけ説得力があったか分からない。
 
 人間至上主義とは、人間にとって何よりも大切なのは人間だから、人類の増殖と発展を至上価値として追求すべきとする考え方だ。「至上価値」という意味は、どんな犠牲を払っても擁護し、あるいは実現すべき価値ということだ。このような考え方にもとづいて、私たちは自然を人間の目的のために改変し、改造し、破壊してきた。今日の地球温暖化は、その結果であると言わねばならない。

 もし、この人間至上主義が問題だということを人類が合意できれば、地球温暖化や自然破壊の問題の解決は比較的容易だろう。そのためには人間至上主義的考え方を棄て、それに代る--例えば自然至上主義的な--思想や信条を採用し、拡大していけばいいからだ。そして、そういう思想・信条にもとづいた社会制度や技術、ライフスタイルを構築していくことで、ゆっくりではあるが、人類の進む方向に変化が生じていくだろう。ただし、その変化が、地球環境の悪化の速度より速くなければ、多大な犠牲が出ることは言うまでもない。

「人間至上主義を推進したのはキリスト教だ」という人が今でも時々いるようだが、責任転嫁の議論だと思う。なぜなら、“神道の国”とか“仏教国”とも言われる我が国によって、過去どれほど環境が破壊され、現在も破壊されつつあるかを、この議論は無視しているからだ。地球環境問題は人類共通の課題だから、すべての宗教が自分の問題として取り組むべきだと私は思う。

2.新しい宗教的自然観
 地球環境問題の解決を技術やテクノロジーのレベルで論じる人が、まだ多い。曰く、自動車はすべてハイブリッドや燃料電池車に変え、エネルギーは原子力の利用を中心にし、それでも排出される温暖化ガスは地下に高圧密閉し……等々。

 こういう議論は、しかし片手落ちである。これでは、それらの技術がどういう動機で開発されるかが問題にされていない。技術は人間にとって一種の“道具”であるから、“優れた道具”さえ手に入れば、人間はそれを“優れた目的”に使うと考えているかのようだ。しかし、1945年の広島や長崎で、また2001年のニューヨークやワシントンで、その期待は見事に裏切られている。しかも、さらに皮肉なことに、この2例とも、それぞれの“優れた技術”の使い手たちは、その技術を“優れた目的”に使ったと信じていたのである。

 私がここで指摘したいのは“人間の心”が技術を生み出し、技術を使うということである。そして、“人間の心”は常に正しいとは言えないのである。前回触れた人間至上主義的考え方の最大の欠陥は、この事実を真正面から受け止めないことである。人間が科学技術によって力を得て、増殖し、自然と対峙する際には、人間は正しい判断のもとにその力を行使するから、常によい結果が出て、人間はさらに進歩する……そんな楽観論を、私はその背後に感じるのである。

 私は今「人間が……自然と対峙する」と書いた。それは、そうすべきだという意味ではない。人間至上主義者はそういう態度をとりがちだからだ。私は逆に、「自然と対峙しない人間」の生き方を提案したい。それは、人間至上主義ではなく、人間自然主義、あるいは自然中心主義とも呼べるかもしれない。自然の背後に人間以上の価値を認め、その価値のために人間が欲望を律する生き方である。新しい宗教的自然観が構築されなければならないのである。(つづく)

谷口 雅宣

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2007年5月18日

最近のいいニュース

 日本の男の喫煙率が4割を切ったという。春の爽やかさを引き立ててくれるよいニュースではないだろうか。厚生労働省が発表した「2005年国民健康・栄養調査」の結果の1つとして17日付の『日本経済新聞』が伝えている。それによると、2005年に習慣的に喫煙をしていた成人男性の割合は「39.3%」で、この調査開始の1986年以降初めて4割を切り、2003年(46.8%)の割合からは7.5ポント減少した。これに比べ、女性の喫煙率は「11.3%」で2年前と同率じで、30代の女性の喫煙率(19.4%)は逆に前年より1.4ポイント増加したという。

 これらの数字の背景にどんな動きがあるのか、詳しいデータを知らない私には想像するほかはない。が、男--それも中高年が、喫煙をやめる努力をしているのだと素直に考えたい。というのは、私が職場との往復をする道すがらも、煙草の臭いをさせている中高年の男性はあまりおらず、その代わり若い男女が無遠慮に歩行喫煙をしているのに出会うからである。「無遠慮に」と書いたのは、私の住む渋谷区では歩行喫煙は条例違反だからだ。
 
 環境保全の関連でも、いいニュースがある。植物を原料とするバイオプラスチックの改良が進んでいて、これまでの弱点だった耐熱性が向上している。18日の『日経』によると、東レはトウモロコシからつくるバイオプラスチックの原料である「ポリ乳酸」を溶かし、これに植物繊維を均質に混ぜることで、従来より強度と耐熱性に優れたプラスチックの開発に成功した。従来型は55℃で変形するが新型は150℃に耐えられるという。また、帝人と武蔵野化学研究所は共同で、熱に強い特殊な結晶構造のポリ乳酸を開発し、来年にも実用化を考えているらしい。この素材を衣服などの繊維として使えば、アイロンをかけても破れる心配はないという。バイオプラスチックはこのほか、食品容器、携帯電話やパソコンの外枠、自動車の内装、機械や電子部品などへの利用が進んでいくだろう。
 
 また、17日の『日経』によると、4月に改正施行された容器包装リサイクル法のおかげで、レジ袋削減の動きが活発化している。スーパー各社はレジ袋の有料化を進めていて、東急ストアでは横浜市の金沢シーサイド店で4月1日からレジ袋を1枚5円で販売し始めたところ、レジ袋の辞退率が18%から85%に増えたという。イオンは京都市内などでレジ袋の有料化を始めており、イトーヨーカドーとユニーも6月から、横浜市内の1店で有料化を始める。また、コンビニチェーンのミニストップも6月1日から、レジ袋を使わない客の購入金額から1円を引く実験を千葉市内の直営店で始めるという。

