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2007年5月20日

宗教と科学 (2)

3.素朴な人間観の超克
 ここで言う「人間」とは、生物学上の概念というよりは、「これが自分という人間である」と思っている各人の素朴な人間観のようなものを指す。もちろん、各人のもつ人間観は厳密に言えばみな微妙に違っている。しかし、その中でも共通な部分があるはずだ。それは、各人が家庭や学校、社会生活を通して形成されてきた「人間とはこうである」という常識的な認識のことである。

 この認識によれば、「人間」はしばしば「自然」と対立している。「人間」は欲望をもって他人や自然を支配したり、利用しようとする。そんな周囲から奪ったり、周囲を利用することで生きる存在が人間であり、その本質はどんな人間でも変わらないとする考え方を、“素朴な人間観”と仮に呼ぼう。これを信奉する人間は、前に書いた人間至上主義に陥りやすいのである。だから、「自然の背後に人間以上の価値を認める」ためには、この“素朴な人間観”を超える「人間とは何か」の認識を、多くの人々が共有する必要があると思う。

 それは宗教、倫理、道徳教育のことだ、と人は言うかもしれない。伝統的には、確かにそうだった。しかし、21世紀初頭の今日では、科学の発見により、宗教、倫理、道徳の言葉を使わなくても、“素朴な人間観”を超えるものを提示することができると思う。もちろん私は、宗教、倫理、道徳を否定するものではない。しかし、古い徳目や、伝統的な宗教の戒律をそのままの形で、家庭を含めた教育の場に復活することは、国際化やグローバル化が進んだ現代社会では難しいことがある。そんな時、宗教、倫理、道徳の“色”に染まっていない「科学的知見」を導入することは、効果的ではないだろうか。

4.科学的知見と宗教
 私は「科学的知見が宗教や倫理・道徳の代用になる」と言うつもりはない。そうではなく、科学的知見を宗教者が自らの信仰や信念を通して見たとき、そこに何らかの“教化”や“教え”を読み取ることが可能だと思うのである。簡単な例で言えば、「諸行無常」の教えは地球物理学や医学・生理学などの言葉で語ることができるだろう。すなわち、一見堅固に見える山脈や列島や大陸さえも、生滅流転する存在であること。また、「これが私だ」と思っている人間の体は、細胞や分子レベルでは刻一刻変化していることなどは、この教えの証左である。
 
「あなたの隣人を愛しなさい」という教えは、遺伝学や分子生物学の知識を使うことで、現代人により説得力をもって伝えることができるだろう。つまり、遺伝子を比べれば、人類のどんな異民族の違いも無視できるほどのものであり、他の動物との違いでさえ百分の五程度しかない。だから、前掲の聖句に加えて、「私の兄弟の最も小さい者にしたことは、すなわち私にしたのである」という聖句も、生態学や生物多様性の視点を導入すれば、現代の重要問題への解決策を示していると見ることができる。

「悉有仏性」の教えも、マスメディアの報道からは信じにくくても、大脳生理学の知見から納得させられるかもしれない。それによると、「良心」や「理性」の座は大脳新皮質の前頭葉のどこかにある。その場所は、高等な哺乳動物に共通してあるが、人間において最も発達し、複雑な機能分化が見られる。だから人間には皆、良心や理性があり、それにしたがった生きることが人間らしい生き方である、と。

 宗教と科学が一致しない点は、もちろんある。しかし、一致点と不一致点がある場合には、一致点を重視するのが宗教本来の考え方だと、私は思う。(つづく)

谷口 雅宣

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