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2007年4月26日

“炭素ゼロ”の旅行

 今年も大型連休が近づいてきた。私は、5月1~3日に生長の家の組織の全国大会が日本武道館で行われるので、連休前半は動けない。しかし、この東京での大会に全国から参加する人々は、いろいろ工夫して上京してくださるのだ。今年、この連休中の旅行に、例年と少し違う傾向が出ているらしい。それは、近年の環境意識の向上にともない、旅行で排出するCO2を相殺するサービスが登場したことだ。このサービスは「カーボン・オフセット」(carbon offset)と呼ばれるが、生長の家で“炭素ゼロ”と言っているのと同じ考え。詳しくは4月5日の本欄に書いたが、植林や再生可能エネルギーなどに出資することで、CO2の排出分をゼロにする方法だ。22日の『朝日新聞』が伝えている。

 それによると、さいたま市にあるJTB関東は「CO2ゼロ旅行」と銘打った団体旅行を発売している。旅行代金の中に旅行中に排出されるCO2を相殺する費用を含み、参加者にはグリーン電力証書が発行される。記事中にある一覧表によると、“炭素ゼロ”のための費用(片道)は、東京から航空機で旅行する場合、札幌までが180円、那覇が350円、ソウル280円、ハワイ1360円、パリ2200円だそうだ。もっと近距離では、1人が100キロ移動する場合、鉄道が3.8円(1.9kg)、バスが10.6円(5.3kg)、乗用車35円(17.5kg)、航空機22.2円(11.1kg)になるそうだ。これは、CO2の値段を1kg当たり2円と仮定した計算で、実際の値段は、ヨーロッパなどで毎日変動する。

 記事では、日本でこの活動を行っている団体として「カボーボン・トゥ・フォレスト」(CTF)を紹介しているほか、海外では「クライメート・ケア」や「カーボン・ニュートラル」、「テラパス」を挙げている。

 上に書いた交通手段別の1人当たりCO2排出量を見ると、自動車が航空機を上回っているので驚く。これを“ゼロ”にはできなくとも、「3%」だけ減らす新しい方法が、明日(27日)から首都圏でスタートする。バイオエタノールを3%混ぜた「バイオガソリン」が首都圏の50カ所のガソリンスタンドで発売されるからだ。26日付の『朝日新聞』夕刊によると、これは日本の大手石油メーカーなどでつくる石油連盟の試みで、「バイオガソリン」とは、フランスで小麦から作ったバイオエタノールをETBEという物質に変換してガソリンに混ぜたもの。普通のレギュラーガソリンで走る車ならば、そのまま使えるという。販売スタンドは東京が15カ所、神奈川15カ所、埼玉11カ所、千葉9カ所で、詳しい一覧は石油連盟のウェブサイトで見れる。
 
 また近い将来には、航空燃料自体が“炭素ゼロ”になるかもしれない。というのは、イギリスのヴァージン・アトランティック航空が、バイオ燃料を使った旅客機の試験飛行を2008年から始めると発表したからだ。25日付の『日本経済新聞』夕刊によると、同社はアメリカの航空機エンジンメーカーであるゼネラル・エレクトリック社(GE)と共同して、ヴァージンが所有するジャンボ機をバイオ燃料で飛ばすためにエンジンの改良などを行うらしい。

 3月17日の本欄に書いたように、航空機と温暖化の間には深い関係がある。その関係をできるだけ減らしたいというヴァージン社の気持は分かる。また、イギリスでは“ブレア後”をねらう保守党が航空燃料に課税する計画をもっていることを、3月14日の本欄で書いた。だから、課税されないような燃料の利用を考えてのことだろう。しかし、この「バイオ燃料」がトウモロコシやサトウキビのように食料と競合するものであれば、食品全般の値上がりにもつながるから、別の問題が深刻化する可能性もある。世界はなかなか複雑である。
 
谷口 雅宣

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2007年4月24日

谷口輝子先生に学ぶこと

 今日は午前10時から、長崎県西海町の生長の家総本山にある谷口家奥都城において「谷口輝子聖姉十九年祭」が行われ、私は妻とともに墓前に玉串を捧げ、参列者の方々と聖経の一斉読誦をしたあと、概略次のような挨拶をした。

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 皆さま本日は、谷口輝子先生の19年祭にお参りくださいまして、誠に有難うございます。谷口輝子先生は、生長の家創始者・谷口雅春先生の奥さまとして、また初代の生長の家白鳩会総裁として、深い愛と知恵をもって私たちの運動を導いてくださいました。我々の運動の“お母さま”と呼んでもさしつかえないと思いますが、輝子先生は単に優しい「お母さん」ではなく、間違ったこと、曲がったことには断乎として「ノー」という意志を明確にされる方でしたから、ときに“厳父”ならぬ“厳母”のような態度を示されるところが、また素晴らしいかったと思います。谷口雅春先生の追善供養祭のときに、輝子先生が「涙がこぼれる方はどうぞこの長崎の総本山のお庭に涙を捨てていって下さいませ」「お泣きになるような暇があったら人類光明化運動を一所懸命なさっていただきとう存じます」(『生長の火をかざして』世界聖典普及協会刊)と挨拶されたことは有名です。
 
「知恵」と「愛」とは神の御徳の中の重要な2つでありますが、そのバランスを保つことは簡単なようでいて、とても難しいことです。知恵ばかりが優れていて愛が伴わない場合、正しいか正しくないかで相手を裁いてしまい、そういう心で指導しても却って相手の反発をかうことがよくあります。また、愛が豊かにあっても知恵が伴わない場合、いわゆる“溺愛”する状態になってしまい、相手の誤りを正せずに、自分が相手とともに誤りを犯すような結果になることもあります。子供の教育でも、部下の指導でも、また夫婦関係、親子関係でも、相手の心境をよく見て、知恵と愛との双方をバランスよく発動することが重要であることは、皆さんも経験からよくご存じのことと思います。

 輝子先生の御著書に『こころの安らぎ』(1982年、日本教文社刊)というのがあります。そこに戦後まもない頃、輝子先生が東京の自宅で経験された話が書いてあります。今日はその話をご紹介して、輝子先生が知恵と愛をどのようにバランスさせて現実の問題を解決されたかを学びたいと思うのであります。
 
 (同書、pp. 72-75 を朗読)
 
 このエピソードがあった時代は、今日の日本の状態とはかなり違っていますが、人を指導するという面では、重要な点で共通していると思うのであります。それは先生の最後の文章にあるように、「叱ることも讃めることも、相手に対して愛をもって行う」ということです。正しいと思うことをゴリ押しするのでは叱るだけになってしまう。それでは足りなくて、その背後に愛があることを相手に示すことが必要です。特に昨今は、核家族化と都市化が進んでいる所では、親子の関係が近すぎて過保護になってしまったり、その逆に自由を履き違えた放任主義、不干渉主義になったりしがちです。また、隣近所との関係が薄くなり、家庭が孤立しがちです。さらに、社会が子を“次代の担い手”として見る視点に欠けているために、社会教育が軽視されていることが指摘されています。

 私の職場である生長の家本部は、東京の真ん中の「原宿」と呼ばれるファッション街にあり、周囲はかなり観光地化しています。そこへ修学旅行の高校生などが制服姿で歩く姿をよく見かけます。また、首都圏各地から見物に来る学生や若者も多いのですが、そういう青年の多くがあまり社会教育を受けていないようなのですね。社会の一員としての公衆道徳を教えられていないので、人が多く通る通路の階段に腰掛けてクレープやアイスクリームを頬ばっていたりします。人が通れるような隙間がない場合もある。私も一度「ここは通路だから、人が通れるようにしなさい」と注意したことがありますが、そう言われると気がついて「すみません」と言って移動するのです。だから、彼らとしても、わざと人が嫌がることをやっているのではなく、単に教えられないから気がつかないのです。

 教育の問題は今、盛んに議論されていますが、私は谷口輝子先生が示された愛と知恵をバランスさせた指導の中に、時代を超えた教育の原理があると思うのです。その基本には、すべての人間を「神の子」として見る生長の家の信仰があります。相手も自分と同じ神の子だと感じられれば、そこに温かい愛の感情が生れます。「自他一体」の感情です。これが基本となり信頼関係が成立します。そうすれば相手を単に批判するのでなく、相手の身になって批判すべきは批判し、援助すべきは援助するための愛の言葉が出てきます。愛に溺れず、知恵ある行動が生れます。
 
 だから今日、生長の家の信仰を多くの人々に伝えることは、以前にも増して重要になっています。ぜひ多くの人々に「人間・神の子」「自他一体」の信仰を伝える活動を展開して、輝子先生の御心に応えたいと思うしだいであります。本日は、お参りくださり、誠にありがとうございました。
 
谷口 雅宣

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2007年4月23日

原子力利用は縮小しよう

 第16回統一地方選挙の後半戦で、高知県の東洋町長に沢山保太郎氏(63)が大差で初当選したことにより、日本のこれまでの原子力政策に一定の国民の評価が出されたと見るべきだろう。沢山氏は、原子力発電所から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場の候補地として初めて名乗りを上げた前町長、田嶋裕起氏(64)に反対して立候補し、投票率89.26%の中、田嶋氏の得票(761票)の2倍を超える1821票を獲得して当選した。田嶋氏はこの問題で「民意を問う」として辞任し、4選を目指した結果がこれである。最終処分場のための調査にともない得られる国の多額の交付金で、堤防整備などを考えていたが、住民は明確に「ノー」の答えを出した。これによって、原子力発電環境整備機構(原環機構)は同町での調査実施を断念することになる。
 
