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2007年4月10日

唯物論と世代間倫理

 前回の本欄で世代間倫理のことに触れたとき、私は「親世代が子世代や孫世代に危害を与えないための制度的枠組みが必要である」などと書いた。これを読んで驚いた読者もいたのではないだろうか。親というものは本来、子の幸せをこそ願って、自らつらい環境にあっても努力を重ねて子を育て、教育し、あまつさえ我が子のために遺産を残そうとするものだ。それにもかかわらず、「親が子に危害を与える」などということが、数多く起こるはずはない。たといそんな事件があったとしても、それはごく少数の、ごく例外的な、親の名に値しないような人の犯罪行為だから、日本のように警察や裁判所がきちんと機能していれば、特別な「制度的枠組み」など不要ではないか?……そんな疑問が浮かんだかもしれない。

 しかし、私が心配しているのは、血のつながった親子関係のことではなく、親世代と子世代、ないしは親世代と孫世代などの「世代間倫理」のことなのだ。前回の例では、AIDをして子をもうけた親世代と、それによって生れた子世代の間には直接的な親子関係があるが、2回目の東京五輪を実行する世代の人間と、そのために排出される温暖化ガスで不利益を被る次世代の人間との間には、直接的な親子関係は不要である。それどころか、国や民族が違っていても世代間倫理は適用される。もっと具体的に言えば、五輪の開催で関東近辺の企業家や消費者が経済的利益を享受しても、その子世代や孫世代に当たるツバルやモルディブ共和国の人々が海面上昇によって国土を失うことになれば、五輪開催は世代間倫理を破ったことになるのである。

 再生医療の分野でも、世代間倫理の観点から見て疑問のあるものが多くある。それは胎児の組織を利用したり、生殖細胞や受精卵、ES細胞を利用する治療である。これらの治療では、パーキンソン病やアルツハイマー病などの治療のために、生命力あふれる生殖細胞や受精卵、または胎児の組織の一部を移植して、現世代の人間の健康を回復させようとする試みだ。これから人間としての能力を発揮しようとしている生命から、本来の生き方を奪い、現に生きている(そして多くの場合、人生の半分以上をすでに生きた)人間の福祉と延命のために利用する。これが現代の“最先端医療”としてもてはやされているのを、多くの人々はあまり疑問に思わないらしい。ここには明らかに「親世代が子世代や孫世代に危害を与える」状況、あるいは「子世代が親世代の道具になる」状況が生れている、と私は思う。

 さて、これまでの議論で不問に付してきたことが1つある。それは、生物としてのヒトは、卵子や精子などの生殖細胞の段階から、受精卵となり、やがて胎児としての肉体をもった後にこの世に誕生するが、そのいずれの段階から「人間」として尊重されなければならないか、という問題である。この問題への回答は、生物学、認知科学、医学、法学、倫理、宗教……などの側面から何種類も考えられる。私は当然、宗教の立場から回答することになるが、宗教は社会的な倫理の問題とも深く関わっているため、倫理の立場と無縁な答えにはならないだろう。
 
 上のように細分化せずに大ざっぱに言えば、「人間」としての生がいつから始まるかは、科学と宗教の間で大きな違いが出てくると思う。科学は、「測定できないものは存在しない」という純粋科学の伝統を色濃く残しているため、どうしても唯物論的な考え方をする。この場合は、「人間」としての生は「脳が何かを感じることで始まる」と考えるのである。受精卵は生物としては生きていても、脳の元である神経細胞が未分化の状態だったり、神経細胞ができていても痛覚が発達せず、あるいは「人間」としての意識が生じていないと思われる段階では、人間ではないと考える。もしくは生物学的には人間であっても、人格的存在ではないから、人間より劣ると考える。ここから、「人間より劣るものを人間が利用することは許されるべきだ」という論理が生れてくるのである。