 さて、トヨタの最高級乗用車「レクサス」にハイブリッド版が出たようだが、これは“いいニュース”か“悪いニュース”か判断が難しい。1台が千五百万円もする車を買う人は、地球環境を気遣う人かどうか……と考えてしまうからだ。本欄を愛読してくださっている方ならご存じのように、私は2005年7月に「拝啓 トヨタ自動車 殿」という文章を書いて、アメリカで成功したレクサスの日本への導入よりも、国内でのハイブリッド車の拡充を要望した。それが2年後に実現したのだから、感謝すべきかとも思うが、私が当時から要望している小型SUV車のハイブリッド版はまだない。同じものはホンダ車にもないことから考えると、このクラスの車は“売れ筋”のために、利幅に余裕がなく、これにさらにコスト高となハイブリッド・システムを加えることは利益の拡大に逆行する、と両社とも判断しているのかもしれない。
 
「地球温暖化の緩和」と「企業の利益拡大」のいずれを選ぶかとなると、営利企業は後者を選ぶというのは当たり前のことなのだろうか。自動車メーカーでは「世界一」への道を驀進するトヨタなのだから、CO2の排出責任も世界一になると考えてほしい。だから、こんな少数の金持ちの趣味的な車に力を入れるよりは、高騰中の燃料代を半減できる充電式ハイブリッド車(本欄の昨年2月3日6月14日参照)を早く実現してほしいのである。

谷口 雅宣

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2007年5月17日

“電子取材”の可能性

 インターネットの発展は、社会にどんな変化をもたらすかよく分からないところがある。情報が入手しやすくなったことは良いことだろうが、反面、情報の洪水を整理するのが困難になりつつある。遠方に足を運ばなくては得られなかった情報が、家庭やオフィスから簡単に入手できるのは嬉しいが、逆に、遠方に行く「過程」で得られる情報が抜け落ちていても、気がつかないことがある。そんな欠落が個人の生活範囲におさまっていればまだいいが、公共の場にも広がった場合、社会全体が判断ミスを起こす原因にもなりかねない。こんな疑問とも関係した出来事が最近、南カリフォルニアとインドとの間に起こっていることを知った。
 
 インドは今、経済発展盛んなBRICs諸国の一画として注目されているが、この4国のうちインドが有利なのは「英語を話す」という点だ。コンピューター・ソフトの開発言語の多くは英語を母体としているから、インド人には比較的マスターしやすいとも聞く。だから、インターネットを経由して、アメリカなど英語圏の国のソフト開発などを行う“下請け”的仕事や、電話による受付や相談などのサービス産業が活発化し、インド経済は発展し続けていると聞く。ところが最近、南カリフォルニアのロサンゼルス郊外にあるパサデナ市の出来事を追うローカル新聞『Pasadena Now』()の記者として、インドに在住する2人のインド人が雇われ、ちょっとした話題になっている。16日の『ヘラルド・トリビューン』が伝えている。
 
 誤解がないように明確にしておくと、この2人の記者は、インドからパサデナ市に来て取材活動をするのではなく、自国にいるままで地球の裏側のカリフォルニア州の町のニュースを書くのである。そんなことが、どうやってできるのか? 記事によると、1人の記者はインド経済の中心地であるムンバイに住んでいて、そこからパサデナ市議会の様子をモニターし、記事を書くのだそうだ。議会にカメラを置き、インターネット経由で映像と音声を送れば、これは可能である。この方法が有利な点は、人件費の差だけではなく、時差を利用できるからだ。カリフォルニアの早朝は、インドでは午後の早い時間に当たるそうだ。だから、議会が深夜を過ぎて翌日まで継続した場合でも、インドでは記者はまだフレッシュな頭で記事を書いて送信できるから、カリフォルニアの読者はその日の早朝に記事が読めるというわけだ。

 これに対して、多くのジャーナリストは否定的な見解を示しているらしい。遠く異国に住む外国人が、自国のローカルな町のニュースを正確に報道できるわけがないというわけだ。日本に当てはめれば、高知県の東洋町議会での“町おこし”政策をめぐる記事を、ブラジルのサンパウロ市にいる日系人記者が書いたとしたら、そういう記事の載った新聞を東洋町民はどんな気持で読むか--そういう問題である。『Pasadena Now』紙の編集長、ジェームズ・マクファーソン氏(James Macpherson)は、地元で記者を育てる時間がないし、自分はパサデナ生まれでこの町の様子をよく知っているから、送られてきた記事を自分がチェックすれば、公平さや正確さは保てると言っているらしい。何となく言い分はわかる。

 そこで興味をもった私は『Pasadena Now』のサイトを見てみたが、そこにリンクされているパサデナ市のサイトには、市議会の様子を記録した映像ファイルがきちんと保管されているのを知った。つまり、市議会の議事はリアルタイムに放映されているだけでなく、過去のファイルも世界中の人に公開されているのである。内容は多少編集されているかもしれないが、1つのファイルの放映時間は最短で1時間、最長では5時間16分もあるから、恐らくほとんど編集が加わっていない。アメリカとは何とオープンな社会かと驚いた。
 
 政治や文化、考え方の違う外国人に自国の情報を集めてもらうのは、やはり考えものだ。しかし、補助的な取材や翻訳面では助かることも多いだろう。また、取材や情報収集の担い手を外国にまで求めなくても、自国内に適当な書き手を見つければ、その人がたとえ遠方にいても、インターネットによる“電子取材”は有効に活用できるかもしれない。情報手段としてのインターネットの可能性は、まだまだ広がると感じた。
 
谷口 雅宣

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2007年5月15日

アメリカでも“炭素ゼロ”運動

 前2回の本欄では“暗い話題”を取り上げてしまったので、今回は明るいニュースを書こう。生長の家は今年度から10年後を目指して、教団の活動で排出される二酸化炭素(CO2)を実質的に「0」にする“炭素ゼロ”の運動を始めたことは、本欄ですでに書いた(4月5日参照)。ところが、この運動が始まったばかりの今年4月、カリフォルニア州ガーデナ市にある生長の家アメリカ合衆国伝道本部は、スリーフェイジズ・エナジーサービス社との間で、建物から排出されるCO2を向こう3年間実質ゼロにする契約を締結してしまったのである。私は、この素早い対応に驚いて問い合わせたところ、同伝道本部の勅使川原淑子・教化総長が、概略次のように説明してくれた。

