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2007年4月 8日

個人至上主義について

 人間至上主義的な考え方が個人生活に振り向けられると、個人至上主義へと向う。個人至上主義とは、夫婦、家族、社会関係の中で、個人の幸福を至上価値として追求する考え方、生き方を意味する。個人の幸福が犠牲になると考えると、夫婦や家族、社会との関係の方を棄てるか、棄てないまでも、それらの関係を犠牲にして個人の幸福の増進を図ることを厭わない。個人至上主義が進行していけば離婚が増え、崩壊家庭が増え、反社会的行動が増長するだろう。

 個人至上主義は、個人主義と同じではない。後者は一般に、「人間の尊厳」と「自己決定」の上に成り立つが、前者からは「人間の尊厳」が抜け落ちている。人間の尊厳の前提となっているのは、「一人ひとりの個人は掛け替えのない個性を有する価値ある存在である」という認識だが、個人至上主義では、自分以外の価値をさほど問題にしない。「掛け替えのない個性」という見方の背後には、数多くの個人が集まって価値ある全体(夫婦、家族、社会等)を構成しているという認識がある。個人は全体にとって掛け替えがないのだから、全体と個人とはほぼ対等である。全体にも価値があるから、その中での個人の役割がそれぞれ「掛け替えがない」のである。このバランスは重要である。

 その反面、全体が個人より優先される場合は、個人には「掛け替えがある」ことになる。全体主義においては、個人の価値は、機械の歯車のように、全体の一部の機能を果たすという意味に於いてのみ認められる。だから、歯車は機械にとって掛け替えがあるように、個人は全体の中で代替可能であり、「掛け替えのない個性」という観念は成立しない。これに対し、個人至上主義者には全体は見えない。また、他者については、自己との関わりがある場合には利用価値を認めても、関わりのない他者は無視する。彼にとっては、個人である自分が至上の価値なのである。

 人間至上主義が個人至上主義につながりやすいのは、「自分のために外から奪う」という心理的傾向が両者に共通しているからだ。前者では、自分の属する種(人間)を至上の価値として、人間以外から搾取し、利用する。後者では、自分を至上の価値として、他を搾取し、利用する。両者の考え方は、「外から奪い内に取り込む」という方向性において同じである。「人間」至上主義なのだから、個人よりも「人類」を至上の価値として評価しそうなものだが、「外から内へ」という心理的傾向は簡単には崩れない。

 このことの何が問題なのか? それは、個人至上主義からは生命倫理や環境倫理に関する指針は導き出せないからだ。読者はここで、私が生命倫理と環境倫理についてかつて書いたこと(『今こそ自然から学ぼう』、pp. 315-326)を思い出してほしい。生命倫理の基本原則の一つに「自己決定権の尊重」がある。これは「他人や社会に危害を与えない限り、個人の選択には最大限の自由が許されるべし」という考え方だ。しかし、個人至上主義は「他人」や「社会」への影響について関心がないから、利己主義のやりたい放題の行動に出る可能性が大きい。また、環境倫理に関しては今、「現世代の人間の生き方が、次世代や次々世代の人間に危害を与えること」(世代間倫理)が問題になっているのである。現世代の他人や社会のことにさえ関心のない個人至上主義者は、未来世代への影響にも関心がないことは自明である。

 このように考えてくると、人間至上主義の限界と危険性とが自ずから見えてくる。人間至上主義は、個人至上主義に必ず結びつくわけではないが、そこへ引き寄せられる傾向を内包しているため、生命倫理や環境倫理など現代の主要な問題の解決に際しては、助けになりにくいと言える。

谷口 雅宣

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