民主主義の限界について
前回の本欄で、私は「個人至上主義からは生命倫理や環境倫理に関する指針は導き出せない」と書いた。では個人主義からは、それが導き出せるだろうか? 現代の生命倫理の原則は個人主義から導き出されているが、それは不完全だと私は思う。また、個人主義からは環境倫理の原則は導き出されないのである。それはなぜか?
地球環境問題は、「未来世代への影響」を予測するところから生じている。言い方を変えれば、現世代の人間の活動が地球温暖化を引き起こしているのだが、実際に温暖化の被害が深刻化するのは、未来世代においてである。ここでは、「自己決定権の尊重」という基本原則が通用しない。前回述べたように、この原則は「他人や社会に危害を与えない限り、個人の選択には最大限の自由が許されるべし」との考え方を言う。しかし、ここに言う「他人」や「社会」は基本的には現世代のことであり、未来世代は含まれていない。だから、未来において深刻化する地球温暖化の被害は、この原則だけでは防ぎようがないのである。ややこしい問題なので、少し説明を加えよう。
現代の民主主義制度は、大は国連のような国際組織から小は町内会などの住民組織にいたるまで、基本的には現世代の人間が現世代の問題を取り扱うのである。そのためには、できるだけ公平な方法で現世代の中から代表者を選び、それらの代表者間の多数決によって物事が決定される。そして、その決定を実行し、結果を引き受けるのも、基本的には現世代の人間である。ところが地球環境問題では、現世代の人間の行為の結果が、次世代や次々世代に大きな影響をもたらす。だから、「自己決定」の責任が発生しないのである。別の言い方をすれば、現世代の人間は、自分たちの決定の責任を負わず、次世代や次々世代にその結果だけを押しつけることができる。したがって、現世代の人間の決定はどうしても現世代中心的になり、未来の問題の解決は後延ばしになっていくのである。
これは現代民主主義制度の構造的欠陥である。現制度では、我々は民主的に選ばれた代表者を通じて政策の決定と執行を行う。しかし、「未来世代」の人間には代表者を選ぶ手段が全く存在しないから、未来世代の声は政策に反映されないのである。読者は、誰か心ある人が未来世代の代弁者になって、未来世代の利益を政治に反映させればいいと考えるだろうか? しかし、票に結びつかないことを政治家が本気でやると考えるのは、民主主義の原則から外れてくることにお気づきだろうか? 実例で示すと、このことは分かりやすい。
都知事選が終った。ご存じのように、東京への五輪誘致を政策として掲げた現職の石原慎太郎氏が三選を果たした。私は昨年8月31日の本欄で、地球温暖化がさらに悪化することを理由にこの政策に反対した。しかし、石原氏の「若者に夢を与えよう」とか「○兆円の経済効果がある」という主張が通り、氏が圧倒的に勝利した。石原氏の勝利は、もちろんこれだけが理由ではなく、民主党などの“敵失”による側面もあったろう。が、現世代に利益をもたらす政策が支持され、未来世代が受ける被害が軽視されたことは否定できない。世代間倫理など、多くの選挙民には無縁なのだ。
生命倫理の分野でも、現世代と次世代の利益の衝突が実際に起こっている。拙著『今こそ自然から学ぼう』(pp.303-314)にも書いたが、AID(非配偶者間人工授精)によって誕生した子が、成長後に遺伝上の父親が分からないことで悩み、自分の“知る権利”の回復を求めている。この技術が一般化したのは1970年代だから、当時の子はすでに30歳を越えた社会人である。AIDで生れる子は日本でも毎年1万人とも言われるから、これまで相当数の人が「出自を知る権利」を奪われてきた。理由は、親世代の「子を生みたい」という願いの実現が優先されたからだ。つまり、精子の提供者を増やすためには、生れた子が成長後に遺伝上の父を訪ねて来るようなリスクを回避したいとして、提供者の匿名化が原則とされていたのだ。今日では、身元開示に同意した人から精子をもらうことが原則化しつつある。
地球環境問題と生殖医療を含む生命倫理問題を解決するためには、このように親世代が子世代や孫世代に危害を与えないための制度的枠組みが必要である。それによって「世代間倫理の尊重」が実現するのだが、現代の民主主義にはそれが欠けている。この欠陥を補うものが何であるのか、人類はまだ手探り状態と言えるだろう。
谷口 雅宣
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コメント
谷口 雅宣先生
>地球環境問題と生殖医療を含む生命倫理問題を解決するためには、このように親世代が子世代や孫世代に危害を与えないための制度的枠組みが必要である。