 同伝道本部は、できるところから地球環境保全に取り組んでいこうとして、2006年8月ごろからアメリカでの環境保全への取り組みと可能性について調査を始めたという。その結果、第一段階としては日本の運動にならってグリーン電力の購入をしようということになり、カリフォルニアを本拠とするスリーフェイジズ・エナジーサービス社を使ってグリーン電力を購入した場合の予想金額などを添えて、勅使川原総長が10月の伝道本部理事会に提案したという。そして、今年1月の理事会で提案が可決され、具体的な購入先の選定作業が行われた後、3月の理事会で同社との契約締結が決まったという。
 
 勅使川原総長によると、この契約決定の後、理事全員が「ヤッター」というような実に嬉しそうな表現や表情をしたという。同伝道本部の年間の電気使用量は約2万8千kWhになるそうだが、この電力量にともなうCO2を相殺するために必要な金額は「560ドル」で、3年間では「1,581ドル」(約19万円)なるらしい。このお金で、化石燃料でつくられる電気より高価な、風力などの自然エネルギーでつくられた電気を買うのである。

 4月21日の本欄に書いたように、アメリカの温暖化対策に関連して重要なことは、4月2日に連邦最高裁がCO2を「大気汚染物質」と認定する歴史的決定を下したことだ。これにより、連邦政府の環境保護局(EPA)はCO2の排出削減を行わざるを得なくなっている。しかし、これを受けたブッシュ大統領は14日、「自動車の燃費向上の基準を策定するための作業を開始した」と発表しただけで、2008年の終りにその基準を策定するまでは特に何もしないと言ったらしい。15日付の『ヘラルド・トリビューン』が伝えている。この2008年末とは、ブッシュ氏の任期が終る数週間前だから、彼のヤル気は推して知るべしだろう。

 これに対して、連邦上院の民主党指導者のハリー・レイド氏(Harry Reid)は、大統領府とは別に法律による燃費基準の策定を考えていて、現在の「リッター10km」を10年間で「リッター14km」まで向上させようとしているという。一方、カリフォルニア州と他の10州は昨年11月に、連邦政府を相手取って、ミニバンやSUVに対して燃費の向上を義務づけるための訴訟を起こしている。この訴訟は、2006年に策定された新しい燃費基準--わずかな改善しか求めていない--が環境にどのような影響を与えるかの評価を求めるもので、カリフォルニア州の言い分では、この基準は、人間の活動による大気汚染が環境にどんな悪影響を与えたかを考慮しておらず、中東の政治的不安定や、新しいクリーン・エネルギーのことも無視している--つまり、本来すべき仕事をしていないのだという。
 
 アメリカ国内のこのような動きの中で、環境意識の高いカリフォルニア州にある生長の家アメリカ合衆国伝道本部が、真っ先に“炭素ゼロ”の方向に歩き出してくれたことは、カリフォルニアの非営利法人として面目躍如であるとともに、日本の運動を勇気づけてくれるものだ。

谷口 雅宣 

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2007年5月13日

核の自爆攻撃をどう防ぐ? (2)

 私は前回、「核を使った自爆テロを抑止できないかもしれない」と書いたが、それは私の感想であり、ブッシュ政権の結論ではないようだ。前述の記事によると、昨年5月の段階ではっきりした結論は出ず、「抑止は多分できそう」というニュアンスで記事は書かれている。その理由は、核兵器による破壊後でも、その由来をある程度調べることができるらしいからだ。そういう事後調査の技術を「核法化学(nuclear forensics)」と呼ぶ。この技術によって、核テロリストが使った兵器の供給元が判明した場合、その国に対して核兵器で報復すべきかどうか。また、そのことを事前に、すべての国に対して宣言すべきかどうか。さらに、その時に使われる報復手段を「核攻撃」とはっきりと表現すべきか、あるいはもっと抽象的に「すべての責任をとらせる」などと表現すべきか……そういう問題が議論されたようである。

 この会議が行われたのが昨年5月で、イランの核開発問題とのからみで事態は複雑化していた。この時期に、「すべての責任をとらせる」とイランを脅すことが賢明かどうかの判断は微妙だった。ところが10月9日、そんなところへ北朝鮮が核実験を発表した。これよって、何をするか分らない国が核の供給元になる可能性が増大したため、事態を深刻に考えたブッシュ政権は、ただちに大統領自身が北朝鮮に対して、「他国やテロ組織への核兵器や核物質の移転は、アメリカへの重大な脅威と見なし、北朝鮮はその結果の全責任をとることになる」と警告したのである。私がここで強調したいのは、ブッシュ大統領は北朝鮮の核兵器自体を「重大な脅威」だと言わずに、他への「移転」を問題にした点だ。その理由が、今回の報道で明らかになった。すなわち、ブッシュ政権の当時の最大の関心事は、北朝鮮の核が反米テロリストの手に渡り、アメリカ国内で使われる可能性だったのである。
 
 こうして、北朝鮮に対しては「核の移転は報復措置を招く」というメッセージが発せられ、イランにはそのメッセージは発せられなかった。しかし、このことは反面、アメリカが北朝鮮を核保有国として暗黙裡に認めたと解釈される余地を含んでいる。
 
 さて、ここでいきなり日本が抱える拉致問題との関係へ飛ぶ。4月の日米首脳会談で、ライス国務長官が日本側に対し、拉致問題の解決は北朝鮮のテロ支援国家の指定解除の「前提条件にならない」と言ったことが最近、明らかになった。(5月13日『朝日新聞』)これは、見方によっては、拉致問題とテロ支援国家の指定解除を切り離し、北朝鮮が核放棄を決断するならば、拉致問題を積み残したまま、北朝鮮をテロ支援国家のリストから外し、経済支援への道筋をつける選択肢を開いたとも言える。
 
