夫の死後に妊娠する (4)
4月12日の本欄では、「デジタル」と「アナログ」という概念を使って宗教と科学の関係や違いについて論じた。相当抽象的な議論だったので、読者の中には「何のことか分からない」と不満をもった人もおられるだろう。そんなところに、幸いにもこれと関係する“例題”のようなものが現れた。日本産婦人科学会が夫の「死後生殖」を禁止する会告を決めたという報道が、それだ。今日(15日)付の『産経新聞』によると、同学会は14日に京都市で開いた総会で、凍結保存していた精子を使い、夫の死後に妊娠・出産することは、死亡した夫の意思が確認できないという理由で禁じる会告を決めたという。私は、この決定を歓迎する。
この決定によると、凍結した精子の保存期間は「提供者の生存中」に限定され、提供者が死んだ後は凍結精子は廃棄することを定めている。これによって、凍結した精子を解凍して体外受精などで子を得ることは禁止される。同学会の会告では、凍結受精卵や凍結卵子の死後利用がすでに禁じられているから、これですべての「死後生殖」は学会の方針としては禁止されたことになる。ただし、会告は法的拘束力をもたないので、学会の意向を受け入れない医師や、学会に所属しない医師が「死後生殖」を行うことを止めることはできない。
さて、これが科学の“デジタル”と宗教の“アナログ”にどう関係するのか? デジタルなものの考え方は、物事を狭い範囲に限定して、その中で白黒をはっきりさせようとする。だから、この場合は、純粋に遺伝子レベルで考え、親の意志だけを判断基準にする方法が“デジタル”な考え方の1つと言えよう。その方法を採用したとすれば、凍結精子は遺伝子的には夫のものであることに疑いの余地はない。そして、夫が生前に精子の凍結に同意したことも事実であろうから、その時点で夫が凍結した精子を後に利用することに同意したこともあまり疑問はない。そして、その夫の精子と妻の卵子を使って子をもうけるのだから、その子が、死んだ夫とその妻との子であることも遺伝的には疑問の余地がない。すると、生前の夫の意志が推定され、遺伝的にも夫婦の子であることを考え、さらに子をもちたいという妻の希望に応えるのだから、死後生殖を行うことに何も問題はない--そういう結論が導き出されるのではないだろうか。
しかし、純粋に遺伝子レベルで見ることには問題がある。これについては、夫婦のうち妻が妊娠不可能のため、妻の実母に代理母を依頼したという実例が思い出される。この場合も、①夫の同意があり、②遺伝的に夫婦の子であり、③妻が子をもちたいと熱望しているという3条件は、上と同じである。しかし、閉経後の母親に、危険を承知でホルモン剤の投与や受精卵の移植を行なったことが問題になったのである。つまり、「自分の願望実現のために他人を危険に晒す」ことには大きな問題がある。私は、この場合、たとえ母親が代理妊娠を買って出たとしても、その行為には倫理性はないと考える。このことは3月24日の本欄ですでに述べた通りだ。
今回の場合も、「他人を自己目的に利用する」という要素がある。その「他人」とは少なくとも2人いるだろう。1人は死んだ夫であり、もう1人は生まれてくる子である。「死んだ夫を利用する」という言い方は分かりにくいかもしれないが、仮にこの夫が妻の妊娠の3年前に死んでいたとすると、どういう状況が生れる可能性があるか想像しやすいだろう。大体、なぜ半年や1年後でなく、3年後に妊娠しようとするのか。この3年の間に何かが起こったからに違いない。例えば、遺産相続、再婚、あるいは恋人の出現があったとする。とたんに、死んだ夫の子を妊娠し生もうとする行為の目的に、打算の臭いが感じられてくる。つまり、夫の死後の時間が長ければ長いほど、死後妊娠には、夫への愛以外に、自己目的が含まれてくると考えていいだろう。
そういう意味で、死後妊娠を認めるとしたら、そこには厳密な条件をつける必要性が生じてくる。私はだから、昨年9月13日の本欄には次のように書いた--私は現在、個人的にはイギリスのように「夫の同意書があれば認められる」とすることがいいように感じている。ただし、夫の死後いつでもいいとするのは問題なので、スペインのように「半年以内」とかイスラエルのように「1年以内」などと、期限を切って認めるのはどうだろうか。
こういう考え方がなぜ“アナログ”かというと、上述した“デジタル”な考え方が、夫の死後妊娠に関わる人の数を最小限に絞って考えるのに対し、ここでは夫の家で遺産相続があった場合とか、妻の3年後の再婚相手のこととか、さらに、生れてくる子が成長後に自分の遺伝子を調べる可能性を考慮するなど、連続した広範囲の人間関係の中で行為の倫理性を検証するからである。簡単に言えば、行為の倫理性を「少数の個人」の間で考えるのではなく、社会の中で考えるところが、アナログ的なのである。妊娠や出産はきわめて個人的な行為ではあるが、そこに医療技術が関与したとたんに社会性が生れると言えるだろう。