 日本の総発電量のうち原子力が占める割合は、2005年度で31%だ。この割合は、石油、石炭、液化天然ガス(LNG)、水力などどのエネルギー源から得られる電力量よりも大きい。だから、今後も原発を主要手段として電力を得るためには、核燃料サイクルの最後に出てくる高レベル放射性廃棄物の処理をどうするかを、具体的に決める必要がある。現在は、日本のどこかの地下300メートル以上の安定した地層まで穴を掘って、そこへ頑丈な容器に密封した放射性廃棄物を埋めることが計画されている。しかし、具体的にどこへ埋めるかが決まっていない。そこで2002年から、全国の自治体を対象に最終処分場の候補地を募っていて、今回初めて、これに応えて東洋町が名乗りを上げたのである。対価として得られる国からの交付金が、毎年数十億円もあることに魅力を感じたのだろう。

 ところがその反面、2002年に発覚した東京電力の原発のトラブル隠しに端を発し、最近も次々と明るみに出ている原発関連の事故やトラブルにともなう不正処理によって、電力会社とその監督行政に対する国民の不信感は強まるばかりだ。自治体の側でも、国からの交付金で地元の経済の活性化や資本の充実を図ろうとしていたのが、原発の事故やトラブル隠しが“普通に”行われていたということになれば、その不正を行ってきた会社が廃棄物処理を正しく実行するとの言い分には当然、信憑性が欠けてくる。国民の立場から言えば、信頼を裏切った会社とその商品やサービスを使用しないのは当たり前だし、自由主義社会ではそうでなくてはならない。しかし、本欄の昨年6月24日同12月11日にも書いたように、国としては「原子力立国」を今後の政策として打ち出している以上、簡単に後へ引くわけにはいかないだろう。こうして、国民の意識と国の政策の間の乖離が、今後さらに拡大していくことが予見されるのである。

 これが決して好ましい傾向でないことは、言うまでもない。しかし、日本の環境政策の策定過程を見ていると、残念ながら、政治や行政は自民党の支持基盤である大企業の不利益にならない範囲でしか物事を決められないようだ。「原子力立国」の考え方自体が、独占的大企業である電力会社に有利である。また、環境省がこのほど決めた「戦略的環境アセスメント(Strategic Environmental Assessment)」の指針においても、3月28日の本欄に書いたように、発電所だけを特別扱いにして、事業をやりやすくする動きがある。なぜ発電所だけが優遇されるのか、誰もどこでも説明していない。また、政府は本格的な温暖化対策としては、新型の石炭火力発電所の建設と、そこから排出されるCO2の地下固定を主要な手段とする方針のようだ。

 このことは、4月22日の『日本経済新聞』が特ダネとして伝えている。それによると、わが国と米・中・韓・印を加えた5カ国は、次世代型の石炭火力発電所を共同開発する方向で調整を進めており、今月末にホノルルで開かれる非公式会合で共同文書の内容などを話し合う予定という。この発電所は、酸素を使って石炭をガス化して発電するもので、排出されるCO2は液化した後に地下貯蔵庫に密閉するシステムも同時に建設するらしい。したがって、CO2の排出量はほぼゼロとなるという。有害物質を発生させても、それを地下深くに密封してしまえば問題ないという考え方で、放射性廃棄物の処理とまったく同じ思想である。しかしこれは、問題の根本的解決ではなく、問題を深刻化させながら次世代へ先送りするにすぎない。つまり、現世代の経済的利益を重視するあまり、世代間倫理への配慮が欠けている。
 
 このあたりが現代民主主義の構造的限界なのかもしれない。このことについて、私は4月9日の本欄ですでに書いたが、この限界を突破して、我々が未来世代に損害を与えずに生きるためには、どうしても世代間倫理、環境倫理の視点が必要なのである。日本にはそういう視点をもつ人が全くいないわけではないが、まだ趨勢になっていない。例えば、東京大学の小宮山宏総長は、このほど座長を務めた日中韓賢人会議において、こんな発言をしている--「環境を考える上で、原子力の議論は重要だ。放射性物質を人類がコントロールすることはできないと考えている。一方、現在の電力需要を考えると不可欠だ。だから太陽光発電などが需要を賄うことができるまでの過渡的な技術と思っている。(4月23日『日経』)
 
 私は日本政府に対して、世代間倫理を今後の政策決定の基本指針の1つとすることをぜひお願いしたい。世代間倫理を重視すれば、小宮山総長が言っているように、放射性廃棄物の扱いは人類の能力を超えているのだから、原子力の利用は漸次減らしていくとともに、再生可能の自然エネルギーの利用技術を確立する努力を国として全力で遂行してほしいのである。

谷口 雅宣

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2007年4月22日

緑のインコ (2)

Wakake070422  最近、わが家の庭に緑色のインコが来るようになった。かつて本欄(2005年10月26日)で紹介したワカケホンセイインコである。私にとっては、ジョギングで行く明治神宮外苑でしばしば見かけるお馴染みの鳥だが、妻にとっては“新顔”であり、黄緑色の体や赤いクチバシがなかなか美しいので、飛んでくると「また来てたわ」と報告してくれる。ひと月ぐらい前に、隣の父の家の前にある餌台に2羽が乗っていたのを母が写真に撮った。我々は勝手に、これを番(つがい)だと決めて喜んでいた。そして、妻が円筒形の餌入れに穀類を入れて、わが家に近接して立っている紅梅の枝に吊るしたところ、やがて1羽だけが来るようになった。体長は尾の先まで50センチはあるだろうか。結構大きい鳥だが、動作が緩慢なところがある。
 
 前回、この鳥のことを書いたとき参考にした新聞記事には、都内に約1200羽が棲息しているとあったが、その時には家に飛来することなどなかった。それが2年後に、わが家まで飛んでくるようになったのは、数が殖えているからではないか。高さ20メートルほどのケヤキの大木を繁殖に使うというが、わが家の庭にもケヤキの大木が何本もある。これが目当てならば“片割れ”を連れているはずだが、餌を食べに来るのは1羽だけだ。まずは様子見ということか。この鳥は、インド南部やスリランカが原産で、日本にはペットとして輸入されたものが野生化しているのだ。木の洞を利用するムクドリやシジュウカラを圧迫するという理由で、「特定外来生物」に指定するよう環境省に意見書が出ているらしい。
 
 ホンセイインコ(本青インコ)は、オウム目オウム科ホンセイインコ属の鳥の総称で、楔型の長い尾をもち、羽色は全体に緑色だ。アフリカ、インド、中国南部、東南アジアに12種が分布していて、主として果実をとって食べるというが、穀物も食べる。庭に吊るした餌入れには、ブンチョウにあげるために買っておいたヒエ、アワなどの穀類が入っている。これをよく食べるのだ。ワカケホンセイインコはインド産の亜種で、ワカケは「輪掛け」のこと。首の周りに黒い輪が掛かっているような模様がある。この種はローマ時代から人間に飼育され、物まねをしたり、車引きや車押しなどの芸も覚える、とものの本には書いてある。そういうことを知ってみると、外来種であり、しかも野生化しているはずのこの鳥が、人間の相当近くまで餌を食べに来ることに納得する。ネコやイヌと同じで、遺伝子の中に人間を警戒しない性質が刷り込まれているのだろう。

 ワカケについて1つ気になることがある。それは、この鳥が来ている間、別の鳥があまり近づかないことだ。ヒヨドリやハト、スズメなどは、互いの姿に警戒しないで餌を食べるが、この鳥は外来種だけあって他を“威圧”するのだろうか。ワカケの姿が見えなくなると、地面に盛んにこぼしていった穀類を、シジュウカラが来てついばんでいたりする。
 
 地球温暖化が進むと、外来生物のうちこれまで移入地の環境に充分適応できないでいた生物が、環境の変化によって盛んに繁殖する可能性が増えてくるだろう。ワカケの繁殖がそれに該当するのかどうか、よく分からない。自然界は、しかし確実に変化していることを実感する。
 
谷口 雅宣

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2007年4月21日

アメリカの温暖化防止努力

 前回の本欄では、地球温暖化が国の安全保障の視点からも重大な脅威になりえるとの認識が世界に拡がりつつあることを書いた。ブッシュ政権下のアメリカは、国レベルでは温暖化対策は遅れているが、州レベルでは様々な取り組みが始まっている。今回は、その一部を紹介しよう。

 最近の注目すべき出来事は、4月2日に連邦最高裁判所がCO2などの温室効果ガスを「大気汚染物質」と認定する歴史的決定をしたことだ。これにより、連邦政府の環境保護局には温室効果ガスの排出削減を行う権限があることになり、これまで「そんな権限はない」として温暖化対策を行わなかった理由がなくなってしまった。また、カリフォルニア州では2002年に、すでに温室効果ガスを「大気汚染物質」をみなす独自の規正法(パブリー法)を定め、2009年の新車から排出規制を実施しようとしてきた。ところが、ビッグ3やトヨタなどの自動車メーカーがこれに反対し、「CO2は大気汚染物質ではないから、州に規制の権限はない」として提訴していた。この問題も、今回の最高裁判決で結論が出たことになる。