 ここでさらに一転して、目を東ヨーロッパに向ければ、アメリカが強力に配備の準備を進めているミサイル防衛システム(MDS)のことが思い出される。12日の『朝日新聞』によると、アメリカはチェコとの間で、MDSのレーダー施設建設の交渉を2008年前半までに終えることで合意し、2011年の運用開始を目指すという。その理由は「イランなど米国にとっての敵対国への対応を強化するのが目的」という。アメリカはすでにポーランドとの間で、ミサイルの発射設備設置の交渉に入っていて、中央ヨーロッパのブルガリア、ルーマニアとも空軍主体の小規模基地設置の作業を進めている。これに対して、ロシアのプーチン大統領は明確な「反対」の意志を示していて、「軍事的対抗措置」を辞さないなど、厳しい姿勢を示している。
 
 そこで私は憶測する。これほどまでにアメリカがMDSにこだわる理由は、テロリストへの核の移転を恐れているためではないか。もっと具体的に言えば、イランが核兵器を所持することよりも、イランから持ち出された高濃縮核物質がイスラーム過激派の手に渡り、それがアメリカ国内で使われることを防ぐことが、MDSの計画中に含まれているのではないか、ということだ。テロリストの核自爆テロを防ぐためには、北朝鮮に出したような警告をイランにも出す必要があるが、その警告を保証するような兵器システムが実際に存在しなければならない。現在のアメリカの核兵器は、冷戦時代の超大国同士の撃ち合いを想定したものだから、このような用途への転用がきかない可能性がある。もしそうであれば、MDSは、核自爆テロの抑止を目指した報復攻撃用のシステムとしても考えることができるのである。

谷口 雅宣

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2007年5月12日

核の自爆攻撃をどう防ぐ?

 本欄では、これまで国際政治の問題を主として「心の法則」の観点から述べてきおり、ブッシュ大統領が繰り返して使ってきた“テロとの戦争”という言葉の廃止を訴えるなどしてきた(例えば、今年2月10日の本欄参照)。その理由は、テロ(terror)とは第一義的に「心の中に生じる大きな恐怖の感情」だからだ。恐怖心は、もちろん心の中の出来事だ。戦争とは、国家間で行われる物理的破壊力を用いた意志の強制である。物理的な力を用いて相手の意志を壊し、相手を自分の意志に従わせるという、もっぱら「相手(敵)」に向った力を行使するのに、その目的が「自分の恐怖心をなくするため」というのは、奇妙な論理ではないだろうか。そんな大それた破壊をしなくても、自分の心を変えることができればいいのである。また、逆に言えば、どんな破壊力を行使して世界を敵に回しても、自分の心の恐怖を拭い去ることができなければ、“テロとの戦争”には永遠に勝つことができない。この奇妙な“戦争”は、このように手段と目的が合致しない論理矛盾から出発している、と私は思う。
 
 自分の心の問題を解決するためには、まず第一にすべきことは自分の心の吟味ではないだろうか。少なくとも、それが「唯心所現」の教義の意味である。では、テロとの戦争を進める「ブッシュ政権の心の問題」とは、いったい何だろう? 私は、この疑問に長らく答えられなかった。当初は、9・11を起こした一握りのテロリストに対する恐怖心と怒りが、それだと思った。しかし、そのテロリストをかくまっているという理由でアフガニスタンのタリバーン政権が倒され、そのテロリストを支え、核兵器を含む大量破壊兵器(WMD)を開発しているとされたイラクのフセイン政権が倒されたが、“テロとの戦争”は終息せず、逆に拡大した。スペインやイギリスで大勢の犠牲者を出す無差別テロが発生した。ヨーロッパで生まれ育ったイスラーム系の若者が、アメリカとその同盟国の行為を「イスラームに対する攻撃」と受け取ったからだ。また、そういう内容のプロパガンダが、パレスチナ問題と関連させてイスラーム国内部で盛んに行われた。
 
 これは、典型的な「暴力による態度の両極化」ではないだろうか。サッカーや野球の試合で、対戦チームの間での言い争いが暴力に発展したり、観客やファンの間に暴力が発生すると、それが見る見る拡大していく現象と似ている。これが、世界最高レベルの教育と訓練を受けた政治家や外交官の間でも起こるということは、驚くべきことではないだろうか。私はそのことを、今年1月1214、15日の本欄を書きながら感じてきた。ブッシュ政権やブレア政権の中枢部にいる人々は、いったい何をそんなに恐怖しているのか? この疑問が解けなかったのである。
 
 ところが、5月9日の『ヘラルド・トリビューン』紙に載った記事を読んで、彼らが恐怖する理由の一部が分ったような気がした。その記事は、約1年前にブッシュ政権中枢で行われた国家防衛戦略に関する議論の内容を伝えている。それによると、ブッシュ政権の恐怖の対象は、“テロリスト”からの核攻撃なのである。現在、核爆弾はスーツケースに入れて持ち運ぶことができるほど小型化できるが、アメリカ国内でこれを使った自爆テロが起こった場合、どうすれば効果的な報復ができるかという疑問に、その会議では答えが見出せなかったらしい。私は「なるほど……」と考え込んでしまった。

 核兵器は、攻撃のためにではなく、抑止のためにもつのである。つまり核兵器は、相手が攻撃を仕掛けても、それを吸収した後、報復攻撃によって相手を決定的に破壊できることを保証する場合、抑止力をもつ。このことは、かつて2002年6月11日の本欄に書いたので、詳しく知りたい人はそれを参照してほしい。しかし、自爆テロで核兵器が使われると、その破壊は徹底しているため、実行犯のDNAも核爆弾の由来を示す物理的証拠も何もかもが実質的に消滅してしまう可能性がある。となると、誰に向って報復をするかも不明となり結局、報復不能の事態に陥るかもしれない。ということは、超大国の巨大な核兵器システムをもってしても、核を使った自爆テロを抑止できないかもしれないのである。これは深刻な問題だ。

谷口 雅宣

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2007年5月10日

映画『クイーン』(The Queen)

 休日を利用して、東京・日比谷で映画『クイーン』を見た。この映画は、ダイアナ元皇太子妃の事故死というセンセーショナルな出来事を取り上げ、現英国女王のエリザベス2世、トニー・ブレアー現首相とその夫人など、実在する現役の著名人役を多く登場させて、現代の英王室の内情やイギリス国民との微妙な関係を描いていることなどから、当初から話題だった。内容的にも、それぞれの重要な人物間の複雑な心理が生き生きと描かれている点が評価され、エリザベス2世役のヘレン・ミレン(Helen Mirren)は第79回アカデミー賞の主演女優賞を受けた。実は、私と妻は座席を予約するために、水曜日の最終回の上映の1時間以上前に映画館へ行ったのだが、その晩の席はすべて売り切れだったため、翌日の初回の上映を見に行ったのだ。
 