 ところが大抵の宗教は、生命の不滅を前提としてきた。この場合の生命とは、物質的、肉体的生命ではなく、「魂」とか「霊」などと呼ばれてきた非物質的、霊的生命である。この生命が肉体に宿って、あるいは肉体を形作って、物質的、肉体的形態をもった人間が生れると考えてきた。そして、その物資的、肉体的形態が故障したり、機能しなくなると、生命はそこから抜け出して別の“体”に宿るか、あるいは別の“体”を自ら形成して生き続けると考えるのである。このような前提に立てば、生殖細胞 → 受精卵 → 胎児 → 人間 という変化は、生命が肉体を形成していく過程であって、どの段階にも切れ目なく生命が関与しているから、ある時点で「人間としての生が始まる」などということはない。初めから人間の生命がそこにあるのである。したがって、上記のいずれの段階にあっても、一人の人間の肉体を他の人間の道具として利用し、あまつさえ利用後の肉体の存続を断つような行為は、非倫理的な加害行為であり、悪業を積むことになるのである。
 
 宗教が前提としてきた生命観は、このように個生命内部において連続的である。それだけでなく、仏教などでは「因果の法則」を説くことで、個生命間でも連続した関係を想定している。例えば、AがBに対して危害を加えればそれが悪因となり、あとでAはCから危害を加えられるという形で悪果を得ることになる、などと説くのである。また、これらABCの関係は同世代の人間に適用されるのみでなく、世代間でも適用される。だから、宗教的な生命観は世代間の倫理の維持に貢献してきたと言えるのである。
 
谷口 雅宣

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コメント

>2回目の東京五輪を実行する世代の人間と、そのために排出される温暖化ガスで不利益を被る次世代の人間・・・・・

東京でオリンピックが開催されなくても、オリンピックが続いている限り、それぞれの開催地での温暖化ガス排出は出てくるはずです。
世界中では、毎日どれだけのイベントが開催されているのでしょう? 世界中で、現在どれだけの建設・土木工事が行われているのでしょう?そこで排出される温暖化ガスはどれだけでしょう?
先生の文章は、東京五輪だけを突出して取り上げている印象が残ります。
温暖化ガス排出に関連してですが、5月には全国大会が開催されます。交通手段として臨時の貸切バスを使用する地区もあることでしょう。そのバスからの排気ガスも微量ながら、地球温暖化に影響を与えます。「通常の交通機関を使いましょう」と参加者に呼びかけますか。
地球温暖化に対して、生長の家は、どこまで具体的に行動を徹底していこう考えているのでしょうか。
宗教は評論でなく、実際の行動なのですから、厳しいものがあります。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年4月12日 13:11

谷口雅宣先生 

 まさに唯物論極まれりの現在、いろいろな問題が噴出しております。
雅宣先生は法施と共に物施の大切さを説いておられます。世代間倫理の解決には真理を伝えるという法施が、環境問題解決には法施と共に行動や物による物施が特に大切と思われます。

 以前、コメントに出てきた山本良一東大教授は、もし、神がいるのなら危機的状況を救うため、宗教家が環境を取り上げないのはおかしいとおっしゃっていました。雅宣先生は既に15年前から、環境問題を取り上げています。宗教として環境問題を前面に掲げているのはおそたく生長の家だけでしょう。私は当初、なぜ宗教が環境問題?と思っていました。しかし、地球温暖化が現実の問題として進行するにつれ、雅宣先生の先見と憂いが分かってまいりました。

 今年度から、“炭素ゼロ運動”がスタートしました。生長の家にとっても、もちろん他の宗教でも、今までにない画期的運動です。私たち信徒は運動方針の意を戴し、それぞれの自覚の元、具体的運動に励んでまいります。とかく、怠惰になりがちな私達を叱咤激励して下さい。


 

投稿: 北田順一 | 2007年4月12日 20:38

早勢さん、

>>地球温暖化に対して、生長の家は、どこまで具体的に行動を徹底していこう考えているのでしょうか。宗教は評論でなく、実際の行動なのですから、厳しいものがあります <<

 新年度の運動方針をよく読んでください。そこに“炭素ゼロ運動”とありますから、それは評論でなく、実際の行動です。貴方自身も評論でなく実際の行動でご協力いただけたら有難いです。

北田さん、

 栄える会は、産業人として効果的な実際行動を展開されていくに違いないと感じます。

投稿: 谷口 | 2007年4月13日 12:45

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