 アメリカでは、全国レベルでも温室効果ガスの排出削減を義務づける法案がいくつも出てきた。20日付の『朝日新聞』夕刊によると、2004年の同国の温室効果ガス排出量は90年比で15.8%も増えている。これに対して危機感をもった議員が長期にわたる大幅な削減目標を定める法案を提出している。2050年に90年比で「60%削減」するリバーマン=マケイン法案や、同じく「80%削減」をねらうサンダース=ボクサー法案などだ。これらは、短期的には温室効果ガスの排出増を不可避としながらも、化石燃料から代替燃料へ移行することなどによって長期的に大幅な削減を目指すものだ。すでにカリフォルニア州などがCO2の排出権取引に参加する意思を示しているから、削減目標の達成をこれによって行うことになるかもしれない。
 
 このほかアメリカでは、コロラド州のボルダー市が環境対策で先進的な試みを進めている。18日付の『朝日新聞』によると、この4月1日から、同市は全米で初めてCO2の排出量に応じて全市民に課税する炭素税の実施に踏み切った。この地は市民の環境保全の意識が高く、1967年には全米で例のない「環境保全のための消費税」を導入、その税収で市が必要な土地を買い上げて大自然を開発から守る取り組みを実施している。今回の炭素税導入は、連邦政府が京都議定書を離脱したことに反発し、同議定書に定められた通り、2012年までに温暖化ガスを90年比で7%削減することを狙ったもの。同市のマーク・ラザン市長は、「連邦政府が何もしないのなら、我々が草の根的な手法で地球温暖化に対処する必要がある」としているという。

 アメリカのモータースポーツ界でも、環境意識が形になりつつあるようだ。21日付の『産経新聞』によると、インディ・レーシング・リーグ(IRL)では、一昨年まで車の燃料は石油系のメタノール100%だったが、昨年はメタノール90%、バイオエタノール10%の混合燃料となり、今年はほぼ100%がエタノールになるという。IRLはエタノールの製造・販売企業と無償供給契約を結んでいるが、企業側はレース車へのエタノールの使用によって一般車への普及を一気に図る戦略らしい。シリーズ第5戦のインディ500では、1日の観客が40万人と言われるから、そういう宣伝効果をねらっているのだ。また、F1レースを統括する国際自動車連盟(FIA)は、2009年にハイブリッド技術を導入する方針という。

 アメリカ以外で注目されるのは、ノルウェーが2050年までに“炭素ゼロ”を達成するとの計画を発表したことだ。20日の『朝日』夕刊が伝えている。それによると、同国のストルテンベルグ首相は19日、温室効果ガスの排出量を2050年までにゼロにする考えを表明した。これまで“炭素ゼロ”を方針とした国はなく、温暖化問題がテーマとなる6月の主要国首脳会議(G8サミット)を明確に意識した発表である。自国内での省エネ努力のほか、中国やインドなどで自然エネルギーの導入を拡大することで排出権を獲得し、それで足りない分は他国で余った排出権を買い取るなどの方法を使うらしい。これによって2020年には90年比で30%削減し、50年までにゼロにするという。

 日本ではこの27日から、首都圏の50カ所でフランスから輸入したバイオエタノールを混合したガソリンが試験販売されるらしい。バイオエタノールの抱える問題については本欄で何回も書いてきたから、私としては、それを使うかどうか判断に迷っているところだ。

谷口 雅宣

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2007年4月19日

地球温暖化と安全保障

 私は3月14日の本欄で、最近“環境志向”へ急旋回したイギリスについて書いたが、この国は自国内での温暖化防止努力だけでなく、国際舞台でもこれを積極的に推進する動きを示している。4月18日の『日本経済新聞』によると、国連安全保障理事会は17日午後、議長国・イギリスの強い要請によって、地球温暖化に関する初の公開討論会を開いたという。イギリスのジョンズパリー国連大使は今月上旬、安保理議長国の立場を生かして、地球温暖化が国際紛争の諸要因を悪化させる可能性があるという討議資料を安保理に提出し、同理事会で議論する必要性を訴えた。が、温暖化防止に消極的なアメリカや中国、その他一部の途上国が「安保理の議題にふさわしくない」として難色を示したそうだ。そこで、声明や決議をしないとの条件のもとに公開討論会をすることで関係国が折り合ったらしい。
 
 また、同じく18日の『産経新聞』によると、国連の潘基文(バン・キムン)事務総長は「人類は資源確保をめぐる争いを繰り返してきた」と指摘し、「気候変動問題は地球規模の長期的取り組みが必要で、環境への懸念にとどまらず、平和と安全にかかわる問題」であるとして、討論会の開催を歓迎したという。討論会への参加は、安保理メンバーのほか、日本やインド洋の島嶼国・モルディブなど計52カ国という。日本は大島国連大使が出席して、京都議定書の後の温暖化防止のための枠組み強化を求めるという。
 
 イギリスが用意した討議資料によると、温暖化による海面上昇によって領土が減少する国と周辺国の間には、国境紛争が激化する可能性があるといい、また、異常気象による農産物の不作で移民が急増し、一国の民族構成に変化が起こって政情が不安定化したり、エネルギー輸入元の変更や水系変化から来る紛争の可能性、さらに飲料水、耕作地、漁獲量の減少に伴う国際関係の不安定化などが指摘されているようだ。

 アメリカは、ブッシュ大統領の京都議定書拒否のおかげで温暖化対策が遅れているが、最近、“テロとの戦争”にばかり注力していては国の安全保障は確保できないとの自覚が生まれつつある。その証拠の1つは、連邦議会に提案されている超党派の法案で、地球温暖化による気候変動が国の安全保障にどう影響するかの調査を、アメリカ中央情報局(CIA)や国防総省に義務づけるものらしい。4月10日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。それによると、CIAなどの情報機関は、世界のどの地域で人的困窮状態が最悪になっているかを特定し、水その他の資源不足によって紛争や戦争がどの程度起こりやすいかを分析する義務を負うことになるようだ。また、国防総省では、ハリケーンなどの極端な気象現象が直接的、物理的にアメリカの安全にどのような脅威をもたらすかを把握する仕事を担当することになるらしい。

 また、4月17日の同紙によると、海軍分析センター(Center for Naval Analyses)の依頼で軍の退役将官らが書いた『National Security and the Threat of Climate Change』(国家安全保障と気象変動の脅威)という報告書では、地球温暖化によって大規模な民族移動が起き、国境の緊張が高まり、疾病の拡大や食糧と水をめぐる紛争が増加するため、アメリカ軍が直接介入する機会が増える恐れが指摘されているという。そして報告書は、気象変動の問題は国の安全保障戦略の中に組み入れられるべきであるとし、さらにアメリカは「国内的にも、国際的にも、気象変動が地球規模の安全と安定を脅かすレベルに達しないために、より強力な役割を果たす必要がある」と提言しているらしい。
 
 これに先立つ3月には、これまで時に応じて国の情報機関や国防総省に助言してきたグローバル・ビジネス・ネットワーク(Global Business Network)が報告書を出しているが、その中には、海面上昇と暴風雨の巨大化により、バングラデッシュなどの人口が密集した河口地域に人が住めなくなると、ついには社会不安が醸成される可能性が指摘されているという。

 このようなアメリカ国内の変化を見ていると、京都議定書をまとめたわが国政府がこの分野で消極的であることが残念でならない。安倍首相は憲法改正に力コブを入れているようだが、どんなに強力な軍隊をもっても、地球温暖化は防止できない。隣国を仮想敵国に見立てて軍備を増強するという考え方は、前世紀の国防思想である。地球温暖化は国の安全保障の問題でもあることをしっかりと認識し、京都議定書の約束履行はもちろん、“京都後”の温暖化防止のためにも積極的な役割を果たしてもらいたいものである。
 
谷口 雅宣

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2007年4月17日

デジタルからアナログへ (2)

 4月12日の本欄で、私は免疫系の働きなどを例に挙げながら、デジタルなものの感じ方や考え方は“理性的”“科学的”というよりは“本能的”だとの示唆をした。この点は、もう少し説明を加える必要があると思う。通常、コンピューターやCDプレーヤーなどの「デジタル機器」は先端技術との関係で捉えられるから、真空管や弦楽器のような「アナログ装置」よりも進歩していて科学的だと考えられがちだが、私はその逆だと言っているのである。デジタルな情報処理の仕方は、原始的であり、人間的というよりはむしろ動物的なのである。その理由を説明しよう。
 
 イギリスの科学誌『New Scientist』が3月17日号で、このことを心理学の研究を紹介しながら指摘している。そこでは、「我々の心は人間の世界をほとんど自動的にいくつかのはっきりしたグループに分けて捉えるように作られているようだ」というミシガン大学の心理学者、ローレンス・ハーシフェルド博士(Lawrence Hirschfeld)の言葉が引用されている。また、英ブリストル大学の心理学者、ヘンリ・タジフェル博士(Henri Tajfel)も、もし人間の集団を「赤と青」、「北と南」などの2つに分ければ、自分が所属する集団へのバイアスがほぼ自動的にかかる、と指摘している。昨年、政治学の専門誌『Journal of Conflict Resolution』(vol 50, p. 926)に発表された研究では、このようなものの見方は、同一グループ内の協力を高めるだけでなく、グループを横断した全体の協力関係をも促進するという結果が出たという。
 