 私はイギリス王室の内情についてよく知らないから、この映画がどれだけ事実の正確な描写であるか分らない。しかし、一国の国家元首や現役の首相を初めとした有力政治家を登場させたドキュメンタリー・タッチの映画が、さほど批判を受けずに上映されているどころか、外国での受賞が誇らしげに語られるところから判断すると、事実とさほど大きく違わない内容なのだと推測する。また、映画のパンフレットには「事実を正確に描いた物語」とされているし、そこには本作品の脚本を書いたピーター・モーガンの次のような言葉が引用されている:
 
「話をしてくれる人には誰でも会いに行きました。王室一族とブレアに関しては数多くの伝記作家がいますし、彼らには王室の侍従から秘書、執事からメイドそして公僕に至るまで情報源があります。そこにはあらゆる素材が転がっている。あとはそれをどこまで話として面白くするかという問題だけでした」。

「話として面白くする」という言葉があるから、誇張やフィクションの部分も含んでいるのだろうが、女王や王室と元皇太子妃との関係、女王と首相の関係や立場の違い、首相夫妻の関係などの重要なポイントは、正確に描かれていると判断していいと思う。

 それで私の感想だが、私は日本の実情と比較せずに見ることはできなかった。まず驚くべきことは、現在の王室を映画に描いたという事実そのものである。わが国では週刊誌や月刊誌が、皇室について事実かどうか分らないことをあれだけ勝手に書いているとしても、皇室と政治についての事実を正確に押さえ、リアリティーをもって主張する映画を制作することは、恐らく現状では不可能ではないかと思う。それは多分、民主主義がそこまで成熟していないからだ。自分と政治的立場が異なる人の意見を、暴力によって封殺しようとする試みが、ごく最近でも何回も起こっている。そういう意味で、私はこの映画が制作されたこと自体が、イギリスという国の文化の優秀性を表していると思う。
 
 さて、映画の内容だが、これまた日本の現状との比較は不可避である。イギリス王室の男女関係の奔放さは誉められるものではないが、そのことを自省する皇太子や王族の姿を期待してはいけない。そういう点では、私は日本の皇室の優秀性に疑いをもたない。ダイアナ妃は全くの庶民から王室に嫁した人ではないが、それでも(少なくとも映画の中では)“庶民の代表”として国民から見なされていたように感じ、不思議に思った。イギリス王室は現在でも莫大な資産をもち、政治権力も一部だが有している。そして女王は、ダイアナの死を知っても、皇太子と離婚後で王室の一員でないことを理由に、頑として「無関係」との立場を貫こうとする。しかし、国民の不満が日増しに拡大する中で悩み、ついに庶民派で若い労働党党首、ブレア首相の助言を容れて、王室の伝統にない行動を決断する。この頑なな“伝統護持者”の姿と、日本の皇室の伝統を自ら変えていこうとされている今上陛下の姿とは、きわめて対照的である。
 
 共通点ももちろんある。その第一は、両者とも後継者の問題が深刻であることだ。国民の意識や感覚と乖離している王制は、永続することは不可能である。国民の意識との乖離を縮めるためには、ある程度の伝統の変更は不可避だろう。問題は、どの程度の変更が伝統の「破壊」でなく「継続」と言えるかということだ。日本もイギリスも、この難しい判断を下さねばならない時期に来ていると思った。
 
谷口 雅宣

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2007年5月 8日

電脳紙芝居『青くんと緑くん』

M_aokuntpage  本欄の読者の皆さんの要望に応え、先日の生長の家の組織の全国大会で私が演じた電脳紙芝居が、生長の家のサイトで公開された。この紙芝居は、4月12日の本欄に書いた「デジタルからアナログへ」という文章に対して、白鳩会員の酒井幸江さんがつけたコメントから生れたものである。当初は、そこに書いた絵具の喩え話を「絵本にしてほしい」という要望だったが、私の方で「全国大会に間に合うかもしれない」と思い、パソコン上で画像を操作する方式を目指して急遽制作、5月1日の白鳩大会と同3日の青年大会での発表にこぎつけた。今回、ネット上に公開することで、これらの大会に参加できなかった多くの人々の目や耳に触れることになるため、制作側としては緊張している。
 
 理由は、映像や音声の質が必ずしも満足いくレベルに達していないからだ。“やっつけ仕事”と言えば大会参加者には失礼だろうが、とにかく時間に追われて作ったものだから、質は試作品の域を出ない。しかし、デジタルとアナログのそれぞれの考え方を目に見える形に表現してあるため、ブログのような文章主体の媒体では伝えきれないメッセージが、それなりに伝わるのではないかと期待している。音声は、会場での録音を数カ所編集しただけのものだから、不自然な部分もある。何しろほとんどぶっつけ本番でやったので、声色の使い分けなどうまくいっていない点は、ご容赦いただきたい。編集をしてくださった本部の出版・広報部の方々に、この場を借りて感謝します。

 この紙芝居を作るのに使ったソフトは、Neosoft というアメリカの会社が出している Neobook で、私が生長の家講習会で普段から使っているものだ。プレゼンテーション用の ソフトではマイクロソフト社のパワーポイントが有名だが、私はそれが出る前から Neobook を使っているので、このメジャーなソフトを使いそびれてしまっている。パワーポイントは、小回りがきかない大柄なソフトだと思っていたが、アル・ゴア氏の映画『不都合な真実』を見て、その多機能ぶりに感嘆した。覚える機会があったら、パワーポイントもぜひマスターしたいとも思うが、使い慣れている Neobook から“転向”する労力を考えると、それがいつになるかは自信がない。
 
 なお、生長の家本部では、この試作品の公開を機に、私以外の人たちの作品も掲載する「電脳紙芝居」のセクションをサイト上に新設した。この方面で光明化運動に貢献したい方は、どんどん挑戦していただきたい。
 
