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2007年5月21日

宗教と科学 (3)

5.デジタルとアナログの協力
 上に例示した宗教の教えには、連続性を強調したものが3つある。一見別々の存在として映る“個人”や“個生命”は愛によって結ばれていることと、すべての存在には尊い仏性が宿るとすることは、いずれも外見の如何にかかわらず、宇宙の存在のすべては連続し、互いに深く関連し合っているという意味である。これが宗教本来の考え方だと私は思う。宗教は、存在を切り分けて孤立させるのではなく、一見バラバラに存在していると見える“個”を、“全体”に統一する働きである。私はこれを「アナログ」(連続的)の働きと呼ぶ。
 
 これに対して科学は、全体を理解するために個を取り出し、それを深く研究する。科学は、高等生物を細胞の集合体としてとらえ、細胞の研究から分子生物学を生み出した。そして、細胞の核に折り畳まれたDNAの情報を取り出し、同じ細分化の手法によって多数の遺伝子を特定した。また、分子を細分化して原子にいたり、さらに素粒子論を生み出してきたのも、科学本来の細分化の営みだと思う。「自然」や「宇宙」という統一体を研究するのに、それを部分や側面に分解して、それぞれを研究することで、科学は物理学、生物学、化学、生態学、天文学、気象学、地理学……などの様々な研究分野を派生させた。私はこれを「デジタル」(離散的)な働きと見る。

 デジタルな科学の研究では、多様で変化する物事や事象の中からいくつものサンプルを離散的に抽出して、それらを測定し、それらの値の間に法則性を見出して、その法則によって研究対象を説明しようとする。しかし、人間を組織や臓器に分解して、それぞれの組織や臓器の機能や相互の関連性を理解したとしても、それは「人間」を理解したのではなく「肉体」を理解したのである。そこからは、何か切実なものが抜け落ちてしまう。人間の理解は、無人称で無名の抽象的で、孤立した人間の理解では足りない。そのデジタルな人間に具体的でアナログ(連続)的要素を吹き込まねばならない。

 すなわち、具体的にある時代の、ある文化圏の、ある民族の、ある国の、ある階級の、ある家族の、何番目の子として生まれた特定の人間が、同じように具体的な別の人間とどのような関係をもって生きたか……。あるいは、その具体的人間が、どんな社会環境、自然環境で育ち、具体的にどんな業績を残したか……というような他との「つながり」(連続)の要素を加味して理解したとき、それはよりリアルな人間理解に達すると言わねばならない。私が言いたいのは、科学によるデジタルな理解に、文学や哲学や宗教のようなアナログの理解が加わったときに、人間はより満足できる知恵に到達するということである。

 私はこのように、宗教と科学は本来対立すべきものではなく、相互補完の関係にあると考える。科学技術の発展がめざましい現代では、科学のもつデジタルで、物事を細分化する働きが社会全体に広がり、家族が分解し、個人は孤立しつつあるように思える。それは科学が悪いというよりは、本来アナログ的役割をもっていた文学・哲学・宗教が、デジタルになりつつあるからではないか。つまり、宗教に限って言えば、物事のつながりや関連性を説く宗教が、個々バラバラの教義や儀式・祭式を立ててそれに固執し、それぞれの“殻”から出ていかないからではないか。互いの共通点よりも、相違点を自己の存在意義と考えているからではないだろうか。

谷口 雅宣

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コメント

副総裁先生

ありがとうございます。
「日々の祈り」が具体的に理解できる論説です。

今、神想観のおりの「日々の祈り」の読誦が2度目になっておりますが自分の感性の無さをつくづくと感じさせられております。

「日々の祈り」を何度か読誦したら感受性が高くなるような気がしております。

それと「現象」と「実相」の世界の違いも少しずつ理解できてきているような気がしております。

感謝合掌

投稿: 佐藤克男 | 2007年5月22日 10:08

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