 ハーシフェルド博士らの研究では、肌の色を重視して人をグループに分ける傾向は、すでに3歳の子供の時から始まっているという。これは1993年に行われた研究で、警察官の服装をした太った黒人の子の絵を見せたあと、6人の大人の写真を見せて、その子が大人になった時の姿はどれかを聞くという研究である。この6人の大人は、最初の絵にあった子がもつ3つの属性--警官の服装をしていること、太っていること、黒人であること--のうち2つをそなえているという。記事には写真の詳細は描かれていないが、具体的な姿を想像すると、警官の服装をした太った白人の大人、スーツ姿の太った黒人の大人、警官の服を着たやせた黒人の大人……というような組み合わせだろう。結果は、写真の大人が警官の制服を着ていなくても、また太っていなくても、ほとんどの子が選んだのは「黒人の大人」の写真だったという。これは、我々大人が考えれば当たり前の結果だが、3歳の子がそう考えたということが重要らしい。つまり、すでに3歳のときから、我々は「肌の色が、人間の種類を決める最大の属性である」と感じていることが示されたというのである。

 また、2000年に行われた脳の画像診断による研究では、自分は人種差別をしないと公言する大人でも、脳内には自動的に、無意識に相手の肌の色が記録されることが分かっているという。これは、マサチューセッツ州のアムハースト大学(Amherst College)のアラン・ハート博士(Allan Hart)らが行った研究で、人間が原始的な感情を覚えたときに反応する大脳扁桃核(amygdala)の血流を調べると、白人と黒人が互いの顔を見たときには、本人が感情的に何も変化しないと答えたとしても、実際には血流量が増えるという。さらに、同じ年にニューヨーク大学のエリザベス・フェルプス博士(Elizabeth Phelps)らが行った研究では、人種差別を示す心理テストで高得点だった人ほど、大脳扁桃核の血流量が増えるという結果が出ているらしい。この他の様々な研究結果を総合して、同誌の記事は、我々が外観にもとづいて人間を差別する傾向は、むしろ“自然”であり“本能的”であることを示している。
 
 それでは我々は、“自然な”反応である人種差別を大いに歓迎すべきだろうか? 私がそう思わないことは、言うまでもない。この場合の“自然な”という意味は「本能的」とか「原始的」とか「動物的」という意味である。また、人間の脳の構造から言えば、大脳扁桃核を含む大脳辺縁系は「旧哺乳動物の脳」とも呼ばれていて、人間以外の哺乳動物に共通している。人間の脳は、大脳新皮質という大きな脳がこの「旧哺乳動物の脳」を覆い包んでいる点に於いて、「人間らしい」構造なのである。大脳新皮質は、理性の働きや、芸術的創造活動と深く関係していて、ここが動物的衝動を制御し、複雑な社会生活を可能ならしめている。だから、人間として“自然な”ことは、外観にもとづいて人間を差別する感情を制御して、より高度な視点から社会生活を調和あらしめていくことにほかならない。
 
 このように考えていくと、デジタルな判断の仕方が人間としては不十分であることが、より深く理解できるのではないだろうか。
 
谷口 雅宣

【参考文献】
○立花隆著『脳を究める--脳研究最前線』(1996年、朝日新聞社)

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2007年4月15日

夫の死後に妊娠する (4)

 4月12日の本欄では、「デジタル」と「アナログ」という概念を使って宗教と科学の関係や違いについて論じた。相当抽象的な議論だったので、読者の中には「何のことか分からない」と不満をもった人もおられるだろう。そんなところに、幸いにもこれと関係する“例題”のようなものが現れた。日本産婦人科学会が夫の「死後生殖」を禁止する会告を決めたという報道が、それだ。今日(15日)付の『産経新聞』によると、同学会は14日に京都市で開いた総会で、凍結保存していた精子を使い、夫の死後に妊娠・出産することは、死亡した夫の意思が確認できないという理由で禁じる会告を決めたという。私は、この決定を歓迎する。
 
 この決定によると、凍結した精子の保存期間は「提供者の生存中」に限定され、提供者が死んだ後は凍結精子は廃棄することを定めている。これによって、凍結した精子を解凍して体外受精などで子を得ることは禁止される。同学会の会告では、凍結受精卵や凍結卵子の死後利用がすでに禁じられているから、これですべての「死後生殖」は学会の方針としては禁止されたことになる。ただし、会告は法的拘束力をもたないので、学会の意向を受け入れない医師や、学会に所属しない医師が「死後生殖」を行うことを止めることはできない。

 さて、これが科学の“デジタル”と宗教の“アナログ”にどう関係するのか? デジタルなものの考え方は、物事を狭い範囲に限定して、その中で白黒をはっきりさせようとする。だから、この場合は、純粋に遺伝子レベルで考え、親の意志だけを判断基準にする方法が“デジタル”な考え方の1つと言えよう。その方法を採用したとすれば、凍結精子は遺伝子的には夫のものであることに疑いの余地はない。そして、夫が生前に精子の凍結に同意したことも事実であろうから、その時点で夫が凍結した精子を後に利用することに同意したこともあまり疑問はない。そして、その夫の精子と妻の卵子を使って子をもうけるのだから、その子が、死んだ夫とその妻との子であることも遺伝的には疑問の余地がない。すると、生前の夫の意志が推定され、遺伝的にも夫婦の子であることを考え、さらに子をもちたいという妻の希望に応えるのだから、死後生殖を行うことに何も問題はない--そういう結論が導き出されるのではないだろうか。

 しかし、純粋に遺伝子レベルで見ることには問題がある。これについては、夫婦のうち妻が妊娠不可能のため、妻の実母に代理母を依頼したという実例が思い出される。この場合も、①夫の同意があり、②遺伝的に夫婦の子であり、③妻が子をもちたいと熱望しているという3条件は、上と同じである。しかし、閉経後の母親に、危険を承知でホルモン剤の投与や受精卵の移植を行なったことが問題になったのである。つまり、「自分の願望実現のために他人を危険に晒す」ことには大きな問題がある。私は、この場合、たとえ母親が代理妊娠を買って出たとしても、その行為には倫理性はないと考える。このことは3月24日の本欄ですでに述べた通りだ。
 
 今回の場合も、「他人を自己目的に利用する」という要素がある。その「他人」とは少なくとも2人いるだろう。1人は死んだ夫であり、もう1人は生まれてくる子である。「死んだ夫を利用する」という言い方は分かりにくいかもしれないが、仮にこの夫が妻の妊娠の3年前に死んでいたとすると、どういう状況が生れる可能性があるか想像しやすいだろう。大体、なぜ半年や1年後でなく、3年後に妊娠しようとするのか。この3年の間に何かが起こったからに違いない。例えば、遺産相続、再婚、あるいは恋人の出現があったとする。とたんに、死んだ夫の子を妊娠し生もうとする行為の目的に、打算の臭いが感じられてくる。つまり、夫の死後の時間が長ければ長いほど、死後妊娠には、夫への愛以外に、自己目的が含まれてくると考えていいだろう。
 
 そういう意味で、死後妊娠を認めるとしたら、そこには厳密な条件をつける必要性が生じてくる。私はだから、昨年9月13日の本欄には次のように書いた--私は現在、個人的にはイギリスのように「夫の同意書があれば認められる」とすることがいいように感じている。ただし、夫の死後いつでもいいとするのは問題なので、スペインのように「半年以内」とかイスラエルのように「1年以内」などと、期限を切って認めるのはどうだろうか。

 こういう考え方がなぜ“アナログ”かというと、上述した“デジタル”な考え方が、夫の死後妊娠に関わる人の数を最小限に絞って考えるのに対し、ここでは夫の家で遺産相続があった場合とか、妻の3年後の再婚相手のこととか、さらに、生れてくる子が成長後に自分の遺伝子を調べる可能性を考慮するなど、連続した広範囲の人間関係の中で行為の倫理性を検証するからである。簡単に言えば、行為の倫理性を「少数の個人」の間で考えるのではなく、社会の中で考えるところが、アナログ的なのである。妊娠や出産はきわめて個人的な行為ではあるが、そこに医療技術が関与したとたんに社会性が生れると言えるだろう。

 なお私は、2005年10月3日2006年9月5日の本欄でも、死後妊娠の問題に触れているので、興味のある読者は参照されたい。

谷口 雅宣

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2007年4月12日

デジタルからアナログへ

 前回の本欄では、科学が基礎としている唯物的生命観と宗教が前提としてきた生命観を比較してみたが、これらをひと言で表現すれば、前者を“デジタルな生命観”、後者を“アナログな生命観”ということができよう。科学では、ある時点を境にしてそれより前の生命は人間ではないが、それより後の生命は人間と見なすというように、「イェスかノーか」、「1か0か」という考え方をすることがある。その方が、ものごとが分かりやすく、また整理しやすいからだ。宗教はこれに対し、そういう人工的な境界線を引くことはせずに、受精から誕生までの過程は、初めから生命であるものが徐々に肉体を獲得して(この世の)人間となるまでの過程として考える。これは、黄色い絵具(魂)に青い絵具(物質)を徐々に混ぜていくとやがて緑色(肉体)になるように、どこまでが黄色でどこからが緑であるかは問題にしない。それよりも重要なのは、両方の色には共通部分が存在し、それが継続していると見るのだ。