 谷口 雅宣

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2007年5月 7日

焦点となる原子力発電

 国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第3作業部会がまとめた報告書の内容が話題になっている。大部の報告書のどこを取り出して強調するかで、同じ報告書を違うように読むことができる。この文書は、大勢の科学者が関与しているとはいえ、科学者たちが書いた原案を、各国の政治家がそれぞれの立場で書き直すことができる。だから、“科学的文書”というよりは“政治的文書”であることを忘れてはいけない。しかし、科学を無視してはいない点は強調していいだろう。IPCCは、2月に第1作業部会が「温暖化予測」の報告書を出し、4月には第2作業部会が「被害予測」を出したのに続いて、今回、温暖化の「緩和策」についての報告書を出した。今後は、いくつもある緩和策のうち政治家や国民がどれを選択するかが焦点となるだろう。
 
 各紙の論調を記事からさぐると、『産経』は5日の紙面で「適切な温暖化防止策をとった場合、世界の温室効果ガス排出量が2050年に現状より半減し、産業革命からの気温上昇を2.4度に抑えることができる」と書き、かなり“楽観的”に伝えている。が、主張(社説)では「適切な温暖化防止策」の具体的内容には言及せず、「まずは議定書の目標達成が必要だ」と抽象的である。これに対し『朝日』は同じ5日の紙面で、「気温上昇を影響の少ない2度程度に食い止めるには、遅くとも2020年までに世界の温室効果ガスの排出量を減少に転じさせ、50年には00年より半減させる必要がある」と指摘している。両紙は同じことを言っているのだろうが、書き方の違いから、読む者の受け取る印象は大きく違う。私は『朝日』の書き方のほうが、現状から考えて正直だと思う。

『日経』(5日付)は経済紙らしく、温暖化の緩和策の中で経済的効果もリスクも多い原子力発電について、作業部会で「評価を巡り議論が紛糾した」ことを明確に書いている。より具体的には、「原発を推進する米国が温暖化ガスの排出の少なさを示す記述を盛り込むよう提案。これに対し、安全性の問題から脱原発に動く欧州の一部が反発した」ため、報告書には「安全性や核拡散、放射性廃棄物の問題が存在する」との表現が盛り込まれたことを伝えている。(『朝日』は5日の社説に明記)また、本欄でたびたび触れた排出権取引についても、『日経』は作業部会が「排出権取引が温暖化ガスの削減に効果があることを明記」していることを伝えている。
 
 英字紙である『ヘラルド・トリビューン』(ニューヨークタイムズ発行)は、5~6日の紙面で作業部会が「クリーンエネルギーへの移行」を勧めている点を強調している。それによると、大気中のCO2の量を安定させるために早期の対策が必要であることを述べた後、「この目的達成に向かって今後25年、既知の技術を用いて政策転換を行っていけば、気候変動を起こさないエネルギー源への転換を目指した何世紀にもわたる道程へと歩み出すことになるだろう」というのが、報告書の結論だと紹介している。また、同紙の7日の社説は、「今、本気でクリーン・エネルギーへの転換を図れば、比較的安いコストで温暖化の進行を防げるが、対策を遅らせば将来のコストは耐え難いものになるだろう」として、今回の報告書の結論を歓迎している。

 アメリカの場合、「クリーン・エネルギー」の中に原子力発電を含めているのだろう。EUは、これを含むべきとする勢力と、除くべきだという勢力が拮抗している。これに対して日本では、政府が先頭に立って“原子力立国”などと唱えている。国民の電力会社に対する不信感がどうであっても、これを推進しようという意欲に燃えているようだ。このことは、この連休中、甘利経済産業相が原子力関連企業の社長らを含む官民一体の大使節団(約150人)を引き連れてカザフスタンを訪問したことから考えて、明らかである。これによってわが国は、ウラン燃料の年間の国内需要(9500トン)の3割強の権益を獲得し、共同声明を出して相互が「戦略的パートナー」だと位置づけた。(5月1日『朝日』)

 私は原子力を「クリーン」だと思わないことは、以前にも書いた。放射性廃棄物は処置方法が分らない危険物であるから、頑丈な容器に詰めて地下深く埋めたとしても、処理を次世代、次々世代に先送りしただけであり、世代間倫理の問題を抱えている。核拡散の問題も、隣国を見れば深刻であることは明らかだ。そういう視点から、早期に“自然エネルギー立国”へと全力で転換することを強く望むものである。
 
谷口 雅宣

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2007年5月 6日

アカゲラとヤマガラ

 休日を過ごすため、久しぶりに大泉町の山荘に来ている。標高1200メートルのこの地は、春の到来が東京より1カ月ほど遅い。ヤマザクラはまだ蕾で、可憐なスイセンやセイヨウタンポポが咲いている。昨年のちょうど今ごろの本欄に「遅い春」という一文を書き、そこには「庭のサクラはまだ咲いておらず、タラノメも伸びていない」とある。今年もそんな状況である。2005年の同時期の本欄には、サクラはもちろん「シバザクラ、スイセン、レンギョウ、チューリップ、ユキヤナギ、タンポポ……」と花の名前を並べて書いたから、少なくともこの地は、さほど“温暖化”していないようである。

 山荘は板壁で覆われているが、西側に伸びた屋根と板壁との接点付近に、子供の拳大の穴が黒々と口を開けていた。屋根の裏面には、先端から15センチほど内側に換気用のスリットが入っている。この穴には、小動物の侵入を防ぐために目の細かい金網が内側から張ってあるのだが、その金網の一部が直径4センチほどの円形に破られているのが見えた。そして、穴の周囲には何か柔らかい綿状のものが詰まっているようである。恐らく、鳥が巣作りをしているのだ。自然の中で暮らすということは、こういうことである。以前にも、北側の屋根の裏面に張った金網が破られて、そこから小動物が屋根裏まで侵入したことがある。この時は、夜中にゴトゴト、パタパタという音がして安眠を妨げられたから、今回はそんなことがないように、山荘の管理会社の人を呼んで、2つの穴の処置を依頼した。
 