なお私は、2005年10月3日、2006年9月5日の本欄でも、死後妊娠の問題に触れているので、興味のある読者は参照されたい。
谷口 雅宣
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コメント
谷口 雅宣 先生:
「自分の願望実現のために他人を危険に晒す」という考え方が人間に与えられた一つの権利であるかのように考えている人が多くいる以上、そういう人達にはアナログ的な考え方ができず、先生が「唯物論と世代間倫理」の中で書かれている人間の生命の始まりは、実は始まりではなくて、永遠の継続の中から展開している生命の表現というようなことには思い及ばないと思います。そういう意味では、法的な措置として“飽くなき個人の願望”をストップさせる方法は必要と感じますが、同時に個人個人の意識がもっと個人から全体へと考えることができるような、広い視野をもてるように教育していくことも並行して進めていくことが大切だと思います。私は、環境問題や世代間倫理、ステムセルの問題等は、そういうものを再考するチャンスを与えてくれるよい課題だと思っています。しかし、環境問題がどうして宗教が扱う永遠の生命と関係あるのかわからず、これらの課題が全体を意識し、アナログ的な考えをすることになるのか分からない人も多くいたのではないかと考えていました。先週からの先生の一連のエントリーで、それが少し明らかになったのではないかと個人的には思っています。私自身はそこが明確になって大変ありがたいと感謝しております。しかし、私程度の頭脳ですから仕方ありませんが、もう少し具体的な例を挿入して書いていただくと、もっとわかりやすく、多くの読者が「なるほど」と相打ちをしてくれるのではないかと思います。
川上 真理雄 拝
投稿: mario | 2007年4月17日 02:12
マリオさん、
>> 法的な措置として“飽くなき個人の願望”をストップさせる方法は必要と感じますが、同時に個人個人の意識がもっと個人から全体へと考えることができるような、広い視野をもてるように教育していくことも並行して進めていくことが大切だと思います。<<
何でも法律で禁止……というのは考えものですが、教育はなかなか時間がかかりますね。アメリカの“銃社会”現象でも、コロンバイン高校のようなことがすでに起こっていても、なかなか“教育”としてそこから学ぶのは難しいようですね。バージニア工科大学のことです。大変なことだと思います。
投稿: 谷口 | 2007年4月17日 12:36
副総裁先生ありがとうございます。
ものの本に次のようなことが書いてありました。(以下要約)
本来「人」をなぜ、「人間」とあえて呼ぶのだろうか。それは、人と人の間柄をすでに表しているからである。間柄を否定したときに「人」ではなくなる。「倫」とは、人と人が接する際に、車の車輪のように円滑に回る「輪」のような丸い関係を表している。その「ことわり(理)」を学ぶことがすなわち「倫理学」なのである。
ゆえに、「生命倫理」の問題を法律で論じることは適切ではない考えます。本来であれば「目に見えるもの(物)、見えざるもの(神仏)」を「哲学」的に捉えていれば、おのずと倫理的に判断がつきます。しかし、その根本がなく目に見えるデジタルな視点に頼ると見誤ってしまいます。
いまこそ、「アナログ」をみつめ直し、「生命」とは何かを考え、日本人が大切にしていた「やさしい心、思いやる心」を引き出すことが急務といえます。まだまだ私たちの使命は大きいといわざるを得ません。副総裁先生、引き続きご指導お願いします。
投稿: 青木 | 2007年4月18日 00:45
Dear Rev. Taniguchi:
>バージニア工科大学のことです。大変なことだと思います。
I also think it is difficult to learn from the past incident; however, we have to learn because we shouldn't allow to happen this kind of massacre at Virginia tech. I am sorry to reply to you in English because I am using a computer at the hotel in South Lake Tahoe. Outside is now snowing. I could finally take two days from today.
投稿: mario | 2007年4月18日 12:04