 私は、後者の考え方をする方が、21世紀の人類と地球生命にとって良い結果をもたらすのではないかと思う。デジタルな考え方は物事を狭い範囲に限定して考えるため、その範囲内で「他を打ち負かし」たり、「他より抜きん出る」場合には優れている。また、簡単で分かりやすく、したがって同一グループ内での結束を図るには有利である。しかし、物事をより広い視点から考え、他との共通点を見出し、他と共存するという、より高度な--そして、地球温暖化時代に必要な--生き方には不適当である。

 多くの生物はデジタルな戦略に則って生存をはたしてきたと思われる。そのことを最も有力に示すのは、我々の体内にある免疫系の働き方とその役割である。免疫系は、我々の体を“外敵”の侵入から防ぎ、“外敵”と戦い、破損した組織を補修する重要な役割をしている。これを行う細胞の最も重要な働きは、体内にあるものを「自己」と「他者」とに区別することである。そして、「自己」に属する細胞には手を出さずに、「他者」と判別された細胞や物に総攻撃をしかける。これは、きわめてデジタルな機能と言わねばならない。
 
 私はかつて『心でつくる世界』(1997年、生長の家刊)の中で「視覚の中のプログラム」について書いた。我々の視覚には、一連の“自動判定プログラム”が組み込まれていて、目で見た瞬間に、理性的な判断を経ずに結論を出すことが案外ある。その中の一つに私が同書で「対照化の原則」と呼んだものがある。それは「互いに矛盾した要素が一つの図形の中にある」場合、「矛盾のない白黒のはっきりした世界を無意識のうちに見ようとする」(p.74)傾向のことだ。これは我々の視覚の中に一種の“デジタル回路”が存在する証拠である。どんな図形がそのことを証明しているかは同書を参照してほしい。この回路はいわゆる“本能的”なもので、人類が進化の過程で獲得したと考えられる。ということは、他の動物や植物にも程度の差こそあれ、似たような“自動判定プログラム”が存在すると類推できる。

 だから科学が、生物としてのヒトの発生過程のある時点を境にして、「それ以前は非人間」「それ以降は人間」というデジタルな判断を下す方法を採用したとしても、あながち責められないかもしれない。しかし、そのことは、この方法が特に科学的であったり、客観的であったり、優れていることを意味しない。もっと直裁に言えば、科学が提出している“デジタルな生命観”は、科学的というよりは本能的であり、暫定的であり、完全とは言いがたいのである。私はそれよりも、宗教が伝統的に把持してきた“アナログな生命観”の方が、より広範囲の物事を視野に入れているという意味で包括的であり、分かりにくくても、より正確に対象を見ているという意味で客観的だと思う。

 例によってこれを示そう。①人間の誕生も死も、時間の流れの中で段階的に進行する現象だからアナログ的である。にもかかわらず、科学はこれを、ある1点を境にして起こるデジタルな現象として捉えている。②人間と他の動物の違いはアナログ的であることが、DNAの解析や動物行動学等によって分かってきているが、科学(生物学や医学)が動物を人間と峻別する考え方や扱い方はデジタルである。③地球上の生物や鉱物も含めた生態系は、互いに密接に関連し合って(アナログ的に)秩序を形成していることが明らかになりつつあるが、科学は遺伝子組み換えや卵子の凍結保存、キメラ作成などによって、そのアナログ的な秩序をデジタル(人間至上主義的)に破る行為を行っている。
 
 また、世代間倫理の問題は、親世代 → 子世代 → 孫世代 というように前世代の人間の行為が後世代の人間に危害を与える場合に発生する。つまり、複数の世代間のアナログ(連続的)な問題である。これに対して現代民主主義が尊重する自己決定権の考え方は、「他人や社会に危害を与えない限り、個人の選択には最大限の自由が許されるべし」というのだから、自己完結的なデジタルな思想であると言える。

 こうやって考えていくと、現代の主要な問題の背後には、本来アナログな現象をデジタルに解決しようとしているという矛盾が見えてくる。だから私は、現代にアナログな思想や信仰を再構築することで、人類はよりスムーズに問題解決へと進んでいけると思うのである。

谷口 雅宣

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2007年4月10日

唯物論と世代間倫理

 前回の本欄で世代間倫理のことに触れたとき、私は「親世代が子世代や孫世代に危害を与えないための制度的枠組みが必要である」などと書いた。これを読んで驚いた読者もいたのではないだろうか。親というものは本来、子の幸せをこそ願って、自らつらい環境にあっても努力を重ねて子を育て、教育し、あまつさえ我が子のために遺産を残そうとするものだ。それにもかかわらず、「親が子に危害を与える」などということが、数多く起こるはずはない。たといそんな事件があったとしても、それはごく少数の、ごく例外的な、親の名に値しないような人の犯罪行為だから、日本のように警察や裁判所がきちんと機能していれば、特別な「制度的枠組み」など不要ではないか?……そんな疑問が浮かんだかもしれない。

 しかし、私が心配しているのは、血のつながった親子関係のことではなく、親世代と子世代、ないしは親世代と孫世代などの「世代間倫理」のことなのだ。前回の例では、AIDをして子をもうけた親世代と、それによって生れた子世代の間には直接的な親子関係があるが、2回目の東京五輪を実行する世代の人間と、そのために排出される温暖化ガスで不利益を被る次世代の人間との間には、直接的な親子関係は不要である。それどころか、国や民族が違っていても世代間倫理は適用される。もっと具体的に言えば、五輪の開催で関東近辺の企業家や消費者が経済的利益を享受しても、その子世代や孫世代に当たるツバルやモルディブ共和国の人々が海面上昇によって国土を失うことになれば、五輪開催は世代間倫理を破ったことになるのである。

 再生医療の分野でも、世代間倫理の観点から見て疑問のあるものが多くある。それは胎児の組織を利用したり、生殖細胞や受精卵、ES細胞を利用する治療である。これらの治療では、パーキンソン病やアルツハイマー病などの治療のために、生命力あふれる生殖細胞や受精卵、または胎児の組織の一部を移植して、現世代の人間の健康を回復させようとする試みだ。これから人間としての能力を発揮しようとしている生命から、本来の生き方を奪い、現に生きている(そして多くの場合、人生の半分以上をすでに生きた)人間の福祉と延命のために利用する。これが現代の“最先端医療”としてもてはやされているのを、多くの人々はあまり疑問に思わないらしい。ここには明らかに「親世代が子世代や孫世代に危害を与える」状況、あるいは「子世代が親世代の道具になる」状況が生れている、と私は思う。

 さて、これまでの議論で不問に付してきたことが1つある。それは、生物としてのヒトは、卵子や精子などの生殖細胞の段階から、受精卵となり、やがて胎児としての肉体をもった後にこの世に誕生するが、そのいずれの段階から「人間」として尊重されなければならないか、という問題である。この問題への回答は、生物学、認知科学、医学、法学、倫理、宗教……などの側面から何種類も考えられる。私は当然、宗教の立場から回答することになるが、宗教は社会的な倫理の問題とも深く関わっているため、倫理の立場と無縁な答えにはならないだろう。
 
 上のように細分化せずに大ざっぱに言えば、「人間」としての生がいつから始まるかは、科学と宗教の間で大きな違いが出てくると思う。科学は、「測定できないものは存在しない」という純粋科学の伝統を色濃く残しているため、どうしても唯物論的な考え方をする。この場合は、「人間」としての生は「脳が何かを感じることで始まる」と考えるのである。受精卵は生物としては生きていても、脳の元である神経細胞が未分化の状態だったり、神経細胞ができていても痛覚が発達せず、あるいは「人間」としての意識が生じていないと思われる段階では、人間ではないと考える。もしくは生物学的には人間であっても、人格的存在ではないから、人間より劣ると考える。ここから、「人間より劣るものを人間が利用することは許されるべきだ」という論理が生れてくるのである。

 ところが大抵の宗教は、生命の不滅を前提としてきた。この場合の生命とは、物質的、肉体的生命ではなく、「魂」とか「霊」などと呼ばれてきた非物質的、霊的生命である。この生命が肉体に宿って、あるいは肉体を形作って、物質的、肉体的形態をもった人間が生れると考えてきた。そして、その物資的、肉体的形態が故障したり、機能しなくなると、生命はそこから抜け出して別の“体”に宿るか、あるいは別の“体”を自ら形成して生き続けると考えるのである。このような前提に立てば、生殖細胞 → 受精卵 → 胎児 → 人間 という変化は、生命が肉体を形成していく過程であって、どの段階にも切れ目なく生命が関与しているから、ある時点で「人間としての生が始まる」などということはない。初めから人間の生命がそこにあるのである。したがって、上記のいずれの段階にあっても、一人の人間の肉体を他の人間の道具として利用し、あまつさえ利用後の肉体の存続を断つような行為は、非倫理的な加害行為であり、悪業を積むことになるのである。
 
 宗教が前提としてきた生命観は、このように個生命内部において連続的である。それだけでなく、仏教などでは「因果の法則」を説くことで、個生命間でも連続した関係を想定している。例えば、AがBに対して危害を加えればそれが悪因となり、あとでAはCから危害を加えられるという形で悪果を得ることになる、などと説くのである。また、これらABCの関係は同世代の人間に適用されるのみでなく、世代間でも適用される。だから、宗教的な生命観は世代間の倫理の維持に貢献してきたと言えるのである。
 
谷口 雅宣

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2007年4月 9日

民主主義の限界について

 前回の本欄で、私は「個人至上主義からは生命倫理や環境倫理に関する指針は導き出せない」と書いた。では個人主義からは、それが導き出せるだろうか? 現代の生命倫理の原則は個人主義から導き出されているが、それは不完全だと私は思う。また、個人主義からは環境倫理の原則は導き出されないのである。それはなぜか?
 