 その人が来るまでに、妻は薪ストーブ用の金鋏みを使って、鳥の巣を抜き出した。まだ完成していなかったのか、抜き出した詰め物の中に卵やヒナがいなくて幸いだった。そんな所へやってきた管理会社の人から、興味ある話を聞いた。壁に穴を開けるのはキツツキだそうだ。私は、山荘近くのカラマツの木にキツツキの一種であるアカゲラがよく来ることを思い出した。彼らはヒョッ、ヒョッという鋭い声を上げながら時々、玩具の機関銃のようなカタカタという音を連発する。嘴で木を叩いて穴を開ける音だ。そんな調子で突かれれば、せいぜい数センチの厚さしかない山荘の板壁はひとたまりもないだろう。ところが、管理会社の人によれば、キツツキは家の壁に穴を開けても巣は作らないのだという。巣を作るのは、その穴から中へ入れる大きさの、小型の別の鳥なのだそうだ。私は妙に感心してしまった。キツツキは、他の鳥のことを考えて穴を開けるわけではない。しかし、自然界ではうまい具合に、キツツキの穴を利用する鳥がいる。

 そんなことを考えながら周囲を見回していると、頭の黒い小型の鳥が高く短い声を出しながら、付近を飛び回っているのに気がついた。双眼鏡と野鳥の本で調べてみると、ヤマガラだった。カラ類の鳥ではシジュウカラが有名だが、山荘近くではこれより小型のコガラをよく見かける。ヤマガラはカラ類では最も大きく、頭部や翼の色はシジュウカラやコガラと似ているものの、腹部が赤茶色をしているので識別しやすい。その鳥が、我々人間が目の前に何人もいるにもかかわらず、時々近づいてきて鳴く。問題の穴から我々が遠ざかると、そこへ寄ってきて様子を見る風情である。我々は、彼らの巣作りを妨害してしまったのだ。

 鳥が屋根の下に巣作りをすることは問題ない。しかし、屋根や壁に穴を開けて屋根裏へ侵入されるのは困る。だから、壁や屋根の穴をふさぐ手立ては取らねばならない。では、人間が野鳥と共存するにはどうしたらいいのか?……と考えていたら、アイディアがひらめいた。山荘の南側のヤマザクラの木には、すでに鳥の巣箱がかかっている。しかし、古くなって屋根の一部が壊れていた。この巣箱は一度、コガラが利用してそのままの状態になっていたものだ。私は、巣箱を新調してヤマガラに使ってもらおうと思いついた。そこで、町へ下りていった時に巣箱を2つ買って帰り、ヤマザクラとそれに隣接する木(名は不明)の幹に針金で結びつけた。そのとたんに、ヤマガラの夫婦が巣箱に飛んできたのには驚いた。鳥の習性は、実に不思議である。
 
谷口 雅宣

【参考文献】
○やまなし野鳥の会研究グループ編『山梨の野鳥』(1983年、山梨日日新聞社刊)

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2007年5月 5日

環境対策の流れは今…

 日本人が“大型連休”を楽しんでいる間にも、世界ではいろいろなことが起こっている。本欄ではすべてをフォローできないが、地球環境問題の関連をピックアップしてみよう。まず私が驚いたニュースは、北極の氷の融けかたが予想を上回るペースであるということだ。5月2日の『ヘラルド・トリビューン』が伝えたところでは、1日付でネット上に発表された研究によると、北極の氷の融解は、2月の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第1作業部会」第4次評価報告書(IPCC4)の内容よりも、実際は速く進んでおり、“氷結しない夏”が今世紀中にもやってくる可能性があるというのである。

 この研究は、『Geophysical Research Letter 』(地球物理学研究通信)のオンライン版に発表されたもので、アメリカのコロラド州ボールダー市にあるアメリカ氷雪データ・センター(The National Snow and Ice Data Center)の研究者、ジュリエンヌ・ストローブ氏(Julienne Stroeve)らがまとめた。2月のIPCCの報告書では、温室効果ガスの排出がこのまま続けば、2050年から来世紀の前半までに夏場、北極が氷結しなくなるとされていた。しかし今回、ストローブ氏らが行った研究では、60年近くにわたって船舶や航空機、人工衛星によって集められた北極のデータを再検証し、これをIPCC4で使われた最新のコンピューター・モデルで計算したところ、1953年以降、9月の時点での北極の氷は10年間に平均7.8%の割合で減少してきたとの結果を得たという。(北極の氷は3月が最大に、9月が最小になる)これまでの同じ時期のシミュレーションでは、氷の減少率は10年間に平均2.5%とされてきた。これと比べると、違いは大きい。

 この記事に続く小記事には、4月の西ヨーロッパの気温が異常に高く、乾燥していると書いてあった。アフリカから北上した暖気団と気象変動によるものらしい。この4月で、ドイツは平年気温を8カ月間連続で上回り、フランスは同じく平年以上の気温が13カ月連続しており、イギリスでは、4月で終る12カ月の気温が、過去350年間で最高だったという。また、イタリアでも4月の気温が過去の記録を塗り替えた可能性があるとしている。
 
 タイのバンコクでは、温暖化対策をどうするかについてのIPCCの次なる報告書の内容が討議されているが、文案では「早急な省エネ化」と「化石燃料からの脱却」が書かれているものの、アメリカと中国は「早急な対策により悲劇的結果を防ぐことができる」という表現や「直ちに行動すれば温暖化ガスのレベルを安定させられる」という文言に、異議を唱えているようだ。上記の『ヘラルド』紙の別の記事が伝えている。前2回のIPCCの報告書では、2050年までに地球の平均気温が2℃上昇すれば、20億人が水不足となり、生物の20~30%が絶滅の危機にさらされるとしていた。EUの気象変動の専門家は、温暖化を現在より「+2℃」に抑えるためには、先進国の努力に加え、中国やインドなどの発展途上国の協力が必須だとして、“京都後”の温暖化防止条約へ途上国の参加を強力に呼びかけているようだ。