この制度的枠組みということで、最近こんなニュースがありましたので紹介します。共同通信が配信している記事で、世界保健機関(WHO)が3月30日、臓器移植に関する新しい指針を策定するための協議会設置を決めたというものです。これは『慢性的な移植臓器の不足を背景に、先進国の患者が発展途上国の提供者(ドナー)から移植を受けるなどの「渡航移植」が増加していることに対応する』というものだそうです。この問題は世代間倫理というより南北間倫理というべきものですが・・・。下記がニュースのURLです。この記事の中にこわい話が載っています。いわく、「パキスタンでは住民の約半数が片方の腎臓を提供した村もあるという」。
【元の記事】
http://www.gifu-np.co.jp/news/zenkoku/health/CN2007033101000190103035.shtml
【WHOの該当記事】
http://www.who.int/mediacentre/news/releases/2007/pr12/en/index.html
投稿: 山岡 睦治 | 2007年4月10日 23:17
副総裁先生
100年前に新渡戸稲造博士が「武士道」で
民主主義は愚衆政治を招く恐れがある。と喝破されていました。
一人の立派な指導者の元に封建的な政治が理想だと
書いてありましたが、その通りだなと思います。
オリンピックについては私も反対でした。
まだ、一度もやっていない国でやりたい国にしてもらえばよいと
思っております。
この度の選挙も「愚衆政治」そのものと感じております。
世界の殆どの国の大統領選挙も2選までです。
まだやり足りないとは、能力の無いことを開示(恥を)しているだけです。
投稿: 佐藤克男 | 2007年4月11日 08:28
山岡さん、
興味ある情報提供、ありがとうございます。
佐藤さん、
>> 100年前に新渡戸稲造博士が「武士道」で
民主主義は愚衆政治を招く恐れがある。と喝破されていました。
一人の立派な指導者の元に封建的な政治が理想だと
書いてありましたが、その通りだなと思います。<<
新渡戸博士の言葉ですが、前半は同意できますが、後半はいかがなものでしょうか? 「封建政治」ですよ!
投稿: 谷口 | 2007年4月11日 13:02
副総裁先生
武士道をもう一度読んでみます。
読んだ時は、封建政治も見方を変えると良いのかな?
と思っておりました。
すぐに回答できずに失礼しました。
投稿: 佐藤克男 | 2007年4月11日 18:46
谷口雅宣先生
民主主義、個人至上主義、人間至上主義に変わる理念、言葉が必要とのご指摘だと思います。
人間は神の子である。物質は無い。肉体無い。などの端的に真理を表現したコトバ、あるいは国際平和信仰運動。炭素ゼロ運動、などのように、そのものズバリの言葉を創造するが、コトバを大切にする生長の家の使命のようにも観じました。
そのようなコトバを公募するというのも案かもしれません。
投稿: 北田順一 | 2007年4月11日 21:13
副総裁先生
15年ぐらい前に読んだ本ですので、本を引き出しても何処に書いているか中々探しだせませんでしたが、ありました。
≪私はいかなる専制政治をも支持するものでは断じてない。しかしながら封建制を専制政治と同一視するは誤謬である。フレデリック大帝が「王は国家の第一の召使である」と言いし言をもって自由発達の一新時代が来たと、法律学者たちの評したことは正しい。不思議にもこれと時を同じくして、東北日本の僻地において米沢の上杉鷹山は正確に同一なる宣言をなしー「国家人民の立てたる君にして、君のために立てたる国家人民には無之候(これなくそうろう)」ー封建制の決して暴虐圧政にあらざることを示した。封建君主は臣下に対して相互的義務を負うとは考えなかったが、自己の祖先ならびに天に対して高き責任感を有した≫
と読んでいた記憶があったものですから、つい引用してしまいました。
しっかり、調べてから出ないと引用してはいけませんね。
教訓にします。(汗!)
投稿: 佐藤克男 | 2007年4月11日 22:08
副総裁先生ありがとうございます。
ご文章を拝読していて「民本主義」はいかがかなと思いました。当時は明治時代で封建的というイメージですが、実は今以上に女性が大切にされ、国民の人権も重視されていたようです。まず、「民本主義」は国家の中心に皇室がありながらも、国民は国家「本」であると考えられていたそうです。また、離婚をする際は夫婦双方の合意なしには成立しなかったようです。
このことから学んだことは、
①一部の歴史学者(批評家?)がいう、偏った観方を信じていると、物事の本質を見失ってしまうこと。
②中心をはっきりさせ帰一しながらも、それを支える人々を大切にすること。
です。いかがでしょうか?
投稿: 青木 | 2007年4月15日 23:36