 地球環境問題は、「未来世代への影響」を予測するところから生じている。言い方を変えれば、現世代の人間の活動が地球温暖化を引き起こしているのだが、実際に温暖化の被害が深刻化するのは、未来世代においてである。ここでは、「自己決定権の尊重」という基本原則が通用しない。前回述べたように、この原則は「他人や社会に危害を与えない限り、個人の選択には最大限の自由が許されるべし」との考え方を言う。しかし、ここに言う「他人」や「社会」は基本的には現世代のことであり、未来世代は含まれていない。だから、未来において深刻化する地球温暖化の被害は、この原則だけでは防ぎようがないのである。ややこしい問題なので、少し説明を加えよう。

 現代の民主主義制度は、大は国連のような国際組織から小は町内会などの住民組織にいたるまで、基本的には現世代の人間が現世代の問題を取り扱うのである。そのためには、できるだけ公平な方法で現世代の中から代表者を選び、それらの代表者間の多数決によって物事が決定される。そして、その決定を実行し、結果を引き受けるのも、基本的には現世代の人間である。ところが地球環境問題では、現世代の人間の行為の結果が、次世代や次々世代に大きな影響をもたらす。だから、「自己決定」の責任が発生しないのである。別の言い方をすれば、現世代の人間は、自分たちの決定の責任を負わず、次世代や次々世代にその結果だけを押しつけることができる。したがって、現世代の人間の決定はどうしても現世代中心的になり、未来の問題の解決は後延ばしになっていくのである。
 
 これは現代民主主義制度の構造的欠陥である。現制度では、我々は民主的に選ばれた代表者を通じて政策の決定と執行を行う。しかし、「未来世代」の人間には代表者を選ぶ手段が全く存在しないから、未来世代の声は政策に反映されないのである。読者は、誰か心ある人が未来世代の代弁者になって、未来世代の利益を政治に反映させればいいと考えるだろうか? しかし、票に結びつかないことを政治家が本気でやると考えるのは、民主主義の原則から外れてくることにお気づきだろうか? 実例で示すと、このことは分かりやすい。

 都知事選が終った。ご存じのように、東京への五輪誘致を政策として掲げた現職の石原慎太郎氏が三選を果たした。私は昨年8月31日の本欄で、地球温暖化がさらに悪化することを理由にこの政策に反対した。しかし、石原氏の「若者に夢を与えよう」とか「○兆円の経済効果がある」という主張が通り、氏が圧倒的に勝利した。石原氏の勝利は、もちろんこれだけが理由ではなく、民主党などの“敵失”による側面もあったろう。が、現世代に利益をもたらす政策が支持され、未来世代が受ける被害が軽視されたことは否定できない。世代間倫理など、多くの選挙民には無縁なのだ。

 生命倫理の分野でも、現世代と次世代の利益の衝突が実際に起こっている。拙著『今こそ自然から学ぼう』(pp.303-314)にも書いたが、AID(非配偶者間人工授精)によって誕生した子が、成長後に遺伝上の父親が分からないことで悩み、自分の“知る権利”の回復を求めている。この技術が一般化したのは1970年代だから、当時の子はすでに30歳を越えた社会人である。AIDで生れる子は日本でも毎年1万人とも言われるから、これまで相当数の人が「出自を知る権利」を奪われてきた。理由は、親世代の「子を生みたい」という願いの実現が優先されたからだ。つまり、精子の提供者を増やすためには、生れた子が成長後に遺伝上の父を訪ねて来るようなリスクを回避したいとして、提供者の匿名化が原則とされていたのだ。今日では、身元開示に同意した人から精子をもらうことが原則化しつつある。

 地球環境問題と生殖医療を含む生命倫理問題を解決するためには、このように親世代が子世代や孫世代に危害を与えないための制度的枠組みが必要である。それによって「世代間倫理の尊重」が実現するのだが、現代の民主主義にはそれが欠けている。この欠陥を補うものが何であるのか、人類はまだ手探り状態と言えるだろう。
 
谷口 雅宣

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2007年4月 8日

個人至上主義について

 人間至上主義的な考え方が個人生活に振り向けられると、個人至上主義へと向う。個人至上主義とは、夫婦、家族、社会関係の中で、個人の幸福を至上価値として追求する考え方、生き方を意味する。個人の幸福が犠牲になると考えると、夫婦や家族、社会との関係の方を棄てるか、棄てないまでも、それらの関係を犠牲にして個人の幸福の増進を図ることを厭わない。個人至上主義が進行していけば離婚が増え、崩壊家庭が増え、反社会的行動が増長するだろう。

 個人至上主義は、個人主義と同じではない。後者は一般に、「人間の尊厳」と「自己決定」の上に成り立つが、前者からは「人間の尊厳」が抜け落ちている。人間の尊厳の前提となっているのは、「一人ひとりの個人は掛け替えのない個性を有する価値ある存在である」という認識だが、個人至上主義では、自分以外の価値をさほど問題にしない。「掛け替えのない個性」という見方の背後には、数多くの個人が集まって価値ある全体(夫婦、家族、社会等)を構成しているという認識がある。個人は全体にとって掛け替えがないのだから、全体と個人とはほぼ対等である。全体にも価値があるから、その中での個人の役割がそれぞれ「掛け替えがない」のである。このバランスは重要である。

 その反面、全体が個人より優先される場合は、個人には「掛け替えがある」ことになる。全体主義においては、個人の価値は、機械の歯車のように、全体の一部の機能を果たすという意味に於いてのみ認められる。だから、歯車は機械にとって掛け替えがあるように、個人は全体の中で代替可能であり、「掛け替えのない個性」という観念は成立しない。これに対し、個人至上主義者には全体は見えない。また、他者については、自己との関わりがある場合には利用価値を認めても、関わりのない他者は無視する。彼にとっては、個人である自分が至上の価値なのである。

 人間至上主義が個人至上主義につながりやすいのは、「自分のために外から奪う」という心理的傾向が両者に共通しているからだ。前者では、自分の属する種(人間)を至上の価値として、人間以外から搾取し、利用する。後者では、自分を至上の価値として、他を搾取し、利用する。両者の考え方は、「外から奪い内に取り込む」という方向性において同じである。「人間」至上主義なのだから、個人よりも「人類」を至上の価値として評価しそうなものだが、「外から内へ」という心理的傾向は簡単には崩れない。

 このことの何が問題なのか? それは、個人至上主義からは生命倫理や環境倫理に関する指針は導き出せないからだ。読者はここで、私が生命倫理と環境倫理についてかつて書いたこと(『今こそ自然から学ぼう』、pp. 315-326)を思い出してほしい。生命倫理の基本原則の一つに「自己決定権の尊重」がある。これは「他人や社会に危害を与えない限り、個人の選択には最大限の自由が許されるべし」という考え方だ。しかし、個人至上主義は「他人」や「社会」への影響について関心がないから、利己主義のやりたい放題の行動に出る可能性が大きい。また、環境倫理に関しては今、「現世代の人間の生き方が、次世代や次々世代の人間に危害を与えること」(世代間倫理)が問題になっているのである。現世代の他人や社会のことにさえ関心のない個人至上主義者は、未来世代への影響にも関心がないことは自明である。

 このように考えてくると、人間至上主義の限界と危険性とが自ずから見えてくる。人間至上主義は、個人至上主義に必ず結びつくわけではないが、そこへ引き寄せられる傾向を内包しているため、生命倫理や環境倫理など現代の主要な問題の解決に際しては、助けになりにくいと言える。

谷口 雅宣

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2007年4月 7日

人間至上主義について

 地球環境問題がようやく国際政治の前面に取り上げられるようになってきたが、この21世紀最大の問題が人類に投げかけているメッセージをどう理解するかを、人類はまだ合意するに至っていないようだ。私は5年前に上梓した『今こそ自然から学ぼう』(生長の家刊)に「人間至上主義を超えて」という副題をつけて、この現代の思潮が地球環境問題の根底にあることを指摘したが、どれだけ説得力があったか分からない。人間至上主義とは、人間にとっては何よりも人間が大切であり、したがって人間は人類の増殖と発展を至上価値として追求すべきとする考え方だ。「至上価値」という意味は、どんな犠牲を払っても擁護し、あるいは実現すべき価値ということだ。このような考え方にもとづいて、私たちは自然を人間の目的のために改変し、改造し、破壊してきた。今日の地球温暖化は、その結果であると言わねばならない。

 もしこの点で--すなわち、人間至上主義を問題視する点で--人類が合意に達することができれば、地球温暖化や自然破壊の問題の解決は比較的容易だと思う。そのためには人間至上主義的考え方を棄て、それに代る--例えば自然至上主義的な--思想や信条を採用し、拡大していけばいいだろう。そして、そういう思想・信条にもとづいた社会制度や技術、ライフスタイルを構築していくことで、ゆっくりではあるが人類の進む方向に変化が生じていくだろう。ただし、もしそんなことが可能であれば、の話である。