 このような世界的な動きを受けて、アメリカでも代替エネルギー関連の投資が急増していて、バブル化の危険さえ出ているという。上記『ヘラルド』紙のニューヨーク発の記事によると、昨年、クリーン・エネルギー部門への投資額は15億ドルとなり、2005年のレベル(6億二千三百万ドル)を141%も上回った。ニューヨクの投資調査会社、ラックス(Lux Research)の話では、その理由は石油生産のピークが近づいているとの憶測や、環境対策のための新税導入などを見越したものらしい。ラックス社のマシュー・ノーダン社長(Matthew Nordan)によると、現在、環境技術関連の新会社は世界に千五百ほどあり、そのうち930がエネルギー関連だが、この中の198社に何らかのベンチャー資金がすでに流れているという。この比率は通常の「1割」に比べてかなり高いそうだ。
 
 各国が温暖化対策に真剣になれば、EUが先鞭をつけた温室効果ガスの排出権取引が活発になることが予想される。その場合、ある企業の排出削減プロジェクトが国連への登録にいたるかどうかが重要な判断となる。これを事前に評価するための「格付け」を日本で行う会社が登場した。2日付の『日本経済新聞』によると、ロンドンに本社を置くアイディアカーボンは、国際協力銀行と提携して、同銀行が関係するCO2排出削減プロジェクトなどから生じる排出権を格付けする。つまり、事前に「プロジェクトの内容や国情、制度上のリスクを精査。排出権として国連に登録できる可能性を段階的に示す」のだそうだ。国連登録前の比較的安価な段階で、排出権の取得を目指す企業や団体の需要を見込んでいるのである。同じ日の『日経』は、商社の双日が10月から、日本企業を対象に排出権購入の仲介事業をオンラインで始めることも伝えている。

 地球温暖化が深刻化すればするほど、CO2の排出削減の需要が増えるから、排出権の値段が上がる。世界銀行などによると、昨年の世界の炭素市場は前年(110億ドル)の2.5倍に当たる280億ドル(約3兆3千億円)に膨れ上がったそうだ。同じ『日経』が伝えている。

 このような動きを見ていると、炭素税や環境税のように環境へのリスクを価格に反映させる方法ではなく、リスクを回避した割合に値段をつけて売買する方向へと、世界は動いているようだ。私は、前者の方が分りやすくて好きなのだが……。
 
谷口 雅宣

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2007年5月 4日

生長の家の全国大会を終えて

 本欄を約1週間休載したが、前回も少し触れた生長の家の運動組織の全国大会があったからだ。その準備のために結構、多忙だった。これらの全国大会は、生長の家が毎年行う主要な行事の1つで、4月開始の年度当初に行われることから、運動の方向性を定めるという意味で重要な意味をもつ。生長の家では、今後10年間で生長の家の運動の中で排出される二酸化炭素の量を実質ゼロにすることを目指した“炭素ゼロ”運動をスタートさせ、今年はその初年度に当たる。だから、全国大会でも“炭素ゼロ”の考え方が鮮明に打ち出されるかと思ったが、実際はそうでもなかった。
 
 私も、講話の中では地球環境問題を直接取り上げなかった。それよりも、世代間倫理の重要性を強調し、その倫理の背後にある宗教的なものの考え方の“復権”を訴える内容だった。もっと具体的に言えば、私の講話は4月7日から17日の本欄に書いた内容を詳しく説明したものだ。地球環境の現状については、私が説明しなくても、最近ではマスメディアが詳しく伝えてくれるようになっているし、アメリカの元副大統領、アル・ゴア氏の映画『不都合な真実』以降、一般の関心もとみに高まっているように思うから、私は今回は別の角度から話をさせていただいた。もちろん、環境倫理は世代間倫理と密接に関係している。だから、世代間倫理が重視されなくなってきた現代の問題が何であるかを考えることは、環境倫理を広めるために重要なことである。(環境倫理と世代間倫理の関係については、拙著『今こそ自然から学ぼう』pp.206-215 など参照)
 
 まわりくどい表現になったが、端的にポイントを言えば、現代は物事を「個」のレベルに細分化して考える還元主義(reductionism)と、何ごとも物質を基本として考える唯物論が常識化しているため、個と個との関係性や全体性、物質的存在の背後にある法則や原理を見失う傾向にあり、そのことが社会や地球環境に損害を与える大きな原因になっていると思う。私はこれを、「デジタルな考え方が“過剰”である」と表現し、宗教が伝統的に推進してきた“アナログ的な考え方”が、その過剰をバランスさせるためには必要であると指摘した。抽象的で哲学的な講話になってしまったかもしれないが、“科学技術万能”と言われる時代でも、宗教運動に重大な意義があることを訴えたかった。
 
 こんな硬い議論を柔らかくするために使った“電脳紙芝居”なるものが、Web版「日時計日記」などを読むと案外好評だったのが嬉しい。実は、この紙芝居が生れたのは、本欄の読者からフィードバックをいただいたおかげである。4月12日の本欄で、私はアナログ的なものの見方の例として、「黄色い絵具(魂)に青い絵具(物質)を徐々に混ぜていくとやがて緑色(肉体)になるように、どこまでが黄色でどこからが緑であるかは問題にしない。それよりも重要なのは、両方の色には共通部分が存在し、それが継続していると見るのだ」と書いた。これに対して、酒井幸江さんが「今回の絵の具のお話も絵本にしていただけたらなあと思いました」というコメントをくださった。私は「絵本」などという大それたものを作ったことはないが、「紙芝居」ぐらいだったらできるかもしれないと思い、私の言う「デジタル」と「アナログ」の違いが分かるようなストーリーを考えたのである。

 その結果が、『青くんと緑くん』という電脳紙芝居になった。何しろ、時間に追われて大急ぎで作成したものだから、絵はとても稚拙で、キャラクターの動きも不自然である。反面、会話の中には複雑な言い回しも結構ある。だから、はたして内容を理解していただけるかどうか自信がなかった。しかし、その荒削りの稚拙さを面白いと思ってくださった人もいて、会場に笑声がひろがったのは有り難かった。読者の皆さんの希望が多ければ、ネット上での公開も検討してみたいと思う。谷口雅春先生や谷口清超先生の著作には童話もあるから、絵本の形式を使って生長の家の考えが表現されるのもいいかもしれない。

谷口 雅宣

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