 私がこの点に疑念をもつ理由を話そう。それは、地球環境問題の解決をまだ「技術」(テクノロジー)のレベルで論じる人々が多いからである。曰く、自動車はすべてハイブリッドないしは燃料電池車に変え、エネルギーは原子力を利用し、それでも排出される温暖化ガスは地下に高圧密閉し……等々。こういう議論は、それらの技術がどういう動機で開発されるかをあまり問題にしていない。技術は人間にとって一種の“道具”であるから、“優れた道具”さえ手に入れれば、人間はそれを“優れた目的”に使うと考えているようだ。しかし、1945年の広島や長崎で、また2001年のニューヨークやワシントンで、その期待はドラマチックに裏切られた。しかも、さらに皮肉なことに、この2例とも、それぞれの“優れた技術”の使い手たちは、その技術を“優れた目的”に使ったと信じていたのである。

 私がここで指摘したいのは、“人間の心”が技術を生み出し、技術を使うということである。そして、“人間の心”は常に正しいとは言えないのである。人間至上主義的考え方の最大の欠陥は、この事実を真正面からとらえないことである。人間が科学技術によって力を得て、増殖し、自然と対峙する際には、人間は正しい判断のもとにその力を行使するから、常によい結果が出て、人間はさらに進歩する……そんな楽観論を背後に感じるのは、私の思い過ごしだろうか。私はもちろん、人間罪悪甚重凡夫説者ではない。しかし、現象の人間は食事のメニューを見ても迷うことを知っている。その“人間の心”の問題を無視した人間至上主義には与しえないのである。
 
 私は上に「人間は科学技術によって自然と対峙する」と書いた。それは、そうすべきだという意味ではない。人間至上主義者はそういう態度をとりがちなことを示したかったのである。私は逆に、「自然と対峙しない人間」の生き方を提案したい。それは、人間至上主義ではなく、人間自然主義、あるいは自然中心主義とも呼ぶべき態度である。このような態度や考え方は、人類にとって特に新しいものではない。古来、ほとんどの民族がそれを「宗教」との結びつきの中で信奉し、実践していた。ところが、中世の“暗黒時代”を経験し、さらに20世紀になって多くの先進国で科学的考え方のもとに神仏の存在が否定されるようになると、自然からは神仏の“影”が消え去り、人間は自然を利用し搾取することに心理的抵抗を感じなくなってきた。すなわち、人間の欲望の暴発である。
 
 私はだから、今日の地球環境問題の解決のためには、技術論だけでなく、新しい種類の宗教的自然観が必要だと考える。この場合の「宗教的」という意味は、古い時代の神や仏の概念の復活ではない。「人間の欲望を超えた価値が自然の中に存在する」ことを認め、その価値のために人類全体が、また個人が、自らの欲望を制御・制限することを普遍的倫理として受け入れることである。そのための価値体系の構築が喫緊の課題となっている。

谷口 雅宣

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2007年4月 5日

“炭素ゼロ”をどう実現する?

 4月1日の本欄で太陽光発電装置のことに触れたが、私がその増設を考えている理由は、“炭素ゼロ”を個人的に実現したいと密かに願っているからだ。「炭素ゼロ」という言葉は生長の家の造語で、一般にはなじみがないかもしれない。生長の家でも、本年度の運動方針から使われるようになった“新語”で、一般には「カーボン・ニュートラル(carbon neutral)」という語が使われている。

 この語は数年前から先進国を中心に使われているが、日本語では分かりにくい。その意味は、ある人や団体、企業が日常の活動で排出している二酸化炭素(CO2)と同量のものを、植林や省エネなどの他方面の努力によって相殺することで、炭素の合計排出量を「±0」にすることを意味する。排出炭素量の「相殺(offset)」の側面を強調して、「カーボン・オフセット(carbon offset)」という言葉も使われている。例えば、私が本を1冊出版すれば、その本がダイズ原料のインクや再生紙を100%使っていたとしても、本の運搬や印刷機・製本機の運転、インクや再生紙の製造過程などで必ずCO2が排出される。このCO2の量を計算して、それと同量を植林や省エネで減らすことができれば、この本は“炭素ゼロ”(カーボン・ニュートラル)を実現したことになる。

 そんな複雑な計算や排出削減を個人単独でできるはずがない。が幸いにも、世界にはそういう個人や企業の要望をかなえてくれる(と主張する)団体や企業が存在している。だから、その助言にしたがって、排出したCO2を相殺するに必要な金額を払い込めば、個人や企業は“無罪放免”となるらしい。「らしい」と書いたのには、理由がある。なぜなら、そういう炭素相殺サービスに関してはまだ世界的な基準や規制がなく、本当に“看板に偽りがない”かどうかを確かめる手段も存在しないからである。したがって、そういうサービスを使う際は、よほどしっかりとした団体を相手にしないと我々の努力がムダになる可能性があるのである。
 
 イギリスの科学誌『New Scientist』は3月10日号でこの問題を取り上げて、有意義なアドバイスをいくつも掲げている。まず、この種の炭素相殺事業は大別して、「公式」のものと「非公式」のものがある。公式のものは、京都議定書で定められた諸制度の規則にもとづいて行われていて、規模が大きく、したがって個人の手の届くものではない。そこで非公式のものがいくつも誕生して、個人の善意を満足させたり、企業の罪の意識を和らげる役割を果たしている。ただし、この非公式の炭素相殺サービスをいくら利用しても、実際のCO2の排出削減に貢献することはあっても、京都議定書の目標達成には何も貢献しないという。
 
 京都議定書は脇に置いて、実質的な排出削減を目指したとしよう。それでは、どの炭素相殺サービスに我々の善意と資金とを委託すべきだろうか? 現状では上記のような事情があるため、この質問に答えるのが難しい。そこで同誌は、出資先に次の6つの質問をすることを勧めている--①あなたは特定のプロジェクトによって炭素を相殺するのか?、そのプロジェクトとは何か?、②実際に炭素が相殺されるまでの期間はどれくらいか?、③自分が出資するプロジェクトの進展状況を知ることができるか、独立の調査機関から報告が得られるか?、④“黄金基準”を満たすプロジェクトか?、⑤あなたの会社がなければ、そのプロジェクトは存在しなかったと証明できるか?、⑥あなたは相殺プロジェクトを二重、三重に売っていないことを示せるか、あるいは、自分の出資金は、削減義務にもとづいて行われるプロジェクトを支援するためには使われない、と示せるか?
 
 上にある“黄金基準”(Gold Standard)とは、ある炭素相殺プロジェクトが出資するにふさわしい有効なものであるかどうかを認証する基準として、WWFなどの環境保護団体が共同で定めたものらしい。ここで問題になるのは、プロジェクトの「付加性」(additionality)と呼ばれている。世間には数多くの省エネ努力や植林活動が存在しているが、我々の出資によって1つのプロジェクトが誕生する(付加される)のか、それとも既存の企業のプロジェクト等を支援するのとでは、出資の意味合いが大きく違ってくる。前者は付加性があって意味があるが、後者は単に企業支援であり、結果的に企業利益の増大に貢献することになりかねない。

 このように考えてくると、“炭素ゼロ”実現のために相殺サービスを利用する場合、慎重な検討が必要であることが分かる。ということは、個人が“炭素ゼロ”を目指すには、現時点では“遠くの活動”や“見えない活動”に出資するのではなく、“近くの活動”や“見える活動”に出資する方が賢明ということになるのかもしれない。

谷口 雅宣
 

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2007年4月 3日

祈りの言葉を読む (2)

 前回の本欄では、祈りの言葉には、「1行」という短さの中に「実相」の記述と「現象」の記述がともに含まれていることがある、と指摘した。この場合、「実相に於いて」とか「現象的には」などという修飾語は省かれることが多いので、読者は自分の頭の中でそれを補足して理解しなければならない。この補足が正しく行われないと、誤解が生じることにもなる。ではなぜ誤解が生じないように、最初から修飾語をすべて加えて祈りの言葉を記述しないのか? この疑問に答えるためには、以下の2つの文章を読み比べてみるといい:
 
A--私がたとい病もうとも、それは病んでいるのではないのである。私がたとい死のうとも、実は死んでいるのではない。

B--私がたとい現象的には病もうとも、実相においては病んでいるのではないのである。私がたとい現象的には死のうとも、実相においては死んでいるのではない。

 Aの文章は簡潔で力強く、伝えようとするメッセージが明確であるが、Bの文章は冗長で解説的であり、伝えようとするメッセージが明確でない。厳密に論理的に考えれば、Aの文章には矛盾があるのに対し、Bの文章には矛盾がない。しかし、メッセージの直接性と文章の力強さにおいて、AはBよりはるかに勝っている。そして、祈りの言葉とはまさに、そのメッセージの直接性と言葉の力強さによって読者の心に変革をもたらそうとするものである。だから、論理的矛盾はそれほど問題視されないことが多い。これは韻文と散文の違い、詩文と論文の違いに似ている。
 
 それでは、このような理解のもとに「わが家、天国浄土の祈り」の最終段落を見てみよう:
 
「私は御仏と一体である。御仏の在(いま)すところそこが極楽浄土である。されば、今ここが極楽浄土なのである。ここは決して穢土(えど)ではないのである。私の家族ひとりひとりも悉く皆御仏である。私は私の家族を常に御仏として礼拝するのである。」

 この段落は、6つの短い文(センテンス)から成っている。読者は、それぞれの文が「実相」の記述であるか「現象」のそれであるかを考えて、文の右側にある( )にその別を記入してみてほしい。
 
 ①私は御仏と一体である。(   )
 ②御仏の在すところそこが極楽浄土である。(   )
 ③されば、今ここが極楽浄土なのである。(   )
 ④ここは決して穢土ではないのである。(   )
 ⑤私の家族ひとりひとりも悉く皆御仏である。(   )
 ⑥私は私の家族を常に御仏として礼拝するのである。(   )
 
 さて、答えは書けただろうか? 書けたものと書けないものがあるのではないだろうか。①と②、そして⑥は、それぞれ「実相」「実相」「現象」と書ける。しかし、③~⑤では、事態はそれほど簡単でない。その理由は、お分かりだろうか?

 ③④⑤の文が、実相と現象のいずれの記述であるかが即座に分からないのは、実相と現象の双方を“架け渡した”記述であるからである。別の言い方をすれば、それぞれの短文の中に、実相と現象の双方が混在しているのだ。これを示すために、前の例にならって「実相」「現象」などの修飾語を補ってみよう。
 
 ③今現象と見えるここが、実相に於いては極楽浄土なのである。
 ④現象と見えるここは決して穢土ではないのである。
 ⑤現象に於いては私の家族ひとりひとりとして現れている人たちも、実相に於いては悉く皆御仏である。

 こうして祈りの言葉に修飾語を付け加えて論理を整えたとしても、それはパンチのない、説明的な文になってしまう。そして、それを読んで救われる人の数は、きっと減少する。だから、祈りの言葉に“論理の飛躍”があることは「問題点」や「欠点」ではなく、ましてや「汚点」とは言えないのである。しかし、だからと言って、論理を無視して書いた文が、必ず優れた祈りの言葉になるわけでもない。祈りの言葉を書くことは、このようになかなか微妙で、困難な仕事である。
 
谷口 雅宣

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2007年4月 2日

祈りの言葉を読む (1)

 生長の家創始者である谷口雅春先生の著書『叡智の断片』(日本教文社刊)には、次のような言葉がある:
 
「実相と現象との問題ぐらい間違われて取り扱われる問題はないのである。それの混同と混乱と、その取り扱いの不適正とで人生は不幸になるのである。」(pp.113-114)

 同じ書の少しあとには、こんな言葉も出てくる:

「説法に二種類あり。現象世界に処すべき方法を説くことあり。実相そのままを説くことあり、混同すべからず。」(p.195)

 後のものは、私が最近、生長の家講習会で頻繁に引用している文章だ。これは「生長の家の説法に2種類がある」という意味だけでなく、「宗教の教えには一般的にこの2種類がある」ことを知ってもらうためである。このことを意識しながら宗教書を読むのと、そうでないのとでは真理の理解に雲泥の差が生じてくるだろう。ましてや、実相と現象の区別を全く知らない人が宗教書を読むとなると、正しい教えを間違って理解する可能性が増えるのである。
 
 では、生長の家では、この実相と現象についての教えを、常に厳密に分けて記述しているかというと、必ずしもそうではない。このことは、かつて第1回目の生長の家教修会が行われた際、私が“いの一番”に述べたことである。この教修会の記録『歴史から何を学ぶか』(2004年、生長の家刊)には、次のようにある:
 
「……谷口雅春先生は何を説かれたかというと、『実相世界』を説かれたのです。(中略)しかし、その一方で、仏教でも説かれている唯心所現の真理も説かれた。これは現象世界の話です。ですから、先生が厖大な著作の各所に書かれているお言葉というものは、これは実相世界のことを語っているのか、それとも現象世界のことを語っているのかを、我々がきちんと判別して理解しないといけない。そこが一つの重要なポイントだと思います。」(pp.71-72)
 
 私はこのあと、実相についての記述と現象についての記述は、「1冊の御著書の中で重なり合っていたり、同じ章の中で重なっていたり、さらには1文--1つのセンテンスの中で重なり合っていることもある」(pp.72-73)とも書いている。これはもちろん、雅春先生の御文章に難クセをつけているのではない。宗教的な文章には、本来こういう性質があるし、またそうでなければ、現象にのみ注目しがちの読者の目をそこから離して、実相の高みへと導く助けにならないことが多いからである。

 例えば、『真理の吟唱』の中の「わが家、天国浄土の祈り」にはこうある:

「仏の“いのち”は無量寿であり、その“いのち”が私の内に宿っていて、私の“いのち”となっていられるのであるから、私の“いのち”も無量であり、死することなく病むことなき存在であるのである。
 だから私がたとい病もうとも、それは病んでいるのではないのである。“病んでいる”という夢を見ているのである。私がたとい死のうとも、実は死んでいるのではない。“死”の夢を見ているに過ぎないのである。」
 
 段落にして2つ分を引用してあるが、最初の段落は「実相」についての記述であることは明白だ。ここを読んで、「生長の家では肉体生命が無限に続くと説く」などと理解する人は少ないだろう。では、2番目の段落はどうだろうか? 構文は最初の段落のような単純な記述ではなく、「△△しようとも○○である」という複雑な条件文だ。この条件文の前半は「現象」のことであり、後半は「実相」のことである。この関係がハッキリと理解されないと、真理は伝わらない。つまり、「人間は“現象的に”病んだり死ぬことがあっても、“実相においては”病まず、死なない存在である」という意味である。
 
 この辺りのことは、大方の読者は理解されているだろう。
 
谷口 雅宣

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2007年4月 1日

日本の環境技術に期待 (3)

 科学技術の進歩は「日進月歩」とはよく言われる。環境技術も例外ではないので希望がもてるのはいいのだが、自分がいざそれを利用しようとすると、どの時点でどの技術を選択するかで悩むことにもなる。私の住む家の屋根に太陽光発電装置が設置されて、もう9年近くになるが、当時の発電効率に比べると、現在の装置のそれはかなり改善されていると聞いている。しかし、数百万円の元手がかかっているから、すぐに新製品に替えるわけにもいかない。そんな理由もあり、私は今、山梨県北杜市にある山荘に新しく太陽光発電装置を設置することを考えている。しかし、新製品でさらにいいものが出るかも……などと考えていると導入へのふんぎりがつかないのである。

 30日付の『日本経済新聞』には、そんな私の悩みを深めるような記事が載っていた。大日本印刷が、フィルム状の太陽電池で世界最高の発電効率をもつ装置の実用化にメドをつけたというのである。同社はまだ太陽光発電装置の販売実績がないが、得意の印刷技術を応用したフィルム状太陽電池を市場に投入することで、2008年から新規参入をねらっているという。フィルム状の発電装置は薄くて軽く、丸めれば持ち運びができる。家屋の屋根への設置はもちろん、自動車にも簡単に取り付けられ、空気抵抗の増加も最小限に抑えられる。価格も現在のシリコン型装置の半分以下になるとされているから、同じ値段を出すなら従来型の装置よりもメリットが大きいように思えるのだ。

 記事によると、この型の装置は「色素増感型太陽電池」と呼ばれ、シリコンを基板に使わない。シリコンは現在、コンピューター関係の需要増大のため品薄で値段がなかなか下がらない。それに対しこの色素増感型は、大日本印刷の場合はプラスチック製フィルムを基板として使うが、シャープやアイシンなどの先行メーカーはガラス基板を使うタイプを開発中だ。これだとシリコン型に比べて原料が安く、製造も簡単らしい。この技術の基本特許が2008年に切れるので、各メーカーはそれ以後の商品化を目指しているという。こんな状況から考えると、来年すぐに家庭用の製品が発売されるとは思えないが、期待できる技術には違いない。
 
 太陽光発電装置は風力発電装置とともに今後ますます普及が進むだろうが、この双方の難点は、発電量が天候に左右されて安定しないことだ。とりわけ太陽光の場合、夜間はまったく役に立たない。そんな難点を補うのが昼間作った電気を貯めておく蓄電の技術だ。蓄電池の進歩はまた、次世代ハイブリッド車の進歩には必須である。つまり、蓄電容量が大きければ大きいほど、ガソリンを使わずに電気のみで(CO2を出さずに)走る距離が増える。だから、30日付の『日経』で報じられた新タイプの蓄電池の開発は、朗報と言えるだろう。

 それによると、この新蓄電池は大阪市立大学の小槻勉教授が開発し、電極の材料にマンガンとチタンを使ったもの。従来の鉛蓄電池に比べて3~5倍の電力を充放電できるという。IT危機を多く使う次世代車用蓄電池、風力や太陽光発電用の蓄電池への利用も考えられる。自動車に使った場合、鉛蓄電池より軽量となるため、燃費向上にも貢献する。ただし、実用化までには5年ほどかかるらしい。
 
 こうして、日本の技術が具体的な形で温暖化ガスの排出削減に役立ちつつある様子を知ってみると、わが国はトラブル隠しを続けてきた原発などに過度の期待をせず、新しい自然エネルギー利用技術の育成に、官民一体で全力を挙げてほしいと思うのである。
 
谷口 雅宣

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